熊本熊的日常

日常生活についての雑記

噺の話

2017年08月17日 | Weblog

今日もほぼ家のなかで過ごした。昼頃に郵便局とコンビニに出かけてすぐに戻ってきただけだ。

昨日、「金明竹」を聴いたついでにDVDボックスの小冊子を読み出したら止められなくなり3冊読み通してしまった。私がとやかく書くよりも抜き書きを並べたほうがよいかもしれない。

自由闊達な考えを育むということより、与えられたテーマのなかで百点をとるということに汲々として育っていくなんて残念ながらろくなものにならないですよ。それは大震災があってもどうしていいのかわからない政治家にしかならない。慌てて何かを隠そうとする電力会社の上役にしかならない。これが日本の縮図じゃありませんか。(上巻 38頁)

勉強さえできれば一人前だと思っている、そういうやつらが官僚になったり、政治家になったりして、ろくな国になるわけないじゃないですか。(上巻 55頁)

「いいんだよ、その料簡になりゃあ。その料簡になりゃ、自然にそういう手つきになってくるんだから」(上巻 58頁ほか)

そこでどっちかがどっちかを説得しようとすると、ろくなことにはならないってことは、うちばかりじゃなくて世間を見てよく知ってますから。(中略)正当性と正当性がぶつかるから、そこに生活というものが出てきて面白みが出るわけですね。(上巻 64頁)

晩年の師匠の噺は強く印象づけようという気持ちもない、ただ淡々と、訥々と言葉が並んでいくだけみたいなんです。棒読みといえば棒読みなんだけど、実は棒読みじゃない。それは言葉の裏にちゃんと背景を持っているからなんですよ。シーンを、シチュエーションを、持っているからですよ。心を持っているからですよ。(上巻 69頁)

何かを考えて人を感心させてやろうとか、結果を考えて動いたら、結局、ああ、この程度の芸かというのがだんだん見えてくるんじゃないですか。つまり、修業というのは、芸をどうするかじゃなくて、自分という人間をどうしたらいいんだということかな。自分自身の人間管理。「心邪な者は噺家になるべからず」ってことを小さんはよく言ってましたけどね。「邪」ってどういう意味なのかねえ。(下巻 25頁)

守る会いらない。守らなきゃなくなっちゃうようなものはなくなればいいんです。なくなったらそれに代わるような何かが出てくるんだから。(下巻 28頁)

度量ということは、無理にその思いを込めるということではなくて、自然な人の生き方や、その思いというものを自然に演者が心得て、自然に演じるということかな。無理やりそう思わせるということではなくてね。自然にやることによって聴く人は、ああも感じ、こうも感じるという、多種多様な感じ方をする。そうなってくれれば一番いいなと思うんですね。(中略)だから結局、噺というものは、噺を聴くんじゃなくて、その人を聴くんですよ。その人の生き方や考え方を。(下巻 37頁)

なりきれば、状況もストーリーもわかり、当たり前のように表現されていくというわけです。(下巻 48頁)

人に宣伝してかついでもらわなきゃ町おこしにならない町おこしはおかしい。(中略)中央にいる者が、「地方っていいねえ」って、もっとうらやましくなるようなもっと根本的なものがあるんじゃねえか。それを思いつかないんだな。やっぱり上に立つやつがバカだからでしょう。(下巻 72頁)

「全集」の小冊子のなかに小三治と扇橋の対談があって、そのなかで俳句について語っているところがある。小三治が作った俳句の推敲の履歴が語られているのだが、その変化が面白かった。自分も俳句とか和歌を詠んでみたいと思って本を買ってみたりしたことがあるのだが、どうもいけない。しかし、諦めたわけではないので、いつかなんとかしてみたいとまだ思っている。

暗闇を切りさいてゆく蛍かな(小三治オリジナル)

蛍ひとつ闇の深さを忘れゐし(扇橋による推敲)

やわらかく闇を切りさく蛍かな(小三治による推敲)

やわらかく闇を切りゆく蛍かな(扇橋による推敲)

やわらかき闇を切りゆく蛍かな(鷹羽狩行による推敲)

でもね、この句はおれの句ではなくなっちゃったな、と思った。(小三治)

俳句でいろいろ感じるのは、詠んだ当人じゃなくて、じつはその句を詠んで感じる人の側なんです。でも、得てして、詠んでる人と感じる人は違うことを思ったりすることがある。そこも面白い。落語と同じ。(全集 72頁)

私は最後の「落語と同じ」の「落語」を「生活」とか「暮らし」に置き換えても同じだと思う。 

引用元 いずれもDVDボックスに付属の小冊子
『落語研究会 柳家小三治 大全 上』 TBS 小学館
『落語研究会 柳家小三治 大全 下』 TBS 小学館
『落語研究会 柳家小三治 全集』 TBS 小学館