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Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

マルチ・メディアの渦のなか

2007-08-07 10:29:31 | 報道写真考・たわ言
AAJA(アジアン・アメリカン・ジャーナリスト協会)のコンベンションが開催されていたマイアミから昨日戻ってきた。

開催地を変えて年に一度開かれるこのイベントには、全米各地で働くフォトグラファーたちやこれからプロを目指す学生たちと親睦できるいい機会だし、旧知の友人たちとも再会できる「同窓会」的なのりも好きなので、時間の許す限り参加するようにしている。

僕は国際報道写真のパネラーとしてプレゼンテーションをおこなったのだが、やはり他のセミナーのなかでも最も関心の高かったのはマルチ・メディアに関するものだった。

以前もこのブログで書いたことがあるけれど、このウェブ全盛時代、アメリカの新聞社のあり方もここ数年大きく変わってきており、各社ともウェブサイトの充実が急がれている。いわば、新聞「紙」から新聞「ウェブサイト」への移行が急激に推し進められているといっていいだろう。http://blog.goo.ne.jp/kuniphoto/d/20070109

そういう流れの中で僕らフォトグラファー達の仕事も急激に変化しており、新聞社カメラマンとはいえその仕事は単に写真を撮るにとどまらず、音声を録ったり、ビデオ撮影をおこなったりということが必要になってきたわけだ。

毎晩セミナーのあと、レストランで一杯やりながらカメラマン達と語る機会があったが、やはりみなこの仕事形態の変化には複雑な思いを抱いているようだ。

僕も含めて、写真に音声を加えたスライドショーには違和感がないが、やはりビデオはちょっとなあ。。。というカメラマンが多い。「写真の力」を信じてこの道にはいり、これまでプロとして長年やってきたカメラマン達にとっては、スティール写真に対するこだわりがあるからだ。

僕は現在、プロジェクトによってはスティールカメラとビデオの両方を担いで撮影しているが、両者は撮り方自体が全然違うので結構きつい。ひとつに集中できないので、どちらも中途半端になってしまう。

テクノロジーの発達で、ビデオのコマから新聞用には十分の写真画像がとりだせるようになったいま、ビデオカメラだけで仕事をする新聞社カメラマンもでてきたが、それでもビデオと写真では撮影時の被写体との距離感もちがうし、フレーミングも変わってくるので、根本的な解決にはならない。

コンベンションでは、各社からのリクルート・ブースも設けられているのだが、そこで仕事を求めて売り込んでくる若者たちの相手をしていたダラス・モーニング・ニュース社の友人が、「ワンマン・ショーの若物が多いのにびっくりした」といっていた。

「ワンマン・ショー」とは、レポーター業とビデオ、そして編集と、一人で皆やってしまう人間のことだ。これまで複数の人間がしてきた仕事を一人でこなすので、雇う側としてはコスト削減には大いに役立つ。

ただ、このようなワンマン・ショーのジャーナリストが、レポート面、撮影面ですべて一流なら素晴らしいのだが、現実的にはそううまくはいかないのだ。
「レポートの内容自体もたいしたことないし、映像なんて、ひどいものだよ」
友人はそう愚痴っていた。

写真とビデオにしても、ワンマンショーにしても、現在の多様化したマルチ・メディア時代において、複数のメディアをこなすことのできる人材が必要になってきているなか、多くのものに手をつける分だけ、一つ一つに対するクオリティーが犠牲になってきている、というのも現実だ。別な言い方をすれば、中途半端な「何でも屋」が増えてきている、ともいえる。

そういうことを肌で感じている僕らプロのカメラマンたちにとって、時代に対応していくための葛藤はこれからもしばらく続きそうだ。


(お知らせ:先日取材したギフトの近況がトリビューンのサイトにアップされました)
http://www.chicagotribune.com/gift

「不謹慎な発言ですね!」への回答

2007-07-01 14:22:21 | 報道写真考・たわ言
先日のブログの中で述べた「怪我がなかったのが幸いだが、ニュース・カメラマンの立場としては不幸、といっておこう」という言葉について不快感をもった方もいるようだし、この問題は紛争地で仕事をするときに常に頭につきまとっていることなので、少しばかり言及しておこうと思う。

基本的に僕のやっているような報道写真家という仕事は、気持ちの上では矛盾の上に成り立っている。それは、はっきりいってしまえばこの職業が「他人の不幸で飯を食う」という類のものだからだ。

正義感や使命感など振りかざすつもりなど毛頭ないが、自分自身の探究心や好奇心によること以外に、僕は、写真によってそれがささいなことでも被写体の生活を良くすることに貢献できれば、という思いを持ちながら仕事をしている。

しかし、そのためには、現場で起こっている悲惨な現実をまず人々に伝えなくてはならない。世の中が変わるためには、まず「現実を正確に知ること」、それについて「感じ、考えること」、そして「行動すること」という3つのステップが必要になる。報道写真というのは、その第1ステップに必要である「現実を伝える」という役割を担っていると思う。

だから、もし僕がわざわざ危険を犯して戦地に赴いても、その戦地の現状を十分に伝える写真を撮ることができなればそれは単なる無駄足ということになり、報道写真家としての役割を果たせなかったということになる。

今回のイラクでの従軍では、爆弾テロや砲撃が毎日のように起こっているにも関わらず、僕はそういう現場に居合わせることができなかったし、その悲惨な現状をアメリカや日本で生活している人たちに伝えることができなかった。僕自身がパトロール中に狙撃されたり、路上爆弾で吹き飛んだりしたって別におかしくはない状況なのだ。そこまでのリスクを犯しながらも、結局僕は「意味のある」写真を撮ることができなかったのだ。

