毎年この時期になると、友人が野生の行者ニンニクを沢山分けて
くれます。それで今日は日本の春の「筍の木の芽和え」にヒントを得て、
「ボテトの行者ニンニク和え」を作りました。
まず、摘みたての新鮮な行者ニンニクの葉っぱを細かく刻み、すり鉢
に取り、エクストラバージン・オリーブオイルと塩、レモン汁、塩、
胡椒と一緒に荒いペースト状になるまですり潰します。
そこに薄口の醤油で加減した昆布水に前日から浸しておいた固ゆでの
ボテトを薄切りにして加え、行者ニンニクのペーストと均等に混ざり
合うまで、箸でよくかき混ぜて、緑和えにします。
その後は各人の皿に盛り付け、最後にしっかりと炒った松の実を荒く
半ズリにして、上に散らせば、完成です。
コクもありながら、爽やか
な美味しさで春らしい一品となりました。
思いつきのレシピがイメージどおりに仕上がり、食卓の皆んなが
「美味しい、美味しい」と言ってくれると嬉しいものです。
冷涼な気候のせいか、ドイツでも糠漬けは美味しく出来ます。
うちの家族だけでなく、ドイツの友人達にもなかなか好評です。
さて、次男と末の娘、とても仲のいい二人ですが、お新香の盛り付け方
を見ると各人の個性の違いが実にはっきりと表れていて、面白いものです。
そして、どちらも僕では思いつかなかった盛り付けです。
「独創」と言えども、一人の命が突然自ら生まれてくることがないのと
同じように、常に歴史と文化の大きな枠の中で成される個人の表現
なのだと思う。「捉われること」と「捉われないこと」の間に色々な
感動があるのだと思う。固有と普遍の関係も似たようなことだろう。
何百億、何千億の中の一粒、一粒。
春の緑の中、本当は一日のんびりしていたかった。
それが出来ないのは、毎日の暮らしを組み立てるしっかりとした
意志が自分の中で、まだ十分ではないからだろう。
現代社会、人は意志が弱いとついつい仕事に流される。
僕もなんでこんなに仕事を毎日しているのか、時々自分でもさっぱり
分からない。「働き盛り」はとうに過ぎた。五十代半ばにもなって
自分の大切なことを置き去りにして、日常の仕事に流されていては
どうしようもない。
そんな気持ちでいたので、せわしくてもお昼ご飯くらいは丁寧に作りたい
と思ったのだろう。もうひとつ、春の緑をたっぶり入れたいと感じていた
ところもあったのだろう。妻と二人で食べるときになって、そんなことに
気がついた。
春は何と言っても緑だと思う。
生活の中に緑がないと本当に寂しいし、仕事ばかりしていると
気持ちの落ち着く場所もない。下手をすると人生をすってしま
いかねない。
「もう、桜は終わったよ」と
思っていたら、葉桜の中に見つけた、ひとつひとつの桜。
夏への序曲の中で名残の桜。
僕達の言葉はいつも自然には追いつかない。
それでも、文学の言葉はいつも世界を理解する手ががりだった。
今の日本のように、言論の大半が政治操作や大衆商売の道具に
なっている時代にも、言葉は自由への翼であり続ける。
夏の夜空に浮かぶ天の川、
それは大きな生命体の結晶のよう。
春の桜吹雪は白昼夢。過ぎ行く恋の道行。儚くも痛切な夢。
桜の花びら一枚一枚は風に舞い、水に落ち、再び一つと
なる、私達一人一人の人生のよう。
下の娘が東南アジアへの旅行に出た翌日、一日忙しく仕事をして、
夜食のように慌てて作った、妻と二人だけの食事。
子供達三人も大きくなり、数年前からこんな食卓の景色も増えてきた。
かれこれ約30年、僕達の旅もだいぶ長くなってきた。
これからも続く二人の旅。
目を見開き、これからの旅が愉しく、お互いにしっかりとした
支えであるようにと、箸を持ち上げながらふと思う。
今日は娘の旅立ちの余韻もあるのだろう。
下の娘が幼なじみの親友と、東南アジアへ10週間のバックパッカー
