鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

天神祭  テレビ大阪さんの画像から拝借

2015-07-26 11:47:04 | 日記
7月25日は大阪で天神祭の船渡御がおましたで。

日本三大祭りの一つで130万人が押し掛けますんや。

毎年ながらテレビ大阪さんが生中継をされまんねん。

その画像を拝借して本日のブログとさせてもらいまひょ。

(大阪天満宮 境内の賑わい)



(テレビ大阪さんの タイトル)



(天神祭 船渡御のコース絵図)



大川と書かれている左側が何度か紹介してる造幣局でっせ。

夕方になると菅原道真公の御神霊である神輿を乗せた
御鳳輦奉安船が大川を上流に向けて進んで行きまんねんで。

この船が側を通過するときは他の船は鳴り物も止めて
静かにお参りをするように決められてますんや。

船の中には天満宮の神官の方も同乗されてまんな。

(御鳳輦奉安船=ごほうれんほうあんせん)









夕やみ迫る大川に花火が上がり始めましたな。

打ち上げているのは造幣局の辺りや桜ノ宮公園かな?

左手の黒く見える樹木の辺りが造幣局でっせ。





御鳳輦奉安船の先陣を務めるのが催太鼓奉安船。

赤い頭巾を被った願人と呼ばれる若者6名が太鼓を叩き
船渡御を盛り上げる重要な役目をしますねんで。

この太鼓は太閤秀吉公が奉納した太鼓なんだつて。

天満宮の参道でも同じように催太鼓の地車が見れまっせ。

(御太鼓奉安船)





その後を100隻もの船が大川を上っていきますんや。

会社のPRを兼ねた奉安船も多く見られまんな。

(日清食品さんの 奉安船)



(サントリーさんの 奉安船)



この二社は毎年ながらお目にかかりまんな。

毎年ながら天神祭り生中継の大スポンサーなんですわ。

その中でも中学生ぐらいの若者が手漕きの伝馬船を操り
大阪の南港から、ここ大川まで馳せ参じるんでっせ。

この若者たちは氏子さんなのか選ばれた方なのかは不明。

南港の平林に在る木場からの奉安船のようでっけど

(小若衆の 奉安船)



大川の中央で能船と呼ばれる船が停泊してまっせ。

この船だけは上流には運航せず「お能」が演じられてまぁ。

(能船)





(日清食品さんの 仕掛け花火)



これは造幣局構内で博物館の壁を利用している感じ?

大阪城がライトアップされて花火と共演してまっせ。







花火はテレビの画面からはボケてますんでご免なさい。

船渡御のしんがりを務めるのは玉神輿の奉安船のようでんな。

(玉神輿奉安船=たまみこしほうあんせん)







大阪ではこの天神祭が終わると本格的な夏に成りますんや。

本日はこれにて終了にしまひょ。

次回は阿倍野区の隠れた名所を紹介しまひょかな。

ほんなら~ さいなら~♪












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南宗寺 & 千利休の屋敷跡 堺の旧市内巡り~♪

2015-07-18 19:50:18 | デジカメ散歩
今回は堺市の旧町をご紹介しまひょ。

堺市と言えば何をイメージされまっしゃろか?

中世に「東洋のベニス」と呼ばれた自治都市
又は、千利休の生まれ育った街でっかな。

それとも堺が生んだ明治・大正の歌人与謝野晶子さんかしら。

(阪堺電気鉄道 大阪唯一の路面電車)





この路面電車は昭和32年製造(1957年)のロートル。

58歳とは路面電車だからこそ、今でも走れる骨董品に近いでんな。

もっと古いのも走ってまっけど、冷房装置が付けられないので
夏場には車庫で眠っている、日本一古い現役電車もおますんや。

当時はグリーン色で地味な塗装でしたが今ではキン肉マンの
子供が喜ぶようなラッピング塗装で走ってまんねんで。

現在は一駅だけでも、終点の浜寺公園まで乗っても210円均一。

赤字の為に「あびこ道駅」までで堺の路線を廃線にしようとそんな
計画もおましたんや、そこで助け舟を出したのが堺市でおます。

堺市が存続のために支援して全線どこまで乗っても210円
これは鉄ちゃん爺やだけでなく、乗客には嬉しいことですわ。

支援の金額は知りませんが、存続が決まったのは明るいお話。

話が脱線しましたが「ごりょうまえ駅」で下車しまっさ。

ここから歩いて約1.5kmぐらいの処に、前回紹介した
仁徳天皇陵の拝所に通じる道から駅名が付けられてますんや。

(堺市内 観光名所 案内図)



