鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

焼失前の 首里城を SDカードから復元

2021-01-31 20:00:10 | 世界文化遺産
新ノートパソコンにSDカードから画像を復元中なんですわ。

2014年(平成26年)4月の沖縄旅行が復元できましたんや。

(首里城の 守礼門) (1958年再建)




首里城に入る際に最初に潜る有名な門でっせ。

二千円札に描かれてましたが覚えてはりまっか?

まだ流通はしてるそうでっけどお目に掛りまへんな。

扁額に「守禮之邦」と書かれてまっしゃろ。

「礼節を守る国」と言う意味なんだって。

この門は首里城から離れてますんで焼失を免れました。

(首里城跡の 石碑)


(世界文化遺産の 説明書き)




琉球国王が外出する際はここで拝礼したと言われてますんや。

昭和20年の沖縄戦で首里城は軍司令部が置かれて居た関係で
ほとんどの建物が焼失または破壊されてしまったそうでんな。

この門だけは唯一ながら戦災を免れたとか聞いたように思いまぁ。

戦後に修復がされてるようですが首里城で現在は一番古い門かも?



(首里城の 瑞泉門=ずいせんもん)




瑞泉門は首里城を日本流にすれば二の丸に入る為の門に成るのかも。

この門も幸いにも焼失は免れたと聞いてまんねん。

確かここまでは無料で登れるがここから先は有料だったはず。

(首里城の 城内から市街地を望む)






この城壁などが世界文化遺産に認定されているんだとか。

標高120m前後の高台に首里城は造られたそうでんな。

(首里城 広福門=こうふくもん)


幾つの門を潜ってきたのか覚えてまへんけど、五つぐらいだったかな?

この門までが2019年(令和元年)10月の火災を免れたんだって。

(首里城の 奉神門=ほうしんもん)


(内の奥さん 首里城の 奉神門の前にて)


この奉神門(ほうしんもん)は日本流に例えれば本丸に入る
大手門に当たりますかな、潜ると広い敷地になりますんや。

この奉神門は側壁の一部が今回の火災で焼失したはず。

(首里城の 正殿=せいでん)






この首里城・正殿の向かっ左奥から出火しての全焼でしたね。

1992年(平成4年)の再建ですから建物としては歴史的な
価値は薄いと思いますが、沖縄県民の心の礎でもありました。

ここ正殿まえの広場を首里城では御庭(うなー)と呼んだそうで
琉球国王が臣下の拝謁を受けたり、重要な行事をした場所だとも。

(首里城の 南殿)


画像の上部のこじんまりした建物が南殿でっせ。

この南殿も2019年の火災で焼失してしまいましたよ。

この南殿は日本式の建築で造られ、江戸時代には薩摩藩の
役人が首里城を訪れる際に使用された建物だったとか。

火災が発生する前は正殿を見学する観光客はこの南殿から
通路に従って見学するコースの入口と成ってましたんや。

(首里城 南殿から正殿に向かう庭園)






同じく2019年の火災で焼失した北殿と呼ばれる建物は
中国の清朝の役人が来訪した時に使用された建物だそうです。

此方は中国様式を取り入れた建造物になってました。

火災の前には正殿の見学が終わって城外へ出る通路になってましたな。

(首里城・正殿  琉球国王の玉座)


中国皇帝の直筆が残っているので模写したとのこと。

江戸時代の琉球国は中国の清朝と日本の薩摩藩の両者に
従属することで独立を保っていたようでんな。

(琉球国王の 王冠)




(琉球王朝の 儀式のミニチュア)


(高貴な方の 御涼傘)




これら400点以上の琉球王国時代の貴重な文化財がほとんど
焼失してしまったのが、首里城・正殿火災の問題点でしたんや。

(首里城・御庭で 琉球装束の案内人)


(首里城の 淑順門)




首里城から退出する時はこの門から北側の通路を通って
再び守礼門を潜って帰るようになってますんや。

(首里城の 守礼門)


(観光バスから 道路標識を撮影)


沖縄県では「城」とかいて「グスク」と読むんだそうですわ。

「北中城」これで「きたなかぐすく」と言うんでっせ。

(ゆいレール 沖縄都市交通モノレール)