だから、報道カメラマンとしては「不幸だった」といったのだ。

仕事柄何度も目にしてきたこととはいえ、傷つき苦しむ人間や屍をみるのは嫌なものだし、それが自分と何からの関わりを持った人間であればなおさらのことだ。しかし僕は、兵士達がトランプに興じたり、軍用車のなかで昼寝をしているような写真ばかりを撮るためにわざわざイラクまで足を運んだわけではない。

あまりに頻繁に路上爆弾が仕掛けられるため、毎日パトロールのために兵士達と一緒に軍用ジープのなかで揺られながら、僕の頭の中ではいつもこんなことが堂々巡りしていた。

「1秒先に爆発がおこるかも。。。もし爆発がおこっても、誰も死んでは欲しくないな。。。でも誰かが怪我でもしないと写真にならないな。。。10メートルほど先の爆発なら、車が破壊されて怪我人が数人でるかな。そうすれば誰も死なないし、写真も撮れるな。。。もし自分の車がやられたら、一発で即死にしてもらいたいな。。。」

なんという悪魔的思考であろうか。。。不謹慎な、と糾弾されても仕方がないが、これが正直な僕の胸の内、であった。

こういう精神的「矛盾」は、この仕事を続ける限り常につきまとい続けるのだ。

ちなみに僕は、もし自身が怪我をしたり死ぬようなことがあれば、その姿を写真に収めてきちんとその現実を世間に伝えてもらうように同行する記者や兵士たちにお願いすることにしている。





カメラマンは写真で伝えるべき?その2

2007-06-02 13:32:03 | 報道写真考・たわ言
しばらく筆不精の癖がでてブログ更新をさぼっていたら、またイラク行きが決まったので急に慌しくなってきた。

「カメラマンは写真で伝えるべき」という意見に関して、いろいろなコメントをいただいているようで嬉しく思う。別に僕はこのブログを「仲良しクラブ」的なものとして発信しているわけでもないし、批判的意見も大歓迎だ。ただ、それが何の論理性もなく単なる感情的な誹謗・中傷ではこちらとしてもあまり議論の余地はないのだけれど。。。

もともと東京都民でもなく、それどころか日本を離れてからすでに17年という海外在住者の僕が、どうして石原都知事再選をここまで問題視するのか?ということについてもう一度だけ述べて、この問題と「。。。写真で伝えるべき」のテーマにひとまず区切りをつけたいと思う。

僕は石原都知事など会ったこともないし、勿論彼の写真など撮ったこともない。しかしこのインターネット社会、彼の言動や政策に関する情報はこちらにいても十分入手できるし、そういう情報をとおして、彼がどんな人物であることか大方の想像はつく。さらに、君が代斉唱や日の丸掲揚に異議を唱えたために処分をうけた300人以上という都教職員の数や、過去5年間で2億円を超える海外出張の豪遊費などといったれっきとした事実をみれば、彼がどういう姿勢で都の政策をおこなっているかなどは明白だ。

僕は別に石原都知事一人や東京都民だけを問題にしているわけではない。実際にもっと恐ろしいのは、日本を「合法的に戦争のできる国」に変えようとしている安部内閣なのだが、石原都知事の再選を許してしまった都民の姿勢というのは、突き詰めて考えれば日本国民全体の政治に対する姿勢と同じなのだ。

だから僕は石原都知事の再選を聞いたとき、これは東京都だけの問題にはとどまらず、「ああ、東京がこんな調子では、安部総理の思惑どうり、憲法9条も「改悪」され、米国と組んで日本が戦争のできる国になってしまう。。。」という絶大な危機感を感じたのだ。あれだけのことをしておきながらまた石原氏が再選されるなど考えられなかったし、僕としてはブッシュ再選のときと同様のショックをうけたのだが、やはり海外に住んでいるため都民の都政に対する体温というものを把握していなかったのだろう。

石原都知事再選は、安部総理の憲法改悪、自衛隊の「日本国軍化」そして将来、米国と歩調をあわせての日本の戦争参加、という連鎖を生み出すことになるだろう。実際に、憲法改悪の下準備である国民投票法は議会で可決されてしまったし、もう着々と事実は既成されているのだ。

日本を外からみることのできる海外在住者としてこういう状況に怒りさえをも感じているが、僕自身、それを許してしまっている日本国民の一人だということに非常な歯がゆさを感じているのだ。

石原都知事や安部総理、はたまたブッシュ大統領など写真に撮ったことなどはない僕だが、戦争の現場というものは何度もこの体で体験しているし、写真家としてそれに関わる人間たちの姿にカメラを向け、その惨状を写真で伝えようと努力はしてきた。

僕は、「正義のための戦争」などありえないと思っているし、どんな理由であれ、根本的に戦争には反対の立場をとっているが、それは頭で考えた論理的なものではなく、経験から僕の身体にしみ込んだ戦争に対する拒絶感のようなものによるところが大きい。

だから、「カメラマンは写真で伝えるべきであり、石原都知事を撮ってもいないのに彼を非難する資格などない」という意見には、こう切り返そう。
「都知事や安部総理の姿など撮っていなくても、彼らがやろうとしている恐ろしいこと(すなわち戦争)の姿は撮っている。だから、僕は報道カメラマンとして胸をはって、戦争志向の政治家を非難するのだ」と。





カメラマンは写真で伝えるべき?

