鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

石川の玉手橋 &  道明寺合戦 

2018-03-25 20:01:43 | 大阪
道明寺の東側には一級河川の石川が流れ
約2kmほど下流で奈良盆地から流れてきた
大和川に合流して現在は西へ流れてますんや。

ここ藤井寺市道明寺と対岸の柏原市を結ぶ
玉手橋は戦前から架かる吊り橋なんですわ。

鉄ちゃん爺やが小学校5年生に遠足で対岸の
玉手山遊園地に行くため渡った記憶がおます。

外観は当時とほとんど変わりがない様でっせ。

(登録有形文化財 玉手橋=たまてばし)


(登録有形文化財 玉手橋 道明寺側)


(登録有形文化財を示す 玉手橋の銘板)


1928年(昭和3年)に当時の大阪鉄道が
対岸にある玉手山遊園地と道明寺駅を結ぶ
連絡の橋として造られて現在に至るんだって。

現在は自転車と歩行者のみが通行可能ですわ。

(登録文化財 玉手橋の遠景)


(登録文化財 玉手橋の 中央支柱)


(登録文化財 玉手橋 中間地点)


2001年(平成13年)日本の吊り橋としては
初めて登録有形文化財に認定されたんだって。

地元でもあまり知られて居ないかもしれまへんな。

(近畿日本鉄道・南大阪線 道明寺駅を望む)


(6000系 近畿日本鉄道 通勤型車両)


この道明寺駅の側に最近になって顕彰碑が完成。

この石碑の文字は道明寺の山主 六條照瑞さま。

(大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑)


(漢文で彫られた 説明書き)


(現代文に翻訳された 碑文)


大坂夏の陣400年を記念して平成26年11月に
古戦場の跡である道明寺駅前に設置されたんですわ。

大坂夏の陣は1615年(慶長20年)旧暦5月でした。

それではもう一度、石川へ戻りまひょ。

(一級河川 石川の流れ)






石川の向こう側は小高い山になってますんや。

現在は玉手山と呼んでますが平成になって
遊園地は閉鎖されて訪れる人もまばらでしょうな。

大坂夏の陣の頃は「小松山」と呼んでいたとのこと。

(古戦場の小松山を 対岸から撮影)


豊臣方の後藤又兵衛基次は5月6日未明に小松山に
陣を張り、下を通り奈良街道を進んでくる徳川方の
大和路部隊(約3万5千)を迎え撃とうと考えたとか。

本来は真田右衛門佐信繁や毛利豊前守勝永の三軍で
小松山周辺を押さえる予定であったが霧に悩まされ
真田軍や毛利軍が遅延したために単独で前進したとも。

後藤又兵衛基次ら約2800名は小松山の高さを利用し
奮戦し徳川方の奥田忠次などを打ち取ったものの
徳川方の大群に囲まれて石川にお押し返されたらしい。

負傷した後藤又兵衛基次は部下に命じて自刃して首を
深田に埋めさせたと伝えられてますんや。

(古戦場 小松山をズームアップ)


小松山を攻め落とした徳川軍は石川を渡って道明寺村へ。

ここでも豊臣方の薄田隼人を戦死させて「誉田の森」を
通過して大坂の平野郷へ向かおうとしたようですわ。

「誉田の森」=こんだのもりと呼ばれたそうですわ。

(誉田の森を 石川の堤防から望む)


当時は「誉田の森」と記されてますが実際は応神天皇陵。

この応神天皇陵は面積では堺市にある仁徳天皇陵に次ぐ
世界第二位の規模になる巨大な古墳なんですよ。

しかも体積では仁徳天皇量陵を上回り世界最大なんですわ。

(応神天皇陵 正面から撮影)


(宮内庁 古市陵墓監区 事務所) 


この辺りには大小合わせて120基ぐらいの古墳があり
その内で大きな約30基が宮内庁の管理陵墓になってまぁ。

百舌鳥古墳群と並び古市古墳群は今年から国の暫定ながら
世界文化遺産に登録を目指すようになったようですわ。

この「誉田の森」を挟んで北側に豊臣方の毛利勝永軍と
南側に真田信繁(幸村)軍がやつと到着したそうです。

合わせて約1万近い豊臣軍が加わったことになりまぁ。

体制を整えた真田信繁(幸村)軍は「誉田の森」の
微高地を利用して、伊達政宗軍の先鋒を務める
片倉小十郎部隊に発砲して大損害を与えたそうです。

この為に大坂城へ一気に攻め込むとの作戦が頓挫し
大和路部隊約3万5千は前進を中止したとのこと。

(誉田八幡宮 拝殿)




(誉田八幡宮 拝殿の説明書き)


