鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  茶山遺跡を訪ねる。

2012-11-24 21:13:29 | 日記
茶山遺跡なんて知らんな~

わいも市教育委員会の現地説明会を見学して知りましたんや。


(産経新聞 11月22日 河内版)


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この中学校は、息子や娘も卒業したんで、よう知ってまんがな。

25年ぶりでんな誉田中学の校門を潜るのは。


(茶山遺跡 発掘調査現地見学会 会場)


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市の教育委員会が中学校の校庭を3回に分けて発掘調査をしてまんねんて~

此処はすぐ西側に古市古墳群で最大の前方後円墳がある応神天皇陵の側でっせ。


(応神天皇陵)  (全長425m) (体積では日本最大の古墳)


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航空写真によるとこんな感じの古墳でっせ、「周辺」と書かれた文字の下ぐらいが
今回の「茶山遺跡」の発掘調査現場になりまっしゃろかな。


(茶山遺跡の現地見学会に集まった人々)


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わても郷土史の一員でっさかいに質問しながら見学させて貰いましたで。

独断と偏見でわての考え方で紹介させてもらいまひょ。


(円筒棺から埋葬品が出土)


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画像の中央やや右手に泥のように見えるのは鉄製の斧と鍬だそうでっせ。

円筒棺は近くの土師の里遺跡でも多く出土してまっけど、埋葬品が出てくるのは
珍しいことで「土師氏」の埋葬方法だとの説が言われてますな。

この辺りは埴輪を作った「土師氏」が古墳時代には住んでいたようですわ。

おそらく「土師氏」の族長クラスの人物の墓だろうと考えられまんねんて。


(土師器の集積遺構) (奈良時代)


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埴輪などに使われた土師器は奈良時代にはほとんど使われなくなり
このように処分されて埋められてしまったとも考えられてますな。


(中世の井戸  室町時代)


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実は、わてらは茶山遺跡は古墳時代から奈良時代までの遺跡やと聞いてましたんや。

今回の発掘調査で中世にも使われていたことが判明したんやそうですわ。

室町時代に「誉田城」というのが文献や記録に出てきまんねんけど、これが現在まで
どこに在ったのか不明になってますんや。

今回の発掘調査は「誉田城」を発見できるかもしれないとの期待もあるそうでっせ。


(中世の地層から)


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中央やや下に埴輪の破片が挟まったままで写ってまっしゃろ。

当時は遠くから石や砂をもってきて埋めることはしまへんわな。

手っ取り早く近くの古墳を壊して整地したんでっしょろ。


(中世の石積遺構)     (室町時代)


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これがどうやら、元の古墳を潰して整地した遺構で室町時代の14世紀だとの話。

お隣の応神天皇陵から出てくる埴輪と同じものが出土しているんだそうですわ。

おそらく埴輪を多数、並べた応神天皇陵の陪塚だった可能性があるようでんな。

ここから日本で初めてだと考えられる埴輪が出てきたそうでっせ。

それが下の画像で「椅子形埴輪」だそうですわ。


(椅子形埴輪)  (おそらく5世紀頃の製造)


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わても~ あちこちで埴輪は見てまっけどこれは初めて見る形でんな。

応神天皇に仕えた位の高い人物のお墓が壊されてしまったんでっしゃろか。

次の埴輪は少しだけ出土してるけどこれも珍しい形でんな。


(冠帽形埴輪)


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(蓋形埴輪)  (きぬがさがた はにわと読むそうです)


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上の二つは私も見たことのない見事な埴輪でしたわ。

特別の人物にしか使われないような丁寧な装飾品ですわな。

葬られたのは応神天皇の重臣だった人の古墳だったんだろうと思いまんねんけど。


(市教育委員会の 担当者が説明)


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わても~ 質問してみましたが、さすがに良くご存知でしたわ。


(茶山遺跡の概要)  (第Ⅱ期発掘現場だそうです)


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奥の方に盛土が見える処が今回の発掘調査が終わったら
次の第Ⅲ期に発掘予定だそうで、何が出土するのか楽しみでもおまんな。


(茶山遺跡発掘現場から 中学校の校舎を撮影)


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フエンスの向こう側は第Ⅰ期発掘調査を終えた校庭と中学校の校舎。

ここは主に中世の井戸や庭園のような遺構が出てきたそうです。

「誉田城」の土塁や柱などが第Ⅲ期発掘調査以降に出てくるかどうかが注目でんな。


(馬形埴輪 & 水鳥形埴輪)