それじゃや~ 堺市内でも三本の指ぐらいに入る「南宗寺」へ向かいまひょ。

この付近は江戸時代からの寺町でお寺ばかりが並んでまっせ。

(臨済宗 大徳寺派 南宗寺)







無銘ながら徳川家康公の塔が在ると刻まれてまっしゃろ。

詳しくは境内の、徳川家康公のお墓でお話をしまひょ。

まずはこのお寺を創建した室町時代の方の銅像から。

(南宗寺境内 三好長慶公の銅像)



戦国時代に織田信長が上洛する一世代前に近畿地方や
京都市内を勢力下に収めていた有力な武将でんな。

戦国時代に堺の街をめぐる争奪戦で戦死した三好元長と言う
父親の霊を弔うために創建されたのが南宗寺だったんですわ。

(国の重要文化財  甘露門)





現在は横目で見ながら通り過ぎる感じに成ってるのは
昭和20年の空襲で主な堂塔が焼けてしまったからかも?

昔は南宗寺の山門にあたる重要な門だったんでしょうな。



(南宗寺 通用門)



土塀は確かに江戸時代ごろの古さを感じまっしゃろ。

先ずは、仏殿と有名な天井壁画からお見せしまひょ。

このお堂は釈迦如来さんを安置している本堂になるようでんな。

大阪では現在でも禅宗系のお寺は非常に珍しいんでっせ。

やはり~ 浄土真宗や浄土宗のお寺が多いんですわ。

(国の重要文化財 南宗寺 仏殿)







江戸時代の承応元年(1652年)創建された純粋な禅宗の様式で
造られた仏殿だそうで、天井壁画は狩野信政の筆だそうでっせ。

このお寺を再建したのは有名な沢庵和尚だと言われてまんな。

そう言えば京都の大徳寺も合わせて住職をされてたかな?

(八相睨みの龍 天井壁画)



禅宗のお寺へ行くと、この八相睨みの龍がよく描かれてまっしゃろ。

どの方向から眺めても、こちらを睨んでいるように見えますんや。

京都の天龍寺など特別拝観の時しか見れないお寺もおますかな。

堺市が支援するボランティアの方が説明して引率してくれまっせ。

当然ながら無料で、そこそこの歴史や知識を持ってはりました。

(南宗寺 禅堂)



ここは座禅の修行をする道場でっけど、建物は明治4年建立で
南宗寺では比較的新しい建物になりますかな。

鉄ちゃん爺やは無理でっけど朝の7時にここへお参りをしたら
座禅を体験できる文殊菩薩がお祀りされているお堂なんだって。

(坐雲亭の 説明板)





本当は南宗寺に残る江戸時代から一番古い建物だとの説明でした。

でも一度、倒壊して再建されたので重要文化財になれなかったとか。

この坐雲亭の二階に元和9年(1623年)7月に徳川秀忠公が
続いて8月に三代将軍になったばかりの徳川家光公が御成りとの記録が。

内部は拝観できないけど、一階は茶室に成っている感じだね。

大坂夏の陣で豊臣方が徳川方に利用させぬ為に堺の街を全て焼き払い
中世に栄えた堺の街も、この時点で一度は消滅した訳でんな。

その後、徳川幕府により再建された街並みを二階から眺めたのかも?

現在ではビルが建ってしまい、見晴らしは全くダメでっせ。

当時はここから街並みやその向こうに大阪湾まで一望だったとか。

(南宗寺 石庭)









こじんまりとした庭の枯山水で禅宗のお寺によく有る石庭でんな。

古田織部好みの庭だと書かれてますが、蓬莱山から流れ下って
滝を下り川から海を経て実相庵の前庭にたどり着くという工夫が
水は一滴も使わず砂と石で山河を表しているんだそうな。

最後の画像の奥に利休好みの実相庵がおますんやけど
現在は修復作業中で近寄れまへんでしたわ。

それじゃ~ 境内の奥の方へ行きまひょ。 

(千利休の供養塔と 千家一門のお墓)



中央が千利休の供養塔で並んでいる右側が不審庵=表千家のお墓。

左手が今日庵=裏千家のお墓、見づらいですが手前の右側に
官休庵=武者小路千家のお墓が一同に集められてますんや。

毎年2月27日の利休忌には全国各地から一門の人々で賑わうとか。

この利休一門のお墓の隣には千利休の師匠にあたる
武野紹鷗のお墓もおますんや。

(武野紹鷗の お墓)



