鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

神戸市の三宮 & 元町辺りを デジカメ散歩

2016-10-29 19:27:39 | デジカメ散歩
夕方の呑み会まで時間も有るので、神戸へ出かけましたんや。

はっきりとは覚えてないが5~6年ぶりかしら?

(223系 快速電車 加古川行) (JR大阪駅にて)


新快速なら5~6分ぐらい早いけど、大阪駅からでは座れない。

急ぐ訳でもないので快速電車で、のんびりと行きまひょ。

(神戸市の 消火栓の蓋)


(大通りの 案内標識)


神戸市の名前の由来になった生田神社へ、まずはお詣りでっせ。

現在の神戸市中央区辺りは、中世には生田神社の社領で
神戸(かんべ)と呼ばれ、住民は租税を生田神社に納め
神社の維持管理などに携わっていたんだって。

江戸時代には神戸村(かんべむら)と呼ばれたようでんな。

この神戸(かんべ)が読み変えて、現在の神戸市と成りましたんや。

(旧官幣中社 生田神社の鳥居)


(生田神社 境内案内図)


(生田の森 説明書き)


源平の「一ノ谷の戦い」では、ここが東側の最前線で
生田の森で両軍の主力が
ぶっかったと言われてまぁ。

でも裏手の一ノ谷から源義経が逆落としで平家軍を強襲
平家軍は沖の船に逃れて大敗したとなってまっしゃろ。

生田の森では梶原源太景季(かじはらげんたかげすえ)の
逸話が残っているのが、ここ生田神社境内なんでっせ。

(生田神社の 鳥居)


(生田神社の 楼門)


(生田神社 本殿)


生田神社は初詣の三が日で約150万人が初詣でに訪れる
神戸市では一番の人出となる神社だそうですわ。

関西では京都の伏見稲荷大社、それに大阪の住吉大社
これに次ぐ第三位にランクされるようでんな。

神戸人が最も崇敬するのが「生田神社」と言えますんや。

(生田神社 本殿内部)




2007年2月に陣内智則さんと藤原紀香さんが結婚式を
ここで挙げたことで、全国的な話題になったこともおましたな。

ご祭神は雅日女尊(わかひるめのみこと)とされる女神さま。

日本書紀によれば天照大神(あまてらすおおみかみ)の幼名だと
もしくは、天照大神の妹との説もあるようでっけど。

(生田神社の ご朱印)


雅日女尊(わかひるめのみこと)は縁結びの女神なんですが
双方が、愛し愛される仲でないと、離婚になるとも言われ
ガセネタとして、一部では信じられているんだって。

(生田神社 本殿前で 自撮り)


(謡曲 箙 梶原影季の 説明板)




梶原景時の嫡男で、宇治川の先陣争いでもその名を残してまぁ。

親父の梶原景時は悪役として描かれてますが、息子の梶原景季は
分別のある優しい源氏武者として書かれているのが対照的でんな。

(境内から 楼門を撮影)


(江戸時代の 道標)




(生田神社の 東門通り)


生田神社の参道にできた飲食店街のようですわ。

それでは神戸の繁華街の方へ向かいまひょかな。

(JR高架橋 三ノ宮駅~元町駅間)


(JR高架下の商店街)




(銀製の 装身具店)


JR西日本が耐震補強のために立ち退きを求めているとか?

ところが、耐震補強は必要ないとの調査結果もあるんだとか?

三ノ宮駅~元町駅まで、昔から有名な高架下商店街なんでっせ。

どんな展開になるのか、興味がおますんやけど。

関西ではちょっとした話題になってまんねんで。

(スクランブルエッグ カレー)


この日の鉄ちゃん爺やの昼食は、珍しいカレーでしたんや。

腹ごしらえを終えて、「旧居留地」の方へ歩いて行きまひょ。

(神戸 フラワーロード)


(神戸市で有名な 花時計)


(ワラワーロード交差点の 案内標識)


ここから「旧居留地=きゅうきょりゅうち」の方へ
歩いて行きまひょ、古い建物は残ってまへんけど。

黒船がやってきて1958年には日米和親条約が成立。

外国人と日本人がトラブルことを避けるために
欧米人の住む街を限定したのが「旧居留地」でっせ。

正式には「神戸・旧外国人居留地」と言いましたんや。

(旧居留地の銘板)




