熊本熊的日常

日常生活についての雑記

semilingual

2008年07月04日 | Weblog
辞書を引いてもsemilingualという言葉はない。しかし、少なくとも自分の身の回り日本人の間では、この意味するところが了解されている。二カ国語を自由に使うことのできる人をbilingualと呼ぶのに対し、どの言葉も中途半端な人をsemilingualと呼ぶのである。

考えるという行為は知覚を言語化し理解する営みである。たとえ複数の言語を運用できるとしても、思考に使うのはその人の主たる言語であるはずだ。言語の構造や語彙が異なるものを組み合わせていけば、間尺に合わない部材で組み立てた構築物が崩壊するように、どこかで必ず論理が破綻する。つまり、思考が停止する。主たる言語を適切に運用できないということは、思考能力に瑕疵があるということだ。瑕疵、というと、なにやら大袈裟に聞こえるかもしれないが、そもそも考えるという行為は容易なことではない。誰しも程度の差こそあれ、多少の瑕疵はあるだろう。しかし、semilingualと呼ばれる人々には、一般的な許容範囲を逸脱した瑕疵を抱える人が少なくないように思われる。

何年か前、日経新聞の「私の履歴書」にジャック・ウェルチが日本での事業のことについて書いた箇所がある。それによると、最初はコミュニケーション能力が重要だろうと考え、英語に堪能な日本人を採用したという。しかし、後にそれが誤りであるとわかった、と書いている。おそらくsemilingualを採用してしまったのだろう。

日本では、外国語、特に英語に対する憧憬のようなものがあるように感じられる。英語を運用できるということに、ある種のステイタスを感じる人も少なくないように見受けられる。西洋から輸入されたものを「舶来品」と呼んで珍重する風潮も数十年前までは確かにあったと思う。人には自分に欠落しているものを渇望する性向があるのだろうが、海外の文物を実体以上に尊ぶ習慣が依然としてこの国には残っているようだ。外国語を運用する能力というのは、特殊な能力であることには違いないし、そうした能力を持つ人は割合から言えば少数派なのだろうから、幾ばくかの存在価値はあるのだろう。

しかし、言語はそれ自体道具に過ぎない。それを使って作り出すものが無ければ、たとえ流暢に話すことができたとしても、その運用能力自体は意味を成さない。「月を指す指は月ではない」のである。

外国語の運用能力と知性との間に著しい相関があるとも思われない。現実には、外国語を運用できるという意識を持っている人の中に、その運用能力と知性とを混同している人が少なからず存在しているように見える。その誤解が悲劇を招いている事例も身近に見聞している。ただでさえ、人の自意識は他人による評価とはうまく重ならないものである。そのことが対人関係上の葛藤や障害の一因となるのはよくあることだ。その上さらに、外国語の運用能力にまつわる自意識の肥大化が加わればどのようなことが起るのか、想像に難くない。

須賀敦子の著作を読んでいて、海外生活がどれほど長くなっても、きちんとした教育を受けている人は、外国語を適切に自分の知性の糧にして、成長を続けることができるものだと感じた。と、同時に、所謂semilingual問題が思い浮かんだのである。