この文章は本来書き込み欄のコメントに対する返事として書いていたのですが、随分長くなってしまった上に、他にもこの件に関して疑問に感じている方もいるかと思うので、ブログ本文として載せることにしました。
僕の文章や態度が、「傲慢に感じる」としたら、人それぞれ受け止め方があるのでそれは構いません。しかし、記述に対して「大風呂敷を広げている」と非難されるのは別問題で、これはいわば、僕の書いていることが嘘であるとか、大袈裟に事実を婉曲していると言われているのと同じであり、ジャーナリストとしては非常に心外ですので、少し言及しておきたいと思います。
以前から何度も強調しているように、カメラマンという立場もあり、僕はあくまで「現場での視線」というものを最重要視しています。ですから、こうすべきだ、ああすべきだ、という机上の理想論とはどうしてもかみ合わない部分も現実的にはでてくるわけです。
今回の議論のもとになった、「ジャーナリスト(もしくは第三者)が現場に存在していることによって防ぎえる犯罪」についても、確実に存在することは現場に立つ者ならだれでも感覚的にわかることだと思います。ただ、それを証明せよ、といわれても、実際におこらなかったことですから、100パーセントの「事実」として証明できるわけではありません。
**komさんの書いているように、これはあくまで「予防」のことを話しているのであり、たとえば伝染病などの場合、もし病気が蔓延していたら10人が死んだか1万人が死んだかなどと事実として証明できないのと同じだからです。
これをもって、「根拠に乏しい」と思われるのは構いません。しかし、この一例のみで自分が納得いかないことを理由に、僕のブログで書いていること全てに対し「大風呂敷を広げている」と批判されるのはいかがなものか。
ムニースの件にしても、彼が脱走兵であることなど事実としてとうに認定されているからこういう記事を書いているわけであり、ジャーナリストとして裏取りが当然なことなどこの仕事をしている上で重々承知しています。
このようなケースの場合、自ら「自分は脱走兵」であるというムニースの自白をとることだけが裏取りではないでしょう。健康悪化などの緊急事態が起こったわけでもなく、報告もなしに休暇期間が過ぎても部隊に戻らなず、すでに数週間が経っている。さらに実家はすでにもぬけの殻。。。さらに、これはブログには書きませんでしたが、同じ部隊の兵士の証言によれば、ムニースはマイ・スペースというウェブサイトの自分のページに、「こっちでいい生活を送っているよ。もう帰らない」というような書き込みを残していたそうです。(すでにページ自体が削除されている)これだけの事実確認がそろっているのですから、これが僕らにとっては裏とりです。
しかし、えどしんさんは、ムニース本人から自白をとらなくては証拠にはならない、という。もちろんそれができれば越したことはないでしょう。しかし現実的に、これだけの重罪を犯した人間がそうやすやすと見つかると思いますか?仮に見つかったとしても、彼が嘘をつくかもしれない。今回の場合、僕らには、前述したとおりの現実的証拠がそろっており、ある意味これらの事実は彼の自白よりも確固とした証拠ともいえるのです。
公に向かって責任をもって発信しているブログですから、事実確認や裏取りくらいきちんとしなくては書けないことは承知しています。しかし、僕は新聞記事を書いているわけではないので、そういう裏のことまでブログでいちいち説明する必要はないし、そういうテクニカルなことが読者に知ってもらいたいポイントではないのです。
>なるほど、報道の看板を掲げれば、勝手に撮って、勝手に載せられると
>法で保障されている。したがって、報道写真は撮られる側への配慮は
>不要。高橋さんはそういう考えであると了解しました。
イラク人家庭に対する「撮影に対する同意」の件での上記のコメントですが、これも現場を知らない人がただ正義感を振りかざしてカメラマンを非難しているとしか思えません。
相手とコミュニケーションをとりながら撮り重ねていくドキュメンタリーやフォト・ストーリーと違い、現実的にこのようなニュースの現場では被写体との接触はほとんどありません。次々と変っていく状況に対応していかなくてはならないし、現実的に戦場などで被写体ごとに話をする時間などないのです。極端な場合、時には走りながら撮らなくてはならない時だってあるのですから。確かにそういう意味では冷酷だと思われても仕方がありませんが、僕らの仕事は、ニュースの現場では(前述したように、時間をかけるドキュメンタリーとは違いますから混同しないよう)、目の前でおこっていることをできるだけ忠実に「記録」することなのです。その記録を発信することによって、世間に「現実」に起こっていることを伝える。そういうジャーナリズムの目的が世間で認知されているからこそ、法律でもニュース写真では被写体の了解をとる必要がないと定められているのではないでしょうか。