その奥には当時、千利休と切磋琢磨し茶道の発展に努めた
津田家と半井家一門のお墓がおましたで。

津田家は歴史上にも登場する堺の豪商だったそうな。

(津田家・半井家 一門のお墓)



正面左から津田宗及その右が千利休と並び称される津田宗達
中央が翠嚴和尚の卵塔で右へ半井一門が並んでいるとの説明。

実は撮影はお断りされたんですが、正面の翠嚴和尚の卵塔の前の
花立を取り除くと「十字架」が刻まれてますんや。

そして左側の灯篭に刻まれているのはお地蔵さんのようで実は
マリア様に抱かれた赤ん坊なんだそうですわ。

当然ながらイエスキリストさんに成りますよね。

言われて見ればこの灯篭も十字架に見える感じがしまっかな。

南宗寺境内の一番奥になるんだけど、大胆にも隠れキリシタン。

ここは江戸時代には南宗寺と同じ境内に堺東照宮がおましたんや。

堺の商人が鎖国とキリスト教禁止への反骨の表現かしら?

ボランティアさんの説明が無ければ何の変哲もない江戸時代の
堺の商人のお墓だと通り過ぎる処でしょうな。

(南宗寺境内 三好長慶一族のお墓)





一番背の高いのが三好元長のお墓で、その右側が三好長慶。

江戸時代になってから再建された南宗寺へ移されたのかな?

三好一族は阿波の細川家の執事をしていた家だから、当然ながら
徳川家とは何の関係もないので、考えられるのは大坂夏の陣の後
この南宗寺を再建した沢庵和尚が昔の檀家さんとして移設したのかも。

次は関西系のテレビでも放映された珍説で「徳川家康公のお墓」

(徳川家康公の墓)(昭和42年建立)



これは大阪人の作り上げた伝説でっけど、徳川家康公は大坂夏の陣で
後藤又兵衛の槍で突かれて負傷し、堺市まで逃げてきたが既に死亡。

そこで開山堂の床下に埋葬したと伝えられてますんや。

大坂夏の陣に勝利すると影武者を徳川家康公に仕立て凱旋したとか。

翌年に駿府城内で「鯛の天ぷら」を食べて死亡したと正式に発表。

影武者は同じく大坂夏の陣で戦死したと書かれている小笠原秀政
この方は徳川家康公によく似たお顔だったとの記録がおます。

もしくは摂津の国で吉田村の百姓だったとも噂されてますな。

小説の世界のお話として軽く聞き流して頂戴ね。

(開山堂跡に 徳川家康公の 仮の墓)



このお墓はどう見ても僧侶の墓に思えるし、家康公の本当の墓なら
もっと立派なものが後に造られるはずだとの説が濃厚でっけど。

でも影武者を本当の家康公にして置く為なら、それも一理ありかな。

徳川秀忠公や家光公が、こんなお寺に立て続けで訪れたのはその際に
徳川家康公の遺骨を掘り起こして日光の東照宮に運ばせたとの説が。

宗旨でもない南宗寺にわざわざ京都から出向いてるのは何故かしら?

でも後藤又兵衛は大坂夏の陣の前日に河内の道明寺河原で戦死。

真田幸村に追い迫られた日には既にこの世には居なかったはず。

徳川家康公の新しいお墓は昭和になってから再建されました。

発起人の一人に故松下幸之助さんまでが名を連ねている不思議。

こんな伝説を信じて献金された訳でもないでしょうな。

発起人の総代は元水戸藩で家老職を務めた家柄の方なんだって。

江戸時代から徳川家康公の何らかの伝説があったんでしょうか?

