京都で作るお味噌汁 ー 娘とエファさんと過ごす時間

2017年11月29日 | 京都の一日

末の娘とエファさんの三人で京都に戻ってほぼ一週間。



美弥ちゃんも半分おどけて、京都のどこかで見た様な障子の開け方を
練習したりしています。



窓から見る夕方の紅葉。

京都の小さな家で、日本では30何年ぶりかで、毎日の買い物に行って、
朝晩のご飯を作って、その間に散歩したり、洗濯したり、
遠足したり、少し仕事をしてみたり。

吉田神社も近く、真如堂までも歩いて数分、毎日、新しい
発見があります。



宗忠神社の石段を下りていくと見えてくる、僕たちの小さな家。



まだ家具やテーブル、椅子などは整えてる最中です。
日本にもIKEAがあるのにはびっくりしました。 

あと2、3日で二人はドイツやオーストリアに帰ってしまい、
僕はちょっとさみしくなります。でも、自由に羽を伸ばせる
ところもあるかな⁈
ともかく、今日の朝は一人で少し早起き。
皆んなの朝ごはんを作る傍ら、娘の大好物のお味噌汁を勉強先の
ウイーンで、いつでも自分で作れるようにと、米味噌と麦味噌の
特別詰め合わせ三種類セットを作りました。

こういうのを我ながら、手前味噌、親バカ味噌と言うのだと
思いますが、改めて、人生でとても愉しいこと、心弾むことの
大きな一つは、子供達が大きくなっても、皆んなでたっぷり遊んで、
そして、親として何か役に立つことが出来ることと思います。

それだけに日本の多くのお父さんの働き方、企業の考え方は
あまりに一方的だと思います。会社の仕事や付き合いって、
本当にそんなに大事だろうか?

僕の答えはもちろんはっきりと「ナイン!」です。

 

 


「京都 ー 真如堂の小さな秋」

2017年11月27日 | 家族

ほら、見てごらん!
冬に一歩足を踏み込んで、
そしたら、
やっぱり秋が戻って来たよ。

真如堂の小さな秋は光がいっぱい。



真如堂の秋の一日。
紅葉、黄葉、浅緑、陽光の一日。

ドイツから来た僕の家族も赤床几に座って、そして、
僕が子供だった頃のように、愉しそうに甘酒を飲んでいる。

きっと、僕はどこにいてもこんなことを大切にしたかったのだろう。
小さな草や花が少しづつ、少しづつ根を生やしていくように。

 

 

 

 

 


「食は日本に在り、(友)人は京都に有り」

2017年11月20日 | 京都の一日

今日、無事に京都に着きました。

 

家の近くの、吉田山の秋の風景。 

うちのエファさんは、この京都吉田の家のリフォーム工事の後、
最終の完成の姿はまだ見たことがありません。と言う訳で、
まずは玄関前で記念写真。 
そして、中に入りました。宗忠神社の石段に面した小さな家です。
ドイツの家でもお世話になった家族の友人、Kさんが丁寧に
作ってくれた家です。工費がとんでもなく膨らみ、今年の春には
二人とも困り果ててしまいましたが、今回の京都でこの金銭的問題を
何とか解決したいと思います。互いに正直に、誠意を持って。
それでも、友情が損なわれることも覚悟しなければならない
と思います。
 


宗忠神社の石段を真如堂に向かって下りていくと、茶色の杉板張りを
した壁面が見えてきます。Kさんのセンスが光るところです。



真如堂も、ちょうど紅葉の盛りでした。

長い散歩と買い出しの後は、ハリーナの友子さんのところでした。
今も昔も僕の左京のマドンナです。
(下の写真には顔を覗かしていません。きっと、キッチンの奥で
次の料理を作っていてくれたのでしょう。) 

うちのエファさんと一緒に晩ご飯をいただきました。自家製豆腐、
とんでもなく美味しかった、祝島のひじきと春菊の白和え、
小松菜の胡麻和え、どれもみんな本当に美味しかった。

「友子さんがまた、しっかりと料理に戻っている。
料理を作る時にも、自らがそのど真ん中にいる。」

なんだろう、いろいろなことがとても嬉しかった。
うちの奥さんも今日の再会を喜び、よく食べて、最後の一皿には
たっぷりのおでんをしっかりと頼んでいた。一方、僕は信州白馬、
琵琶湖東、四国四万十と、日本の山、湖、川の優しく柔らかい、
いろいろなお酒を飲んだ。
友子さんとも久し振りにいろいろな話をした。