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(大刀形埴輪)


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(家形埴輪)


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担当者が持ち上げている埴輪の破片はおそらく1m~2mもある大型埴輪で
おそらく家形埴輪の梁の部分だと考えられるそうですわ。

これから散らばった破片を集めて昔の姿に復元するのも彼らのお仕事でっせ。

なんでも豊富で大量の埴輪の部品が出土しているので大変な作業でっしゃろな。


(粘土を採集した跡)


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2mぐらい掘っただけで古墳時代の粘土層に達するようですわ。

この粘土を使って「土師氏」の人が埴輪を作った当時の工房の跡でっしゃろな。


(古市古墳群 ウオーキングマップ)


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世界文化遺産に暫定登録されてましたんで我が町とお隣の藤井寺市が共同で
作成した写真入りの地図だっせ。

最近はこのマップを持って古市古墳群を巡る人が増えてきましたな。

我が家もこの古市古墳群の一番南のエリアにおますんや。

たまに、次の古墳への道案内などを聞かれることがおまんな。

まあ~ 世界文化遺産に登録されるとしても鉄ちゃん爺やが死んでからでっしゃろな。

宮内庁管理の天皇陵を一般開放しないと認めてもらえないと思いまんねんけど。

天皇の御陵を足で踏みにじるのは不敬だとの考えもおますわな。

天皇陵を発掘したら日本の歴史が変わるかもしれないとの考えもありますけどね。

どちらにしても~  世界文化遺産の道のりは遠いでっしゃろな。

ほな~  今日はこれでさいなら~











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鉄ちゃん爺やの   正倉院展巡り   (後編)

2012-11-19 19:57:23 | 日記
正倉院展を続けさせてもらいまっさ~

前回は双六盤に双六の石を紹介しましたけど今回はサイコロだっせ。


「双六頭」(すごろくとう)   (象牙の双六用サイコロ」)


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カメラブレしてまっけどご免やで~

上段は今と変らない形が奈良時代にも使われていたようでんな。

下段は未完成品という説も有り詳しくは不明だそうですわ。

双六の駒が169枚なのにサイコロは233個も収められているそうな。

大・中・小と大きさも三種類が揃えられているようでんな。


「黄布袍」(きのぬののほう)  (麻の上着)


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「袍」(ほう)とは宮廷の公務に着用した上着で、黄色に染めた
麻布で仕立てられているそうだっせ。

元は大陸の騎馬民族の衣服に由来するとの説が有力だそうですわ。

造東大寺司の職員が作業着として使ったような名前が記載されてま。


「雑帯」(ざつたい) (組みものの帯)


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二本一組で二十数条の糸を用いて組紐として最も幅を広く作れる組み方なんだって。

佩飾具として帯に使用したようで五位以上の上級官人の礼服用と考えられるそうな。

服装令に「条帯」と記載されているのがこれだろうと言われてまんな。


「紫檀螺鈿把斑犀鞘金銀荘刀子」(したんらでんのつかはんさいのきんぎんのとうす)


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「刀子の 刀身」(とうすのとうしん)


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「刀子」(とうす)は実用の文房具で貴顯が腰帯から組紐で下げて佩用した装身具で
紙を切ったりするのに使われた物だそうですわ。

把(つか)はシタンの一木作り、螺鈿と金銀の象嵌で花枝文様を表してまんな。

螺鈿にはヤコウガイが用いられ、鞘は犀角の一部をくり抜いて先は貫通させてある。


「紫檀小架」(したんのしょうか)   (架け具)


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重い物を架けるには適してないので小画像や礼拝用の仏画などを架けたと
言う説が有力でっけど、詳しくは不明だそうですわ。

シタンで鳥居形を立てて、突起物は象牙製で作られているようですわ。


「金銅八曲長杯」(こんどうはっきょくちょうはい)  (花形のさかずき)


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鋳銅製の細長い花形のさかずきで、酒器として用いられた物ですな。

このような多曲長杯はペルシャが起原でヨーロッパや東アジアでも
広く受け入れられたそうだっせ。

異国趣味の器として日本でも珍重されたことがうかがえま。


「粉地彩絵几」(ふんじさいえのき)  (献物用の台)


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東大寺の大仏殿を始め諸堂へ献物の品を盛って仏前に供えた台やそうですわ。