今となっては記録書にも全く痕跡すら残ってまへん。

(南宗寺内 堺東照宮 拝殿の写真)



戦前まではここに堺東照宮が在り昭和20年の空襲で焼失。

鉄ちゃん爺やが前回に訪れた際は石の基礎だけが残ってましたな。

南宗寺と徳川家康公との歴史的な繋がりは皆無でおます。

現在は戦前の写真から東照宮の拝殿と開山堂が並んでいたとの
記録しか残ってませんが、まことに不思議なお話でっしゃろ。

堺東照宮が造られたのは江戸時代も後期で文政年間とのこと。

でも東照宮が造られるには、何かが有るんでしょうな。

(堺東照宮 唐門)



現在では堺東照宮の建物ではこの唐門だけが残っています。

厳めしく唐門には三つ葉葵の紋が正面に見えてまっしゃろ。

唐門の奥に見えるのが昭和になってから出来た徳川家康公のお墓。

ますます~ 徳川家康公との関連が謎のままでお寺を後にしましたんや。

(南宗禅寺 門前にて自撮り)



ここから歩いて10分ぐらいの処に千利休の屋敷跡がおます。

千利休の生家も当時の堺では中程度の大きい商人だったそうでんな。

次はその千利休の屋敷跡を紹介しまひょ。



(千利休の 屋敷跡)











この千利休屋敷跡と道路を挟んでお向かいに堺市がPRも兼ねて
こんな施設を造りましたんや、最近できた建物のようでんな。

(さかい利晶の杜 入口)



千利休の「利」と与謝野晶子の「晶」を合わせて出来た施設。

ここで抹茶と堺の和菓子が1200円ぐらいで味わえるとか。

でも鉄ちゃん爺やには、お似合いじゃないのでパスしまひょ。

千利休と与謝野晶子の資料などが展示されているそうですわ。

無料の模型だけデジカメで撮影して外へ出まひょ。

(明治から戦前までの 堺市の風景)





この辺りは大坂夏の陣の後に徳川幕府により再建された堺の中心街。

紀州街道が南北に通っていて紀州55万石の徳川家は和歌山城から
ここを通過し大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)から船に乗り
京都の伏見から山科を通って東海道を江戸に向かったそうでっせ。

(紀州街道の 石碑)





現在は中央にチンチン電車と呼ばれる阪堺電気軌道の路面電車が
通る堺市内でも有数の広い道路でっけどそれは大正時代以降のこと。

江戸時代には三分の一ぐらいの道幅しかなかったと言われてますな。

その証拠を伝える案内図が次の与謝野晶子の生家碑に見られまっせ。

(与謝野晶子 生家碑)











最後の画像の奥に見える保険会社のビルが写ってまっしゃろ。

あの辺りまで与謝野晶子の生家で和菓子屋さんだったんだって。

(大道筋 道路標)



昔の紀州街道を現在は堺市内では「大道筋」と呼ぶそうでんな。

ここから約2kmぐらい先で大和川を渡ると大阪市内になり
そこからは「住吉街道」と呼ばれて住吉大社の前を通ってますんや。

それでは堺の旧町へ少しだけ足を延ばしてみまひょ。

(堺市 山之口商店街)











与謝野晶子さんの地元だから商店街には与謝野晶子の短歌が
両側のアーケードの下に吊り下げられてまっせ。

堺と言えば最近は料理人用の包丁では8割以上を製造することで有名。

(堺市内 老舗の包丁の製造元)







家庭用ではステンレスの包丁が大半でっけど、料理人が使用する包丁は
現在でも堺の包丁が最高級品だと言われてまんな。

堺と言えば「刃物の街」と関西では昔から有名ではおまっせ。

戦国時代の鉄砲を製造していた職人が平和な時代になった江戸時代に
堺の包丁として全国的に知られるような集団になったんだそうな。

江戸時代の鉄砲鍛冶屋の建物はもう少し大阪寄りに1軒だけ残ってますが
こちらは屋敷の内部が公開されてませんので今回はパスしました。

(堺市 大少路筋=おうしょうじすじ)





鎌倉時代以降はこの東西に走る大小路(おうしょうじ)を
挟んで北側が摂津の国で南側が和泉の国だったんでっせ。

だから堺市の地名もここから考え出された物なんでしょうな。

江戸時代には竹内街道(たけのうちかいどう)の起点も
ここ大小路(おうしようじ)と紀州街道が交差する場所が
起点とされたので最近になって石碑が置かれてますわ。

(竹内街道=たけのうちかいどう 起点の石碑)