人生はここ最近のように随分としんどいことが続いたり、そして、
今日のようにこんな嬉しいことがあったりで、だからこそやっぱり、
生きている甲斐がある。

食は日本に在り。人は京都に有り。
紅葉は多分もう遅いのだろうけど、京都に戻ってきたなぁと、
心深く思う一日でした。


半年ぶりの日本へ

2017年11月19日 | 随想

日本はきっと朝の10時頃だろう。

ドイツは真夜中から明け方へ向かう、魔者たちの丑三つ時。
ひんやりとした冷気、間もなく冬将軍の到来だろうか。

あと数時間もすれば、半年ぶりの日本へ!
京都では秋真っ盛りだろうか。
今回は自分には、人生初めて経験するような厳しい話が
其処であるのかもしれない。

それでも、明け方の身の締まるような静寂の中、古の寺の
境内の中をを独り歩む時のような、静かに心弾むような
気持ちが僕の中にはある。

東山の低い雲を、北山の空を仰ぐこと。
吉田山を、真如堂を朝に夕に散歩すること。銭湯に行くこと。
日本の野菜や魚で料理をすること。親しい人達や家族と
一緒にご飯を食べること。時々、独りでカフェに行ったり、
自転車でうろうろしたり。

そんなことがなんと嬉しいことだろう。

 

 


「日本の味噌作りを次の世代に」

2017年11月14日 | 毎日の食卓

昨日はドイツで3回目の味噌作り。

今回は、ドイツで生まれ育った日中ミックスの料理の天才、
将来、世界の料理界に大きな花を咲かせるだろう、
弱冠二歳のアキちゃんとのペア作業!

豆と麹は2年間うっかり使わずに置きっ放しだった、
福井武生の「マルカワ味噌」有機無農薬大豆に、有機白米&
有機玄米麹。

古くなった大豆は二昼夜水に浸けて、四時間以上くつくつと
炊き上げて、アキちゃんの可愛くも活発な手足やハンド
ミキサーなどを駆使して、豆の一粒一粒を潰しては混ぜて、
来年の秋の味噌開きを楽しみに、手持ちの樽やタッパーに
仕込みました。

ドイツで暮らすヴィーガンやベジタリアンの人達に来年から
「味噌ワークショップ・メードインジャーマニー」
を、スタッフと一緒に企画し始めていますが、
今日はその実践的準備の第1、2ステップ。

それでも、一番楽しいのは、ホカホカの湯気の中でワイワイ
言いながら、自分たちの手前味噌を作ること。

料理をするときは、自分たちが心から楽しいこと、
必要なことを第一にしよう!
と改めて感じ入る、アキちゃんとの一晩でした。

我らの凄腕料理人、伊藤さんは実はアキちゃんのお母さん
でもあります。

京都来たキッチンスタッフのさっちゃんも、実はナチュラル派の
プロの料理人。ドイツでは本作りを学びたいとのことですが、
アキちゃんを優しく見守るお姉さんでもあります。

一仕事を終えて少し疲れた様子でパートナーのプーちゃんを
抱えているアキちゃん。 

 ドイツのベジタリアンやマクロビの人、或いは和食の大好きな人たちに、
ワークショップでお味噌作りを伝えるのもやりがいのあることかもしれません。
けれども、最近、僕がよく思うのは「家族や友人、とりわけ自分の子供達
或いは身近にいる小さなアキちゃんが、こうして自然体で和食の良さや楽しさ、
その中に潜んだ日本の食文化を知らず知らずに身につけていってくれたら、
もう充分だな。むしろその方が僕ももっと楽しいし、嬉しいことかな。」
ということです。

来年、2018年はこの二つのバランスをよく考えて、毎日の料理を落ち着いて
作れる日をなるべく多くしたいと思っています。 

 

 

 

 

 


色とりどりの和食ご飯

2017年11月09日 | 毎日の食卓

毎日のための、野菜ばかりの和食ご飯。
僕が毎日のご飯に使っている器や調味料は全て日本のものなのに、
最近、随分とカラフルな彩りになったなぁと思います。

さて、それは郷にいれば郷に従えと、この頃はドイツやヨーロッパの
昔からの野菜や豆を中心に料理しているからだろうか?
それとも、僕自身の作る料理や盛り付けの感覚がある時から変わって
きたのだろうか?

多分、その両方だろう。そして何よりも野菜に導かれていくと、
自ずとそうなるのだろう。その土地のカラーや風土の感覚にも
近づいていくのかな?