沖縄県で唯一の鉄道で那覇空港から那覇市の中心地を経由して
首里駅から、てだこ浦西駅まで運行されてますんや。



本日はこれにてお仕舞にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪







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現役最古の駅舎  JR亀崎駅 & JR善通寺駅

2021-01-24 20:07:55 | 鉄道
USBメモリーから10年前の古い画像を復元しまひょ。

鉄ちゃん爺やの想い出フォトでもおますんや。

今回はJRの現役で使用されている最古の駅舎を二つ。

実は鉄道マニア仲間でも意見が二つに分かれるんですわ。

(JR武豊線 亀崎駅舎) (2010年10月撮影)


1886年(明治19年)に官設鉄道として開業した時の
駅舎だという説があるので事実なら現役の駅舎としては最古に。

撮影してから、もう10年が過ぎてしまったんでんな。

鉄ちゃん爺やが保存する駅舎の中で自慢できる画像かも?

(愛知県半田市の マンホールの蓋) (2010年10月撮影)


現在のJR武豊線はJR東海道本線の大府駅から分岐し
半田市の南側に隣接する愛知県知多郡の武豊町まで
知多半島の東側を走るJRのローカル線なんですよ。

JR名古屋駅から直通の電車が一部ながら乗り入れも。

明治10年代後半に半田港(現在の武豊港)に資材を陸揚げし
官設鉄道として武豊駅~熱田駅までが施設されたんでっせ。

当時は中山道線という官設鉄道を計画したるも峻険な信州の山岳や
木曽谷の為に、現在の東海道本線を優先することに変わったとか。

当初は海上から艦砲射撃で鉄道を破壊されることを恐れたのかも。

(JR亀崎駅 駅名標) (2010年10月撮影)


1889年(明治22年)に武豊駅から長浜駅を経由して福井県の
敦賀港までが開通し、日本海に達する官設鉄道が出来ましたんや。

当時は軍事的にも日本海に抜ける鉄道が重視されたんでっせ。

東海道本線が関ヶ原駅から大津市の馬場駅で全線が開通したのが
その半年後だったと記録されているようでっけど。

その後、東海道本線が開通し大府駅から先が切り離されて
現在のJR武豊線になってしまったという経緯がおますんや。

この亀崎駅舎は明治の28年頃に一度だけ焼失したとの記録が。

別の記事では焼けたのは亀崎駅の鉄道官舎だったとの説も。

半田市の郷土史にも正確な資料がなく、現在では最古の駅舎は
JR武豊線の亀崎駅だとの説も、否定はされてないようでんな。

(JR亀崎駅構内の 建物資産標)(M19=明治19年)


(JR亀崎駅構内 建物資産標を拡大)


証明には成らないものの、JR東海でも明治19年1月に竣工した
開業時の駅舎だとの説を取っているようでんな。

証拠がないので登録文化財には指定されてはいない感じ。

(JR亀崎駅舎を 裏手から撮影) (2010年10月撮影)


何度か外観は修復されているように感じますが日本最古の駅舎として
鉄道マニアには知られた駅舎の一つに成っているんでっせ。

息子の住む岡崎市に立ち寄った際に訪れたんだったかな。

(終点の JR武豊駅舎) (2010年10月撮影)




こちらは愛知県知多郡武豊町(たけとよちょう)に成りまんねん。

中央競馬の武豊(たけゆたか)さんと同じ漢字になるんだとかで
平成の時代に2度ばかり一日町長をされたとか聞いてまっけど。

彼は滋賀県の栗東市の生まれ武豊町とは直接の繋がりはおまへん。

(JR武豊線 キハ75系 気動車) (2010年10月撮影)




当時は電化されて無かったのでディゼルカーが運用されてました。

現在は電化されて東海道本線と同じ車両が使われているはず。

このキハ75系の気動車も現在ではJR高山線やJR紀勢線で
最後のご奉公をしているんだろうなと考えまぁ。

JR武豊駅の話が長くなりましたが、8年前に訪れた
四国のJR善通寺駅舎の方に話を移しまひょ。

(JR土讃線 善通寺駅舎) (2013年10月撮影)




こちらは1889年(明治22年)3月30日に竣工したとの
記録が当時の国鉄や市役所に残っされているとか。

入口部分を「車寄せ」と呼ぶんでっけど1922年(大正11年)
陸軍大演習に来られる皇太子(後の昭和天皇)の行啓(ぎょうけい)に
伴って増設されたとの記録が残っているんだって。

何度か修復はされているようだが駅舎の本体部分は紛れもなく
明治22年の建造物で、国の登録文化財にも指定されてまぁ。

もしJR亀崎駅舎が焼けていたとすれば、こちらが現役での
最古の駅舎になると鉄道マニアの意見もおますんや。

(善通寺駅前の 大通りを撮影) (2013年10月撮影)


善通寺と言えば弘法大師がお生まれになった街として、加えて
真言宗の三大霊場の一つである善通寺も紹介しておきまひょ。

こちらの方が四国八十八か所巡りなどの影響もあって有名かも?