平安時代にはこの辺りは小さい漁村でこの交差点から西側は
大阪湾が広がっている寂しい処に過ぎなかったんだって。

処がこの辺りは大阪湾を経由して瀬戸内海から朝鮮半島へ
もしくは沖縄や中国大陸などへの港として注目されましたんや。

この大小路(おうしょうじ)の北側一帯を堺北の荘と呼び
朝廷から鎌倉時代には住吉大社に寄贈されて荘園となったとか。

だからここは住吉大社を通じて南朝方の拠点だったんでっせ。

南側は堺南の荘と呼ばれこちらは北朝の荘園から後に室町幕府の
所領となり中国との遣明船貿易の拠点となりましたんや。

堺の荘園は奈良や京都の寺社の供御人としての資格を所有して
全国で関所の税金なども免除される現在の流通業者だったようでんな。

幕府にも朝廷にも支持者がいて強力な組織が豪商に発展したようでっせ。

そんな遣明船貿易から堺市は発展し太閤秀吉が大坂城と市街地を
造るまでは、こちら堺の街が大坂で一番賑わったんだって。

南北朝の戦乱もそれから足利義満の大内氏との争いや三好一族の
京都や堺市をめぐる戦乱はこの堺の経済力の獲得にあったんでしょうな。

堺の街を把握した支配者が天下人と呼ばれる地位に座ったんだって。

中世先進の街とか、東洋のベニスと呼ばれる繁栄だったようでっせ。

そんな噂が宣教師を通じてヨーロッパにも伝わったんだって。

最後は織田信長や豊臣秀吉により堺の自治は崩壊しますがね。

大坂夏の陣で大半が焼けてしまった堺の街を復興させる必要を
徳川秀忠公や徳川家光公も大事な事業だと考えていたようでんな。

当時はまだ西洋との貿易は徳川幕府にも必要だったはず。

でも結局は鎖国により堺の復興は成ったが昔の栄光を取り戻せずに
昭和20年の4度に渡る空襲で壊滅的な被害で終了と成りましたんや。

(大少路=おうしょうじ & 大道筋の交差点)





堺市の援助で一昨年に購入された阪堺電気軌道の新型路面電車。

鉄ちゃん爺やが昨年に広島市内で見かけた路面電車と同じ型で
おそらく日本の同じメーカーで製造された車両だ思いまんな。

鉄ちゃん爺やが幼少の頃は辺り一面が焼野原でしたんで
それを考えれば近代的な街に変わりつつあるのかもしれまへん。

でも~ 世界的なトップ企業は堺旧市内には存在しませんので
なんとなく地方都市的な印象が強いのが残念でっかな。。

参考ながら中世の堺というイメージは全く感じられませんので
観光で訪れる際には期待外れに終わる可能性も強く念のため。



それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ さいなら~♪




































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堺市の方違神社へ立ち寄ってきました~♪

2015-07-11 20:21:26 | デジカメ散歩
大阪府堺市は人口が83万8千人の政令指定都市でっせ。

大阪市に次ぐ人口と面積を持ち中世には東洋のベニスと呼ばれ
現在は大阪府では南部地区最大のベットタウンと言えまっかな。

今回から2回に分けて堺市のお話をさせてもらいまよ。

(堺市 マンホールの蓋)



堺市の花木はツツジ 堺市の鳥はモズ 

堺市の花は 花菖蒲

それら三つを巧くデザインしたようでんな。

まずは堺市の市役所の展望台へ行ってみまひょ。

(堺市役所 高層館)





ここの21階に360度を見渡せる展望台がおますんや。

市役所でっしゃろ、当然ながら入場料は無料だっせ。



高さが80mと説明がおますんで結構と周囲が見渡せますわ。

この日は、雨でしたんで視界がいまいちでしたんや
当日の画像と館内説明パネルを合わせて貼り付けまひょ。

(世界一の 仁徳天皇陵)(大仙古墳)







堺市役所の展望台から眺めたら南東の方角になりまっせ。

鉄ちゃん爺やの地元に在る古市古墳群と合わせて近いうちに
世界文化遺産に登録を申請する百舌鳥古墳群の中心的なシンボル。

(刺繍で作成された 仁徳天皇陵)



鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年に悪友の男女7人で

画像の右手の後円墳のお濠を二つ越え内堀から御陵を眺めながら
左側に歩いて拝所が在る中央やや左の処から脱出しましたんや。

現在なら拝所の処に宮内庁の係員が居られるので捕まるでしょうな。

あの日は日曜日だったので係員はお休みだったはず。

現在は監視も厳しいとか、けしてマネはしないで頂戴ね。

(日本で第三位の面積 履中天皇陵)





