昨日は電気の検針があって、6月分の電気料金が確定した。その金額2,005円、前年同月比14.4%減。現在の住処での最低記録を更新した。それ以前の最低記録は2009年の2,088円で、やはり6月だった。使用量で見ても今月は1日あたり2.3kWhで最低記録を更新した。それ以前の最低記録は2.6kWhで今年4月である。やはり昼間の勤務になってから家にいる時間が短くなっているということなのだろう。
ちなみにガスのほうは従前と然程違わない。炊事は減ったが風呂は相変わらずなので、消費量としては限界的な変化しかないということなのだろう。6月のガス料金は2,458円で前年同月比7.5%減だ。
電気料金は値上げが決まっており、先日は衆議院で消費税の税率引き上げが決まった。一方で、4月からの勤務先では前の勤務先に比べると給料の手取りが若干減っている。4月にわずかばかりの退職金が振り込まれ、先月は確定拠出年金のこれまでの積立分が帰ってきたので、今は手元に比較的余裕があるが、来月か再来月あたりからはそう安穏としているわけにもいかなくなるだろう。しかし、だからといって萎縮してしまうとますます閉塞状態に陥ってしまうので、ここは自分の胆力が試されていると見ることもできる。愛用している「ほぼ日手帳」にはこんなことが印刷されている。
***以下引用***
なにか頼むのに声をかけやすい人っているでしょう。それは、渋い顔してる人からしたら、「なめられてるんじゃね?」と思うかもしれませんが、すばらしいことなんじゃないかなあ。「機会」がすべてなんですよね、なにごとも。いい「機会」ばかり待っていたって、そんなのしょっちゅうあるわけがない。ろくでもない「機会」や、たいしたことのない「機会」が、どれだけ得られるかが、経験なんですよね。———糸井重里が『今日のダーリン』の中で
***以上引用***
その通りだと思う。目先のしんどさにかこつけて気持ちや生活姿勢を萎縮させることは自殺行為だろう。生きている間は「機会」を求め続けるしかないのである。それができなくなったら、そのとき改めて自殺でもなんでもすればよいのである。とにかく今は、やってみたいことを諦めないことが肝心だと思っている。勤務の拘束が長くなろうが短くなろうが、そんなことはどうでもよくて、自分が外部に働きかけ続けることを愚直に続けることが生きるということではないかと思うのである。そのうち、電気料金だのガス料金だのという瑣末なことではなしに、自分にとってもっと大きなことで「記録更新」となるかもしれないではないか。