この拝殿は豊臣秀頼の命で片桐且元が再建中に
大坂夏の陣が起こって中止になったと記されてまんな。

後に徳川家光公により再建が完成したそうですわ。

(国宝 誉田八幡宮のお神輿)


源頼朝が寄進したと記されている国宝のお神輿です。

頼朝公のご先祖はこの辺りに住んでいた石川源氏の本流
源頼信・源頼義・源義家の親子三代ゆかりの地でっせ。

(誉田八幡宮 放生橋)


(誉田八幡宮 放生橋 説明書き)


毎年9月15日の大祭にのみ、お神輿は氏子に担がれて
放生橋を渡って応神天皇陵に鎮座することになってまぁ。

普段は放生橋を渡って応神天皇陵に入る事は
何人も固く禁じられているんですよ。

このお神輿を拝殿で見物できるのも毎年9月15日の
1日のみで、普段は宝物館に納められてますんや。

(真田軍 六文銭の幟)


真田信繁(幸村)は伊達軍を撃退し石川まで押し戻したが
同じ時刻に八尾・若江方面で豊臣方が敗退した為に
大坂城へ撤退することになったんだそうですわ。

しんがりを真田信繁(幸村)が務めて撤退したが
徳川軍は大きな被害と早朝からの疲れで追撃できず
真田軍と毛利軍は悠々と引き揚げていったんだって。

翌5月7日が有名な大坂夏の陣最後の戦いでっせ。

(本多忠朝の墓)


(本多忠朝の 墓の説明書き)


徳川軍の最前線にいた本多忠朝は真田軍と毛利軍の
攻撃を受けて乱戦の中で戦死した方で
有名な本多忠勝さんの次男坊になりますんや。

(茶臼山古墳にて 自撮り)


(真田信繁=幸村 本陣跡の茶臼山古墳の碑)




(大坂夏の陣 最後の決戦図)


真田信繁(幸村)と毛利勝永の二手に分かれて豊臣軍は
徳川家康公の本陣に突入したと言われる戦いでっせ。

徳川家康公の本陣の旗が三度まで倒されたとの伝説で
家康公は死を覚悟したとの話が残ってますよね。

でも豊臣方の奮戦もこれまで、真田信繁(幸村)は
茶臼山の北側になる神社の境内で戦死。

豊臣方は大坂城へ撤収するも夜半には落城してまぁ。

日付けが変わり1615年(慶長20年)5月8日
未明に豊臣秀頼と生母の淀殿が自刃して滅亡でおます。

(大坂夏の陣 400年の幟)


本日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は大阪の桜が見頃になると思いまんので
何処かへ出かけてきまひょかな。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵








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土師の里から 道明寺の尼寺へ

2018-03-17 21:45:42 | 大阪
今回は土師の里から道明寺の尼寺を紹介しまひょ。

まずは道明寺天満宮と道明寺尼寺を縦断する街道から。

(東高野街道=ひがしこうやかいどう 道標)


(現在の 東高野街道=ひがしこうやかいどう)


(東高野街道=ひがしこうやかいどう)


東高野街道(ひがしこうやかいどう)は大阪府の東部を
生駒山の山麓を南下して河内長野市で西高野街道と合流し
高野街道と名前を変えて高野山に至る古い街道なんですわ。

真言宗の高野山へ向かう信仰の街道として平安時代に完成か?

中世から大坂夏の陣まで兵乱を見つめて来た街道でもおます。

中世には現在の東大阪市付近は大湿地帯で人馬が通れるのは
ここ東高野街道と上町台地を南下して現在の堺市から始まる
西高野街道のみが重要な軍用道路だったと言えますんや。

(土師連八嶋 お社) (道明寺天満宮の敷地内)




土師連八嶋(はじのむらじやしま)とお読みしまっせ。

この土師連八嶋は桓武天皇の時代に菅原氏に名前を
変える際に、土師氏(はじし)の元祖とされたようですわ。

菅原道真公が天神さまとして崇敬されるに付き、祖先として
道明寺天満宮の敷地内に祀られるようになったようでんな。

(道明寺天満宮 拝殿)


現在の道明寺天満宮には土師氏(はじし)の先祖である

天穂日命(アマノホヒノミコト) (天照大神の次男)

菅原道真公 (従二位 右大臣) (菅原家4代目当主)

覚寿尼   (菅原道真公の叔母さま)