2007-05-19 11:36:29 | 報道写真考・たわ言
石原都知事再選について書いたブログに寄せられたコメントのなかで、「カメラマンは写真で伝えるべき」だから「写真を撮ってもいないのに意見するな」という論法の意見があった。

面白い考え方をする人もいるものだなあと思うが、このことについて少しばかり考えてみた。

カメラマンは写真で伝えるべきという意見には賛成だし、これは考えてみればごく当然のことでもある。以前にも書いたことがあるけれど、僕は本来フォト・ジャーナリズムというのは、「写真の力のみ」によって、扱う問題のメッセージを伝えることができることが理想だと考えている。

しかし、現実的に写真だけでは伝えることができないことは結構あるし、僕らフォト・ジャーナリストたちにとっては、その「写真で伝わらないもの」を補うために文章の助けが必要になってくるわけだ。(これは記者の側からみれば逆、すなわち写真が文章を補うもの、になるんだろうけど。。。)

仮に僕が石原都知事を撮ったとしよう。果たしてその写真からどれだけのことがわかるだろうか。彼の身なりや外観はわかるとしても、彼が何を発言したか、どんな政治をおこなっているか、など本質的なことは、残念ながら写真をみただけでは全くわからない。

よく「本人の性格や内面を写しだすような素晴らしいポートレート」などという称賛を聞くことがあるが、そういう写真だって伝えられることには限界があるし、所詮は見る人の想像力に頼るところが大きいのだ。

ブッシュ大統領に対しても同じことで、チェイニーと組んでイラクを目茶目茶にし、さらには世界和平を極端に不安定化させたこの2人に対して、僕は反吐がでそうなほどの嫌悪感を覚える。イラクという現場を幾度も経験した人間として、僕はブッシュ政権を批判するし、それはジャーナリストとしての当然の意見発信だとも考えている。しかし、僕はブッシュやチェイニーを一度も写真に撮ったことなどはない。彼らの写真を撮る機会があったとしても、僕のスタンスは変わることはないし、そんなことは僕が意見する上で全く関係のないことだ。

石原都知事やブッシュ大統領を僕が撮ったことがあろうがなかろうが、また東京に住んでいようがいまいが、それは批判する者の資格とは関係のないことだろう。もともと僕はカメラマンとして石原都知事を批判しているのではなく、一人の日本人として、そして一人の人間として意見しているに過ぎないのだから。

筆不精の僕がわざわざ苦労して記事を書いたり、こうしてブログを記したりするのも、写真だけではメッセージを伝えきることができないという理由もある。ただ写真だけページにアップして僕の言いたいことがすべて表現できるなら、どんなに楽かとも思ってしまう。

写真の整理と次の取材準備の間に走り書きしているので、なんだか支離滅裂な文章になってしまいました。。。失礼。





貧困プロジェクト

2007-04-08 08:43:56 | 報道写真考・たわ言
2週間ほど前からはじめた、貧困問題についてのあらたなプロジェクトに追われている。

予想はしていたのだが、なかなか思うようには進まない。資料を集め、低所得者のための食料配給所やホームレスシェルターをまわりながら、生活に困窮している人々と話をする。最終的には、何組かの家族や個人に的を絞って、地域の背景を重ねてストーリーを組み立てる予定だが、その対象となる家族探しはなかなか骨が折れる仕事だ。

こんなケースは多々ある。配給所で出会い、いい感じで話ができたので、その家族を訪れる約束をして別れる。後日電話をいれると、すっかり気が変わったように家には来て欲しくない、という。また、妻と子供たちが同意しても、夫が取材を嫌がるケースも少なくない。やはり貧困状態にある、というのは男として恥ずかしいと思うのだろうか。さらにドラッグなどの犯罪にかかわっている人間もいるので、そういう場合も話をしたがらない。

話をするにとどまらず、写真を撮るという段階までもっていくのはさらに時間がかかる。

インタビューはいいけど写真は嫌だ、そういう人が結構いるからだ。もともとこちらも出会ったその日から彼らの生活に踏み込んで写真を撮るつもりなど毛頭ないし、何度も先方を訪ねながら少しずつ撮り始めるというアプローチをとっているのだが、それでもはじめから写真は駄目といわれてしまえば、無理強いするわけにもいかない。

こんなときは、記者だったら少しは楽だなあ、などと感じてしまう。(他の面での記者の苦労も重々承知してますから、記者の方々怒らないよーに)
多くの人間は時間さえあれば、話だけならそれなりにしてくれるものだ。さらに、取材先の家を訪ねるチャンスがあったとして、記者なら一回の訪問でだいたいの家の中の様子を把握することができるが、カメラマンとなるとそうはいかない。食事の時間とか、仕事に行く時間とか、寝る時間とか、そういう決まった時間に自分も居合わせなくては特定の写真は撮れない。何よりもそんな撮影以前に、被写体に違和感なく私生活をカメラの前に晒してもらえるほどの人間関係を築く必要がある。だから、丸1日一緒にいても、1フレームも撮れないことだってあるのだ。

なんだか愚痴っぽくなってしまったが、時間をかけている割には思うような写真が撮れないのでがっくりする日も多々あった。それでもここ数日ようやく手ごたえがでてきたような気がする。だけどカバーする地域も広いし、これからもっと多くの家族をあたらなくてはならないので、まだまだ先は長いんだけれど。。。




