鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

黎明期のコンピューター 今から考えたら玩具並みかも!

2021-03-21 15:15:40 | コンピューター
今回は鉄ちゃん爺やが1967年(昭和42年)に初めてシステム設計と
プログラミングを担当した頃のコンピューターの昔話でおます。

当時は電子計算機と呼びコンピューターとは言わなかったように記憶。

「日本初の ICを使用した 超小型電子計算機」

このキャッチフレーズに鉄ちゃん爺やの上司である重役が飛びついた。

1968年(昭和43年)春の導入に、鉄ちゃん爺やを室長に任命!

(NEACー1240 超小型電子計算機) (日本電気製)


当時の事務職で簿記2級を保持し営業倉庫の在庫管理を経験する社員で
鉄ちゃん爺やが最適と言うことらしく、白羽の矢が立ったようでんな。

簿記の知識がないと経理のプログラムが作れないとの理由だったかも。

当時、我が社は手書き伝票を廃止し「かなタイプ」を導入済みで
大阪市内では商社の伊藤忠商事さんぐらいだったと思いまんねん。

だから電子計算機のオペレーターには大半の事務職が参加可能であった。

鉄ちゃん爺やも「かなタイプ操作」なら手書きよりも早かったはず。

当時は富士通さんIBMさん三菱さんや東芝さんはトランジスター方式
日本電気さんだけがIC(集積回路)の電子計算機を発表でした。

数年後に全てのメーカーさんもLSI(大型)に切り替えましたけどね。

(NEAC-1240 中央処理装置)


メモリはワードマシンで1600ワード、演算スピードは加減算では
210マイクロセカンド 乗除算では百分の1秒~千分の1秒ぐらい。

アクセスのスピードは5~6マイクロセカンドの高速度だったはず。

プログラムはBASICが有りましたがこれは実践には使用が不可能。

アッセンブラと呼ぶ機械語に近い言語でソースプログラムを作成でした。

レンタル料が1か月で約30万円ぐらいだったと記憶しまぁ。

鉄ちゃん爺やの月給が当時は税込み約9万円ぐらいだったかな?

このNEAC-1240は最終的には1430セット販売されたそうで
大学や地方自治体に多く納入されたようで、民間の我が社のような
中小企業では、そんなに多く使われなかった感じもしまんねん。

(NEAC-1240 高速紙テープ読み取り装置)


毎秒300文字を読み取るスピードで処理出来ますが、プログラムの性能に
左右されますので当初はスピードは半減でした、鉄ちゃん爺やの能力向上で
半年後にほぼ、最大のスピードを維持できたはずと考えてますんや。

この高速紙テープ読み取り装置を2台設置し1台はマスターを読み取り
もう1台からはデーターを読み取るようにプログラムで設定しました。

(NEAC-1240 高速紙テープ穿孔装置)


毎秒110文字を穿孔して紙テープを吐き出して行きまんねん。

「紙くず製造機」などと汚名を付けられることもおましたな。

8単位の紙テープは消耗品で1巻が70~80円で20巻ぐらい
毎日の消費量で、バックアップ以外は紙くずに成ってましたで。

紙テープは得意先の製紙メーカーさんから格安で提供されました。

まだ8単位の紙テープは珍しい時代で、6単位のテレタイプ用は
出回ってましたが、電子計算機用として期待をされたのかも?

(NEAC-1240 当時のオペレーター A嬢さん)


彼女の足元に紙テープが山の様に吐き出されてまっしゃろ。

山の様な紙テープでしたが巻き取っても余りもつれまへん。

今と違って紙テープのパンチ穴を見て数字なら100%
文字も70%ぐらい解読出来て、エラーが出ると読み取りまぁ。

これはプログラマーが他の人には教えない特技でもありました。

彼女は20歳前後の独身だったっけど、健在なら良いお婆ちゃんかも?