ヒノキ材を使い天板は表を白く塗り淡紅色で縁取りがしてますな。


「蜜陀彩絵箱」(みつださいえのはこ)  (献物の箱)


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献物用の箱で印籠蓋造りで、お香を収めた物と考えられるそうですわ。

東大寺の大仏開眼会に献納されたむねが記載されてまんねんて~

唐草文に怪魚の頭と胴を持つ鳥と鳳凰が渦を巻くように配置されてまんな。


「紫檀金銀絵書几」(したんきんぎんえのしょき)  (書見台)


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巻子(かんす)を広げて見る書見台だとの説らしく、横にこんな写真が置かれてま。


「参考図の写真」


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仏教の経典を広げて見るとの説もあり、華奢な構造のため日々の実用に
耐えうるものじゃないとの説もあるそうでんな。


「正倉院古文書正集」(しょうそういんこもんじょせいしゅう) 第25巻


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西暦702年(大宝二年)に作成された現存する一番古い戸籍だそうでっせ。

御野国山方郡三井田里とは現在の岐阜市北部から山県市にかけて後に
三田郷と呼ばれる荘園の戸籍の巻頭部分だそうですわ。

大宝律令が制定されていたのに、浄御原令(きよみがはらりょう)により
作成された書式なんだそうで貴重な戸籍なんだって。


「碧瑠璃小尺・黄瑠璃小尺」(へきるりのしょうしゃく・きるりのしょうしゃく)


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半透明の色ガラスで作られた小さな物差しで、奈良時代の貴族が腰帯から
下げて佩飾具としてたようでんな。

拡大したらこんな目盛が入ってまんねんで。


「小尺の拡大画像」(しょうしゃくのかくだいがぞう)


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昔で云う二寸五分の目盛が刻んでまんな。

貴族がなんで~  こんな物差し常時持ってたんでっしゃろか?


「赤地鴛鴦唐草文錦大幡脚端飾」  


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(あかじおしどりからくさもんにしきのだいばんきゃくたんかざり)

難しい読み方でんな~  仏事に使う巨大な幡の脚先を飾った断片ですわ。

聖武天皇の一周忌斎会に用いられた物だそうでっせ。

全長が十数メートルに達する灌頂幡(かんじょうばん)の脚の一つやそうな。

緯糸(ぬきいと)に赤・緑・薄緑・紺・黄・白・紫の七色と
経糸(たていと)に黄赤を用いた錦で
「緯錦」(ぬきにしき)と呼ぶ織り方なんだって。


(奈良 国立博物館 館内)


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見学を終わって一階まで降りてきたらこんな感じ、やっとデジカメ撮影OKですわ。


(奈良 国立博物館の裏庭にて)


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奈良公園も紅葉が始まってまっさかいに、眺めながら帰るとしまひょ。


(正倉院展の幟)


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(奈良公園の 小鹿)


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ズームアップしたんで大きく見えまっけど子犬ぐらいの大きさでんな。

おそらく今年の春に生まれた小鹿と違いまっしゃろか?


(奈良公園の紅葉)


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(興福寺 五重塔と黄葉)


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今日(11月19日)ぐらいが見頃でっしゃろな~  

わてが奈良へ行ったのは11月8日でしたんや。

京都市内も例年より少し早めで今週から紅葉の見頃を迎えたようでっせ。

ほな~  これで正倉院展のブログを終わらせてもらいま。

さいなら~








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鉄ちゃん爺やの   正倉院展巡り   (前編)

2012-11-14 21:31:27 | 日記
奈良の国立博物館で開催される正倉院展は大和路の秋を彩る風物詩でしょうな。

毎年秋に正倉院の扉を開けて点検と虫干しが行われます。

1946年(昭和21年)からこの時期を利用して正倉院展が行われてきました。

今回で第64回目となり毎年20万人を超える賑わいを見せる展示会なんですよ。


(奈良公園に立つ 正倉院展の案内板)


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毎年ながら国立博物館の前には行列ができますね、これで平日なんですよ。

建物の前だけでは行列は収まりきりませんな。



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見学者の行列は博物館前を越えて特設テントの方まで延びていますな。



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(正倉院展の入場券)   (非売品です)


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たまたま~ 入場券を頂いたもんで平日に訪れてみました。

45分待ちの立札でしたが1時間ぐらい行列に並んだ感じがしましたね。

やっと入場口まできましたよ。


「犀角杯」(さいかくのはい)  (犀の角のさかずき)