1868年(明治元年)から1899年(明治32年)に
返還されるまで、日本の警察が関与すらできない
治外法権とよばれる特殊な区域として存在したんでっせ。

こんな場所は横浜市・大阪市・神戸市・長崎市などに
歴史の遺物として、現在は名前だけが残ってますんや。

(パン祭りで賑わう 神戸市)




日本でパンの売り上げが一番多いのが神戸市との説がおます。

確かに関西では神戸が発祥のパン屋さんが多く見かけまっせ。

この日は、無料でパンが貰えたそうでっけど、鉄ちゃん爺やは
直前にカレーで昼食を終えたのでスルーしたんですわ。

淡路島の玉ねぎのパンとか、播磨産のかぼちゃのパンなど
普段は味わえない物も食べられたそうで残念でした。

(神戸 旧居留地 現在の風景)




この日はフリーウオークとか称して車両の通行を止めて
道路をオープンカフェとして賑わってましたんや。

(神戸 旧居留地の オープンカフェ)






画像のオープンカフェの奥の道を左へ曲がると
有名な、神戸ルミナリエが催される通りでっけど。

今年も12月2日から12月11まで開催なんだって。

イルミでは日本全国で人気がトップなんだとか?

(神戸事件の 発生場所)




1868年(明治元年)1月11日(旧暦)に備前藩の家老
日置帯刀(へきたてわき)が率いる500名~800名の兵が
幕府方の尼崎藩に備えて西国街道を行進してたんだそうな。

その行列にフランス兵が割り込んで来たんだそうですわ。

江戸時代の法律では、供割(ともわり)と呼んで大きな犯罪で
切り捨てご免でも仕方がないのが、武家諸法度の制度でしたんや。

滝善三郎という藩士が槍でフランス兵を軽傷の傷を与えたとのこと。

(当時の 大砲) (三宮神社境内に設置)


備前藩ではフランス兵が拳銃を持って対抗してきたので
行違いから、上空へ向けて威嚇発砲をしたんだとか。

欧米の国旗が備前藩の発砲で損傷したとされてますな。

当時、居留地の下見に来ていたフランスやイギリスの公使が
これに激怒して、神戸市内に軍隊を上陸させたとか。

責任者の処罰を求めて、神戸市は欧米兵により占領され
軍艦が神戸港沖に集結してくる事態になったんだって。

(滝善三郎の 切腹の図)


明治新政府は欧米の要求に屈して、滝善三郎を外国人立ち合いで
切腹させ、家老の日置帯刀(へきたてわき)には謹慎処分。

武士1名の命と引き換えに植民地化されるのを防いだとのこと。

その1か月後に再び大阪の堺事件でフランス水兵11名殺傷で
土佐藩士11名が切腹という大きな事件が続たんでっせ。

でも、この神戸事件はほとんど世に知られてないような感じ。

(神戸 大丸の正面玄関)


(神戸港開港150年の 吊り広告) 


この神戸大丸が在る地点が「旧居留地」の西側境界だったとか。

ここまで来たら、有名な「南京町」を訪ねてみますかな。

(神戸 南京町入口)




(神戸 南京町の案内図)


(神戸 南京町の賑わい)




明治の初期には中国(当時は清国)の華僑などは条約により
「旧居留地」には住むことが出来まへんでしたんや。

それで西隣の雑居地と呼ばれる地区に住みこんで出来たのが
神戸の人気地ナンバー1になった「南京町」でっせ。

(南京町 モニュメント)




(鉄ちゃん爺やの 干支に当たる 蛇 コブラ?)
 

ここの広場には十二支の干支を形どる石像が置かれてますんや。

全部とも写して見たかったんだけど、若い女性が足を出して
座り込んでまんがな、写したら盗撮だといわれそうですわ。

それで三つだけしがデジカメには撮れまへんでしたんや。

(南京町の 干支の石像)




(神戸 南京町の中央広場)


(神戸 元町1番街 マンホールの蓋)


(JR元町駅・阪神元町駅 並立の駅舎)


これで神戸のデジカメ散歩を終了にしまひょ。

次回はまだ時間が有るので、足を延ばして
明石海峡大橋まで行ってきましたのでそれを紹介しまっさ。

それじゃ、これで、さいなら~🎵








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奈良 藤原京跡 & コスモス畑を訪ねて

2016-10-23 19:54:40 | デジカメ散歩
橿原市(かしはらし)の藤原京跡のコスモス畑が
見頃を迎えたとのことで、出かけてきましたで。

橿原市は人口約12万4千人で県の中部に在ります
人口では県庁所在地の奈良市に次ぐ第二の都市でっせ。

橿原市の中央を近畿日本鉄道が交差してますんや。

その交差点になる駅が大和・八木駅と言いますんや。

(近鉄 大和・八木駅前の風景)