家原寺と書かれているのは有名な行基菩薩(ぎょうぎぼさつ)が
生まれた場所に自らが建立した第一号のお寺だとのこと。

落書き寺で有名な寺院だそうですがまだ訪れたことはおまへん。

あの辺りは昔は和泉の国で大鳥郡と呼ばれていたんだって。

今度は反対側へ北の方角へ回ってみまっせ。

晴れてたら、あべのハルカスビルも見えるんでっけどな。

やはり~ この日は梅雨空で2kmぐらい先までしか見えまへんわ。

あの霞んだ左手ぐらい大阪市の住之江区に鉄ちゃん爺やは
学生時代から独身時代までを過ごしたんですが見えまへんわ。

あべのハルカスまでは約8kmぐらいおますからダメでんな。

(大阪市内の方角を撮影)



展望台から真下の北東の方向を写してみまっさ。

左手が堺銀座と呼ばれる繁華街でっけど昔より寂れてますわ。

戦後のヤミ市からスタートし昭和の時代には堺市内で
一番賑わったのが堺銀座だったとか聞きましたけど。

(南海高野線 堺東駅前付近)



少しだけカメラを遠くに振って見まひょ。

堺市役所から眺めて同じく北東の方角になりまっせ。

こんもり茂った森が反正天皇の御陵でおます。

(反正天皇陵 & ツインビル)





これから向かう方違神社(ほうちがいじんじゃ)と
帰り道になるJR堺市駅前のツインビルが見えてまんな。

それじゃ下へ降りて1kmちょいぐらいでっかな
方違神社(ほうちがいじんじゃ)へ向かって歩きまっせ。

(南海高野線 堺東駅舎)



この駅の裏側に回り込んで大阪府道12号線を東へ向かいまひょ。

中世には大津道と呼び江戸時代には長尾街道と呼びましたんや。

堺東駅を撮影したこちら側は竹内街道(たけのうちかいどう)で
日本で一番古い国道としてテレビなどで紹介されましたかな。

竹内街道(たけのうちかいどう)と長尾街道は1km~2km
離れて平行して東の方へ続き奈良県の葛城市・長尾神社で合流し

そこからは横大路(よこおうじ)となり飛鳥の都に繋がってましたんや。

どちらが古いのか定かじゃおまへんけど、ルートが比較的はっきりと
残っている竹内街道(たけのうちかいどう)の方が日本一古いとPR中。

因みに竹内街道(たけのうちかいどう)は鉄ちゃん爺やの自宅から
北側約00mぐらいの旧町のど真ん中を通過してますんや。

(昔の長尾街道 &方違神社の標識)



方違神社(ほうちがいじんじゃ)の前で中世までは熊野古道が南北に交差
現在の大阪市・天満橋から上町台地を通ってここを通過してましたんや。

だから熊野詣の上皇や貴族たちも、ここに立ち寄って旅の無事を祈り
今はなき熊野九十九王子の神社を辿り遠い熊野まで向かったそうですわ。

九十九の王子神社が在った訳じゃなく13世紀の最盛期でも
確認できるのは80か所ぐらいだとか、数が多いの意味でっせ。

九十九王子神社で残ってるのは大阪市内の阿倍野王子神社だけ
で明治以降にほとんどが消滅したとも書かれてますな。

(北三国ヶ丘町の 住居表示)



中世まではこの辺りは三国山と呼ぶ本来は山ちゅうよりは丘でっけど。

歩いてみないと判断できないぐらいの緩やかな登り坂でしたわ。

大阪城から南へ低くなりながらも続く上町台地の先端でっかな。

(方違神社=ほうちがいじんじゃ 境内)





この神社は関西に住んだ経験のある方なら、ご存じだろうが
他国の方には、おそらく名前も聞いたことのない神様でしょうな。

この神社の御由緒によれば、おそらく奈良に都がある時代?

摂津の国・河内の国・和泉の国 三国の境にあると言えども
どこの国にも属さず、方位のない聖地に在ると言う考えから
方災除けの神として崇められたと記されてますんや。

だからこの辺りの地名は現在でも三国ヶ丘と呼びまんねんで。

堺市の名前も摂津と和泉の境から転じたと言われてまんな。

(方違神社=ほうちがいじんじゃ 由来の説明板)



読めますか? 途中の所に凄いことが書かれてまっせ。

明治元年に京都から東京に遷都するに際して17日間もの日数
大きな災いが無きようにと方違神社で祈祷が行われたんだって。

大阪人は方角の悪い処へ引っ越ししたり、建物を新築する場合は
ここ方違神社(ほうちがいじんじゃ)でご祈祷をして貰いますんや。

(方違神社=ほうちがいじんじゃ 拝殿)









