くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

幕末福井伝

2016年10月26日 | Weblog

■前回のふたば会に講師で来てもらった松下さんの話がアオッサであった。加賀さんと一緒に聞きに行く。

とても面白い話で知らないことばかり。話は福井藩祖の結城秀康からはじまる。当初68万石の御家門筆頭の越前松平家が春嶽の頃には90万石の赤字になっていたが春嶽は横井小楠を呼んで三岡八郎(由利公正)を使い始めての外国貿易で黒字に転換。日本をせんたくしようとする竜馬はその春嶽から海援塾資金の5000両を調達するために福井藩を訪れたのだ。会談の行われたたばこ屋旅館と丹厳洞はどんな関係かはわからない。

松下氏によれば、当時の薩長倒幕派と会津佐幕派の中間に平和に統一国家構想を達成しようとする福井藩があったのだという。その中心が春嶽とその右腕となる橋本佐内であり、将軍継嗣問題で一橋慶喜を支持したので保守派の井伊直弼に敗れた改革派は安政の大獄で粛清され26歳の佐内は斬首される。春嶽は最も由緒ある家柄だから殺されず蟄居されたが春嶽と一体の佐内が真っ先に消されたのは保守派にとって最も恐ろしい存在だったに違いない。公儀政体論、つまり議会制民主主義のはしりは立場が違えどいろいろに解釈されたようだが基本的なところはこの横井、三岡、と竜馬が佐内の意志を引き継ぎ後の三岡の「万機公論に決すべし」となり、明治憲法そして敗戦後の現憲法に受け継がれていく。

発見された竜馬の最後の手紙「越行の記」で竜馬は新政府財政の適任者として三岡を推薦し、三岡はすかんぴんの明治政府をなんとか形にしたわけだ。彼は福井藩で使った金融手法をさらに応用したのだ。藩札(地方債)で貿易をしたように国債で財政投資を行い非兌換紙幣を発行して大阪造幣局を作ったのだ。国内の金座、銀座を統合しても兌換紙幣発行では国内の金銀の備蓄に不足するので開発のスピードについて行けないことを知っていたわけだ。福井藩のグリフィスの名がどうして大阪造幣局にあるのか?なぜ越前和紙がお札に使われたのか?謎がとけた気がする。由利公正は武士でありながら商人を使って商売をした。つまり、財政投融資という概念を実行していた。維新のケインズであり、戊辰戦争のハミルトンであったわけだ。

そして橋本佐内は、、、啓発録のほか、、なんと4か国語をあやつっていたではないか。福井藩すごすぎる。

松下さんのプレゼンもすごくいいと思った。福井が好きになるこんな話は皆に聞いてほしいものだ。

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ガジェット整理、、無常! | トップ | 健康対策 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事