熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「湖のほとりで」(原題:La Ragazza Del Lago)

2009年08月03日 | Weblog
オーソドックスな物語を重ねてオーソドックスを止揚するという作品だ。主たる物語は住民が互いに顔見知りであるような小さな村で起きた殺人事件である。小さな村での事件は、密室での出来事のようなものだ。結局、事件はひねりらしいひねりもなく解決する。しかし、捜査の過程で明らかになるのは、事件と接点を持つ人々が抱える様々な事情。むしろそうしたサイドストーリーの絡み合いが変哲の無い事件に思いも寄らぬ影を与える。

顔見知りであるということと、その人を知っているということとは必ずしも同じではない。他人どうしなら勿論のこと、親子、夫婦、恋人どうしといった親密であると考えられがちな関係においても、人は相手を知らないものである。自分自身のことすら満足に知らないのだから他人を理解できないのは当然、と言ってしまえば身も蓋もない。しかし、わかっていないのに、考えたことすらないのに、わかったふりを続けることが生活の現実というものではないだろうか。

印象的だったのは主人公であるサンツィオ刑事の物語だ。彼は娘とふたりで暮らしている。妻は入院していて退院する見込みが無い。進行性の認知症なのである。彼女が登場する場面は2回ある。いずれも主人公が病院に面会に行くところだ。最初の場面では、既に娘が記憶から消えていて、夫と弟とが混同されている。数日置いて、次の面会の場面では、夫のことも認識できなくなっている。認知症でなくとも、存在感が希薄になれば記憶から消えていくものだろう。家族というのは特別で、それを忘れるというのは認知症のような特別な場合でもない限りあり得ないことだ、と果たして断言できるだろうか。

もうひとつ印象的だったのは、殺人事件の被害者アンナの父だ。家宅捜査で彼が撮影した彼女のビデオが押収される。父のカメラは執拗に娘を追う。ビデオには撮影されることを嫌がる娘の姿が映っている。それを父は娘に対する愛情だという。愛情とは何だろうか。

いくつかのサイドストーリーに共通しているのは、事件の捜査で明らかにされる事実を通じて、ひとりひとりがそれぞれに誰にも言えない秘密を抱えていることだ。家族の間でも、恋人同士の間でも、この事件の捜査をきっかけに初めて知る相手の事情が明かされるのである。人を知るということは、どのようなことなのだろうか。そもそも我々は誰かを知り、その人を理解することができるものなのだろうか。

この作品を観ていると、殺人事件そのものよりも、それに絡む人々のそれぞれのエピソードのほうへ関心が向いてくる。作品自体も事件の全てを明らかにすることなく終わってしまう。明らかにしないのではなく、観る者の知性と感性に任せているのだろう。劇的なことは何もないのに、重い衝撃のようなものが心に残る作品だ。