JRも走ってまっけど、奈良県は近鉄王国でっしゃろな。

何せ全国で、JRの特急列車が走って無いのは奈良県だけですわ。

勿論、近鉄は大阪市や京都市や名古屋市や伊勢市などを結び
特急電車が頻繁に走っているので、ご安心くださいね。

(近鉄 大和・八木駅 駅名標)


ここはノンストップ特急の名古屋行きを除き
全ての電車が停車する、重要な駅なんですわ。

ここで普通電車に乗り換えて一駅だけ東の方へ。

藤原京跡へ行くのには4つぐらいの駅がおますんやけど
今回は初めての「耳成駅=みみなしえき」にしまひょ。

(近鉄 耳成駅 駅名標)


(大和三山の一つ 耳成山=みみなしやま)(標高140m)


この駅の北西側に大和三山の一つで耳成山がおますんや。

その名前を拝借したようで、鉄ちゃん爺やが下車したのは
今回が初めて、ここから南へ30分ほど歩きまっせ。

(観光案内の標識)


しばらく歩くと視界が開け、次の大和三山が見えてきましたで。

この畝傍山の麓に神武天皇の御陵が在るんですわ。

伝説と考えられますが、九州からやってきた神武天皇が
初めて大和(やまと)の南部を統治したとされてますかな。

そんな訳で、日本建国の都市と称しているのが橿原市でっせ。

(大和三山の一つ 畝傍山=うねびやま)(標高199m)


(神武天皇陵)




畝傍山は大和三山では一番高いけど、それでも200m足らず
数千万年前には、海だった奈良盆地の海底火山が噴火して出来た
現在では死火山だとの説が有力のようでんな。

大和三山の最後の一つ、香久山(かぐやま)も紹介しまひょ。

(大和三山の一つ 香久山=かぐやま) (標高152m)




(橿原市の 観光地図)


大和三山に囲まれた香久山に近い辺りに造られたのが
「藤原京」で西暦694年のことだとされてますんや。

1km四方の都だったとの調査結果が出てますかな。

(藤原京跡の 標識)




西暦711年には新しい奈良の平城京が造営されて
「藤原京」の建物は全て、平城京の建設に使用されたとか。

そんな訳で、現在は地中に埋もれた遺物の他は
「藤原京跡」には、なに一つ残ってまへんのや。

たった16年間の新しい都が、何故に平城京へ急に
移動する必要が有ったのかは、定かではないとのこと。

(藤原京跡の コスモス畑)










(コスモス畑と 畝傍山=うねびやま)


此処から畝傍山まで歩いても1時間ぐらいでっかな。

反対側を見渡したら、こちらは香久山(かぐやま)でんな

こちらは藤原京跡から歩いて30分もかかりまへんで。

(コスモス畑と 香久山を背景に 自撮り)


風が強い日でしたのでマクロで接写してみまひょ。

コスモスが揺れて、撮影が巧くいきまへんがな。

何もない3万平方メーターの広場に、コスモスが
約300万本も植えられているんだって。

奈良県でも有名なコスモスの名所になりつつあるとか?

(藤原京跡の コスモスを接写)






(八重コスモス ダブルクリックという名前)




八重のコスモスは珍しいと思いまへか?

鉄ちゃん爺やは初めて見たような気がしまんねん。

品種改良でコスモスも色んな種類がおますんやな。











(藤原京跡 建物が在った場所)


(コスモスの奥で低い山が 香久山)






(持統天皇の和歌 万葉集から)




この藤原京から香久山を見て詠まれたんでしょうな。

小倉百人一首にも、少し読み方を変えて第2番目に
登場するんで、ご存じの方も多いと思いまっけど。

少し足を延ばして、藤原京跡資料室に立ち寄って行きまひょ。

観覧無料の文字が見えたので入館することにしたんですわ。

(奈良文化財研究所 藤原京跡資料室)






(藤原京跡 資料室 展示品から)


当時の貴族や役人から庶民までの食事の模型がおまっせ。

興味があったのでデジカメで写してみましたんや。

(藤原京時代の 貴族の食事)




(藤原京時代の 役人クラスの食事)


(藤原京時代の 庶民の粗末な食事)


(藤原京跡から 出土した遺物)






(藤原京時代の 女性の服装)