(真言宗総本山 善通寺 本堂) (2013年10月撮影)






(真言宗 善通寺の五重塔) (2013年10月撮影)






真言宗の三大霊場とは和歌山県の高野山に京都市内の東寺さん
加えて四国の善通寺さんを合わせて言うんだとか。

別に真義真言宗という別の宗派もおますので参考のため。

(香川県善通寺市の マンホールの蓋) (2013年10月撮影)




四国の善通寺市には戦前まで陸軍の第11師団が置かれ四国四県に
おのおの連隊が在るものの、師団の司令部は善通寺に存在したとか。

初代の師団長が有名な乃木将軍で当時は陸軍中将で赴任されたはず。

特に善通寺市内には旧の陸軍第11師団の施設が多く残されて居る
且つ、現在も使用されているという珍しい状況なんだって。

(善通寺市 偕行社) (2013年10月撮影)






偕行社とは陸軍の将校さん以上しか利用ができない施設でっせ。

この偕行社の車寄せも1922年(大正11年)の陸軍大演習に
皇太子(後の昭和天皇)をお迎えする際に増設されたんだとか。

偕行社の室内の写真も紹介しておきまひょ。

(善通寺市 偕行社の室内) (2013年10月撮影)










(善通寺市 旧陸軍第11師団兵器庫) (2013年10月撮影)




遠くに善通寺の五重塔が見えてまっしゃろ。

大本山の宗教施設と四国有数の軍事拠点が同居する
珍しい街が香川県の善通寺市なのかも知れまへんな。

この赤レンガの兵器庫は現在も使用されているようでっせ。

明治38年~明治44年頃に建てられた施設だとのこと。

(自衛隊 善通寺駐屯地) (2013年10月撮影)


現在も自衛隊の四国4県で中心的な旅団司令部が存在するとか。

写真を撮っていたら衛兵の方が、こちらへ近づいてきましたので
急いで立ち去りました、やはり撮影は禁止の軍事機密でっかな?



新しいPCで思い出の画像を復元しブログに載せることに成功!

どうもバックアップを忘れていた平成28年~令和元年ごろの
画像がSDカードに残っているか現在は確認中なんですけど。

本日はこれにてお仕舞にしまひょ、ほな~ さいなら~♪
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ノートPC 買い換えました

2021-01-16 16:36:03 | 雑記帳
正月早々からPCがダウンして修復が不能に!

メーカーのサポートセンターと携帯でやりとり。

windows が潰れていると、何んじゃこれ!

5年半経っているいるし調子も悪かったしな。

最悪は初期化しか対応できないかも約4~5万円だって。

4~5万円も払って一から出直しはバカバカしいでっしゃろ。

思い切って同レベルのPCに乗り換えとしましたんや。

(dynabook W6BZ35BNBH ノートPC)




新年早々から8万円の臨時出費とは痛かったですね。

でも~ SSD256GB  メモリ8GB 搭載

凄く早くなり液晶も奇麗だし納得することにしまひょ。

気の性か倍ぐらいのスピードで処理ができている感じ。

(我が家の庭の 蝋梅)




(ヒヨドリに 食いちぎられた蝋梅)


黄色い実だと思って喰いつくようでんな。

えぇかげん気が付きそうなのにバカな鳥でっせ。

そんな訳で蝋梅が満開になるのは見れまへんのや。

(我が家の庭の 万両)




万両は葉っぱの下に咲きますのでヒヨドリも気が付かないか?

12月の初めから今日現在まで安泰のようですわ。

(我が庭の 千両)






こちらは葉っぱの上に咲きますんや。

そろそろヒヨドリに喰いちぎられそうな頃かも?