もちろんこれにも程度の問題がありますから、たとえばダイアナ妃を死に至らしめたパパラッチ・カメラマンのように、有名というだけで必要以上のプライバシーの侵害には同意できませんし、そこにはモラルや自己制御が必要になってきます。しかし、こういう場合とイラクやリベリアの戦場で、被害にあった人々を撮ることとは同じではないでしょう。僕はイラクの家宅捜索などの場合でも、特に女性などから「写真を撮らないでくれ」と頼まれれば僕はまったく撮らないか、顔が写らない様な角度で撮るようにしています。ですから、いちいち了解はとらないけれど、撮らないでくれといわれればよほど必要と思われない限り撮らないようにしている、と解釈してもらって結構です。
えどしんさんがどんな職業でどんなバックグランドをお持ちの方かは知りませんが、「大風呂敷を広げている」などと相手をうそつき呼ばわりする前に、ご自身の狭い価値観や「机上の理想論」を超えた、現場での状況まで想像を広げた現実的議論をお願いしたいと思います。
僕の文章や態度が、「傲慢に感じる」としたら、人それぞれ受け止め方があるのでそれは構いません。しかし、記述に対して「大風呂敷を広げている」と非難されるのは別問題で、これはいわば、僕の書いていることが嘘であるとか、大袈裟に事実を婉曲していると言われているのと同じであり、ジャーナリストとしては非常に心外ですので、少し言及しておきたいと思います。
以前から何度も強調しているように、カメラマンという立場もあり、僕はあくまで「現場での視線」というものを最重要視しています。ですから、こうすべきだ、ああすべきだ、という机上の理想論とはどうしてもかみ合わない部分も現実的にはでてくるわけです。
今回の議論のもとになった、「ジャーナリスト(もしくは第三者)が現場に存在していることによって防ぎえる犯罪」についても、確実に存在することは現場に立つ者ならだれでも感覚的にわかることだと思います。ただ、それを証明せよ、といわれても、実際におこらなかったことですから、100パーセントの「事実」として証明できるわけではありません。
**komさんの書いているように、これはあくまで「予防」のことを話しているのであり、たとえば伝染病などの場合、もし病気が蔓延していたら10人が死んだか1万人が死んだかなどと事実として証明できないのと同じだからです。
これをもって、「根拠に乏しい」と思われるのは構いません。しかし、この一例のみで自分が納得いかないことを理由に、僕のブログで書いていること全てに対し「大風呂敷を広げている」と批判されるのはいかがなものか。
ムニースの件にしても、彼が脱走兵であることなど事実としてとうに認定されているからこういう記事を書いているわけであり、ジャーナリストとして裏取りが当然なことなどこの仕事をしている上で重々承知しています。
このようなケースの場合、自ら「自分は脱走兵」であるというムニースの自白をとることだけが裏取りではないでしょう。健康悪化などの緊急事態が起こったわけでもなく、報告もなしに休暇期間が過ぎても部隊に戻らなず、すでに数週間が経っている。さらに実家はすでにもぬけの殻。。。さらに、これはブログには書きませんでしたが、同じ部隊の兵士の証言によれば、ムニースはマイ・スペースというウェブサイトの自分のページに、「こっちでいい生活を送っているよ。もう帰らない」というような書き込みを残していたそうです。(すでにページ自体が削除されている)これだけの事実確認がそろっているのですから、これが僕らにとっては裏とりです。
しかし、えどしんさんは、ムニース本人から自白をとらなくては証拠にはならない、という。もちろんそれができれば越したことはないでしょう。しかし現実的に、これだけの重罪を犯した人間がそうやすやすと見つかると思いますか?仮に見つかったとしても、彼が嘘をつくかもしれない。今回の場合、僕らには、前述したとおりの現実的証拠がそろっており、ある意味これらの事実は彼の自白よりも確固とした証拠ともいえるのです。
公に向かって責任をもって発信しているブログですから、事実確認や裏取りくらいきちんとしなくては書けないことは承知しています。しかし、僕は新聞記事を書いているわけではないので、そういう裏のことまでブログでいちいち説明する必要はないし、そういうテクニカルなことが読者に知ってもらいたいポイントではないのです。
>なるほど、報道の看板を掲げれば、勝手に撮って、勝手に載せられると
