鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

SLやまぐち号  C57 1号機 苦難と栄光の歴史

2021-04-22 19:58:26 | 鉄道
蒸気機関車C57 1号機は1937年(昭和12年)3月22日
川崎車両(現在の川崎重工)で完成し当時の鉄道省に納入され
国鉄・常磐線の水戸機関区に配属されたC57形式の1号機でおます。

1939年(昭和14年)4月に東北本線・宇都宮機関区に転属して
あの戦争中は東北本線の上野駅~宇都宮駅間で運行されていたんだって。

最初の苦難は1945年(昭和20年)7月に米軍の艦載機により
宇都宮機関区内で被弾して走行が不能に追い込まれたんだって。

(C57 137号機)  (撮影地不明)


蒸気機関車のC57型は1945年(昭和20年)までに169台が
戦後に170号機から201号機まで合計201台が製造されたとか。

C57 1号機は戦後すぐに修理されて戦列に復帰したそうですわ。

戦後の1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)まで
宇都宮機関区で東北本線の客車をけん引していたとの記録が。

1949年(昭和24年)から1954年(昭和29年)までは
総武本線の千葉機関区で普通列車をけん引していたとの記録も。

(東海道本線 電化前のSL 近江八幡駅?)(昭和30年前後の画像)


C57型は当時でもスピードは優れていた物の山岳路線では力不足?

鉄道ファン仲間ではC57型は「シゴナナ」という名前で呼ばれまぁ。

関東地方の国鉄路線が電化されるに及び1954年(昭和29年)に
新潟県の新津機関区に配属されて羽越本線で急行列車などもけん引を。

1958年(昭和33年)にはボイラーを載せ替えてリニューアル化。

1961年(昭和36年)羽越本線で急行「日本海」をけん引中に
新潟県の村上駅と間宮駅間で土砂崩れの現場に進入し脱線転覆の大事故に。

C57 1号機としては最大の危機に陥り現場に2か月間も放置されてたとか。

C57型のトップナンバーである点と3年前にボイラーを載せ替えていた事
それに台枠が損傷してないので、長野工場で5か月間を掛けて大修理を実施。

1972年(昭和47年)3月14日に秋田駅行きの普通821列車として
最後の定期運行を務めて、本来ならこれで引退の予定でしたんや。

その後には植樹祭に臨幸された昭和天皇のお召し列車の栄誉をも体験。

この頃に京都の梅小路機関区でSLの動態保存の話が持ち上がり
C57型の代表としてC57 1号機は京都の梅小路機関へ配属と決まり
新潟の新津機関区に別れを告げて京都へやってきたそうでっせ。

1975年(昭和50年)12月に国鉄はSLの定期運行を終了しました。

それまではSLなんて何処でも見られたので、鉄ちゃん爺やでも関心は
薄かったんですが、いざSLが観れなくなると聞いたら国民的な反響が!

ここから今に続くSLの復活が始まったと、言うことですかな。



1976年(昭和51年)9月に「京阪100年号」として京都駅と大阪駅の
間を1往復する臨時便の為に、C57 1号機に白羽の矢が立ったそうですわ。

SLを懐かしむ群衆が線路に押しかける大盛況の中を「京阪100年号」は
大阪駅までは無事に到着しましたが、帰路の茨木駅手前で線路に立ち入った
小学生と接触し死亡事故となる人身事故で運行が打ち切られる事態になったとか。

この事故の為に大都市でのSL運行は危険であると国鉄は考えたようでんな。

(C57 1号機 SLやまぐち号) (1979年=昭和54年8月)


新幹線の停車駅が有り観光地にも適する場所として山口県の小郡駅から
島根県の津和野駅まで約63kmに「SLやまぐち号」として企画。

3月から~11月までの土日・祝祭日それにGWとお盆休みに期間を限定し
運行することに成ったんだって、今に続くSLブームの到来でしたかな。

1979年(昭和54年)8月1日に「SLやまぐち号」は運行を開始。

鉄ちゃん爺やは我が子にSLの乗車体験をさせてやろうとお盆休みに
親子4人で山口県の小郡駅まで新幹線で出かけましたんですわ。

JTBの平野町で店長をしていた同級生のF君に、難しい切符を依頼し
お盆休み直後の8月18日に津和野駅~小郡駅間の切符が取れましたんや。

(新幹線の特急券 新大阪駅~小郡駅間)(昭和54年8月)