余談でっけど鉄ちゃん爺やが関東への単身赴任が決まった際に
今は亡き養母が関東は方位が悪いとかで、電車を乗り継いで
一週間前に、ご祈祷にお参りしたと後日、身内から聞かされました。

そのご利益があったのかどうかは分かりませんが、鉄ちゃん爺やが
立ち上げた会社が現在もグループで一番の好業績を続けているとか。

それでは長尾街道を歩いてJR堺市駅の方へ向かうとしまひょ。



(長尾街道と堺大和路線の分岐点)



左手がJR堺市駅を通過して行く昔の長尾街道になりまっせ。

右手は明治になってから開通した大阪府道・堺大和路線ですわ。

鉄ちゃん爺やが学生時代には大阪府道・堺大和高田線と言ってたね。

(大阪刑務所)





鉄ちゃん爺やが学生時代にはコンクリート壁の所々に見張りの
高い塔が見られたが、今は機械やセンサーで監視してるのかな。

30年ぶりに通るので刑務所のイメージも様変わりしました感じ。

この大阪刑務所は大正9年(1920年)に大阪市内の堀川刑務所から
移設され、現在も死刑囚を含む大阪では重要な刑務所なんだって。

周りには11棟もの刑務官の官舎が現在も使用されてましたで。

現在も200人以上の刑務官が官舎に住んでることになりまんな。

(JR堺市駅前の ツインビル)



(JR堺市駅 ~ JR大阪駅のきつぷ)



考えたら堺市内から大阪駅まで300円とは安く感じますな。

JR西日本さんは私鉄と競合する区間だけは安く成ってますんや。

(JR天王寺駅構内から あべのハルカスを撮影)





順序が逆になりましたが次回は堺市の古き良き時代の街中を
歩いてきましたのでそれを紹介しまひょ。

ほんなら~  今日はこれで さいなら~♪


























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黄檗宗 萬福寺へ行ってきましたで~♪

2015-07-05 20:19:05 | デジカメ散歩
観月橋駅から平等院で有名な宇治駅へ向かって

京阪電鉄宇治線で四つ目の黄檗駅で下車。





(奥に見える土塀が 萬福寺)



駅から歩いて約10分ぐらいの処に有名な萬福寺と言う
黄檗宗の大本山がおますんや。

先ずは門前にある食堂で茶蕎麦を食べて腹ごしらえでんな。

宇治茶の近くなのでこの辺りでは茶蕎麦が名物なんですわ。

(茶蕎麦 & 黒豆茶)



ご存知のように日本には三つ禅宗の宗派がおますんや。

曹洞宗 臨済宗 この二つは鎌倉時代に中国から伝わりました。

黄檗宗は江戸時代の4代将軍 徳川家綱公の時代に中国の
隠元禅師という方が江戸幕府の援助で萬福寺の開祖に。

江戸時代には末寺が1千を超える大きな宗派になったとか。

ここは当時、後水尾天皇の生母で中和門院さんの屋敷跡を
生家の近衛家から幕府が買い上げてお寺を造ったんだって。

後水尾天皇(当時は法王)さんも黄檗宗を篤く帰依したようでっせ。

(萬福寺 総門)





このお寺は17世紀頃の中国は明時代の臨済宗の様式を伝えています。

総門の屋根に見えるのはシャチホコだと考えて入山したんでっけど
本当は中国の想像上の動物で摩加羅(まから)と呼ぶ動物なんだって。

なんでも女神を守るワニから出ているとの説が有るんだって。

左右の屋根が低い日本のお寺には見られない牌楼(ぱいろう)と呼ぶ
中国独特の様式で造られた門だと書かれてまんな。

(萬福寺の 三門)





此処からが正式な萬福寺の境内になるんでしょうな。

それじゃ拝観料の500円を支払って奥へ向かいまひょ。

(萬福寺 ご朱印) (ご朱印は別に300円)





(黄檗宗 萬福寺の案内絵図)



日本のお寺なら山門を通り抜けたら多宝塔や本堂がおますわな。

此処では天王殿(てんのうでん)と呼ぶ玄関のようなお堂がおます。

中国のお寺ではこれが一般的だそうでっせ。

(萬福寺 天王殿=てんのうでん)





大きな布袋さんが入口に座ってはりまっせ。

その布袋さんは中国では弥勒菩薩の化身とされてますんや。

周囲を囲むように四天王像と布袋さんの裏側には韋駄天像が。

お祀りされているお堂のようですわ。

(萬福寺 韋駄天像)