(藤原京跡から 出土した木簡)


(おふさ観音の標識)


(おふさ観音の 山門)


ここから帰路はJR畝傍駅へ向けて歩くことにしまひょ。

途中に「おふさ観音」というお寺がおますんやけど
本堂が工事中なので今回はスルーしました。

ここのバラの花と、夏の風鈴祭りが有名なんですよ。

(橿原市の マンホールの蓋)


中央のマークは神武天皇が大和入りをされた際に
弓に止まった鳶(とんび)から金鵄(きんし)と呼び
現在では橿原市の市章となっているそうですわ。

(JR畝傍駅 駅舎)






(JR畝傍駅 構内)


現在は2両連結の電車が1時間に1本~2本しか走らない
ローカル線で、JR桜井線と言いますんや。

構内はSLが走っていた頃の大きなホームが残ってまっせ。

しかも、戦前は天皇陛下や皇族方が神武天皇陵に参拝される
駅として貴賓室まである重要な駅になっていたんだって。

(JR畝傍駅 貴賓室への通路)


(JR畝傍駅 貴賓室の出入り口)


(JR畝傍駅前の 橿原神宮の石碑)


戦後になって近畿日本鉄道さんが神武天皇陵に近い処に
畝傍御陵前駅を開業したんですわ。

そんな訳で、最近は天皇陛下や皇族方も近鉄特急で
畝傍御陵前駅から参拝されるようになったそうですわ。

だから、JR畝傍駅は登録文化財として保存するように
なったとか聞いてまんねん。

(近鉄 畝傍御陵前駅 駅名標)


長くなりますんで今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は久しぶりの神戸市のデジカメ散歩を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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昭和の風景を求めて!  粉浜商店街&東粉浜を巡る。  

2016-10-17 19:19:33 | 大阪
全国各地に在った駅前や本通りの「商店街」のお話。

地元庶民の生活を支えた、西日本では「市場」とも呼ばれ
昭和の良き時代を語る、今では懐かしいけど
過去の風景に成りつつ有るような気もしまんな。

シャッター通りが目立つ商店街も多くなったとか。

中には、現在も頑張ってる商店街が各地におまっせ。

平成18年(2016年)に中小企業庁が選んだ

「がんばる商店街77選」と云うの、ご存じかしら?

大阪市内では二つが選ばれてますんや。

一つは日本で一番長い商店街とか称されて有名な
「天神橋筋商店街」は南北に約2.6kmもおまっせ。

その一部で「天神橋筋3丁目商店街」が選ばれてまぁ。

もう一つが、今回紹介する「粉浜商店街」でっせ。

(粉浜商店街 住吉大社駅側の入口)


粉浜って何処にあるの? 大阪市住之江区になりまぁ。

鉄ちゃん爺やが学生の頃は住吉区と言いましたけど。

大阪でも歴史のある商店街が「粉浜商店街」でっせ。

大正8年(1919年)には既に73軒の店舗が在ったとの記録。

住吉大社の門前町として栄え、特に前回に紹介しました
「初たつまいり」を介して広まったとも聞いてますんや。

この商店街は昭和20年のアメリカ軍による空襲にも会わず
大正時代からの、通りがそのまま残ってるそうですわ。

(粉浜商店街 通りの風景)


アーケドは戦後に作られた物でっけど、全体はレトロな感じでんな。

店舗は平成になってから改装された店もおますけど、昔のままで
何となく、個人商店という趣が感じられる店も幾つか残ってますわ。

店の方と馴染の客とが交わす大阪弁は、庶民の街の雰囲気でもおます。

(粉浜商店街の 路面)


大阪で有名なとも言えまへんが「がんばる商店街77選」に
入ってるので、知っている方がいるかも、そんな程度でっしゃろな。

東京の「巣鴨・地蔵通り商店街」の大阪版としておきまひょ。

通路は「粉浜商店街」の方が幅は狭いでっけど。

(粉浜商店街)


この日は「初たつまいり」の日じゃないので静かな雰囲気でんな。

地元の人が買い物をしている、そんな感じでっしゃろか?