(SLやまぐち号 指定席 親子4人分) (昭和54年8月18日)


現在では小郡駅は新山口駅と名前が変りましたので念のために。

現在の「SLやまぐち号」が走るのは新山口駅~津和野駅間と成りまぁ。

(SLやまぐち号の 蒸気機関車に息子と娘です)(国鉄・小郡駅で撮影)


まだ息子が小学校の6年生で娘は小学校の1年生だったはず。

現在もこの「SLやまぐち号」に乗ったことは記憶しているようでっせ。

(SLやまぐち号と 国鉄・津和野駅 機関区で撮影)


(SLやまぐち号 津和野駅から 峠越えを撮影) 


(貨物車に しがみ付いてるのは 息子です)(津和野駅にて撮影)


右手に写っているのは、当時の「SLやまぐち号」の12系客車のはず。

この12系客車は塗装をレトロ調に変えて長年に渡り使用されていましたが
確か5~6年前に廃車となり現在は残ってないと聞いてまんねん。

(C58 1号機 SLやまぐち号 予備機)


1980年(昭和55年)に予備機のSLとして同じく梅小路機関区から
C58 1号機が参入したんですが、ボイラーの故障で僅か3年で離脱でした。

1987年(昭和62年)にはC56 160機が代わりに参入しましたんや。

この頃からC57 1号は長年の使用で故障がたびたび、生じてたようでんな。

山岳路線に強いC56 160号機の参加でC57 1号機との重連運転も
話題になってましたが、一足早く2018年(平成30年)に引退したとか。

C57 1号機は今年で製造されてから84年にもなりますので長年に渡り
部品交換やオーバホールがされてますが、珍しいほど長生きをしてますかな。

国鉄時代から稼働している最も古い機関車に成るかもしれまへんな?

(C57 180号機 SLばんえつ号)(2000年=平成12年10月撮影)


関東に単身赴任中でしたが、会津若松から新潟へ出張時に撮影したはず。

C57型ですが戦後の製造に成りますのでSLやまぐち号の弟分になりますんや。

日本に残るC57型で動態保存にて運行が可能なのはこの2台だけに成りました。

C57 180号機は一時引退し新潟市の小学校の校庭に飾られていましたが
保存状態が良好なのでJR東日本が譲り受けて復活させた経緯がおますんや。

C57 1号機の方は製造されてから1度も廃車されることもなく現在も
走り続けるとは、少し可哀そうな気もする年齢になってますかな。

(SLやまぐち号 乗車記念)(1979年=昭和54年8月18日)


(SLやまぐち号 記念乗車券)(1979年=昭和54年)


最後にSLやまぐち号は昨年の10月に津和野駅より峠越えをする際に
蒸気機関車のシリンダーに異常を来し運行を中止してしまいました。

現在は梅小路機関区に戻し大掛かりな分解修理がされているとの情報でおます。

昔SLの時代にもC57型は山口線には使用されることは有りまへんでした。

C57型には山口線のような山岳の峠越えには苦手な面があるように思いまぁ。

今年中は「SLやまぐち号」は運休と決まってますんや。
代わりにディゼルカーで「DLやまぐち号」だそうですわ。

来年にはC57 1号機は復活の予定ですが、傘寿も過ぎたご老体なので
D51型などの補助機と合わせて重連運転させるべきだとも考える次第。

蛇足ながらC57型は優美な車体から「貴婦人」の名前を付けられますが
これは戦前に製造された1号機~169号機までが正しい呼び方ですよ。

「SLばんえつ号」のC57 180号機は戦後に製造されてますので
少し車体の外観が変ってますから「貴婦人」とは呼びませんのや。

それじゃ~ 今日はこれで さいなら~♪






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幻の聖火リレーに! 大阪府・羽曳野市

2021-04-11 18:28:19 | 大阪
大阪府では4月13日~14日の「東京2020聖火リレー」は
公道での実施が新型コロナの急拡大により中止となりましたんや。

何せ大阪府の感染者が 4月3日 666人で 過去最高を更新

4月6日  719人  4月7日 878人  4月8日 905人

4月9日  883人 4月10日 918人 4月11日 760人 

4月12日 603人 4月13日 1099人 4月14日 1130人

4月15日 1208人 4月16日 1209人 4月17日 1161人

1日の感染者が1000人を超えてしまったよ!

