■久しぶりに書店で立ち読みを楽しんだ。長谷川慶太郎は僕がいつもインスパイアされる数少ない「少数派論客」のひとりだ。驚いたのは読みやすい文体に変わったことだ。あのくせのある言い回しがなくなったのはゴーストライターをつかっているのかもしれない。もう70歳ぐらいだから歳かな、と思うが相変わらずその論法はするどい。
格差の時代を生きるにはその格差を利用し、逆にエネルギー源として乗り切るしかない、というような趣旨だった。なかでも納得の一言。なぜアメリカは他民族国家なのに暴動が起きないかというと、それはアメリカンドリームがあるからだという指摘だった。
先日、友人の大学教授夫人からこんなクレームを聞いた。南米出身の研究者を助けるつもりでご主人に頼んで外国人でも雇ってくれる企業を紹介したところ突然やめてしまったので皆が困ったそうだ。せっかく無理をして助けたのに、、。もう今度は助けてあげられない、というような口ぶりだった。
気持ちは分からないわけじゃあないが、こんなところが日本のいやな所だ、、、、というのが僕の見解。
皆が困ったということは件の研究者が入社すること自体、企業にとってもいいことではあったのだ。いやいや雇ったのならいなくなってせいせいするだろうからである。一方、辞めた原因は企業の就業環境ではないのであるから研究者が自らの意思で辞めたのならそれは仕方のないこと。教授の顔をつぶされたというように考えるほどのことでもない。
問題は、当の研究者が間違いに気づき再度助けを求めようとしたとき、日本社会はひどく冷淡な社会だ、、ということである。失敗者に厳しく、危険をおかすことを極度にきらう社会なのだ。安全な社会の裏返しでもあるのだが、日本社会の未来に致命的な欠陥となっている。
創造性や成功というものは失敗をおそれていては達成できない。失敗こそ成功のエネルギー源というべきで、石橋をたたいて歩くことさえ許さないような日本の社会に夢はない。この点はアメリカ社会とは異なる。アメリカほど失敗者、異端者、少数者に対する社会の鷹揚さに匹敵する社会はないといっていい。長谷川は失敗者の視点からこれをアメリカンドリームとみたのだ。
格差社会であっても暴動が起こらない。逆に格差社会であるから未来にむけてのエネルギーを維持できる社会。そして現に世界を一極支配している米国の力を認識すれば、その対極というべき日本文化の脆弱性が浮かび上がっていく。そういう意味で夢のもてる社会、夢のある人生でありたいものだ。
長谷川の指摘する論点はまだまだつづく。