この商店街は「初たつまいり」の日や、住吉大社のお祭りなど
今も昔も、住吉大社と共存して栄えてきたとも言えまっかな。

「初たつまいり」の日には大売出しの催しもするんだって。

南海本線の高架下を潜って東粉浜の方へ足を延ばしまっせ。

この南海本線が住吉区と住之江区の境になってますんや。

鉄ちゃん爺やが学生の時代にはどちらも住吉区でしたけど。

(昭和の時代を今に 伝えるお屋敷)


鉄ちゃん爺やは、小学校5年から転校生でしたんや。

このご近所の、とあるお宅に住民票を移して、今で言う
越境入学したということに成りますかな。

このお屋敷は、当時とほとんど変わってない感じでっせ。

(阪堺電気軌道 東粉浜の停留所)


この停留所も小学校5年生から中学校の3年生まで
通学に乗り降りした頃と、同じのような気がしますんや。

路面電車やバスの停まる場所を、「停留所」と言いまんねんで。

信号やポイントの有る駅は正式には「停車場」と呼びますんや。

ここまで来たら鉄ちゃん爺やが卒業した小学校と中学校を
尋ねて見ようと考えた次第ですわ。

特に小学校は50年ぶりの訪問になるかもしれまへん。

(鉄ちゃん爺やが 卒業した小学校)






卒業したのは昭和20年代の後半だから木造校舎でしたな。

すっかり変わってしまい、昔の面影は何にも残ってまへんけど。

(5年~6年生の 頃の校舎の位置)


ここで反対側を眺めたら、懐かしい建物を発見しましたで。

当時とほとんど変わらない状態の住宅が残ってまんがな。

(東粉浜小学校 南側の民家)


典型的な昭和20年代に流行った、民家の建築様式ですわ。

やはり空襲に会わなかったので、昭和の10年代の建物も
この地区には、所々に残っているように思いますんや。

(戦前の面影を残す 民家)




クーラーの室外機やアルミサッシで、部分的には改築されてるが
建物全体のイメージとしては、昭和時代の姿を色濃く残してまっせ。

(東粉浜地区の 高級住宅街)




(帝塚山に通じる坂道)


この坂道は大阪市内を南北に走る上町台地を登る坂道でっせ。

登り切ると「帝塚山」と呼ぶ高級住宅街になりますんや。

上町台地を登って左へ細い道を入ると中学校がおます。

(鉄ちゃん爺やが 卒業した中学校)


この画像は3年ぐらい前に写した物でっけど。

ここも当時の面影は全く感じられないように思いまぁ。

(南海電鉄 高野線の電車)


この辺りは昔と変わらない踏切で、平面交差のままですわ。

関東では珍しくもないが、関西ではステンレス製の電車は
南海電鉄の高野線だけなんでっせ。

(高級住宅街の 住居表示)


戦前は大阪一の高級住宅地でしたが、戦後は阪急沿線の
芦屋市や西宮市に王座を譲ってしまいましたな。

(帝塚山地区を通過する 路面電車 上町線)


(わが家に咲いた シュウメイギク)


(我が家に咲いた ホトトギス)


(我が家に咲いた ネリネクリスパー)






彼岸花と同じ品種で園芸用に品種改良された物かも?



本日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は奈良の藤原京跡のコスモス畑を紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵



















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鉄ちゃん爺や 住吉大社をデジカメ散歩

2016-10-08 18:56:21 | 神社
住吉大社は初詣の三が日で約200万人が
参拝する、摂津の国・一之宮でおます。

大阪人は「すみよっさん」と親しみを込めて
住吉大社をこのように呼びまんねん。

昨年にも紹介しましたけど、もう一度やりまひょ。

(住吉大社 一の鳥居前)




西の大鳥居と呼ばれ、住吉大社への正門に当たり
ここの鳥居は後で説明しますが、柱が円柱なんです。

(住吉大社の 反橋=そりはし)


(反橋が 水面に写ってますよ)






大阪人は太鼓橋(たいこばし)とも呼んでまっけど。

朱塗りの橋の本体は老朽化で何度も架け替えられて
現在の物は2009年(平成21年)なんですわ。

基礎石の部分は慶長年間に淀君が奉納したとのこと。

豊臣秀頼との説もあり、400年前のままだとか。

現在は池に成ってまっけど、中世には大阪湾の入り江で
海岸に沿って建立された神社だった名残りでっしゃろな。

平安時代には熊野古道は住吉大社の東側になる
上町台地を通って南に延びていたんだそうですわ。

住吉大社の鳥居前は海の中、江戸時代に出来た
紀州街道はまだ浅い海辺だったようでんな。

(禁裏御祈祷場所の石碑)