(当時の計算機室の部下と撮影) (1970年=昭和45年頃)


大阪で万国博が開催されている頃の写真でんな、立っているのが
まだ30歳になる数年前の若々しい頃の鉄ちゃん爺やの姿でっせ。

手前の男性が後任に引継ぎをしたK君で、まだこの頃はプログラムの
勉強中でしたかな、彼も健在なら70歳を超えた高齢者でっしゃろな。

面白い逸話を、彼が初めて作ったプログラムで私のコメントです。

このプログラムで動かしたらコンピューターが止まらないよ!

当時はコンピューターを停止するにもプログラムの言語が必要でしたんや。

種明かし! STARTの次に終了か次へ進むかの判定言語が入りまんねん。

画像は有りませんが磁気ドラムが付いていて大量のデーターや
マスターはこれに格納する仕組みになってましたんや。
 
速度が落ちるのでプログラムで「2の冪乗」を使ってましたかな。

2.4.8.16.32. 64.128.256.512.1024

2048.4096.8192.16384.32768.

1万件のデーターもソートで並べ替えながら磁気ドラムに格納し
このプログラムでマスターとマッチングさせる方法を取りました。

14回以内でマッチングできるという鉄ちゃん爺やの自慢のプログラム。

ランダムアクセスTKー47  TKは鉄ちゃん爺やのイニシャル。

1件が450マイクロセカンドぐらいのスピードで処理できたはず。

蛇足ながら1マイクロセカンドとは百万分の一秒を意味しますんや。

KEYだけを中央メモリでソートしながら磁気ドラムに格納しまんねんで。

常に半分の位置から右か左かの判定を繰り返しながら検索する手法ですわ。

今じゃPCは項目を1回クリックしたら並べ替え完了でんがな、
当時は難しいプログラムが幾つも必要でしたんや。

(鉄ちゃん爺やの そろばん二つ)


上段のは鉄ちゃん爺やが検定試験で使用した27桁のそろばんでっせ。

下段が鉄ちゃん爺やと関東まで、お供をした23桁のそろばんでおます。

1.2.3.4.~ 9 数字を置いているのが分かりまっしゃろか?

NEACー1240の電子計算機でも、「そろばん」じゃ勝てませんよね。

でも1950年代の真空管の電子計算機なら加減算はそろばんが勝ったとか。

珠算1級の同級生と先輩が、とある大学で電算機と競技をしたそうです。

鉄ちゃん爺やも現役時代には加減算なら「そろばん」を使いましたよ。

手がもつれない限り、加減算なら正しくはじき出せますからね。

鉄ちゃん爺やは電卓で加減算を入力するのが苦手だったかも?

(シャープE EL-337 電卓) (確か1973年製?)


シャープさんとカシオさんが電卓戦争をしていた頃の製品でっせ。

これ鉄ちゃん爺やのお供をして関東まで出かけた当時の電卓でおます。

現在も正しく動いてくれますよ、さすがに乗除算では鉄ちゃん爺やも
このシャープの電卓にお世話に成ったもんですわ。

(オフイスプロセッサーを操作中) (1992年=平成4年撮影)


眼鏡を掛けて操作をしているのが鉄ちゃん爺やでっせ。

確かこれは日立のL50だったかL70だったと記憶しまんねん。

MS-DOSという現在のエクセルに近いソフトが作れたはず。

この数年後にWindows95が発表されて世の中がPCの時代へ。

オフイスプロセッサーという名前も現在は死語になったかも。

右側のよく似た機器は日立さんのオンラインの端末でんな。

全国の日立グループにこれが数千台ぐらい設置されていたはず。

これで入力しないと関西の販売子会社は売り上げが計上できまへん。

架空売り上げが出来ないように物流会社と連携されてますんや。

逆に工場の製品も私たちが入力しない限り在庫品にはなりまへん。

工場と販売の会社で不正を防止するために物流会社が機能ですわ。

(鉄ちゃん爺やが 今年購入のPC)


それにしても、昔と違って今のPCは便利に出来てまんな。

当時のコンピューターは誰かがアプリケーションを作らない限り
動かない箱にすぎませんよ。

笑い話で、素敵なプログラムが出来たとコンパイルしたけど
大きすぎてデーターやマスターが格納できないなんてことも。

当時は如何にコンパクトでスピードUPが出来るのかさえ
プログラマーの能力にかかっていた時代でしたんや。

今は使いませんがオフイスコンピューター(略してオフコン)とか
呼ばれた時代で、これでも凄く事務の省力化が出来たもんですよ。

プログラマーはソフトが完成したら事務員さんのボタン操作だけで
動く訳で、お役御免のような存在、鉄ちゃん爺やも33歳で引退でした。

引退した時はIBMシステム36だったかな?  ディスクはまだ無く
ディスケットと呼ぶ、現在のディスクになる前の珍しい機器だったはず。


長くなりましたので今日は これで、さいなら~♪










 













 






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今では懐かしい 鉄道の風景!