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犀の角はケラチン質なので牛や鹿の角よりは加工が容易だそうです。

国家珍宝帳に記載されている犀角杯とは形が違うとの説が濃厚です。

伝来や入庫の経緯が不明だそうで、インドや東南アジアに生息する
一角サイの角が使用されているので中国で加工された物と考えられるそうです。


「花鳥背円鏡」(かちょうはいのえんきょう) (花鳥文様の鏡)


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白銅で鋳造された大型の円形鏡、銅70.4% 錫23.5% 鉛5.5%

0.1%ぐらいの砒素が検出されているので材質から見て中国の唐で制作され
日本へ渡ってきた物と考えられています。

聖武天皇の遺愛品の一つで国家珍宝帳の記載と完全に一致しているそうです。


「漆皮箱」(しっぴばこ)   (鏡の箱)


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国家珍宝帳の記載に一致するので一つ手前の「花鳥背円鏡」を収納した箱と
考えられる。

動物の皮を木製の雄型に被せて黒漆を塗って仕上げたようです。


「螺鈿紫檀琵琶」(らでんしたんのびわ)   (弦楽器)


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国家珍宝帳には聖武天皇ご遺愛の四弦琵琶が二面記されているがその内
本品が「螺鈿紫檀琵琶」に当たるそうです。

背面がシタン製で全面にヤコウガイを用いた螺鈿にタイマイや琥珀の
象嵌によって宝相華唐草文様を表しています。

今回の64点の宝物で展示会場前半の注目される御物と言われました。


「紅牙撥鏤撥」(こうげばちるのばち)  (染め象牙の琵琶の撥)


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国家珍宝帳の「螺鈿紫檀琵琶」の行の上部に「紅牙撥鏤撥」と付箋があり
本品がそれに該当すると考えられています。

聖武天皇ご遺愛品の螺鈿紫檀琵琶に付属する撥であることが判明。


「持笠半臂」(もちがさはんぴ)  (板締め染めの胴着)


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半臂とは短い袖が付いた上衣のことで裾には欄と称する裂(きれ)が付く。

東寺唐散楽と墨書があり西暦752年(天平勝宝四年)に行われた東大寺
大仏開眼会の楽衣装であることが分かった。

散楽とは舞踊・曲芸・手品などの雑伎を意味し大仏開眼の法要のこのような
華やかな演目が演じられ儀式に集まった人々を大いに沸かせたことであろう。


「錦褥」(にしきのしとうず)   (錦のくつした)


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褥(しとうず)とは現在の靴下に当たる物で、正倉院には膝下丈の長い物の
二種類が伝わっており、一両で揃うものは二十数点、片足だけのものが
百数十点残っているそうです。

貴人が使用したものと考えられ表が錦で内面は麻布で仕立てられている。


「木画紫檀双六局」(もくがしたんのすごろくきょく)  (双六盤)


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聖武天皇ご遺愛の双六盤で国家珍宝帳にも「木画紫檀双六局一具」と記され

双六は何度も禁止令が出されたが上流貴族の世界では盛んに行われたようで
おそらく賭け事として我が国において既に広まっていたようです。

なお双六は古代エジプトに始まり、飛鳥時代には日本でも広まっていたようです。


「双六筒」(すごろくのつつ) (サイコロの振り筒)


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双六遊びでサイコロを振るのに用いる道具。

シタンの一木を用いて底を残して筒状に刳り抜き円筒形に仕上げられている。

銀製の金具を使用し金銀泥で文様が描かれている内側には銀泥が用いられている。


「緑瑠璃双六子」(みどりるりのすごろくし) (ガラスの双六の駒)


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扁平な球形をした色ガラス製の双六の駒。

日本では産出しない藍色瑠璃双六子もあり、ガラス製の双六の駒は珍しく
中国は西安市の博物館に形は違うが似たものが展示されているぐらいとか。


「瑠璃玉原料」(るりだまげんりょう)  (ガラス玉の原料)



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不規則に割られたガラスの破片で宝庫には百片近く伝わっている。

溶融したガラスを鉄板上に流し薄い餅状に固まったものを破片にしたようで
古代のガラス加工を研究する上で貴重な資料である。

将来の使用を考えて造東大寺司が保管していた物と推測される。


「雑色瑠璃」(ざっしょくるり)  (色ガラスのねじり玉)