本来は国の安寧を祈祷する皇室の神社でしたんや。

住吉の大神と神功皇后をお祀りする神社で、戦前には
官幣大社として国家鎮護の役目をしてたそうですわ。

昔は庶民の神さまじゃ無かったんでっせ。

だから庶民は初辰さんのような摂社にお参りしたんだね。

戦前までは津守家(つもりけ)が代々の宮司を司り
全国約2300社ある住吉神社の総元締めだったとの事。

鉄ちゃん爺やが学生の頃には、地元だった関係もあり
氏神さまじゃ無いんだけど、馴染の神さまでしたんや。

(住吉大社 反橋の上で自撮り)


住吉大社の公式HPによれば、反橋(そりはし)の由来。

地上にある人の国と、天上にある神の国とを繋ぐ
掛け橋として、虹を模して造られたと記されてますな。

この橋を渡ることで、罪や穢れが祓われるんだって。

(反橋の上から 境内の池を撮影)


この反橋(そりはし)は長さが約40m 幅が5.8m
中央の高さが4.4mで 勾配が最大で48度もおまっせ。

文豪・川端康成が小説「反橋」でこのように書いてまぁ。

「上がるよりも、おりる方が、こはいものです」

「こはいもの ⇒ 怖い物の 文語体」

そう言えば鉄ちゃん爺やの子供の頃は、もっと足元が急で
今のように、滑り止めの部品が無かったような記憶。

反橋を渡るというよりは、反橋を登る感じでおますけど。

一の鳥居から反橋を渡るのが正式な参拝なんだって。

反橋を渡り終えると、珍しい手水舎(ちょうずしゃ)でっせ。

(住吉大社の 手水舎=てみずしゃ)




写りが悪いかもしれまへんがウサギの口から水が。

ご祭神の一つ神功皇后(じんぐうこうごう)の遺言で
卯の歳 卯の月 卯の日に 神功皇后をお祀りしたので
住吉大社ではウサギが神の使いとされてますんや。

(住吉大社 本殿入口の 角鳥居)


鳥居の柱が丸じゃなくて、四角なのに気がつかれましたか?

明神鳥居なんですが、柱が四角なのは古い形で珍しいそうで
角鳥居とか住吉鳥居とも呼ばれるそうですわ。

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が
住吉神社と揮毫(きごう)された額が掲げられてまぁ。

住吉大社と呼ばれるように成ったのは戦後のことで
明治時代には住吉神社と呼んでいたんでしょうな。

(住吉大社 第一本殿 内部)


角鳥居は拝殿と本殿の中間にある鳥居から出来たとの説。

画像の奥に写っている赤い鳥居のような物がルーツなんだね。

(国宝 本殿四棟)


(第一本殿)


(第三本殿 & 第四本殿 裏側から撮影)


第一本殿から~第三本殿までの住吉の大神は海の神さまで
東西方向の縦に並び、第四本殿の神功皇后さまの本殿だけは
第三本殿の横に並ぶ住吉造りとよばれる珍しい配置でっせ。

全ての本殿が大阪湾である西を向いて建てられているのも
神社としては珍しいでっしゃろ、普通は南向きか東向き。

(第三本殿 & 第四本殿)


画像の向かって左側が第三本殿で、右側が第四本殿だっせ。

四つの本殿は共に江戸時代の文化年間の建物を式年遷宮で
20年に一度、修復しながら今日に至っているんだって。

(第二本殿 裏側から撮影)


(重要文化財 住吉大社の石舞台)




大阪の四天王寺と広島の厳島神社と並べて日本三大舞台
でも、住吉神社のが一番小さくて目立ちまへんけど。

毎年の卯の花神事には、ここで舞楽が演じられますんや。

これも慶長年間に豊臣秀頼により奉納された石舞台なんだって。

(ろうそく石)


住吉大社の東門を出た外側に不思議な石が残ってますんや。

記録には残ってまへんが、江戸時代の絵地図には、この辺りに
鳥居が描かれているんでっけど、その基礎石との説が。

でも四角の鳥居だったとしたら、この基礎石は誤りのはず。

木製の柱だったとしたら、可能性はあるのかな?

