友人が、境界型人格障害なるものについてメールをおくってきた。
「普段の生活に空虚感を持っていて、それを満たすために自己を傷つける行為をする」ような人間は、この境界型人格障害にあてはまるらしい。
薬物中毒とか、リストカットとか、無謀運転なども症例だそうだが、極端には登山家や冒険家などもそれにあてはまるという。
死の危険の中で「生きている」という充実感、喜びを感じる。。。
戦場などに行くカメラマンたちにも、ジャーナリストとしての仕事以前に、そういうものに惹かれる人間たちが少なくないことは知っているし、僕自身にもそういう気持ちがないわけではない。弾の飛んでくる戦場という非日常的な空間で、「いま生きている」という充実感のようなもてたことは何度かある。
そんなことを知っている友人は、だから僕も境界型人格障害じゃないのかい?と言ってきたのだ。
確かに僕にもそういう症例がないわけではないし、その定義にもあてはまるかもしれない。
だけど、なんでそれが「障害」なんでしょうかねえ????????
薬物中毒などになってしまうとさすがに問題で治療の必要がでてくるだろうが、登山家や冒険家までひっくるめて、そういう人たちも「障害」を持っているというんだろうか?
誰が名づけたのか知らないけど、だいたいこの「障害」っていうのは一体どんな視点から見て、何に対しての「障害」なんだろうか?
程度の差こそあれ、普段の生活に対して多くの人が空虚感など持っているはずだし、買い物したり美味しいもの食べたりするのも、それを満たそうという行動の一貫だろう。それが、危険なことや命をかけるようなことにまで及ぶようになると、「人格障害」になってしまうのだろうか?
多様な人の生き方、そんなに簡単に言葉で括れるようなものではないでしょう。特に「障害」なんていう言葉をつかって。。。
なんだか無性に腹が立った。
「普段の生活に空虚感を持っていて、それを満たすために自己を傷つける行為をする」ような人間は、この境界型人格障害にあてはまるらしい。
薬物中毒とか、リストカットとか、無謀運転なども症例だそうだが、極端には登山家や冒険家などもそれにあてはまるという。
死の危険の中で「生きている」という充実感、喜びを感じる。。。
戦場などに行くカメラマンたちにも、ジャーナリストとしての仕事以前に、そういうものに惹かれる人間たちが少なくないことは知っているし、僕自身にもそういう気持ちがないわけではない。弾の飛んでくる戦場という非日常的な空間で、「いま生きている」という充実感のようなもてたことは何度かある。
そんなことを知っている友人は、だから僕も境界型人格障害じゃないのかい?と言ってきたのだ。
確かに僕にもそういう症例がないわけではないし、その定義にもあてはまるかもしれない。
だけど、なんでそれが「障害」なんでしょうかねえ????????
薬物中毒などになってしまうとさすがに問題で治療の必要がでてくるだろうが、登山家や冒険家までひっくるめて、そういう人たちも「障害」を持っているというんだろうか?
誰が名づけたのか知らないけど、だいたいこの「障害」っていうのは一体どんな視点から見て、何に対しての「障害」なんだろうか?
程度の差こそあれ、普段の生活に対して多くの人が空虚感など持っているはずだし、買い物したり美味しいもの食べたりするのも、それを満たそうという行動の一貫だろう。それが、危険なことや命をかけるようなことにまで及ぶようになると、「人格障害」になってしまうのだろうか?
多様な人の生き方、そんなに簡単に言葉で括れるようなものではないでしょう。特に「障害」なんていう言葉をつかって。。。
なんだか無性に腹が立った。
稀な仕事(?)を生業にしている人全てボーダーなんですかね^^;
消防士も医者も警察館も自衛隊や軍もそうなんでしょうか?
私が知ってるボーダーの定義はそうじゃないんですが(仕事柄知ってる定義ですが)
精神・神経の病はそれこそボーダーが曖昧なので、難しいものです
私は障害者と一緒に暮らしているので、障害というものの困難さをよく知っているほうだと思います。障害というものは、定期的になお時間を何度も重ねて見つめないと詳しい診断は不可能だと思います。
登山家や冒険者にそのけ(笑)があるというのは、そう感じていますが、もっとも重要な点は「仕事が継続している」と言う部分ではないか、と思います。複雑なやりくりをしないと仕事なんて続かないからです。その能力が病気があっても継続されているとしたら、どう判断できるのでしょうか。一般の人の方が病気がなくて、仕事が続かなかったら。もしくは、病気がなくて収入が少なくて家庭内不和があったとしたら?みんな障害と病気ですかねえ。
私は、障害などあっても自分の適性にそって仕事や自分の能力を使おうとしている人、またはトラブルがありながらも自分と相手を考え続け素直になろうと努力している人に「障害者」とは言えないです。私だって、素直になろうと思っても、素直になれなかったり、適性をそのままつかみ取れず、大きくみせようと思ってしまったりします。そういう点は確実に彼らよりも劣りますから。
障害というものは、その様子を知ってそのヒトたちとどう繋がって行くか、というコミュニケーションを考える資料の一つだと思っています。差別や見下しや、レッテルを貼る為に使う道具ではないと思うのです。そのヒトのその様子は、そのヒトの歴史も絡んできます。それは一つの日々磨き続けた宝物のようなもの。そしてまた、障害があったからといって、それは何から逃げるための道具にはならない。
高橋さん、どうかその相手の方に「なんとでも言ってくれ」と返信してください(笑)。なんと言われようと、高橋さんの写真ははっきりその時々の高橋さんを記録し続けています。実は、有名なアーティストにはそれらしい人がたくさんいるようです(高橋さんはアーティストではないですけど)。私は、最近障害を持つこともある種才能の一つかもな、とか思えたりすることがあります。障害があってなおそれをカタチにして残すこと自体、もう障害名とかどうでもよくなってきますよ。才能が欲しくても得られない人が私のようにたくさんいますから(笑)。だいたい年をとるととくかく障害が増えます。視力もカラダも。みんな死と障害を得ないで生きて行くことはできません。
個性を適材適所で生かす、
何がノーマルで、何がアブノーマルかなんて分からないですよね。
聖職者も、登山家も、冒険家も、アスリートも何かに打ち込むときに、自分の命の輪郭をなぞるならば、尊いことではないでしょうか?