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正倉院には数万点もの大量の玉が伝わっているが、
この雑色瑠璃は融かした単色のガラスを金属の棒に巻きつけて、丸玉を作り
まだやわらかいうちに棒を押し付けて作り出した物と考えられる。


「瑠璃杯」(るりはい)   (ガラスのさかずき)


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ワイングラスのような形状をしたこのガラス容器は今回の正倉院展では
一番人気の展示品ですよ。

これを間近で見るために館内でまたもや30分待の行列ができてますね。

コバルトブルーの部分はに西アジアから伝わったものに銀製の台座には
東アジアの文様が描かれていますね。

二十二個の円環が貼り付けられているが、この技術は当時の中国や朝鮮にはなく
おそらく西アジアで作られたガラス容器が中国か朝鮮に輸入され
台座を付けて完成させたものと推定されています。

これで64点の宝物の前半の部分が終わり私が独断と偏見で選び出しました。


「第64回 正倉院展の写真集」  (定価1200円)


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実は4年前の正倉院展の時は私のデジカメで写真撮影がOKでした。

ところが数年前から写真撮影が禁止になってしまったそうです。

仕方がないので1200円を奮発して写真集を買うハメになりましたね。

これらの画像は全て写真集から写し直したものなのでご容赦くださいませ。

長くなりますので後半の部分は次回にさせて頂きますので悪しからず。

ほな~  今回はこれで  さいなら~

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鉄ちゃん爺やの (鉄道小話) 亀山駅から加太越えして伊賀の国へ

2012-11-10 10:46:02 | 旅行
伊勢の関宿を終わって、ひと駅だけ先の亀山駅へ行ってみました。

今回は鉄道のお話なので興味の無い方はスルーしてくださいね。


(JR関西本線  亀山駅舎) 


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国鉄の民営化によりこの駅はJR東海さんの管轄になりましたね。

昔は大阪の天王寺鉄道管理局の管轄でSL華やかな頃は大きな機関区が在りました。

当時は名古屋から伊勢や南紀へ向かう列車はここでスイッチバックしてましたね。

現在は第三セクターの伊勢鉄道ができて名古屋からショートカットする形で
伊勢や南紀へ行くことができますので此処はローカル線に転落してしまいました。


(伊勢や鳥羽へ向かう  キハ11形気動車)


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紀勢本線の始発駅なんですがこんな気動車がのんびりと走っていますな。

ここ亀山駅から名古屋駅までは快速で約1時間少々で行くことができますよ。


(名古屋駅へ折り返す快速電車  313系近郊型電車)


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こちらはJR東海さんの最新型電車です、紀勢本線のディゼルカーとの対比が
同じ駅に出入りする列車なのにサービス提供の落差が大きいですな。

こちら関西本線は亀山駅から四日市駅や桑名駅などを経由する
JR東海さんのメインルートなんですよ。

近鉄電車さんと競合する線区なので電車も最新型を投入していますな。

JR西日本の次の列車まで1時間待ちなので駅前へ途中下車してみましょ。


(亀山市のマンホールの蓋)


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亀山城には天守閣が残っていません櫓が一つと石垣だけですよ。

江戸時代にどなたか忘れましたが丹波の亀山城を取り壊せとの命令なのに
間違って伊勢の亀山城を潰してしまったとの逸話が残っていますね。

その後に再建された櫓と石垣がマンホールに描かれていますな。

ここ三重県亀山市は日本武尊(やまとたけるのみこと)の亡くなった処で
お墓は鉄ちゃん爺やの街に在りますので友好親善都市となっていますよ。

亀山市の特産品は昔から亀山ローソクで熱に強くて曲がったり
しないので全国的に有名な商品なんですよ。


(亀山ローソクの製品  カメヤマ・キャンドル)


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わが町で撮影したものですが節電キャンドルなんて洒落てますな。

JR亀山駅前にも亀山ローソクのショップがありましたよ。

昔は産業としては亀山ローソクだけでしたが、平成の10年代に
シャープさんが亀山市で大型液晶を作る工場を建設することになりました。


(JR亀山駅前の 路線バス)


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世界の亀山モデルと宣伝して大いに売れに売れたのは、ほんの数年前でしたよね。