ネット仲間が勝手に、ろうそく石なんて名付けたようでっけど。

(住吉大社の 御文庫)






(大阪最古 御文庫の石碑)


江戸時代の享保年間に造られた、大阪では一番古い御文庫で
江戸時代から明治までの貴重な文書が保管されているんだって。

漆喰は新しく塗り替えられているけど、建物はそのままかな。

(住吉大社の 神楽女さん)


冠が独特で、中央に鏡を置いて、左右に神木の松を
さらに神の使いである白鷺が飾りに付けられてまっせ。

住吉大社では神楽女(かぐらめ)さんと呼びますよ
巫女さんと呼ばないのが、古い伝統の呼び方なんだって。

(2015年 神嘗祭にて)


(2015年 神嘗祭にて)


(2015年 神嘗祭にて)




(こんな大きな 大筒おみくじ)




第一本殿の裏側に二棟の校倉造りの倉庫が建ってますんや。

これも慶長年間に建てられた古い建物で、住吉大社の
ご神宝が保存されている、重要文化財に指定されてまっせ。

(重要文化財 住吉大社の 高倉)


住吉大社の辺りは、アメリカ軍の空襲から免れて
こんな古い建物が多く残っている訳でんな。

因みに現在の住吉区と住之江区は先の大戦で
アメリカ軍の空襲を殆ど受けてませんので
昭和初期の建物が、住宅街にも多く残っますんや。

(なでウサギ)




これは最近に置かれた物で、新潟県の糸魚川産の
翡翠(ひすい)で作られたんだって。

削って持ち出されないのか一寸だけ心配しまっけど。

そんなバチ当たりな人間など、お参りには来てないかな?

(本殿入口から 反橋を撮影)


(江戸時代 正徳三年の石燈籠)


住吉大社の境内には約600基の石燈籠がありまして
江戸時代から明治までの物が大半のようでんな。

この正徳三年の石燈籠は古い部類に入りまっしゃろか?

(江戸時代 天保時代の石燈籠)




(脇参道の 角鳥居)


一の鳥居の両脇にも参道が在ってこれは
一の鳥居の南に位置する入口の角鳥居。

これを進むと反橋を渡らずに南側から
住吉大社の本殿や神館に入ることができまぁ。

ネットで調べても不明なんですが、神官などが
住吉大社へ入場する通用門なのかしら?

住吉大社には丸い柱の鳥居も多く見かけますんや。

(住吉大社 楠珺社の 鳥居)


摂社や末社にも四角柱の鳥居もおますし
丸い鳥居の柱もおまして、由来が不明なんですわ。

特に正門である一の鳥居の柱が、何故に丸いのか
鉄ちゃん爺やには、大いなる疑問でおますんや。

最後に今年1月で廃線になった上町線の住吉公園駅の
構内と線路を再び、訪れてきました。

(昨年の 住吉公園駅構内)




日本一の終電車が早い駅で変な話題になってましたな。

現在は、線路も駅構内も解体されて、駐車場になってまぁ。

(現在の 旧住吉公園駅付近)


右側の建物の屋根だけが昔の面影が残っていて
ここに、線路があったとは思えない風景でっせ。

(昔はこんな 線路が在りました)


(上町線と 阪堺線のダイヤモンドクロス)


この珍しい線路も撤去されて大阪では何処にも
見られない、懐かしい画像になりましたな。

(住吉公園駅舎)


この駅舎の外壁だけを残して他は解体のようですわ。

こんな、記念写真用のパネルだけが置かれてまんがな。

(懐かしい 住吉公園駅の路面電車)


次回は住吉大社の門前町だった粉浜商店街など
昭和の香りが残る街を紹介しまひょ。

長くなりましたので、本日はお仕舞にしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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住吉大社の 初辰まいり ご存じかしら?

2016-10-01 19:46:21 | 神社
住吉大社の境内「楠珺社=なんくんしゃ」と呼ぶ
小さな祠(ほこら)がおますんや。

楠珺社の名前は知らなくても、「初辰さん」と
言えば、年配の大阪人なら知ってはりまっせ。

「初辰さん」とは毎月・最初の「辰の日」に
お参りする、商売繁盛と家内安全の神さまで
本家の住吉大社より、この日は賑わいますんや。

(初辰まいりの ポスター)


10月は珍しく、1日が「初辰の日」になってまっせ。

同じく13日が二の辰、25日が三の辰となりまんねん。

「初辰まいり」を詳しく紹介させてもらいまひょ。

初辰の日には、AM6時半からお参りができるんでっせ。

先ずは最初にお参りするのが「種貸社=たねかししゃ」

(種貸社=たねかししゃ 小さな祠=ほこら)


倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がお祀りされてまぁ。

早く言えば、お稲荷(いなり)さんと同じ神さまですわ。

ここで稲の籾を頂戴して、1番最初に参拝するのが
初辰まいりでは正式のルールなんだって。

お願いの種を頂くことから、資金調達や子宝の種でっしゃろな。

次は2番目の「楠珺社=なんくんしゃ」へお参りでっせ。

ここも字が異なりますが「宇迦魂命=うがのみたまのみこと)