そんな訳で、大阪府知事は聖火リレーを急遽中止すると発表。

これは概ね好意的に大阪府民には取られてるように思いまんねん。

(我が街の 聖火リレー 出発地点)








この看板や垂れ幕は4月9日の夕方に撤去されたそうですわ。

人口約11万人の小さな我が街ですが一昨年に百舌鳥・古市古墳群が
世界文化遺産に認定された為に五輪聖火リレーのコースに決まったとか。

確かに大勢の人が沿道に集まるのは、この時期は不適当でっしゃろ。

新型コロナの感染者が異常な拡大では、やもおまへんわな。

(出発点だった 近鉄南大阪線 古市駅)




(古市駅西駐車場)




(我が街の ゆるキャラ つぶたん)(古市駅長のパターン)




葡萄・デラウエアの産地なので、ゆるキャラも葡萄でアレンジ。

誰でっか? 茄子(なすび)やろと言う人は、葡萄でっからね。

出発式には「つぶたん」も参加の予定でしたが、残念でおます。

(羽曳野市の広報より 拝借)






(聖火リレーの コース予定だった竹内街道)






こんな道幅が細い所を走るので応援の人と「3蜜」状態に成りまんがな。

竹内街道(たけのうちかいどう)を走り「日本武尊=やまとたけるのみこと」
白鳥陵を左に見ながら聖火が走るという設定だったようでんな。

カメラアングルは最適な場所でっけど、鉄ちゃん爺やも心配してましたんや。

(終着点 応神天皇陵前交差点)


(応神天皇陵)


画像の中央やや右寄りにある「応仁陵前交差点」が聖火リレーの終着点でしたんや。

ここは藤井寺市に成りますんや、古市古墳群は羽曳野市と藤井寺市に跨る関係で
両方の市に仲良く出発点と終着点を振り分けたようでんな。

予定では大阪府下の聖火リレーはここで終了し、最後は大阪城の南側にある
難波の宮跡へ移動し4月14日の夕方に大阪府での行事が終わる予定でしたんや。

吹田市の万博公園で関係者の入場にのみ限り、聖火リレーの代わりの行事を
だけど聖火リレーの主旨とは異なり、賛否両論があると聞いてまんねん。

最後は我が家の庭にブルーベリーの花が咲きましたので貼り付けて置きまぁ。

今年も花が散って夏には数千個ぐらいブルーベリーの実が出来るはず。

(我が家の庭の ブルーベリーの木)




今回はこれでお仕舞にしまっせ、さいなら~♪
コメント (16)
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石川桜づつみで お花見

2021-04-04 16:00:14 | 
新型コロナ禍で遠出のお花見は出来まへんわな。

地元の石川桜づつみを自転車で走ってみました。

大阪も桜は散り始めましたが、この画像は5日前の物でおます。

(石川桜づつみの桜)


(石川桜づつみの 標識)


石川は一級河川である大和川水系では最大の支流で
河内長野市や千早赤阪村からの小河川を合わせて
この辺りでは川幅が約160mぐらいに広がってますんや。

この桜づつみから約2kmぐらい下流で奈良県から流れてきた
大和川と合流し現在は堺市と大阪市の境界を経て大阪湾へ。

昔は大坂城の方へ流れてたそうですが江戸時代に堺市の方へ
人工的に付け替えられたんだそうですわ。

取り合えずは石川の桜づつみをご覧くださいね。

(石川桜づつみの 桜並木)














(大乗川が石川に合流する地点)




