出来過ぎた話だと思う。こんなことあるわけないだろうと思ってしまうのは、それだけ私が邪悪であるということの証左なのだろうか。
命を賭けてやることとはどのようなことだろうか。少なくとも金のためということではないだろう。勿論、シニフィアンとしての金銭とそのシニイフィアとの対応は人により、状況によりさまざまであるので一概には語ることができない。本作で描かれているように、資金繰りに窮してやむにやまれず目先の儲け話に乗ることはあるだろう。きっかけは金儲けでも、そのことに関わるなかで自ずとリスクとのバランスとか、そのことに関わる意義のようなものを考えるようになるものだろう。あるいは、一旦動き出した事態の慣性に従うだけということもあるかもしれない。
主人公は南北戦争の時は北軍の狙撃兵だったが、戦争で脚を負傷して退役し、その後は不自由な脚を抱えながら小さな農場を経営している。その敷地が鉄道建設用地になることが内定し、そのことを彼よりも先に知った隣地の農場主が、自分の敷地から彼の敷地へ流れている川をせき止め、彼の農場が干上がるように工作をする。さらに手を回し、水を失って打撃を受けた主人公に高利で融資をして借金の形にその敷地を手に入れようとする。水攻めに遭い、その同じ敵に財布も握られ、家計は破綻寸前で、身体も思うように動かず、家族からは軽蔑される。うだつが上がらない、という言葉があるが、それどころではないのである。いよいよ破産、というときに囚人護送の話が降って沸いてくる。これに乗るのは、話の流れとしては、自然なことだろう。
しかし、その囚人というのは腕利きの強盗団の首領である。まだまだ法の秩序が未熟な開拓時代の米国で、強盗団の首領を捕まえた町の保安官たちには犯人を即座に射殺してしまうという選択肢もあった。それを敢えて裁判にかけることにしたのは、彼等の被害を何度も受けている鉄道会社の幹部が一罰百戒を意図して、見せしめとしての死刑を行いたいという、多少情緒的な要素も多分に含まれていた。囚人護送は、政治権力による法執行というより、民間企業の事業リスク低減を目的とした民事上の契約行為なのである。つまり、主人公は囚人護送という任務を完遂することで鉄道会社から報酬を得る、臨時雇用の警備員のような役割を担うのである。
勿論、報酬の200ドルというのは当時としては大金であり、数日間の仕事で数年分の所得を獲得し、借金を返済して生活の立て直しもできれば、命を賭ける価値はあるとの計算はあっただろう。それ以上に、家族、とりわけ自分に対して軽蔑の眼差しを向ける長男の認識を変えたいという動機も強く働いたのではないだろうか。
親というものを経験したことのない人には理解できないだろうが、人は自分の子供の視線というものを否応無く意識するものなのである。それは自分自身の倫理観や価値観をも左右するという点で、宗教にも似た強い意識だ。有り体に言えば、いいところを見せたい、ということなのだが、「いいところ」の意味するところは人により、状況により様々である。消費行動や薄っぺらな知識のひけらかしというようなわかり易い行動に走る人も少なくないだろうが、多少なりとも知性だの良識だのがあれば、部外者からは推し量り難いその人なりの論理が行動に体現されるものである。
本作の主人公は、200ドルという賞金も目的の主要なものなのだが、それ以上に、彼が考える人としての倫理観、人として生きる上での彼なりの矜持というものを全うしたかったのではないだろうか。本作では、家で留守を守るように言いつけられた長男が、その言いつけに反して主人公の後を追って囚人護送に加わってしまうので、結果として、物理的に主人公親子の物語性が強く出てしまっているが、私は息子をこのような形で登場させるのは話の深さを損なうことになると思う。主人公が孤独に、無様に、悲惨に最期を迎えることで、観客に主人公の心情を想像させ、わかる人にだけわかればいいというくらいの冷徹な描写に徹したほうが、作品としての深さが出たように思う。尤も、話をわかりやすくしないと興行収入があがらないということもあるので、このような中途半端さは許容しなければならないのだろう。
先日観た「ポー川のひかり」のように、この作品を観る際にも、キリスト教とか一神教といったものに根ざす倫理観をある程度は知っておいたほうがよいのかもしれない。本作は、日本では公開されたばかりだが、製作は2007年である。今という時代にこのような作品が米国で製作され、それがそこそこヒットするということが意味するところに興味深いものを感じないわけにはいかない。