2021-03-08 19:47:38 | 鉄道
昔のファイルから今では懐かしい画像を紹介しまひょ。

(JR原宿駅舎) (2012年1月撮影)


(JR原宿駅舎) (2017年4月撮影)


JR原宿・旧駅舎は確か解体工事が始まったと聞いてまんねん。

東京都内で一番古い木造の駅舎として2020年3月まで
使用されてましたが、現在は南側に新しい駅舎が出来ているとか。

1924年(大正13年)近くに出来た明治神宮への
参拝客の為に新しく開業した当時は国鉄・山手線の駅舎。

三角屋根に風見鶏を乗せた趣のある駅舎だなと感じての撮影。

一部を再築して新しいJR原宿駅舎のそばに復元予定とのこと。

1945年4月でした米軍の空襲に焼夷弾が直撃したようでっけど
全てが不発弾だった為に、奇跡的に焼失を免れたとの話も。

都民の方には明治神宮への初詣や近くの表参道への最寄り駅として
お馴染みの駅舎でしたが、現在は観れなくなったようでんな。

(185系 特急電車 JR東日本) (2000年10月撮影)


首都圏で走る国鉄時代からの車両が次々と引退が続いてまんねんで。

この185系特急電車も今週の3月12日東京駅~伊豆下田駅間の
「踊り子号」が最終で、定期の運行から外れることになったんだって。

撮り鉄さんが今週は東京駅や沿線に押しかけそうなので心配をしてまぁ。

画像は鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR上野駅でたまたま撮影した物。

「特急・谷川」が廃止になり「特急・水上」として再スタートでした。

上越新幹線に「たにがわ」の名前が付けられての変更でしたかな。

この「特急・水上」も2010年には一足早く引退してまっけど。

年内は臨時便などで運行があるようですが引退は近いように思いまぁ。

185系の引退で首都圏で国鉄時代の特急列車は全て無くなるとのこと。

関西でも有名な駅舎が高架工事の為に使用を停止しました。

(南海電鉄 浜寺公園駅舎) (2007年10月撮影)








東京駅を設計した辰野金吾さんが初めて手掛けた鉄道の駅舎なんだって。

1907年(明治40年)に完成し、日本の私鉄では一番古い木造の駅舎で
国の登録有形文化財に指定されてますんで、保存することに成りましたんや。

国鉄の東京駅が完成したのが1914年(大正3年)でっさかいに
辰野金吾さんの設計した駅舎としては7年も古い建物と言うことになりまぁ。

2016年(平成28年)1月に高架工事の為に使用を停止し、2017年に
「曳家=ひきや」と言う工法で解体せずに30mほど西側に移動させました。

2018年(平成30年)駅カフェ及びギャラリーとしてオープンしたとか。

高架工事が終わる2028年には駅のエントランスとして利用されるんだって。

画像は全て南海電鉄の駅舎として使用していた頃の写真でおます。

JRの一番古い駅舎などは今年1月24日に拙者のブログに載せました
「JR亀崎駅舎 & JR善通寺駅舎」の方を参考にしてくださいね。

一部のマニアから滋賀県の近江鉄道にもっと古い明治時代の現役の駅舎が
存在するとの情報もあるようですが未確認なんでご容赦のほど。

(JR新潟駅 万代口駅舎) (昭和58年前後か?)