禅宗のお寺には韋駄天さんが必ず置かれてますな。

中国では本尊を守護するのが韋駄天さまなんだって。

(四天王像)










最近は拝観料は徴収するくせに撮影禁止のお寺が多いでっしゃろ。

ここは、その点では雲水さん(修行僧)だけは撮影を禁止のお願いで
仏像やお堂の内部などは写させてもらえるのでラッキーでしたわ。

(萬福寺の回廊)





徳川幕府が許可し建立した禅寺なので葵の紋が入ってまっしゃろ。

西暦1661年~1671年まで掛かって完成したんだとか。

何故に4代将軍の徳川家綱公がこれほどの肩入れをしたんだろう?

徳川家には宗旨である浄土宗があり江戸では東叡山の天台宗も在る。

どうも~ 中国からやって来た隠元さんにも分からない事が多い。

60歳を超えているのに弟子を連れて日本へやってきたとか。

3年で中国へ帰るのを諦めて、最後は黄檗山 萬福寺にて死亡。

清国に追われた漢民族の明国残党から助けを徳川幕府に求めたとの説も。

単に明末清初の中国から逃れただけなのかもしれないけど。

当時は堕落していた禅宗を本来の禅宗に戻したかったとの
徳川幕府の願いが隠元禅師を利用して新しい宗派を作らせたとも。

(萬福寺の本堂 大雄宝殿=だいおうほうでん)



大雄宝殿と大きく書かれた額は隠元真空大師の直筆なんだって。

その下で一階軒下の額は二代目の木庵禅師の直筆とのこと。

それにしても隠元さんや二代目の木庵さんは達筆ですな。

隠元禅師から14代までは中国人の僧侶が萬福寺では住職に
江戸時代の後半になってから、やっと日本人の住職になったとか。

隠元さんは自分が中国の福建省で住職をしていたお寺と
全く同じ名前の黄檗山 萬福寺と名付けたようですね。

それで中国のお寺を「古黄檗」と呼び日本の方を「新黄檗」と
今日でもそう呼ばれていると案内書には書かれてまんな。

江戸時代には臨済宗 黄檗派と呼ばれていたそうで明治に成ってから
黄檗宗という禅宗の宗派として新たに認められたそうですわ。



(真空の 扁額)



「真空」とは隠元さんが真空大師の尊号を朝廷から得た処から。

本堂の中央には本尊の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と脇侍仏二体









本尊さまを囲むように十八羅漢像が配置されてますんや。

日本では普通は十六羅漢像だけど中国では十八羅漢像なんだって。

こんな処でも中国の臨済宗の本来の姿を伝えているとも。

(萬福寺本堂の 十八羅漢像)











中国的な画像を1~2枚貼り付けて置きまひょ。

日本のお寺とは雰囲気が違いまっしゃろ。

良く見れば中国らしい建築技法が各所に見られますんや。







この木魚(もくぎょ)も隠元さんが中国から伝えた物だそうで
今日ではいろんな宗派で使われるようになったんだって。

(萬福寺 法堂)







ここで雲水さんが座禅を組み、師匠から禅問答の説法を受けるお堂。

現在も中国から伝わった唐韻の言葉でのみ、お経が読まれるんだって。

(巡照板=じゅんしょうばん)



禅寺へ行かれたらこんな板が掛かってるのをご存知かしら?

黄檗山 萬福寺でも毎朝4時が起床で夜9時が消燈との決まり。

それを知らすために経を唱えながら巡照板を叩いて雲水さんが
回廊を走り回ることを毎日続けるのも修行の一つなんだとか。

(雲版)





(開版 かいぱん)



これらも雲水さんが修行で叩く鳴り物のようでんな。







隠元さんと言えばインゲン豆が一番有名かもしれまへんな。

他にも西瓜(すいか)なども隠元禅師が日本に教えたとのこと。

中国から伝わったものを今でも萬福寺では育てているようですわ。



(原始ハス)



鉄ちゃん爺やは若いころに一度だけ訪れてるはずだが
こんな大きな寺院だったとは記憶も薄れてしまってました。

今はやりの中国や韓国からの観光客も立ち寄らないし
京都では隠れた名所とでも言えるかも知れまへん。

これで黄檗山 萬福寺のお話はお仕舞いにしまひょ。

ほんなら~ これで さいなら~♪





コメント (14)
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