亀山市も195億円もの補助金を出してシャープさんを企業誘致したそうな。

鉄ちゃ爺やも関東で最後のご奉公で、ここ亀山工場の建設に耐震部材等を
納入したりしたのも丁度10年前の話でしたかな。

それが最近は大きな赤字でシャープさんは青息吐息の状態ですな。

亀山市もシャープさんから税収が期待できず大変なようですけど。

それでは再びJR亀山駅に戻って大阪方面へ折り返すとしましょうかな。


(JR亀山駅の ホーム上屋)


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現在は1両か2両連結の列車しか到着しませんが昔のホームのままですよ。

昔は寝台特急や伊勢神宮へ向かう10両連結ぐらいの客車も頻繁に出入りしました。

これじゃ長いホームが宝の持ち腐れの状態ですな。


(SL時代からの上屋  木造ですね)


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こういう昭和の時代を思い出す構造物もどんどん減っていますね。


(SL用の転車台) (旧 亀山機関区)


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亀山機関区って元はJR西日本の管轄の財産だからJR東海さんも使わないけど
処分することができないのかしら、懐かしいターンテーブルなんですよ。

転車台の後ろ側の建物も当時の機関区のまま残っていますな。

ここはSL全盛の頃はD51やC57やC58などの蒸気機関車が20台以上
常駐する関西本線では奈良機関区と並んで重要な基地だったんですよ。


(JR亀山駅)  (JR東海)


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ここはJR東海さんの駅ですから加茂駅からやってくるJR西日本の列車は
すべて折り返し運転となります。

JR東海さんのカラーはオレンジ、JR西日本さんのカラーはブルー

キハ120形の気動車がやってきましたので乗ることにしますかな。


(JR西日本  加茂行き気動車)


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実はこの列車の一番前に陣取りたいので亀山駅まで足を延ばしたんですよ。

亀山駅から次の駅が関駅で二つ目に加太駅(かぶとえき)が在ります。

関駅を出た列車は「加太(かぶと)越え」と呼ぶ25パーミルの
長い連続勾配を登って三つ目の柘植(つげ)駅へ下ることになります。


(JR関駅から 加太越え方向を撮影)


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昔は中央の部分にも線路が有り貨物列車の退避線や補機のSLなどに利用しました。

貨物列車は廃止されたので線路も撤去されてしまったようですね。

画像では、たいした山越えに見えないですが連続上り勾配でSLの機関士には
難所であり貨物列車などは後押しのSLが補機といって必ず付いていました。

1978年(昭和48年)までSLが牽引していましたのでその画像を
2枚ほど貼り付けてみます。


(加太越えを通過する D51牽引の貨物列車)


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ここ加太(かぶと)越えは昔から鉄道写真家には有名な場所だったんですよ。

現在は1両か2両のディゼルカーしか通らないので撮影する人は減りましたね。

ほとんどの写真家がこの丘の上から三脚を立てて白黒のフイルムで
やってくるSLを狙う方が昭和48年のSL引退まで続きましたよ。

私もまだ30代の若い鉄ちゃん叔父さんでしたけど2~3回来た名所ですな。

それでは現在の加太越えをキハ120形の気動車の先頭から撮影しますかな。


(鈴鹿川の支流を列車は走っていきます)


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(加太越えを 気動車の先頭から撮影)


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(加太駅に停車)


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乗る人も降りる人も居ませんな~  付近は民家もない山の中ですからね。

昔はこの駅でSLの上りと下りがスレ違いで賑わった場所でしたけど。



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ススキの乱れ咲く峠を気動車はサミットの加太トンネルへ向かっています。

この辺りはSL時代には蒸気機関車が喘ぎながらノロノロと走っていましたね。


(旧 中在家の信号所付近を通過)


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5年前に通過したときは信号所のスイッチバックの設備が残ってましたが
今回は探したけど撤去されてしまいましたね。

5年前の画像を貼り付けて置きます。


 (旧 中在家の信号所 スイッチバックの跡)


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加太越えのサミットが昔の伊勢の国と伊賀の国の境界線になっていますよ。

加太トンネルまでが三重県亀山市で抜けると三重県伊賀市になりますからね。


(加太トンネル)  (加太越えのサミットです)


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この長いトンネルはSLの機関士が窒息しそうになりながら通過したそうです。