の旅に今日、出発しました。
タイから、ラオス、カンボジアへと。僕が一度も行ったことのない
国々を二人が巡って行きます。去年の夏、高校卒業後に二人で計画
してネパールへの長い旅をして以来、「旅」という行為の魅力・魔力
が二人の若い心の中にひそかに忍び込んだのだと思います。
自分達の足と頭、そして、今までの二人の経験を十分に生かし、
互いに十年、二十年経っても消えることのない良い旅に、これからの
人生の弾みとなるようにと願っています。
空港から家に戻って昔のアルバムを覗くと、後ろ姿ですが、本当に
小さかった二人が仲良く並んで座っている写真が出てきました。
もう18年以上前のことだと思います。我が子のことながら幼馴染み
の親友がいて幸せなことだと思います。子供達が生まれるときに
この小さな村のような、郊外の町に引っ越してきたのは良い決断でした。
良く育ってくれました。
「可愛い子には旅をさせよ!」とは僕は特に思いませんが、
可愛い子でも「旅に出たい!」と言われれば、「しっかり愉しんでおいで!」と
笑顔で送り出すしかありません。
春満開のドイツの日曜日。妻と義理の母と三人でデュッセルドルフ
郊外の昔からのレストランに遠足でした。
村のレストランでよく出てくる「レーマー・ケルヒ」(Römer Kelch)
という伝統的なワイングラスです。(本物だともっと素敵なものもあります。)
40、50年前の田舎の食堂の雰囲気そのまま。天気が良い
ので、皆んな、外の広いテラスに座って、春の午後の太陽を楽しんでいます。
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本来のケーニッヒスベルガー・クロップセ(Königsberger Klopse)
料理本だとこんな感じになります。
ケーニッヒスベルガー・クロップセという、もともとは
北ドイツ、昔のプロイセンの伝統料理で本当によく完成された
レシピです。僕の大好きな料理です。
多分、仔牛肉を使うのがオリジナルレシピだと思いますが、
ふっくらと柔らかな肉団子、それを包み込むようにバターを
たっぷり使ったレモンクリームソースとケーバーがかかっていて
こってりした味わいの中にも程良い少しの酸味があり、家庭でも
レストランでも丁寧に作られていると実に美味しいものですよ。
今日のは味も形も少し大振りすぎましたが、戸外のテラスが気持ち良く、
春らしくとても天気が良かったので全てOKです。
青空広がる、本当に気持ちよい、素晴らしい春の一日。
それで今日は、家族の小さな畑の仕事始めの日となりました。
いつもは頭脳労働者の日常なので、どうしても腰が決まりません。
でもこういうことが本当に楽しいのは、年のせいもあると思います。
「土に還れ!」というよりは、疲れて座り込んでしまいました。
それでも夏には美味しい野菜がたくさん出来ると思うと力が湧いてきます。
今日の日はもう二度と来ない。
さういうことがもう30年も続き、
遠い国の風景が身近になり、
懐かしき風景は遠去かり、
僕は彼の国の人たちのように、
或いは此の地の人たちのように
日常の中に埋没することも出来ず、
春も夏も、この青空を見上げている。
そして、冬を知り、花を知るようになった。
僕は酒飲みなので、普段は甘い物にはあまり手が伸びません。
ところがつい最近、とんでもなく美味しいケーキを食べました。
上品な甘さとベリーの軽やかな酸味、あっさりふわりとした生地、
春の朝の雪化粧のようなデコレーション。全てがぴったり一つに
なっていました。その日はイースターの日曜日と長男の誕生日が
重なりあった特別なお祝いの日だったのです。
一番下の娘が朝早く一人で起き出して、お兄さんとみんなのために
作ったケーキでした。