たまげた請求書

2007-04-01 18:17:21 | 報道写真考・たわ言
病院からの請求書が届いた。

一月ほど前、2-3日腹痛が続いたので病院にいくと、盲腸の疑いがあるということでそのまま救急病棟にまわされた。待ち時間の長いことでは悪名高いアメリカの救急病棟、以前にも面倒な思いをさせられたので避けたかったのだが、主治医に「いや、原因がわからないまま家に帰すわけにはいかない」と、無理やりいかされるはめになった。

待合室には患者があふれ、案の定みなうんざりしたような顔で自分の番を待っている。2時間を過ぎたところで痺れをきらして受付の看護婦に尋ねると、その日は僕の受けなくてはならないCT スキャンが込み合っており、5時間ほどの待ち時間になるという。よっぽどもう帰ってしまおうかとも思ったが、腹はまだじくじく痛むし、どのみち一度は検査してもらわなくてはならないだろうと観念することにした。

売店で買ってきた雑誌を読んだり居眠りしたりして、待つこときっかり5時間。ようやく僕の名前が呼ばれ検査を受けられることになった。

血液を抜かれて尿を採取され、点滴をうけながらバリウムを飲まされ、ようやくCTスキャンがすんだのは病室に入れられてからさらに4時間後だった。結局、盲腸ではなく、小腸が少し荒れているというだけで、「あまり酒を飲まないように」との注意を受けてそのまま家に帰れることになったのだが、時はすでに深夜0時。病院に来てから12時間以上がたっていた。

そして先日、届いた請求書をみて、そのあまりの額に僕はあいた口がふさがらなかった。明細すべては書ききれないので、主だったものを挙げてみよう。

救急病棟受付 1420ドル
点滴 350ドル
尿検査 32ドル
CTスキャン2回 2500ドル

その他もろもろ、なんだか意味のわからない検査や薬品類も含めて全部で15項目ばかり、合計の請求金額がなんと7477ドル(およそ88万円)であった。救急病棟で最低限のテストを受けただけで15万円、そしてCTスキャンが2回で30万円、点滴費1パックが4万円。。。ほんとにそんなにかかるんかいな??

さらに、保険会社から別に送られてきた報告書に眼をとおすと、病院からの請求額7477ドルのうち、3647ドルは保険会社との交渉でディスカウントされ、3092ドル分は保険が適用、僕が自分で支払わなくてはならない額が738ドルとなっている。

いったい3647ドルのディスカウントとはどういうこと?そんなに大幅にディスカウントできるのなら、はじめっからどうして請求するのだろう?これは実際にかかる額よりも、それだけ上乗せして請求しているということではないのか!?

???だらけの請求書だが、もともとなぜこんなにこの国の医療費は高いのだろうか?この問題についてじっくり調べている時間はないのだが、大方こんなことが考えられる。

1:医療訴訟がおこると莫大な金がかかる
2:保険会社とグルになって利益をあげている
3:保険に入れない低所得者層の医療費の分もまかなっている
4:医者が高給をとりすぎている。。。などなど

医者の給料に関してはよくわからないのではっきりと断言はできないが、訴訟社会のアメリカでは医師や病院を相手取った訴訟は頻発しているし、年々急上昇し続ける保険料を払うことのできない所得層の市民たちの治療費も、誰かが肩代わりせざるを得ない。そういうものが蓄積して医療費に上乗せされることになるのだろう。勿論、保険会社と病院が両者にとって都合のいいようなつながりをもっていることは明白だ。

僕の請求書をみても一目瞭然のように、アメリカの医療制度は、低所得者、いわば経済社会における弱者、に非常に厳しいシステムになっている。僕はまだ会社をとおして保険に加入できているが、それでも今回は自分の懐から8万7千円も払うはめになった。僕としてもこれはかなりのダメージだ。それなのに保険にもはいることのできない人が80万円もの請求をされたとして、一体どうしろというのか?

政府が整えるべき医療制度とは本来こういうものではない筈だ。国全体が貧困にあえぐ途上国ならまだしも、先進国アメリカでこういう状況がはびこっていることにはどうにも納得がいかないし、腹もたってくる。とはいえ、もともと弱肉強食のこの国のことだから、これもまた当然の姿、といえるのかも知れないのだけれど。。。

いずれにしても、腹痛くらいではおちおち病院などにはいってられない。手術をしたわけでもないのに80万の請求なんだから。。。これがこの国の現状だ。






カメラも冬が苦手?

2007-03-02 17:25:27 | 報道写真考・たわ言
先月の摂氏マイナス20度という極寒気候に比べると、ここのところまあ過ごしやすくなってきたなあと思っていたのだが(それでもいまだに摂氏0度前後)、なんだかまた窓の外は強風とともに吹雪のようになってきた。。。やれやれ。

極寒地では、ブログですでに何度も文句をたれているように身体が凍える辛さは当然のこととして、仕事上でもカメラの扱いなどでいろいろと問題がでてくる。

寒くなるほどバッテリーのもちが悪くなる。まあこれは、予備のバッテリーを懐にいれて暖めておくなどいくらでも対処法があるのだが、曲者なのは室内と外の気温差だ。

屋外の撮影で冷え切ったカメラを急に暖かい室内に持っていくと、とたんにレンズが曇ってしまいえらいことになってしまう。眼鏡をかけている人が、温かいラーメンを食べるときに、湯気で眼鏡が曇ってしまい何も見えなくなるのと同じ原理だ。