特に補機と言われる後押しのSL機関士には地獄のような世界だったとか。

現在はキハ120形気動車は小さいけど楽々と加太越えをしてしまいますよ。

今でも加太トンネルには煙抜きの装置が残っているそうですが
いくら煙抜きの装置があってもSLには加太越えは能力ぎりぎりだったようです。

D51の蒸気機関車は力持ちだったんですがそれでも前と後ろから2台が
石炭を焚いて黒い煙を目一杯に吐き出す姿が写真家には凄く魅力だったんですかな。

昔の鉄道は登れる所まで登ってからできる限り小さいトンネルで通過させる
そんな技術しか持っていなかったのでこんなルートが日本全国に在りました。

今なら長大トンネルで山の麓から最短距離で走るコースが選ばれますからね。


(JR柘植駅舎)


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ここで列車のすれ違い待ちで3分間の停車があります。

その3分を利用して古い木造の柘植駅舎を写して再び列車に乗り込みます。

鉄ちゃん爺やの駅舎を収集する趣味にも、こんな早業が必要になるんですよ。

列車は昔の伊賀大和街道にほぼ並行して西へ西へと走っていますね。

伊賀上野駅の一つ手前に佐那具駅(さなぐえき)が在りますがこの付近に
昔の伊賀の国の国府が置かれていたそうです。


(JR関西本線 伊賀上野駅)


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(JR伊賀上野駅構内にて撮影)


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(JR伊賀上野駅から 遠くのお城を撮影)


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ここは以前は上野市と呼んでましたが平成の大合併で伊賀市と変わったようですな。

伊賀上野城はJRの駅からは南へ3kmぐらい離れていますかな。

伊勢の藤堂藩の支城で京都や奈良に睨みをきかせる役目があったようです。

現在は忍者の町として、又は俳人・松尾芭蕉の故郷として観光に力を入れてますね。


(JR伊賀上野駅舎を背景に 観光PR用の看板)


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(反対側から眺めると こんな感じ)


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(旧 上野市時代のマンホールの蓋)


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伊賀市は三重県ですが雰囲気はすでに関西圏といった感じがしますね。

なにせこの辺りの小川は木津川に流れ込んで末は大阪湾へ流れ込むんですから。

蕎麦やうどんもここまで来たら関西風の出汁になるそうですよ。

これだけを撮影して再び停車中のディゼルカーに飛び乗った次第。


(京都府 南山城付近の 木津川の流れ)


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列車は伊賀の國を後にしてやがて山城の国に入っていきます。

木津川と並行して走るので関西本線では景色が綺麗で楽しめる地点ですかな。


(京都府 木津川市付近から 木津川の流れ)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


木津川の流れも穏やかになり川幅も広くなってきましたよ。

まもなく終着駅のJR加茂駅に到着しますね。

JR加茂駅から先は大和路線と愛称が付けられて関西本線もJR難波駅まで
メインルートに変わります。

長らくのご乗車ありがとうございました~♪

またのご乗車をお待ち申し上げます~♪

JR西日本のテープの声を聞きながら私のブログも終了ですね。

次回は奈良国立博物館で開催中の正倉院展に行ってきましたので
その画像を貼り付けたいと思います。
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鉄ちゃん爺や  伊勢の関宿をデジカメ散歩  パートⅢ

2012-11-03 15:22:06 | 日記
今回は関の小万のお話からいきまひょ~


(福蔵寺 三重県亀山市関町)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


このお寺は織田信長の三男で織田信孝の菩提寺になってまんねん。

彼は伊勢の神戸家(かんべけ)に養子に入っていたんですが兄の織田信雄により
自害させられて首だけが伊勢へ戻されたそうな
だけど神戸家から首の受取を拒否され部下がここ福蔵寺に弔ったそうですわ。。

そやけど地元では神戸信孝さんより関の小万のお墓がある方が有名なようでっせ。


(福蔵寺境内 関の小万の墓)


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小万は女性ながら亡き父の仇討ちをしたことで有名になったお方でっせ。

父親は久留米藩有馬家の剣術指南役で牧藤左衛門と呼ばれてましたが
同輩の小路元成の遺恨により殺害されたそうな。

小林軍太夫と名前を変えて亀山藩に居ることを聞き、身重の妻が敵討ちの旅に出て
ここ関町の地蔵院前で疲れから行き倒れの状態で保護されたんだそうですわ。

旅籠の山田屋の夫婦が自宅へ招き入れ看病中に生まれたのが「小万」で
母親は娘の将来と仇討ちの事を遺言して産後のひだちが悪く死んでしまいまんねん。

山田屋の娘として育てられた「小万」が15歳の頃に養父母から母親の
遺言を聞かされ代わりに自分が仇討ちをする覚悟を決めたんだそうですわ。

亀山城下の榊原権八郎の道場へ三年間の剣術を習いに通ったそうです。

女性が男性に勝てるのは「突きの一手」しかないとの教えだったようでっせ。


(福蔵寺門前の石碑)