このお三方を祭神として、お祀りしているそうですわ。

現在の道明寺天満宮はこの地を本貫にしていた土師氏の
氏寺として西暦7世紀には創建されていたようでんな。

当然ながら菅原道真公の時代にはお寺でしたんや。

文献には定かではおまへんが「土師寺」としておきまひょ。

先ほど名前を掲げた土師連八嶋は土師氏の本宗家とは違い
現在の藤井寺市道明寺付近で古墳や埴輪を造る一族として
古くから大和朝廷に従属していた渡来系の人々だったかも。

(土師窯の碑)




土師氏の偉業を伝える為に建てられた石碑ですかな。

周囲2km以内には古市古墳群と呼ばれる巨大な古墳が
現在でも40基以上が現存しているんでっせ。

小さいものを含めると140基を超えるといわれ、現在は
百舌鳥古墳群と合わせて世界遺産に登録を目指してますんや。

(復元された 修羅=しゅら) (道明寺天満宮境内にて)




 

昭和53年4月に住宅の造成中に「三ツ塚古墳」の土中から
大型8.8m と小型2.9m 二つの「修羅」が出土し
当時は古代史最大の発見と大きな評判を呼びましたんや。

実際に重量物が運べるのかと意見が分れ、本物とそっくりの
「修羅」を復元して近くの石川河川敷で実験をと成りました。

(修羅の運搬実験が 行われた 石川の河川敷)


本物は「かわち飛鳥博物館に」保存されてますが、この復元した
「修羅」は土師氏のルーツにつながると道明寺天満宮に寄贈し
現在も常時に一般の展示公開がされてますんですわ。

(道明寺天満宮 & 道明寺の尼寺 案内図)


画像の中央に青色で左上から右下へ描かれてるのが紹介した
「東高野街道」で中央に大きく描かれてるのが道明寺天満宮
下の方にに小さく描かれているのが道明寺の尼寺でおます。

(真言宗 蓮土山 道明寺)


(道明寺 説明書き)


江戸時代には現在の道明寺天満宮の敷地内に有りましたが
明治の神仏分離令により、この地に移動さされたそうですわ。

中世には道明寺天満宮の参道に七堂伽藍を含む大きな寺院で
現在も大きな基礎石が天満宮の門前に残ってますんや。

織田信長の高屋城攻めの兵乱で天満宮と道明寺は焼失し
江戸時代になってから再建されたと記されてるようですわ。

(道明寺 山門)


この道明寺には菅原道真公の叔母である「覚寿尼」が居られ
九州の太宰府に下る際に、一夜の別れを告げるために
立ち寄られたと文献にも記されてますかな。

(道明寺の尼寺 説明書き)


中央やや左手に、菅原道真公の和歌が書かれてまっしゃろ。

  「啼けばこそ 別れもうけれ 鶏の音の
     
     鳴からむ里の 暁かな  菅原道真公 作」

この和歌を叔母に捧げて別れを惜しまれたそうですわ。

若い頃から何度も道明寺には参詣されていた菅原道真公は
西暦880年に十一面観音菩薩立像を彫られたそうですわ

この年に父親である菅原是善が病死されているので
父親の病気回復を願って彫られたとも考えられまんな。

現在は道明寺の本尊として国宝に指定されてまっせ。

その十一面観音菩薩立像を貼り付けて置きまひょ。

(道明寺ご本尊 十一面観音菩薩立像) (国宝に指定)




この画像は5~6年前に毎月25日にご開帳される際に
訪れた際に、偶然にも撮影したものなんですけど。

私も、ご対面したのはこの一度だけなんですよ。

(道明寺の尼寺 本堂)


(ご開帳は 毎月18日・25日)


(本堂を斜め横から撮影)


境内は左程に大きくはないが綺麗に掃除がされてます。

尼寺の清楚さが、いつも感じられるお寺ですかな。

(大師堂と 手前は護摩堂) 


(ご住職の邸宅)


(ご住職の 邸宅前に 枝垂れ梅)


ここの枝垂れ梅も見事に満開を迎えてましたよ。

まだ、ご住職の尼さんにお目にかかったことはおまへん。

(ご住職の 表札)


(本堂前の樹木)




サンシュの花かしら? 私には名前が分からないんだけど。

もし間違っていたらご免なさいね。

(藤井寺市 マンホールの蓋)


鉄ちゃん爺やの独断と偏見でおます!