昨日もある人物を撮っていて、寒空の下で1時間ほど撮ったあとに一緒にバスに乗ったらレンズが一気に曇ってしまい、車内での撮影ができなくなった。これはまだ広角レンズだったから10分もしないうちになんとか元に戻ったが、レンズの口径が大きく、組み込まれている枚数も多い望遠だったらもうお手上げだ。自然に曇りが消えるまでに30分以上かかることもある。

シカゴに移ってからもうスポーツの撮影はしなくなったけれど、ボストン・ヘラルド在籍時に毎年のように撮っていた冬の水泳競技などはこの点最悪だった。室内プールはやたら室温が高いうえに、当然のことながら異常に湿気が高い。こんな熱帯雨林のような場所にいきなり冷え切ったカメラを持ち込もうものなら、もうカメラマンとしては自滅行為。競技が終わるまでレンズは使い物にならなくなる。だから水泳の撮影が入ったときは、現場に着くまでの間に車のヒーターでゆっくりと、そして十分機材を暖めておく必要があった。

こんな理由で、普段は仕事の合間などカメラ機材を車のトランクにいれっぱなしにしている僕も、この時期だけはまめにオフィスに持ち運んでいる。重い機材を一日何度も担いで階段を上っていくのは面倒だけれど、撮影で泣きをみないためにもこればかりは仕方がないのだ。

冬というのは、夏型人間である僕の個人的嗜好を差し置いても、カメラマンにとっては頭の痛い季節、というわけなのだ。





日本人による日本のフォト・エッセイ

2007-02-25 20:45:57 | 報道写真考・たわ言
前回のブログの書き込みで、photoj studentさんが「日本人のフォトジャーナリストによる日本のフォト・エッセイがどうして少ないか?」という疑問を投げかけていたので、そのことについて少し考えてみた。

僕は別に日本人フォトジャーナリストによるこういった作品がとりたてて少ないとは思っていないが、これを、「海外で生活している」日本人フォトジャーナリスト、に限定すると、確かにphotoj studentさんの言っていることは的を得ているかとも思う。

しかし、それはある意味当然のことだろう。

日本を出て、海外で報道カメラマンとして生きている日本人たちには、それなりの理由があるだろう。人によってそのプライベートな理由はさまざまだろうが、仕事に関しては、自分自身のことも振り返ってみて、だいたい以下のようなことを考えていたのではないだろうか。

(1) 日本という狭い社会から飛び出して、世界を舞台に仕事がしたかった。
(2) 日本の日常では考えられない戦争や紛争、難民などの取材がしたかった。
(3) 日本の「フォト・ジャーナリズム」は、西洋のそれに比べまだまだ社会的地位が確立されていない、と思っている。
(4) アフリカなど、日本からでは地理的に不便な場所を継続して取材したいと思っている。。。等など

こういった理由で日本の外にでていった人間たちにとって、「狭い社会」であり、「戦争や紛争のない」日本は、写真を撮る上でそれほど魅力のある土地ではない、ということになる。

だから、僕自身のことを言わせてもらうと、休暇で日本に戻るときは「ついでに」取材をし、写真を撮ってこようとは思っても、わざわざお金をかけて見慣れた日本を取材に行こうなどとは思わない。それだけの資金と時間があるのなら、アフリカや中東に行きたい、と考えてしまう。

日本人のくせに日本の問題を気にかけないのか、この非国民め!などと叱られそうだが、こればかりは自分の「何を撮りたいのか」という欲求の問題だから仕方がない。日本国民として日本のことにはおおいに関心はあるけれど、それがカメラマンとしての「写欲」と必ずしも一致するわけではないのだ。

また、上記のような理由以外に、日本人と外国人のあいだの社会を見る眼の「新鮮さ」の違いがあると思う。

この書き込みのなかで紹介されているAPフォトグラファーの撮ったようなビジネスマンたちの日常の風景は、僕ら日本人たちにとっては、ほとんど「撮るに値しない見慣れた光景」だが、外国人の眼には新鮮に映ったわけだ。イスラムの国で頭からチャドルを被った女性たちの姿や、巨大な笊一杯の果物を頭に乗せて売り歩くアフリカ人の姿など、地元の住人にしてみればなんでもない風景が、僕ら日本人にとってとてもエキゾチックで新鮮に見えることと同じである。

日本人が日本社会を見る場合、そういう「新鮮な視点」というものをなかなか持ちにくい、というのも、日本人によるこのような作品が少ないまたひとつの理由であると思う。

。。。などとだらだら書き綴ってみたが、急に「だから何なんだ?」と思い始めてきた。別に誰がどこで何を撮ろうとそんなことはどうでもいいじゃないか。カメラマンの国籍や住んでいる場所など関係ない。要はそれがなんであろうと自分が大切だと考えるものを撮ることができれば、それでいいんじゃないかな。



政治は女性に

2007-02-18 19:14:01 | 報道写真考・たわ言
日本では先日、柳澤厚生労働大臣の「女性は子供を生む機械」といった発言が問題になったようだが、僕は正直な話、政治家はみな女性がなったほうがよほどまともな社会になると思っている。

現実的にそうなったらまたそれなりに問題もでてくるだろうが、少なくとも戦争の少ないより平和な世の中にはなるんじゃないかとは思うのだ。

女性は子供を生む、そして母になる。。。親になったことがない僕がいうのもなんだけれど、母親の子供に対する愛情というのは、やはり父親のそれとはどこか違うものがあるような気がする。自らの体内で子を育て、腹を痛めて産む母親の、我が子の「生」に対する根本的な愛情というのは、父親のものより遥かに強いのではないだろうか。