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1783年(天明3年)亀山城大手門前で小林軍太夫を見つけ見事に
本懐を遂げたと言う仇討ちのお話が「関の小万の物語」ですわ。

やはり「小万」を裏から支えた人が関町や亀山城下に居たんでしょうな。

「小万」が仇討ちをしたのが18歳でその後はお礼奉公として旅籠の山田屋で
38歳まで努めたそうで山田屋は烈女「小万」を一目みようと泊り客で
大いに繁盛し山田屋の養父母に恩返しをしたということで、めでたしめでたし。

38歳で亡くなりここ関宿の福蔵寺に葬られたというお話ですわ。


(山田屋はその後、会津屋と名前を変えて 現在はお蕎麦の店)


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(関町 伊藤本陣跡)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


関宿には本陣が2軒(川北・伊藤)と脇本陣が2軒在ったそうでっけど
本陣はここ伊藤家に店の一部が残っているだけで残念ながら見れませんな。

ところで話、変わって「馬子唄」てご存知でっしゃろ。

ここ関町から鈴鹿峠を越えて滋賀県の方までは「鈴鹿馬子唄」がありまっせ。

「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

坂は関宿のお隣にある坂下宿で鈴鹿峠を超えた処が次の土山宿だっせ。

あいの土山ちゅうのは昔、間の宿と呼んだとか言う処からでっしゃろな。

歌川広重の浮世絵でも土山は雨が降っているように描かれてまんな。

別に雨が多いわけじゃないんでっけど鈴鹿馬子唄から採ったんでっしゃろか。


(関町の マンホールの蓋)  (昔の鈴鹿郡関町時代からのデザイン)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


鈴鹿馬子唄を続けてみまひょ~♪

「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょうというた」

「手綱片手の浮雲くらし 馬の鼻歌通り雨」

「与作想えば照る日も曇る 関の小万の涙雨」

「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」

「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら」

「昔恋しや鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」


何となく色っぽい馬子唄でっしゃろ、実は「関の小万」は二人いてはりまっせ。

仇討ちをした「小万」は歌詞の5番目に出てくる亀山通いだけでんねん。

もう一人の「小万」は近松門左衛門の浄瑠璃に出てくる「遊女 小万」で
仇討ちの「小万」より100年ぐらい前の宝永時代のお話でんな。

与作という色男に関宿の遊女・小万をからました人情噺の人物ですわ。

だから鈴鹿馬子唄に後から仇討ちの「小万」を挟んだようでんな。


(現在の 鈴鹿峠) (峠の鏡岩から国道1号線を見下ろす)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


鈴鹿峠は旧東海道五十三次では箱根の峠に次ぐ難所ちゅうことになってまんな。

爺やが昔に通った感じではそんなに大変な峠でもないんでっけど。

確かに三重県側は急な勾配でっけど滋賀県側はだらだらと緩やかない坂道でんな。

画像はその急勾配を峠から三重県側を見下ろしたもんでっけど。

旧の東海道が通る鈴鹿峠で標高378mでっさかいに箱根とはえらい違いでっせ。


(旧の東海道 鈴鹿峠に残る 巨大な石灯篭)


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(旧の東海道 鈴鹿峠)


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私の知ってる馬子唄を 第一小節だけ書き込んで見まっさ。

「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」  箱根馬子唄

「赤城しぐれて沼田は雨よ 明日は水上・湯檜曽まで」 上州馬子唄

「小諸出てみよ浅間の山に けさも三筋の煙たつ」   小諸馬子唄


馬子唄ちゅうのは東日本がほとんどで西日本には、わてが知ってる限りは
高知県になんとかいう馬子唄がおまっけど名前を忘れましたわ。

やはり西日本は瀬戸内海を中心に船が物流の中心で東日本は山国が多く
馬や牛を使うのが江戸時代の物流なので馬子唄も東日本に多いようでんな。

鈴鹿峠は関町から滋賀県へ向かう方が急な坂道でっさかいに
滋賀県から関町へ下りてくるより馬に乗せてもらう料金が3割高かったそうでっせ。


ほな~  今日はこれで終わらしてもらいまっさ  さいなら~





















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