同じく本来は、お稲荷(いなり)さんになりまんな

(楠珺社=なんくんしゃ お社=やしろ)


(楠珺社=なんくんしゃ 神殿の内部)


ここで参拝を終えたら、500円で小さい招福猫の土人形を
授かりますんや、奇数月には左手を挙げた招福猫で、人招き。

偶数月には右手を挙げた招福猫でこちらは、お金招きだとか。

(初辰さんの 招福猫の置物 小)




4年間で48体の招福猫を揃えて持参したら、中の招福猫と交換。

四十八辰=始終発達のゴロ合わせは大阪人らしいでっしゃろ。

さらに12年後には中の招福猫2体と小の招福猫48体を持参し
一番大きな招福猫と交換してもらうんだって。

大の招福猫を2体揃えるには実に20年以上もかかるんだね。

昔の人は偉かったんですわ、信仰で真面目に毎月のお参りをし
大きな招福猫を自宅の神棚に飾って、商売繁盛と家内安全。

鉄ちゃん爺やも船場の大店(おおだな)の神棚に飾られている
大きな招福猫が、店内を見下ろしているのを見た記憶がおます。

(大きな 招福猫)




3番目は「住吉さんの弁天様」とも称される「浅澤社=あさざわしゃ」

(浅澤社=あさざわしゃ 小さい祠=ほこら)


女性が住吉大社にお参りする際には必ずお参りをする
女性守護と美容や、芸事の上達をお願いする神さま。

昔は色街の芸妓さんには、特に人気だったそうでっせ。

ご祭神は「市杵島姫命=いちきしまひめのみこと」

最後の4番目にお参りするのが「大歳社=おおとししゃ」

(大歳社=おおとししゃ 小さい祠=ほこら)


ここのご祭神は大歳神(おおとしのかみ)

「種貸社」で種を植えて、「楠珺社」で稲穂を育て
「大歳社」で心願成就(しんがんじょうじゅ)の収穫。

収穫と共に商人は、集金も全てが叶うとのゴロ合わせかな。

こんな感じで「初辰まいり」が考え出されたんだそうですわ。

4つの神さまは周囲約0.5kmの処に鎮座されてますんや。

(初辰まいりの 幟)


楠珺社(しょうくんしゃ)が4つの祠(ほこら)の内で
神官が常駐されているようで、初辰まいりの日だけは
4か所に神官が居られ、ご祈祷もできるようでんな。

(楠珺社=なんくんしゃ ご神木)




天然記念物に指定されている巨木で、この地中に
白蛇が生息しているとも言われてますんや。

なんでも年1~2度しかお目にかかれないとか。

(初辰さんの 招福猫)


初辰さんの神事が始まったのは明治の初めごろとか。

大阪市内の新町とか南地とも言われる、色街の店主が
初辰の日にお参りをして、境内で土人形を買って帰り
自宅の神棚に飾ったら、商売が大繁盛したとのこと。

それを聞いた船場や島之内の商人が、ご利益を求めて
初辰の日に毎月お参りする慣わしが始まったんだって。

色街の芸妓さんも隆盛には、大いに貢献したんだとのこと。

(住吉大社駅構内 トイレの銘板)




明治一桁に生まれた鉄ちゃん爺やの祖母からの話で
戦前には住吉大社の修復のお金を出資したのは
初辰まいりを信仰した人達なんだよと。

住吉大社の本宮にお参りしなくても、初辰まいりには
欠かさずに訪れるのが、当時の大阪商人だったようでっせ。

毎月の初辰さんや、二の辰の日や三の辰を含めると
小さい招福猫の置物が1か月で3千体は売れるんだって。

最近は毎月にお参りするのが困難な他府県の方や
猫マニアの参拝客さんに向けて、中の猫が5千円
大の猫が1万円で提供されると、ネットで見かけます。

やはり4年~8年~12年と、毎月にお参りするのが
本来の姿なんですが、時代の流れでは致し方なしでっかな。

即金で買われた招福猫の、ご利益はどうなんでしょうな?

「えべっさん」のお祭りも関西では有名でっけど
本来の信仰を伴うのは「初辰まいり」の方でっしゃろか。

大阪人には馴染の神事でっけど、如何でしょうか?

次回は本家の住吉大社の隠れたスポットも紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵


コメント (10)
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