だから「戦争」に対しても、政治的思惑とか、ビジネスとか、国家の威信などといった目先の利益のことよりも、もっと単純で根本的な「自分の子を戦争に生かせたくない」という気持ちが働いて、女性は生理的に戦争を拒絶してしまうのではと思うのだ。

さらに、乳を飲ませ、子供を育てる過程などを通しながら、環境問題などにより敏感になるのも女性のほうではないかとも思う。日常的な生活感覚も男性よりある。

とまあ、こんなことばかり書いていると男性諸君から非難の的になりそうだけれど、いずれにしても、あんな暴言を公の場でのたまう大臣がいまだにのうのうと議員を続けていられるなど、日本国民として恥ずかしいやら頭にくるやら。。。アメリカならとっくに罷免ですよ。





ベアーズ・フィーバー

2007-02-02 21:17:16 | 報道写真考・たわ言
ベアーズ、ベアーズ、ベアーズ。。。どこを向いても今週のシカゴはベアーズ一色だ。

このシカゴのアメリカン・フットボールのチームが、今期リーグ優勝して、今週日曜日におこなわれる「スーパー・ボウル」で対戦相手のインディアナ・コルツと全米一をかけてプレイする。

ベアーズのスーパー・ボウル出場は1986年以来の21年ぶりとあって、街は大変な熱狂ぶりだ。米3大美術館に名を連ねるシカゴ美術館でさえ、玄関にそびえたつ勇猛なライオンの銅像の頭にベアーズのヘルメットをかぶせるわ、自然史博物館では巨大な恐竜の骨の模型にベアーズのユニフォームを着せるわで、そのフィーバーぶりは尋常ではない。

嫌いなわけではないけれど、スポーツ観戦に特に興味のあるわけでもない僕には、なんでこんなに熱狂できるのかねえ、と白けた気持ちでこういうイベントを眺めていたのだが、ここ数日のトリビューンの紙面をみていて、だんだん腹がたってきた。

スポーツページのみならず、フロントやローカルまであらゆるページがこのベアーズの記事で「汚染」されてしまっているではないか。たかがスポーツ(失礼!)の試合(それもまだプレビューにすぎない)が、仮にも全米第3の大都市のメジャー新聞の紙面を何枚も埋めるほど価値のあるもんなんだろうか?他にもっと報道すべき大事なことがあるんじゃないの?

新聞のみならず、ウェブページもまた然り。 
http://www.chicagotribune.com をみてもらえばわかるように、フロリダの竜巻で19人が死んでいるというのに、そんなニュースは下のほうに追いやられて、スーパー・ボウルの記事がドカーンをメインセクションを占めている。

実際に、シカゴ市民がみなフットボールに興味があるというわけでもないし、こういう過剰なフィーバーにうんざりしている人たちは大勢存在しているのだ。それなのに、まるで読者や視聴者はすべてベアーズファンでもあるかのように、これでもかと煽り立てるような新聞やテレビでのベアーズ報道に大きな疑問を感じるし、なんだかまるで大衆操作のようで恐ろしくもなってくる。

これはもう新聞がジャーナリズムからはかけ離れて、単にエンターテイメント産業に堕落してしまった、ということなのだ。

さらに悲しいことには。。。日曜日の夜にシフトにはいっている僕は、ベアーズが勝つにしても負けるにしても、ダウンタウンのどこかの酒場でファンの喜怒哀楽を撮らされることになるんだろう。。。ああ無情。



境界型人格障害???(その2)

2007-01-22 01:41:04 | 報道写真考・たわ言
昨夜、境界型人格障害についてメールを送ってきた友人と、その情報の発信元であった精神科医の先生と話をする機会があった。

前回のブログで書いたような疑問を先生にぶつけてみたのだが、どうやら僕の怒りは誤解に基づくものであったようだ。

境界型人格障害、というものと、ボーダーライン心性という異なったものを僕が混同して考えていたため、おかしなことになったらしい。

ボーダーライン心性というのは、まあ簡単に言ってしまえば、日常の空虚さを満たすために、または生きている充実感を味わうために、あえて危険なことをしてしまうような心性で、ある意味誰もが持っているともいえるし、これを自分でコントロールできているうちは別に日常生活に不都合はないし、それが障害というわけでもない。

しかし、これが極端になっていって薬物中毒になったり、自分や他人に危害を加えるような状態になってしまうと、人格障害に発展し、「病気」ということになるらしい。

だから、精神科医の先生が言うには、僕が問題にしていた登山家や冒険家というような人達は、単にボーダーライン心性が強い人間、ということにすぎず、境界型人格障害というわけではないという。

やっぱりねえ。。。

友人からのメールでは、そのへんの定義が曖昧だったので、勝手に誤解して腹をたて、余計なエネルギーを燃焼してしまった。

この件に関しては書き込みも多く、皆さんをお騒がせしてしまったようなので、一応報告まで。。。失礼しました。



境界型人格障害???