そんなところに名前をつけてカテゴライズすることになんの意味があるのでしょうね?
アブナイ行為をするヒトを、「治療」するためなんでしょうけど・・・
形も色も違って、当たり前の人間という生き物。
ありのまま、なりたい自分でいることが、仕事に繋がって、生かしあえればいいですね。
金子みすずではないですけど、
「みんな違って みんないい」
ですね。
「病気」という概念自体が、人間が勝手に決めたものだから、どの状態を病気と呼ぶかってつきつめると、認定する人(医者とか、本人とか)がいたときってことになるのでしょうか。
人生のなかで、ひどく落ち込む状態は時々あるけど、病院にいかないと、それをウツとは呼ばないでしょうから。
僕が腹をたてたのは、そのメールを出してきた友人に対してではありません。(実際にその友人も、自分にもその気があるなどといっているくらいです)医者なのか心理学者なのかはわかりませんが、はじめにこの境界型人格「障害」というカテゴリーをつくった人間に対して「むかついた」わけです。なんだか高見から見下すような、そういう「自分とは違う種類」というように何でもかんでも分類分けして満足するような考え方(それも「障害」というような言葉をつかって)、を想像して拒絶反応がでました。こんなのは、単なる「極端な性格」であって、「人格障害」などと定義する必要ないでしょ、といいたかったのです。
ボーダーはあくまでも精神の病ですから
でも確かに人格障害という病名は違いますよね^^;
たぶん病理を専門とする人は、なんでもその視点で物事を見てしまうのに、悪気はないのではないでしょうか。
マッド・サイエンティストみたいに、ひとつの専門性を突き詰めると、はたからみて行き過ぎてしまうのは、それはそれで「極端な性格」? あるいは「障害」?(笑)
けれど、障害名というのは私の立場から言わせて頂けば、いたしかたないものかなと思ったりもします。
前にも書きましたが、相手とのコミュニケーションをとる一つの資料と考えるとそれは、本人自身にとってかなり役に立つと思うからです。障害のある子たちもこの「障害名」と「自分」の関係をそう簡単には受け止められません。まさしく、邦さんが語るようなことを語りだす子もいます。「ボク、バカにされないかな。そんな病名が付いたら」とか言う子は多いです。そして、それも確かにそうだよなとも思えます。しかし、これがあることによって気持ちがラクになる人もかなりいます。受容、ということなんですけれども。自分のカタチを違う視点から見るということかもしれません。
実はこの境界性人格障害は多くのトラブルを引き起こします。他者との関係性の病理ですから。そして、本人はそれに悩んだりもします。しかしながら、病名があることによって多くのサポーターを得れる、または理解者が増えることによって薬とコミュニケーションとでその障害を軽減することができたりもします。例えば、病気によって仕事でニンゲン関係のトラブルが増え、処理の方法がわかりませんから、障害を持ったまま相手とコミュニケーションをとったため、多額の違約金を求められ仕事もできずに、一人悩んでいるという方もいたりします。そうした場合、国からのサポートを貰う為には、障害名を付けざるを得ないこともあるでしょう。
これは、詐病などもありますから一概にどうこうとは書けませんが、それでも病名はレッテル貼りのためにだけ存在するのではないと私は思っています。まず知ること、そして治療し、また同じ病気の仲間と集うことで社会へ出向き、そして自分を理解しようとしながら、向き合って行くというきっかけができることで、それこそ障害を生産的に変換して行ける一つのきっかけであるような気がします。程度によっては、国から金銭的にサポートしてもらえるとも思いますが、殆どの場合子供らもそうですが軽度障害の子供らは、適切な対応をしてもらえていません。むしろ普通に近いのだから、普通の世界でやっていけ、というような感じ。そのことによって、かなりの子供たちが精神的な圧迫と、精神系の病気を思春期以後に抱えたりしています。そういう現状を見ていると、障害というものをもっと身近に感じること、障害というものになれることこそが予防にも繋がると思うのです。誰でもが、そういう状況になる可能性がある。ならば、それをよく知って日々の中で自分のこととして考えることは、病気や障害の他者を知ることにもなる。私は、そういう道具として障害の知識が広がることを悪いことだとは思っていないのです。あー、そういうのあるねえ、という受け止め、そしてまた障害というものの適切な捉え方を伝えていける人が増えれば、それはそれで生きやすくなるかな、とも思えています。