鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

令和元年11月11日   数字の1が5つ並びました。

2019-11-11 20:39:11 | 神社
数字の1が5つ並ぶのは、次回は令和11年1月11日ですよ。

約10年も先の話だから鉄ちゃん爺やは生きてないかも?

もし生きていたとしても、寝込んでいる状態ですかな。

数字の1が5つ並ぶ、ご朱印を貰いにでかけましたんや。

(伴林氏神社=とものはやしのうじのじんじゃ)


(伴林氏神社の ご朱印)


この神社は隣町の藤井寺市に在るんですが、鉄ちゃん爺やが
ネットで調べて知ったのは先月の下旬のことでした。

(伴林氏神社=とものはやしのうじのじんじゃ) (本殿)




高校時代の同級生の依頼で歴史に詳しい「くろちゃん」に
インターネットで検索して欲しいと言われましたんや。

その結果が、この神社を知ることになったんですわ。

(伴林氏神社の社標の前で 同級生のN君)


この社標は1942年(昭和17年)に彼の曾祖父が設立した
「更池銀行=さらいけぎんこう」が解散するに当り
奉納した物で、初代の頭取が曾祖父だったようですわ。

国策で三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)に合併を命じられ
清算した残金で、武運長久を願い奉納したようでんな。

明治29年から昭和17年まで存続した銀行でっせ。

奉納した時点ではN君の一族が監査役をしていたようですわ。

実は地元なのに鉄ちゃん爺やが知らない神社だったのは
下のような事情があったようでんな。

(伴林氏神社の手水舎)(現在は使用禁止)




(靖国神社から寄贈されたとの立て札)


当時は日中戦争(支那事変)が激しくなり、この神社が古代の
豪族である大伴氏の先祖である「道臣命=みちのおみのみこと」を
お祀りした唯一の神社で、少し大げさであるが「西の靖国神社」と
呼ばれて、出征兵士の家族がお参りした神社だったそうですわ。

「道臣命=みちのおみのみこと」は神話の話になりまっけど
神武天皇の東征に先鋒を務めた神様として登場しまっせ。

戦前は「府社」として南河内ではここと、我が街の「誉田八幡宮」
千早赤阪村の「建水分神社」の三社しか無かったんだって。

「大阪天満宮」や「豊国神社」と同格の立派な神社だったんですわ。

戦後は一転して軍国主義の否定から「村社」に格下げされたとか。

「村社」には勿体ないほどの大きな敷地でおます。

確かにN君を案内した日も、今日11月11日も参拝者はゼロ!

(大伴家持を 模ったパネル)




(伴林氏神社の拝殿)


令和の元号にまつわる大宰府の長官「大伴旅人」さんの息子で
越中の国守なども務め、奈良時代から平安時代初期の貴族として有名。

(伴林氏神社の由緒書き)






この神社も「式内社」として記録が残るので平安時代の9世紀から
ここに鎮座していたようですが、大伴氏の本拠地ではないはず。

(大伴氏の 系図)


この辺りは藤井寺市林という地名ですが直ぐ東側は河内の国の
国府跡が残っている、古くから開けた場所のようでんな。

(藤井寺市林3丁目 住居表示)


最寄りの駅は近鉄南大阪線の土師ノ里駅になりまっせ。

昔の埴輪を造った一族が「土師氏」だったそうで平安時代に
一族から菅原道真公などの菅原家が分家したとのこと。

名前は「土師ノ里」として残っていますが土師氏の痕跡は
現在は道明寺天満宮の境内に石碑と墓石が残るのみ?

(近鉄南大阪線・土師ノ里駅)


何度か紹介した道明寺天満宮や道明寺尼寺なども
歩いて15分~20分と歴史の宝庫となってますんや。

古市古墳群のスタート地点の駅とも成ったようですわ。


最後に我が街の「誉田八幡宮」のご朱印も貼り付けておきまひょ。

(誉田八幡宮の ご朱印)


(国宝 源頼朝公寄進のお神輿)(誉田八幡宮 保管)


今日はこれでお仕舞にしまひょ、これで、さいなら~♪
コメント (13)
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