大和八木駅前でレンタカーを借りて吉野へ行く。車を借りる一連の手続きのなかで、レンタカー事務所の人が吉野に行くなら天川村にも足を延ばすといいと勧めてくれたので、まずは天河大辨財天へ向かうことにした。
道は山の中へ山の中へと続くのだが、その割に交通量がほどほどにあって、山道を往く不安のようなものは感じさせない。そうこうするうちに天河大辨財天社に到着。境内の駐車場はそれほど大きくないが、難なく駐車できた。その後で、バスで団体客が乗り付けてきて、あっという間に駐車場は一杯になった。そういう神社なので、車がないと不便な立地の割には境内は賑やかだ。参拝する人が多いということで社の整備も行き届いている。伊勢神宮のように決まった周期で建て替えが行われるところもあるくらいだが、そもそも神社というのは毎年のように境内を新しいものにしたはずだ。その名残がお札やお守りのお焚き上げだろう。しかし、現実には老朽箇所の補修すらままならないところが多く、やむを得ず古い社を大事に使っているということなのだと理解している。天河大辨財天は鳥居も比較的新しく、社殿は1989年に立て替えたそうだ。縁起によれば7世紀に役行者が活動の拠点とし、空海がここで修行の後に高野山で真言宗を築いたとある。南北朝のときには、後村上天皇が一時期身を寄せ、その宮殿跡の石碑が境内を少し外れたところにある。
このあたりは霊場なので、ほんとうは車で来るようなところではないのだが、山道を対向車が来ないことを祈りながら慎重に運転する。1時間ほどで吉野だ。とりあえず金峰山寺近くの民営駐車場に車を置いて、昼ご飯の食べられそうなところを探す。葛の専門店があり、店の人が講釈をしながら葛餅とか葛切りを出している。予約制で、1時間半ほどの待ち時間で頂くことができるとのことだったので、予約をする。ちょうど近くの吉水神社にお参りするのによい時間。
吉水神社は吉野山を統率する修験宗の僧坊だった。後醍醐天皇の皇居だったことから明治の神仏分離で吉水神社と改められたという。祭神は後醍醐天皇、その忠臣であった楠木正成と吉水院宗信法印を合祀。南朝の皇居もそうだが、こんな山の中にどうして、と思うようなものがたくさんある。後醍醐天皇の後の時代では秀吉が花見にやって来たという千本桜を一目に見渡すことのできる絶景スポットとしても有名な場所だ。
ソメイヨシノが江戸時代に造られた品種であることは、以前に染井の近所で暮らしていたのでよく知っているが、桜を愛でるようになったのはいつからなのだろうか?例えば、俳句で「花」といえば桜を指すことが多いらしい。ソメイヨシノだけでなく園芸種としての桜が数多く造られたのが江戸時代だそうだ。あの花とこの花を交配してみよう、という発想の背景として、「あの花」も「この花」も当たり前に存在しているはずなので、少なくとも江戸時代以前に数多くの品種があって、桜の花を鑑賞する文化が存在していたと考えるべきだろう。桜は平安時代の国風文化勃興の中で人気が上昇したそうだが、それほどこの国で愛されるようになったのは何故だろう?
今回は訪れなかったがが吉野には宮滝遺跡がある。飛鳥時代の離宮である吉野宮があった場所とされ、後醍醐天皇よりもずっと昔から都人が行ったり来たりしていたらしい。都人の「都」は平城京以前のちょいちょい移転していた頃の時代からだ。吉野宮にまつわる歌は万葉集にいくつも収載されているくらいなので、おそらく今の風景とは違った色彩を帯びていただろう。やっぱり、そのあたりの感覚は車で来たのでは絶対にわからない。かといって、飛鳥あたりから歩いてくる気力も体力ももうない。尤も、わからなくて一向に差し支えないし、歩いてみたところで私如きには何も発想など湧かないだろう。
葛の専門店では、御主人が葛の説明から始める。客は説明を聞きながら葛餅や葛切りが出来上がるところを見物するのだが、主人は一方的に説明をするのではなく、ときどき葛にまつわる質問を我々に投げかけてくる。私を含め、他の客も沈黙してしまうのだが、妻にとっては当たり前のことばかりのようで、ホイホイと答えて主人のほうが言葉に詰まったりする。説明が終わり作業にとりかかると程無く葛切りと葛餅ができあがる。あたたかいうちに食べる。本来はそういうものらしい。砂糖を加えたりしていないのに、適度な甘さがあって、腹に素直に収まる印象だ。葛だけで必要な栄養が摂れるとは思えないが、自然に身体に取り込まれるような食事をしていると、健康には良い気がする。
金峯山寺は南大門が改修工事中。例の青くて大きな蔵王権現は原則秘仏なので拝むことは能わず。それでも、参拝できたことに安堵のような喜びのような感情が湧いてくる。神社仏閣というのは不思議なもので、知名度と参拝したときに感じるものとの間に相関がない。有名だからありがたいとは思わないし、たまたま通りかかってお参りしたのに、良いところに出会えたと嬉しくなることがある。ここの塔頭で脳天大神というところがある。お参りすると頭が良くなりそうな名前なので、境内の矢印に従って行ってみると果てしない階段を下りていくことになる。或る程度まで下りたところで帰りの登りが気になり始める。しかし、そこで引き返すと却って中途半端なことになるので覚悟を決めて階段を下り続ける。おそらく、この「覚悟を決める」というのは大事なことなのだろう。信心を試されているかのようだ。尤も、信心に関係なく「せっかくここまで来たのだから」というセコな気持ちで参詣することだってあるだろう。齢を重ねて体力気力が衰えると、信心よりも「せっかく」のほうが行動の動機として強くなったりする。
金峰山寺のお参りを終えて、車で吉野の山を下り始める。吉野神宮にも参詣する。ここは明治に創立された新しい神社だ。新しい神社仏閣というのは、どうしても取ってつけた感が否めない。あと数百年すれば、ここも有難みが出てくるのだろうか。
車を返却する時間まで余裕があったので、昨年行きそびれてしまった岡寺に参詣して奈良へ戻る。
夕食は東向商店街にあるクラフトビールの店に行く。イギリスのパブのような雰囲気で、外人客が多い。パブとは違って注文はフロア担当の店員にお願いする。ビールのお店で食事はおつまみ程度なのだが、料理はちゃんと旨い。