2007-01-18 12:40:10 | 報道写真考・たわ言
友人が、境界型人格障害なるものについてメールをおくってきた。

「普段の生活に空虚感を持っていて、それを満たすために自己を傷つける行為をする」ような人間は、この境界型人格障害にあてはまるらしい。

薬物中毒とか、リストカットとか、無謀運転なども症例だそうだが、極端には登山家や冒険家などもそれにあてはまるという。

死の危険の中で「生きている」という充実感、喜びを感じる。。。

戦場などに行くカメラマンたちにも、ジャーナリストとしての仕事以前に、そういうものに惹かれる人間たちが少なくないことは知っているし、僕自身にもそういう気持ちがないわけではない。弾の飛んでくる戦場という非日常的な空間で、「いま生きている」という充実感のようなもてたことは何度かある。

そんなことを知っている友人は、だから僕も境界型人格障害じゃないのかい?と言ってきたのだ。

確かに僕にもそういう症例がないわけではないし、その定義にもあてはまるかもしれない。

だけど、なんでそれが「障害」なんでしょうかねえ????????

薬物中毒などになってしまうとさすがに問題で治療の必要がでてくるだろうが、登山家や冒険家までひっくるめて、そういう人たちも「障害」を持っているというんだろうか?

誰が名づけたのか知らないけど、だいたいこの「障害」っていうのは一体どんな視点から見て、何に対しての「障害」なんだろうか?

程度の差こそあれ、普段の生活に対して多くの人が空虚感など持っているはずだし、買い物したり美味しいもの食べたりするのも、それを満たそうという行動の一貫だろう。それが、危険なことや命をかけるようなことにまで及ぶようになると、「人格障害」になってしまうのだろうか?

多様な人の生き方、そんなに簡単に言葉で括れるようなものではないでしょう。特に「障害」なんていう言葉をつかって。。。

なんだか無性に腹が立った。



休暇に持っていく機材

2007-01-13 11:53:00 | 報道写真考・たわ言
先日、新聞社でカメラマンの同僚たちと話をしていて驚かされたことがあった。

仲間の一人が休暇をとってモロッコへ行くというので、それがきっかけでそこにいた僕を含めた4人が、休暇旅行のときに持っていく機材のことを話し始めた。

僕は休暇であろうがなんだろうが、カメラ2台にレンズ2本、それからラップトップという最低限の機材は必ず持っていく。現場で何に遭遇するかわからないのは勿論だが、なにか事件があって休暇地から直接現場に飛ばなくてはならない可能性もあるからだ。(といっても実際には今まであまりそういう経験はないんだけれど)

だから、たった一泊だけニューヨークを訪れる時でも荷物が多くなるし、旅行のたびに「ああ、カメラマンじゃなかったらもっと身軽に旅ができるのに。。。」と自分の職業を恨めしく思ったりもしている。

しかし、驚くべきことに、そこにいた3人はみな、休暇中は写真機材はほとんど持っていかないというのだ。さすがにカメラなしというのは考えられないので、一応一台は持っていくが、それが単なるコンパクトカメラだったりする奴もいるし、ラップトップも持っていかないという。

僕は唖然とした。。。新聞社に勤務するプロのニュースカメラマンとして、そんなことがありえるのだろうか?特に今の時代、どこでどんな大事件に遭遇してもおかしくはないではないか?

その中の一人、マイケルがこういった。

「休暇は休暇で、仕事時と区別をつけることが大事なんだ。。。そうでなきゃ休暇中リラックスなんてできないよ」

確かに他の職業ならそうもいえるだろうが、僕らはこっちの都合などお構いなしに発生するニュースを相手にしているのだ。そんなに割り切れるものだろうか?僕などは、もし機材を持っていかなかったら逆に心配になってリラックスなどできはしない。

一般的にアメリカ人(ヨーロッパ人はもっと極端らしいが)は勤務時間とプライベートの境をきっちりつける。報道カメラマンもこの例に漏れず、お国柄なのかなあ。。。などと思ってしまうが、いや、それでも休暇中にもしっかり機材を持っていくアメリカ人カメラマンもいるはずだと、心ひそかに信じている。


写真家の将来

2007-01-09 23:13:56 | 報道写真考・たわ言
ブログにも何度か書いているが、ここ数年新聞の購読部数は減っていく一方だ。簡単にニュースをチェックできる上に、速報性もあるインターネットのために、人々が新聞を読まなくなったのが大きな理由だ。

時代の流れには逆らえず、最近は各新聞社もウェブサイトの充実に力を入れざるを得なくなっているが、おかげで僕らカメラマン達の仕事内容もここ1,2年で随分と変わってきた。

写真のマルチメディア化が一気に進んだためだ。

新聞紙面に載せる写真以外に、ウェブページに掲載するスライドショウのために、音を録ることが必要になってきた。僕もリベリアのものをはじめ、これまですでにいくつかのスライドショウを手がけたが、現場での会話や背景の音を録るために、ボイスレコーダーを持ち歩かなくてはならなくなった。

まだ慣れないので、これが結構面倒なのだ。これまでは写真を撮るための視覚だけに神経を集中していればよかったものを、こんどは音にも気を配らなくてはならない。しかし、まだそういう習慣がついていないので、ついつい音のことなど忘れてしまうのだ。写真を編集し、スライドショーをつくる段階になって「ああ、なんでこのときの音を録ってなかったんだ!」という場面がぼろぼろでてくる。実は最近作ったギフトの養子のストーリでも、足りない音が多すぎてまとめるのに随分苦労したのだ。

まあ、面倒なことはさておき、写真の新たな味を引き出すためにも、音を加えてスライドショーをつくることにはそれなりの価値があると思う。しかし、先日メールで送られてきた写真部のボスからの通達には驚かされた。

なんと、今年から徐々にビデオも導入していく、という。

勿論写真を撮ることが僕らのメインの仕事だが、必要に応じてインターネット用にビデオの撮影も加えていくというのだ。正直言うと、そのうちこういう事態もくるのではとうすうす感じてはいたのだが、まさかこんなに早く自分の身に降りかかってくるとは思わなかった。

一見近いように思われるかもしれないが、ビデオと写真はまったく違った種類のメディアだと僕は思っている。

録る側の思考回路も全く違うし、出来たものを作品としてみるときの視点もまた別なものだ。僕は最も大切な一瞬を「点」として記録する報道カメラマンとして自分の仕事の価値を見出しており、事象を「流れ」として撮影するビデオにはあまり興味をもっていない。

ビデオ映像の必要性を否定するつもりなど毛頭ないが、僕個人としては「写真」に対するこだわりがある。しかし、新聞社の意向として通達がでてしまった今、果たしてこれからも自分の主張をとおして、ビデオなどやらないよとそっぽを向いていられるのだろうか?