こちらは実が熟すようになるとヒヨドリの餌ですわ。

(我が家の 雪見灯篭)


雪見灯篭の下の岩石は「生駒石」と呼び関西地方では
石垣や置石として昭和の時代には流行ったんでっせ。

最近は産出量も減って使われなくなったようでっけど。

小さい岩石ですが1トンのリフトでは持ち上がりまへん。

おそらく2トン~3トンぐらいあるんかも? 

かんらん岩と呼ぶ鉄やマグネシウムを含む岩石で
研磨しての石材には適さないと言われてまっかな。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~♪



 
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鉄ちゃん爺やの初詣  誉田八幡宮

2021-01-01 19:03:52 | 神社
新年明けましておめでとうございます。

元日は一人で地元の誉田八幡宮へ初詣に出かけました。

例年は孫たちの学業の上達を願って道明寺天満宮なんですが
我が家に同居中の孫は大学の3年でもうお願いでもないよね。

岡崎の孫は今年は帰ってないので、私がお願いしても変だし。

今年は家内安全と無病息災で誉田八幡宮さんにしましたんや。

誉田(こんだ)とお読みします、ご祭神の応神天皇さまは
誉田別尊(ほんだわけのみこと)と、お名前をお呼びします。

昔からこの辺りは河内の国で「こんだ」と呼んでいたんだとか。

他に母親の神功皇后さまと父親の仲哀天皇さまに
合わせて住吉の大神をご祭神にしている神社なんですよ。

(誉田八幡宮の 干支の絵馬)


(誉田八幡宮の参道から 拝殿を撮影)


(誉田八幡宮の 拝殿)


新型コロナの影響でっしゃろな、初詣の人は少なめですわ。

拝殿の入り口に賽銭箱が置かれ、中には入れずに参拝でした。

3密を避けて、建屋の中には入らないように配慮でっしゃろな。

(誉田八幡宮の ご朱印)




ご朱印も書置きで朱印帳には書いて貰えまへん。

ようこそ~ お参り! と用意したご朱印を一枚手渡しでんな。

こんな所にも、新型コロナの影響が出てますんや。

(誉田八幡宮の神殿前 右近の橘)


(同じく 左近の桜)


冬でっから桜は葉っぱが無く枝だけの寂しい感じ。

橘は我が街の木で、この神社の橘から採用したとのこと。

御所の紫宸殿前庭に準ずる左近の桜と右近の橘が配されてますんや。

(応神天皇陵への参道)


(応神天皇陵への 放生橋)




毎年9月14日の例大祭には国宝の神輿がこの橋を渡り奥の
応神天皇陵に立ち入るのが神事の一つに成ってますんや。

因みに応神天皇陵は世界文化遺産に認定されましたんでっせ。

(国宝の 神輿) (誉田八幡宮の冊子から)


源頼朝公が奉納したとの伝えで鎌倉時代の豪華なお神輿ですよ。

源頼朝公の5代前の源頼義が京都の石清水八幡宮から勧請し
源氏の氏神様として応仁天皇陵の側にお祀りしたの最初だとか。

八幡さまは源氏の信仰が篤いので奉納も当然のように思いまぁ。

実物は10年ぐらい前に一度だけ拝殿内に置かれてるのを拝見。

その日が確か例大祭の9月14日だったと記憶してまんねん。

(応神天皇陵の 拝所)


ここ誉田八幡宮も世界文化遺産に認定されても良いような
建物と文化財を所有してるんですが認定には至りまへんでした。

拝殿は豊臣秀頼が片桐且元に命じたが建築中に大坂夏の陣が
天井などが未完成のまま珍しい形態で完成したとのこと。

(誉田八幡宮の 南門)


江戸時代まで長野山護国寺が神宮寺とされていた名残で
明治初めの廃仏毀釈からこの山門だけが残ったとの説。

今では神社に似合わない山門が建っている、という事になりまぁ。

(鉄ちゃん爺やの 令和3年度の 年賀状)


(鉄ちゃん爺や 今年のお節料理)


下の二つが奥城崎シーサイドホテル特製のおせちでおます。

上の二つがスーパーで買ってきたおせち料理ですな。

今年は息子夫婦や孫たちが帰阪しないので少なめのおせち料理でおます。

本年も宜しくお願い致します。

それじゃ~ これで、さいなら~♪








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