実に屈託のない、真っ直ぐな見事な出来でした。
もう一つのいろいろなフルーツの串刺しもなかなか愉快でした。
もう10日ほど前のことですが、今日になって、ふと、このことは
きちんと書き留めておかなければと思ったのです。
これは親バカの話ではなく、毎日の生活の中でとても大切で有難いこと
なのだと思います。イースターのうさぎさんも「その通り!!」と両手
を挙げているようです。
妻と末の娘と長男、三人の写真。
ドイツではイースターの日曜日は一年の中でも、本当に特別な
家族の日です。子供達のこういう様子を見ていると、
「うちの妻は本当に偉い!!」とつくづく思います。
そのことをついつい忘れてしまうのが、僕の日常の問題です。
4月14日の覚え書き。
辺野古の作業停止指示の後、福井地裁の再稼動否の仮処分の後、
日本政府首脳の「 粛々と進めます」という言葉の奇怪さ、
無神経の不気味さ。過去何十年に亘り、日本本来の風景が
各所で破壊された後、その動きを支えてきた同じ人たちが今、
公の場での日本語から、そこに本来内包されるべき倫理感や人間性を
疎かにして、言葉自体を骨抜きにしていっている。
戦前と同じように、そのとき現れてくるのは、重々しいだけの
空疎な正体不明の漢語系の二字熟語や四字熟語だ。
この国の指導者達とそれを支える人達は、もう相当おかしいところに
来ている。
政治、行政だけでなく、テレビのニュースやワイドショーを
見ても、雑誌を開いても、大衆に向けられた言葉の歪みや同調性への
偏向は著しいものがある。
言葉の崩壊自体が今のこの国の在り方を如実に表している。
春。桜の花びら。
朝の光、葉桜が風に揺れて、夏日のような一日が始まる。
本当に夏日のような一日となりました。そのせいか、お昼は
スタッフと家族で野菜たっぷりのタイ風スープを作りました。
タイの友人が特別にプレゼントしてくれた上等のナンプラーと
ココナッツオイルに庭のコリアンダーをちぎり入れて、生姜と
ニンニクを効かしました。タイに行ったことがないので、
余計タイ料理とおもいこんでいるかもしれません。
仕事もそこそこにして、今日はこれから、村のサッカー場で
久し振りに少し走ろうと思います。
後になって考えたことが一つあります。
お昼ご飯の時に庭に出て、桜の花びらを集めて、今日の
タイ風スープに浮かべたらどうだったのだろう?
いやいや、皆で桜の木の下でお昼ご飯にしたらどうだったのだろう?
桜の花びらがスープの中に舞い込んできてくれたかもしれない。
昔、日本では桜の花びらを杯に受けて、愉しんでいたという話も
ある。タイの料理に桜も悪くなかったかもしれない。
ドイツに永く住むことを腹に決めて、自宅の大掛かりな改築を
してから、約7年経ちました。その時にドイツ語で
『家族の木/ファミーリエンバオム』と名付けて植えたのが、庭の
真ん中に今、独り立ちしている桜の木です。三人の子供達も
まだまだ小さい頃でした。当時はるばるイタリアから取り寄せて、
皆で大騒ぎをしながら食事をしたことをよく覚えています。
今日はその桜がまさに満開、春の青空が広がっています。
「こんな日はめったにないのだから、仕事も早く切り上げて
春の日の桜ご飯。」と決め込みました。
今日は一番下の娘が料理担当、いろいろ野菜のオーブン焼きを
たっぷり作ってくれました。息子たち二人がいないのは残念ですが
毎年恒例の桜の下での写真と相成りました。
日差しが明るくてももう午後の九時。風が冷たく慌ててスカーフを
巻きましたが、後から見るとまるで涎掛けのよう。20年前の
子供たちの姿を真似したのか、20年後の自分の姿を先取りしたのか、
どちらなんでしょうか?
妻の将来を見透かすような目が印象的でした。
水に浮かぶ桜の花びらも、今日は明るい姿でした。