熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あけくれの夢

2010年03月08日 | Weblog
出光美術館の特別講座「文学でやさしく読みとく、日本のやきもの」を受講した。文学とやきものとの関係について興味深い話だったが、一際印象に残ったのは、乾山の自作に関するマーケティングである。初めて知ったことなのだが、乾山は完全受注生産だったというのである。しかも、ひとりひとりの客を熟知していたという。

乾山に代表される京焼ブランドは、当時の武家が抱いていた都の文化への憧憬を背景に、時の新興陶磁器であった伊万里に対抗する形で登場したというのである。

伊万里のほうは、海外市場までも視野に置いた大量生産なので、当然に個々の顧客というものへの意識は希薄である。その時々の市場の流行を反映し、売れそうなデザインのものを大量に生産して商流に乗せるという見込み生産の商売だ。大量生産なのでコストは安くなる。人目を引く派手なデザイン、あるいは当時の先進地域である中国の風を感じさせるようなデザインで、市場を席巻するようになったという。

京焼はそうした伊万里へのアンチテーゼでもあったのだろう。使い手である知識階級の人々の教養や好みを知り、そうした人々の美意識を刺激するようなものを目指したということだ。その教養の基礎となるのが、和歌や漢籍であり、能楽であり、要するに文学であった。やきものを通して作り手と使い手が心を通わせたという、単なる商品流通を超えた、それ自体が文学とでも言えるような世界がそこにあったのである。やきものの意匠は単なる装飾ではなく、作り手と使い手との間の何百もの文通にも相当するような深い意味や想いが込められている。

自分が陶芸だの茶道だのと齧り回っている背景には、実はそういう類の豊かさを志向した人間関係を構築できないかという問題意識がある。もう老い先も見えてきたので、最後くらいは少し実があると感じられるようなことをしてみたいのである。

尤も、そんな乾山も自分が盛んにした京焼の世界には満足できなかったようで、このブログのなかで何度か引用している歌を残して孤独死している。

うきことも うれしき折も 過ぎぬれば
ただあけくれの 夢ばかりなる

結局最後に至るのはこのような境地なのであろう。だからこそ、何事か自分の思い描くことを実現して、いくばくかの実の感触を求めつつ、夢心地のまま最期を迎えてみたい。