熊本熊的日常

日常生活についての雑記

一坪の国

2010年03月28日 | Weblog

子供と一緒に小林賢太郎のライブ「POTSUNEN 「SPOT」」を観てきた。印象的だったのは、最後の「一坪の国」だった。ライブ全体の要のようなもので、全体を総括する位置づけのものだったが、そのなかで語られていた国というものが、個人と国との関係を謂い得ていたように感じられた。ひとりひとりの人間にとって、その人が属する国はその人そのものであるということだ。

例えばオリンピックのとき、テレビの前で日本人選手が出場している競技を観ている「日本人」は、そこに自分を見ているのではないだろうか。だからこそ、その選手の成績が我が事のように感じられるのだろう。「日本」という自分の帰属先の共同体を共有しているというだけで、テレビ映像のなかの「日本人」選手と「日本人」たる自分とが「日本」を通じて一体化されるのである。「国」とは「自分」なのである。

人間に限らず、生物は自他を識別して生きている。自分の安全を図り、他者の排除を図り、自己の世界を形成する。そこに感情や理屈はない。機械的に自他を区別する。時として自己と識別すべきものを他者として排除を図るという過誤を犯すこともある。人体の細胞レベルでそうしたことが発生すれば、それは要するに病気ということだ。免疫系の不全状態ということになるだろう。人間の集団のなかでそうした事態が発生すれば、その集団の規模によって、「喧嘩」「抗争」「紛争」「戦争」などいろいろな呼び方をされる。同じ国の国民どうしであっても、目先の利害の対立のほうが当事者にとって身近な問題であれば、その瞬間は日本という共同体は意識の外に置かれてしまう。「自分」というのはアメーバーのように、その時々の状況に合わせて拡大したり縮小したりするものだ。

ところが、世の中には日本のように単純に「国」と称することのできる国というのは殆どない。国境はめまぐるしく変化し、国民の構成も一定ではないという国のほうが多数派であろう。その不確定な状況が世界に平和が一瞬たりとも訪れない要因のひとつではないかと思う。

2月27日付のこのブログにブルガリアのこと書いた。「ブルガリア」とは「ブルガール人の国」という意味だそうだが、「ブルガール人」というトルコ系の遊牧民はもういない。他の民族と混血してしまい純粋のブルガール人というのは存在しないというのである。では、ブルガリアに住んでいるのは何者なのか。トルコ系の住民とスラブ系住民が中心で他にギリシア系住民もいるという。つまり、宗教はイスラム教もキリスト教もあり、言語はスラブ語系で、料理はトルコ系というような具合なのだそうだ。そこに民族としての統一性も無ければ共有する文化もないだろう。第二次世界大戦後にソ連の衛星国となるまでは王国で、王家はドイツ系だという。それでもそうした人々がブルガリアというひとつの国を形成している。

アメリカは移民国家で、イギリスは正式な国名を「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)」という。ちなみに現在の英国王室であるウィンザー家はドイツ系で、そのドイツも正式国名は「Bundesrepublik Deutschland(ドイツ連邦共和国)」で、つまりは小さな国の連邦だ。

「日本人」として日本で暮らしていると意識することは殆どないのだが、自分と自分が属する国家を当然の如くに重ね合わせて考えることができる人というのは、世界ではかなり少数派なのではなかろうか。幸か不幸か、日本はその起源がよくわからない。一応、記紀に基づいて紀元前660年2月11日に神武天皇が即位した日を建国としているが、それは神話の世界の話なのか事実なのか、今となっては確かめようがない。国の起源が不明瞭ということは、それだけ社会が安定しているということでもある。国民としてのアイデンティティが確固としているので、それを改めて確認しあう必要がないということだ。日本は明治時代になって漸く外国との本格的な付き合いが始まった。ということは19世紀後半までは「国民」とか「日本人」という概念も無かったはずだ。なぜなら、他人を知らずに自分というものは存在し得ないからだ。

結局、「国」とか「国民」というのは、異質の国や国民と対面した状況下で形成される、そこで暮らす人々の「自分」の最大公約数のような便宜的なまとまりとでも言うようなものではないか。世界の人や物の流れが活発になって、世界が地理的にも心理的にも小さなものに感じられるようになったとしても、現在に至る歴史や文化を共有していない人々と同じ共同体に帰属しているという感覚を持つことは難しいだろう。国というものは、結局のところ、個人が自己と重ね合わせることができる程度の大きさ以上にはならないということでもあると思う。グローバルという言葉の持つ空々しい響きもこのあたりに由来するのだろう。