「土師氏」は古墳である墓や埴輪を司る一族でしたが
桓武天皇の時代に一族が「菅原氏」「秋篠氏」「大枝氏」
この三つに名前を変えているんですわ。

(近鉄南大阪線 土師の里駅舎)


桓武天皇のご生母は「高野新笠=たかののにいがさ」で
その母方の実家は「土師氏」とされていますんや。

墓や埴輪を職業とする一族では世間体も悪いのか
改名したんだと考えるのが正しいように思いまんねん。

菅原氏も菅原道真公の祖父と父親は共に従三位参議と
それまでの中流貴族から立身出世を遂げてますのでね。

やはり天皇家に繋がる血族が重視されたんでしょうな。

(道明寺天満宮の 盆梅展)




普通は盆梅は2月末で終わるんですが今年は寒かったので
訪れた3月4日まで延長して見ることが出来ましたんや。

いずれも丹精を込めて育てておられる盆梅ですね。

(道明寺天満宮の 盆梅展)






最後に菅原道真公の別名に「道明」という号がおます。

その名前を拝借して「道明寺の尼寺」「道明寺天満宮」に。

道明寺の地名や寺社のルーツはこんな感じのようですわ。

(藤井寺市 道明寺の住所表示)


全国に140以上ある天満宮で菅原道真公の遺品が
残ってるのは、ここ道明寺天満宮だけなんだそうですよ。

九州の太宰府で亡くなられる際に自分の遺品は全て叔母の
「土師寺」に居られる「覚寿尼」へと遺言されたとか。

現在は国宝6点を含む遺品が多数残されていますんや。

長くなりますんで今日はこれにてお仕舞にしまひょ。

次回は道明寺合戦と誉田の森を紹介させてもらいまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵



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道明寺天満宮に  梅園を訪ねて

2018-03-08 20:05:44 | 神社
我が家から北へ約2kmぐらいでっかな。

道明寺天満宮の梅園が見頃を迎えたとのこと。

コンデジ提げて散歩をすることにしましたんや。

(道明寺天満宮の 絵馬)


(道明寺天満宮 神門)


江戸時代には道明寺と言うお寺の方が有名だったはず。

廃仏毀釈でお寺の方は近くへ移転さされたんですわ。

お寺の山門が現在は天満宮の神門に成ったようでんな。

(道明寺天満宮 神門を境内の参道から撮影)


(道明寺天満宮の 連注縄)


(道明寺天満宮  青銅製の燈籠)


燈籠の後ろに見えるのは天祥殿と呼ばれる結婚式場。

鉄ちゃん爺やが51年前に結婚披露宴をした会場でっせ。

当時は木造でしたが鉄筋コンクリートの建物に変わりました。

(道明寺天満宮 天祥殿の正門)


この正門だけは51年前と変わってまへんわ。

この門も江戸時代には、お寺の山門だったのかも?

(道明寺天満宮の 大鳥居)


(大鳥居の額をズームアップ)


菅原道真公が亡くなってから天変地異が多発して
京都御所の清涼殿にも落雷し死者が出たようでっせ。

菅原道真公の祟りだとの噂が広まったんだそうな。

それで正一位太政大臣の位を贈呈したそうですわ。

(道明寺天満宮の 拝殿)


(道明寺天満宮の拝殿前で 自撮り)


(道明寺天満宮の ご朱印)


ここは元は「土師寺=はじでら」と呼ぶお寺だったとか。

菅原家は曾祖父の頃までは土師氏を名乗っていたそうで
古墳に埋める埴輪や土器を作る一族だったようですわ。

学者の道を歩む曾祖父の時代に菅原氏に変名したようでんな。

(道明寺天満宮 宝物館)


ここには菅原道真公が太宰府に流される際に残した
鏡や硯など6点の国宝が保管され一般公開がされてまぁ。

当時、菅原道真公の叔母が道明寺の尼寺に入籍されていて
九州に向かう前に立ち寄られたとの逸話が残されてますんや

菅原道真公もここ道明寺が「第二の故郷」として少なくとも
三度は訪れられている記録が残っているそうですわ。

それでは今回の本題である道明寺天満宮の梅園を紹介しまひょ。

(天満宮梅まつり 観梅券 300円)


(見事な枝垂れ梅と 自撮り)


(宝物殿前に咲く 枝垂れ梅)


それでは説明文は抜きで、梅をご堪能してくださいね。

数年目にも訪れてるんでっけど今年は色が少し劣りますな。

(道明寺天満宮 梅園)






































本日はこれでお仕舞にさせてもらいまぁ。

次回は天満宮の盆梅展と道明寺の尼寺を紹介しまひょ。


(追申)

蛇足ながら2月中旬に20年近く私を支えてくれた当時の
社長が肝臓がんで死亡、凄く落ち込んでましたんですわ。

ブログ巡りもお休みして、本日やっと復帰しました。

皆様の元へは土曜日から訪問させていただきますので
よろしくお願いいたします。

鉄ちゃん爺や、とうとう~ クタバッタのかな?

そんな声が聞えてきたようにも思いますけど。

まだ~ しばらくは生きてますので悪しからず。










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