1958年(昭和33年)に完成した国鉄時代の新潟駅舎です。

2020年(令和2年)11月から解体が始まったんだって。

国鉄時代には各地で観られる駅舎のスタイルでしたかな。

新潟市内には三度ばかりお邪魔していますが画像はこれだけかも。

鉄ちゃん爺やはまだ40歳代で、息子と二人「青春18きっぷ」で
各地を訪ねていた頃の、フイルムカメラの画像ですよ。

(横浜港の近くで 息子とのツーショット) (昭和58年前後か?)


現在は赤レンガ倉庫で賑わっている当時は貨物駅だったような記憶!

鉄ちゃん爺やの頭は、まだ黒髪がふさふさしてるのが分かりまっか?

ウエスト73cmのズボンを着用してまんねん、スマートでっしゃろ?

身長が161cmぐらいで体重はこの頃50㎏を切っていたはず。

この当時は良く、生え際が奇麗ですねと、言われたもんですけど。

現在は52歳になった息子もまだ中学生の丸坊主で真面目な少年ですわ。

(数年前の内の奥さんと 息子のツーショット)


息子も随分と中年太りでスタイルが悪くなりましたけど。

鉄ちゃん爺やの方がスタイルがもっと悪いって~ かもしれまへん。

(客車の窓から 顔出して撮影) (昭和60年前後か?)


「松任工 56-8」の文字が右端に写ってますので、国鉄時代の
北陸本線で富山県か石川県で、何処かの駅で停車中のようでんな。

金沢のお隣で松任(まつとう)の工場で1956年に検査済みの表示。

(長野県で国鉄時代の 梓橋の駅名標と息子を撮影)


松本市内で一泊するには時間が早いので大糸線で少しだけ足を延ばし
撮影をしたように記憶しまぁ、ここから折り返して松本駅へ
「青春18きっぷ」は何度でも普通電車なら乗り降り自由でっせ。

(国鉄の飛騨一ノ宮駅で 撮影)  (昭和60年前後か?) 


高山駅の手前で特急と対向車待ち30分とは、のんびりした時代でしたな。

駅前で蕎麦を食べて駅に戻ってもまだ停車中でおます、笑い話のようでっしゃろ。

当時は普通列車の旅なら、こんな時間待ちは当たり前の時代でしたんや。

(国鉄時代の 赤羽駅のホームにて) (昭和58年前後か?)


鉄ちゃん爺やが単身赴任中にJR赤羽駅は高架になり新しい駅に
成りましたが、当時は東京都内と思えない寂しげな構内でしたよ。

当時は国鉄・赤羽線(現在の埼京線)の終着駅として二人で
交互に撮影して「チャレンジ2万キロ」の事務局に提出した物。

国鉄時代に息子と二人で国鉄の路線を60線区ほど走破したはず。

息子が大学受験の為に昭和61年でお仕舞に成りましたけど。

その後も鉄ちゃん爺やはローカル線を乗り続けて現在は74線区?

(国鉄時代の 山陽本線・西広島駅で撮影したはず)(昭和60年前後か?)


115系の湘南カラーと呼ばれた緑と黄色のツートンカラーは当時では
国鉄の標準的な配色で、現在は「国鉄色」とも呼ばれていますかな。

最近では湘南カラーに戻し静態保存されている車両もよく見かけまっせ。

115系の電車も首都圏では全て引退したように思いまんねん。

(115系 湘南カラーの電車 横川駅にて) (2009年4月撮影)


長野新幹線が開通してJR信越本線はここでストップになりましたね。

昔は碓氷峠を超える国鉄の難所でしたが今は閑散とした駅になりました。

鉄ちゃん爺やが、ここから乗車した際には乗客はたったの5人のみ。

現在は横川駅から軽井沢駅前まで路線バスが運行されているのみ。

(信越本線・横川駅舎) (2009年4月撮影)


(峠の釜めし 横川駅前の本店) (2009年4月撮影)


横川駅や軽井沢駅では電気機関車の切り替えの時間を利用して
この「峠の釜めし」を買い陶器の釜を待ち帰った方も多かったはず。

現在は駅弁からレストランで「峠の釜めし」を食べることが多くなり
信越本線の名物の駅弁も懐かしい想い出となったように思いまぁ。

ほな~ 今日はこれぐらいにして、さいなら~♪
コメント (14)
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