大乗川は高台にある我が家の西側を流れ、ここで石川と合流しまんねん。

江戸時代までは大乗川はもっと北へ流れて平野川と合流して
大坂城の東側から大川へ注いでいたんだそうですわ。

江戸時代の宝永年間に大和川の付け替え工事の際に流れを変えて
石川に注ぐようにしたと郷土史には記されてまんねんで。

(大乗川の流れ)




現在の石川は上流にダムが出来て流れは殆ど観れないぐらい
でも江戸時代には堂々たる大河であったと考えられまぁ。

江戸時代には剣先船が大坂からここまで遡上し河内の国古市村で
小さい船に積み替えてさらに富田林村や河内長野村まで運ばれたとか。

鉄ちゃん爺やが引っ越してきた昭和40年代には銀屋さんと呼ぶ
旧家の壁は剣先船の船板ではめ込まれてましたんや。

残念ながら平成の初め頃に改築され無くなってしまいました。

江戸時代には河内木綿や菜種油などが大坂へ向けて積み出され
ここ古市村は物資の集散地として賑わったそうでんねん。

逆に肥料や工業製品が大坂から剣先船でここまで運ばれてきて
現在でいうならば物流の拠点だったことに成りまっかな。

(石川に架かる 臥竜橋=がりょうばし)








この橋の手前に剣先船の港が在ったそうで江戸時代には橋は無く
渡し船で向こう岸の川向村や下流の柏原村に渡ったそうですわ。

古市村側には料亭まで在って、江戸時代には幕府の天領でしたんや。

古市村は飛鳥時代には既に拓けていた街道沿いの集落の感じだったはず。

画像の奥に見える山を越えれば昔は大和の国で現在の奈良県でおます。

現在の奈良県に向かうにはここから渡し船で渡り現在の国道166号や
竹内街道(たけのうちかいどう)で峠を越えていったようでんな。

竹内街道(たけのうちかいどう)は最近では最古の国道とも言われ
明日香村につながる古い街道だったのは確かでっけど最古かどうかは?

(航海の神 金刀比羅神社)








紹介するほどの神社ではおまへんが、江戸時代には大切にされて
航海の安全と繁盛を願う信者も多かったと記録されてますんや。

江戸時代には現在の臥竜橋(がりょうばし)の側に祀られていたが
昭和の初期に大乗川の側に移動されたと書かれてますかな。

ここから古市の旧街の方へ回ってみましたんや。

(浄土真宗本願寺派 高屋山 西念寺)










我が家の菩提寺になりますが、両親が大阪市内から引っ越してからの
新しい門徒なんですよ、住職さんが月参りに毎月6日に我が家に来られまぁ。

創建が鎌倉時代で室町時代に河内の守護職が再建したお寺のようです。

五本の筋塀は門跡寺院や皇室との関係がないと昔は許可されなかったはず。

現在はどうなのか一度、住職さんに伺って見ようと思ってまんねん。

四条天皇の勅願寺と書かれてるからその関係なのかしら?

でも四条天皇は13世紀にたった12歳で崩御された幼帝のはず。

奈良時代の「天平」と言う年号と関連が有るお寺だとは知りまへんでした。

(高屋城の説明版)


(安閑天皇陵)




中世の城跡なので絵図や記録も残ってないようですね。

二の丸の外れに我が家がおますんや、室町時代の土塁が
我が家の側と不動坂の東側に残っているようでっけど。

応仁の乱の一端を成した畠山義就が安閑天皇陵を壊して
当時としては河内の国で最大の城郭を造ったそうでっせ。

安閑天皇陵が高屋城の本丸だったとは驚きまっしゃろ。

後に織田信長が攻めて落城してからは廃城になったとか。

(不動坂)




不動尊が今も残っているので「不動坂」と呼ばれますんや
織田信長軍が攻め上った「高屋城」は頂上になりますかな。

この「高屋」という丘が先ほどの西念寺さんのご先祖さんと繋がり
山号である「高屋山」はこの丘の名前を拝借したようでんな。

地元では昔からの「高屋」と、中世にお城が在ったことから
「城山」とも呼ばれるようになったそうですわ。

最後はお向かいに咲いている花ももですよ。



ほな~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ、さいなら~♪
コメント (12)
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