>法で保障されている。したがって、報道写真は撮られる側への配慮は
>不要。高橋さんはそういう考えであると了解しました。
イラク人家庭に対する「撮影に対する同意」の件での上記のコメントですが、これも現場を知らない人がただ正義感を振りかざしてカメラマンを非難しているとしか思えません。
相手とコミュニケーションをとりながら撮り重ねていくドキュメンタリーやフォト・ストーリーと違い、現実的にこのようなニュースの現場では被写体との接触はほとんどありません。次々と変っていく状況に対応していかなくてはならないし、現実的に戦場などで被写体ごとに話をする時間などないのです。極端な場合、時には走りながら撮らなくてはならない時だってあるのですから。確かにそういう意味では冷酷だと思われても仕方がありませんが、僕らの仕事は、ニュースの現場では(前述したように、時間をかけるドキュメンタリーとは違いますから混同しないよう)、目の前でおこっていることをできるだけ忠実に「記録」することなのです。その記録を発信することによって、世間に「現実」に起こっていることを伝える。そういうジャーナリズムの目的が世間で認知されているからこそ、法律でもニュース写真では被写体の了解をとる必要がないと定められているのではないでしょうか。
もちろんこれにも程度の問題がありますから、たとえばダイアナ妃を死に至らしめたパパラッチ・カメラマンのように、有名というだけで必要以上のプライバシーの侵害には同意できませんし、そこにはモラルや自己制御が必要になってきます。しかし、こういう場合とイラクやリベリアの戦場で、被害にあった人々を撮ることとは同じではないでしょう。僕はイラクの家宅捜索などの場合でも、特に女性などから「写真を撮らないでくれ」と頼まれれば僕はまったく撮らないか、顔が写らない様な角度で撮るようにしています。ですから、いちいち了解はとらないけれど、撮らないでくれといわれればよほど必要と思われない限り撮らないようにしている、と解釈してもらって結構です。
えどしんさんがどんな職業でどんなバックグランドをお持ちの方かは知りませんが、「大風呂敷を広げている」などと相手をうそつき呼ばわりする前に、ご自身の狭い価値観や「机上の理想論」を超えた、現場での状況まで想像を広げた現実的議論をお願いしたいと思います。
このブログにおいてできることを考えたとき、受け手側と発信側が「出来事に近づいていくこと」ではないかと、私はそう思ってこのブログを読んできました。高橋さんの語る「現実的議論」もそれに近いのかな、とも思いました。
私は、コメント欄で書かれているような、メディアの情報を引き算する、読み方を変える、または特権階級と感じている人々が発信しているもの、とかとはまた違った側面で読んでいます。
そこに起こった「出来事」とその場にいたジャーナリストの思いや考え方、それをどう受け止めたかという個人としての発信。それを受ける受け手側の受信。
この形は、私たちが日々情報や出来事と向き合う形とは違っている、と私には思えるのです。ここに着目しています。そして、それがまた興味深い。なぜならば、情報とどう向き合うのか、それにはどのような側面があるのか、日々の情報とはどう向き合っているのか、と改めて自分と情報との関係を考え、知ることができるからです。
現代においての「情報とは何か」を数限りないチャンスから、さまざまな側面を知りえることは、実は本当に大切なことなのだとも思います。私は、コメント欄で語られるようにメディア関連の方々が特権階級とは全く思っていませんし、逆に私は今回の流れを見ていて「受け手側」の傲慢さを感じました。相手が特権階級であり、そこから発信するのだから、重みは大きい。だから、それに対して激しい言葉や根拠のない否定によって、それを覆すというか。しかし、ここでの言葉は最初から、コメント欄にしろ、記事にしろ等しいものだったと思います。双方の発言に、同じ重さをもたせてきたというのが、高橋さんのやり方でもありました。
知る権利は誰にでもありますが、その権利を他者に渡すしかないことも多々あります。それが今回のケースでした。そして、知る権利を誰かに手渡し、教えてもらうこと、知らせてもらうことばかりが当たり前になってしまっている受け手にも、時々疑問を感じることがあります。受け手というのは、私のことでもあります。違った角度から何かを探ることはできないか、という姿勢を忘れてはならないとも思えるのです。
私は高橋さんの味方でもなんでもありませんが、高橋さんはメディアとしての「情報の扱い方」について、個人としてある種の危機感や、疑問を抱きながら仕事をされているように感じていました。