命を賭けてやることとはどのようなことだろうか。少なくとも金のためということではないだろう。勿論、シニフィアンとしての金銭とそのシニイフィアとの対応は人により、状況によりさまざまであるので一概には語ることができない。本作で描かれているように、資金繰りに窮してやむにやまれず目先の儲け話に乗ることはあるだろう。きっかけは金儲けでも、そのことに関わるなかで自ずとリスクとのバランスとか、そのことに関わる意義のようなものを考えるようになるものだろう。あるいは、一旦動き出した事態の慣性に従うだけということもあるかもしれない。
主人公は南北戦争の時は北軍の狙撃兵だったが、戦争で脚を負傷して退役し、その後は不自由な脚を抱えながら小さな農場を経営している。その敷地が鉄道建設用地になることが内定し、そのことを彼よりも先に知った隣地の農場主が、自分の敷地から彼の敷地へ流れている川をせき止め、彼の農場が干上がるように工作をする。さらに手を回し、水を失って打撃を受けた主人公に高利で融資をして借金の形にその敷地を手に入れようとする。水攻めに遭い、その同じ敵に財布も握られ、家計は破綻寸前で、身体も思うように動かず、家族からは軽蔑される。うだつが上がらない、という言葉があるが、それどころではないのである。いよいよ破産、というときに囚人護送の話が降って沸いてくる。これに乗るのは、話の流れとしては、自然なことだろう。
しかし、その囚人というのは腕利きの強盗団の首領である。まだまだ法の秩序が未熟な開拓時代の米国で、強盗団の首領を捕まえた町の保安官たちには犯人を即座に射殺してしまうという選択肢もあった。それを敢えて裁判にかけることにしたのは、彼等の被害を何度も受けている鉄道会社の幹部が一罰百戒を意図して、見せしめとしての死刑を行いたいという、多少情緒的な要素も多分に含まれていた。囚人護送は、政治権力による法執行というより、民間企業の事業リスク低減を目的とした民事上の契約行為なのである。つまり、主人公は囚人護送という任務を完遂することで鉄道会社から報酬を得る、臨時雇用の警備員のような役割を担うのである。
勿論、報酬の200ドルというのは当時としては大金であり、数日間の仕事で数年分の所得を獲得し、借金を返済して生活の立て直しもできれば、命を賭ける価値はあるとの計算はあっただろう。それ以上に、家族、とりわけ自分に対して軽蔑の眼差しを向ける長男の認識を変えたいという動機も強く働いたのではないだろうか。
親というものを経験したことのない人には理解できないだろうが、人は自分の子供の視線というものを否応無く意識するものなのである。それは自分自身の倫理観や価値観をも左右するという点で、宗教にも似た強い意識だ。有り体に言えば、いいところを見せたい、ということなのだが、「いいところ」の意味するところは人により、状況により様々である。消費行動や薄っぺらな知識のひけらかしというようなわかり易い行動に走る人も少なくないだろうが、多少なりとも知性だの良識だのがあれば、部外者からは推し量り難いその人なりの論理が行動に体現されるものである。
本作の主人公は、200ドルという賞金も目的の主要なものなのだが、それ以上に、彼が考える人としての倫理観、人として生きる上での彼なりの矜持というものを全うしたかったのではないだろうか。本作では、家で留守を守るように言いつけられた長男が、その言いつけに反して主人公の後を追って囚人護送に加わってしまうので、結果として、物理的に主人公親子の物語性が強く出てしまっているが、私は息子をこのような形で登場させるのは話の深さを損なうことになると思う。主人公が孤独に、無様に、悲惨に最期を迎えることで、観客に主人公の心情を想像させ、わかる人にだけわかればいいというくらいの冷徹な描写に徹したほうが、作品としての深さが出たように思う。尤も、話をわかりやすくしないと興行収入があがらないということもあるので、このような中途半端さは許容しなければならないのだろう。
先日観た「ポー川のひかり」のように、この作品を観る際にも、キリスト教とか一神教といったものに根ざす倫理観をある程度は知っておいたほうがよいのかもしれない。本作は、日本では公開されたばかりだが、製作は2007年である。今という時代にこのような作品が米国で製作され、それがそこそこヒットするということが意味するところに興味深いものを感じないわけにはいかない。