僕らカメラマンの仕事形態についての将来のことを考えると、なんだかやたら憂鬱になってしまう。。。

ある中学生からのメール

2007-01-05 19:45:42 | 報道写真考・たわ言
先日、僕の出身地である仙台の中学3年生からメールをもらった。彼女が中学1年のときに僕の写真展をみてくれたそうだが、その後世界の見方が少し変わったそうで、他の写真展や講演会などにも足を運ぶようになったという。

その彼女が、学校の文化祭で出展するためにある文章を書いた。

文化祭のテーマは「地雷」。この学校では、文化祭ごとにテーマを決め、そのことについて学生達が学んだことを発表するという。このときにひらいた「地雷展」の、最初の部分に展示するために彼女が書いた文章を送ってきてくれたのだ。

ちょっと長いが、本人の許可を得たので、全文を引用したい。



「はじめに」

地雷によって世界が受ける傷跡とは何でしょうか?

想像してみてください。
ある国では、地雷による犠牲者の1/3が私たちと同年代か、それ以下の子どもたちだそうです。遊びに行ったはずの兄弟が、数時間後には片足、片腕がなくなってしまった…。裏の畑のすぐ隣は、もう地雷危険区域…。通学路も完璧には安全と言えない。いつ、誰が地雷を踏むか分からない…。そんな事が起こりうるのです。

地雷が何より危険で悲惨だと言われるのは、地雷がどこにあるかが分からないという事にあります。戦争中に、兵士たちを怪我させるために大量に埋められた地雷は、戦争が終わった今も変わらず“敵軍”を地面の中で待っています。地雷は、道を歩いて来る人が“兵士”なのか“民間人”なのか区別することはできません。ですから、戦争が終わった今、残された地雷は一般市民をも犠牲にするのです。何の警戒もない小さな子どもたちや、野菜を採ろうとしていた人たちが地雷の線に引っかかってしまう。戦争が終わって復興を目指す村人たち、戻ってきた難民の人たち…、そんな人たちをも傷つけてしまうのです。

あなたは今日、どこを歩いてきましたか?どの道を歩いてきたとしても、そこに危険なものが埋まっている可能性は限りなく薄いでしょう。
「そこに地雷が埋まっているかもしれない。」
「次の瞬間、自分の足はなくなってしまうかもしれない。」
そんな事を考えて、私達は道を歩いたことがあるでしょうか?
私はありません。多分、クラスの子たちもみんなそう答えるでしょう。あなたはどうですか?地雷の恐ろしさは、日常の恐ろしさなのです。

日本もわずか3年前まで地雷を持っていたことを、あなたは知っていますか?
世界では、撤去されている地雷の数よりも、生産されている地雷の数の方が上回っている事を知っているでしょうか?
今なお世界には地雷が埋まっている国がたくさんあること、たくさんの人たちが地雷によって傷ついていること、地雷のために流された涙を、みなさんに知ってもらいたい!それが、文化祭でこのテーマを取り上げた理由です。

地雷がなくなれば世界が平和なるわけではありません。
では、どうすればいいのでしょうか?私達はこの学習を経ても、その答えを導き出すことはできませんでした。調べれば調べるほど、歴史は難しく折り重なっている事が分かり、人によって全然見方も考え方も違うものだとも分かりました。

「平和」とは、何なのでしょうか?
たったの2文字で表されるこの言葉の意味を、私達は考え続けています。世界にとっての平和とは?日本にとっての平和とは?私にとっての平和とは?あなたの、あなたの目の前にいる人の考える平和とは?…

これを通して、地雷、そして世界の平和を考えてもらえれば幸いです。自分の周りだけでなく、今この瞬間の世界を見てください。そしてもし答えが見えてきたなら、その時、地球はちょっと前に進むことができるでしょう。

3年 池川 香澄



この文章を読んで、僕は思わず唸ってしまった。僕が普段から言いたいことを見事に代弁してくれているような気がしたからだ。

平和な日本では、戦争のことなど、どうしても「他人事」として考えがちだ。

それをいかに「自分にも関係あること」として考えてもらえるか、僕ら報道者たちは頭を悩ますことになる。そうでなければ、結局は「ああ、可愛そう。。。」で終わってしまい、その後の行動に何も結びつかないからだ。

池川さんの文章を読んで、地雷のことを今までと違った見方で、より「身近」に考えるようになった人は少なくないのでは、と思う。

僕はこういう仕事をしていながら、実は世界情勢(特に日本の状況)に対してかなり悲観的な思いを持っている。それでも、池川さんのような若い人たちと出会うと、まだ捨てたものではないかな。。。と嬉しくなるし、なんだか彼らから元気をもらっているような気もするのだ。