それをそのままにしておかないで、個人としても何かできることがあると思ってブログを継続しているようにも感じます。はっきり言えば、こんな面倒なことを現地から日本に向けて公表するなど、やらなくてもいいことです。別に仕事だけやっていればいいのですから。けれども続けてきた。そして、それが私にはとても興味深かったです。しかも「生」の情報であり、早い。
さて、とにかく、反響は肯定も否定も反響です。
それを考えれば、1人でも今ここに起こっている「情報と出来事」を考える人が増えている、ということは狙い通りのことなのかもしれないな、とも考えたりします。
ただひとつ言えるのは、ぼくは「現場の視線」がもっとニュースとして評価されるべきものだと思ってます。
日本のある著名なジャーナリストが「取材現場にいる記者たちの発言は感情が入りすぎて偏っているから私たちみたいに分析できる目が必要」と語ったことがあります。
けれど、ぼくはその「分析」と称し机上の理想論しか語らない著名人たちをジャーナリストとはどうしても思えません。
たとえ感情的だろうと現場で見たこと、感じたこと、触れたことこそ知りたい。
ぼくもカメラマンなので「現場」こそが最重要と考えてます。
現場を知っている現場にいたということが必ずしも偉いとか優れているというわけではありませんが、現場にいなければ見えないことがあるのは明白なことです。
これからも現場の視線を持った記事を拝見させていただければと思います。
彼処も全てじゃない
唯嘘でもない
事実なだけ
此処を観て全てを知ろうと思っても
出来ない
自分が疑問に思うのなら
自分が行動する
行けない私たちは此処を見て思いを馳せる
けど、自分の蟠りは此処だけでは解決出来ない
から「目」は沢山必要なんだろうな~
非現実的で御免なさい
疑問点を質問しただけなのに逆ギレの長文を書かせることになってしまって、
どうもすみません。
お詫びに提案させていただきます。
「傲慢なジャーナリスト」はすでに自ら使っていたようなので
他に2つ提案させていただきます。
得意技=後出しジャンケン
ニックネーム=曲解の魔術師
「傲慢なジャーナリスト」はさすがご自身で付けただけあって
ピッタリという感じですが、
私が提案した上の2つも気に入ってもらえれば幸いです。
いみし。
コミュニケーションである以上、我以外の人間がそこにあるわけで、そのコミュニケーションの質もその人間にかかってきます。
基本的なコミュニケーション、つまり対面でのコミュニケーションと同じ能力レベルは最低必要ですね。
ここに書くような嫌味や、あてつけやを相手の目を見て、堂々とあなたは言えますか?と、聞きたいです。
ご自身の主張したい意見のフェアな交換は意義もあり、学ばせていただきたいところですが、、。
そういうレベルにまで持っていけないなら、コミュニケーションとして、ご本人にとってもあまり意味がないのではないですか?
高橋さんが、開いているこの場所でご本人に失礼のないよう(と、いっても迎合するのではなく)意見の交換をするというのが人間としての礼儀だと思います。
それに、もしジョークとして発信されていたのなら、私の感想としては、「笑えもしないし、嫌味なら、よそでやってよ。
いい大人がみっともない。」
と、感じました。
屁理屈好きの精神年齢が「お子様」のお方がいらっしゃるようです。
認める所は素直に認めて、譲れない所はそう言って
それが出来ない人は大人であってもガキと同じ。
何か、負け犬の遠吠えより情けない
是程此の場で不快に思った事はないです、はい。
・・・と 皆様ご存知の宮本武蔵の本にもありますね?
大事なのは 奥の奥の奥。
であり、裏の裏の裏。そして、
先の先の先。
熟考すれば 取るに足らない意見は山ほどありますし、
また、もっと熟考すれば
どんな言葉も自分の血となり肉となります。
小細工を使っても 人間性は丸見えです。
みんな、判っているので大丈夫だと思います。
スライドショー見ましたよ。砂埃を感じました。
大変でしたね。仕事とはいえ。イヤだったでしょう。
兵士たちの言葉もどこか排他的で・・悲しいですね。
このブログのようにカメラマンの見た現実のある場面を切り取って、本人がその時感じたことを文章とともに伝えてくれるのはまるくおさまったニュースよりも個人的には色々と感じることが多いです。
それをどのように感じるかは読み手しだいだと思いますが、何より一部の揚げ足とりのような意見に対して今後邦さんが文章を書くときに変なフィルターをかけないことを願ってやみません。
これからも今までどおりのブログを楽しみにしております。
しかし、戦争もそうですが世界は無意味な悪意がそこら中にゴロゴロしてて、たまにうんざりしますね。
意味深くん。