ともかく、自分が好きなら、それでいいね。


「あの大きな鵞鳥のローストは何処へ行ったのか?」

2017年11月08日 | 毎日の食卓

ドイツの伝統、年に一度の贅沢『鵞鳥の丸焼き』を週末にご馳走に
なったお返しに、昨日の月曜日は週始めながら、その友人夫婦を
うちの和食ご飯に呼びました。

今日の料理のテーマ、謎かけはもちろん、
「あの大きな鵞鳥のローストは何処に行ったのか?」でした。
その答えは大袈裟に言えば、
「身も肉も無くなっても、その魂、旨味は消えず!」でした。

鵞鳥の丸焼きの残りの骨やガラでとった出汁、スープストック
約10リットルをベースにした和洋の野菜料理!

まずは昆布出汁と掛け合わせて、白菜、青菜、春雨、キノコ、
豆腐などに、西洋野菜のパプリカを別炊きにして合わせた野菜スープ。

或いは、レンティル豆を鵞鳥のスープストックで炊いて、
そこに茄子や高野豆腐、それにいろいろな香味野菜を細々刻んで、
豆味噌やニンニク醤油でしっかり味付けをして、チコリやセロリで
手巻きした、サラダ寿司等。

一昨日のローストの姿は見えねども、その名残が姿を変えて、
こんな意外な東方の料理になったんだねと、友達夫婦もとても
喜んでくれました。

 

僕も、勿体無いことをしなくて良かった。殺生するなら、大切に
有り難く頂こうとという思いを少し共にできたかなと思いました。
それでも、動物の命を奪う料理は、なるべく少なくしていきたいと
改めて思いますし、そこにこそ、和食の伝統をこのヨーロッパの
同時代の同胞の知人友人、そしてこれからの若い人達に伝える甲斐が
あるのではと感じます。

そうそう、僕の大好きな漆の器の職人、輪島の福田さんの
日常使いの器も、昨日はとても相応しかった、よく使えたと思います。 

 


ドイツの『集い』ー 暮らしの中の祝祭

2017年11月07日 | ドイツの暮らし

ドイツの暮らしで僕が素敵だなと思うこと好きなこと、ないし、
僕の最初の半生を送った日本では自らはあまり経験したことがなく、
今も自分の中に自然体で有る訳ではあまりないけれど、
「これは良いなぁ〜」と思うこと。

友達や家族が集まって、幾つになってもその人の誕生日を手作りで
皆んなでお祝いし、そのお祝いが同時に友達や家族の大切な集いで、
「今日は集まって、皆んなで沢山の時間をしっかり過ごそうよ!」
という時間への感覚、すなわち、皆で作り出す、暮らしの中の祝祭の
時間に対する、はっきりした意識。

それは、誕生日にレストランに行ったり、外に美味しいものを食べに
行くのとは、また別物だろう。

自らの時間や手間を惜しまず、他力本願やお金本願でなく、
何日も時間かけて、準備して「今日は良い日だね!」という集い、
その瞬間を作り出すこと。

それがドイツで過去30年間、僕が様々なかたちで経験することに
なった『ホームパーティ』というより、『集い』の姿だ。

昨日はそんなことで、近所の友人仲間の内、三人の、そのうちの
一人がウチの奥さんを含めた合同の誕生会、皆んな、20年を超えて、
優に50代後半以上になった、そこに同時に、ドイツ伝統の一年に
一回の鵞鳥のローストを食べる会が重なって、皆でワイワイガヤガヤ、
沢山食べて、沢山話して、しこたま呑んでの朝の三時までの楽しい会
だった。

暮らしの文化の姿はいろいろだ。
そして、その何処でも個々の生活のしんどいことや苦しいことなどは
互いに共有することはなかなか出来ないけれど、本物の笑顔や人生の
愉しさを分かち合えられれば、それはそれだけでもう人生の幸福の
一つだろう。

 

 


「ワン ワールド・ワン クライメート!」

2017年11月04日 | ドイツの暮らし

「ワン ワールド・ワン クライメート!」

今日はウチの奥さんと一緒にドイツの旧首都ボンに来ています。
脱原発の波も収まったドイツで、久しぶりに大きなデモです。

来週の月曜日から始まるドイツ、ボンでの気候変動会議に向けて、
ドイツの多くの市民の路上で意思表明です。
今までの脱原発のデモと比較しても、今回の気候温暖化のデモには、
ドイツの若い世代の参加が多く、それは当然でもあり、嬉しいことです。

残念なことは、僕達のゲストハウスの日本の若い人たちに声をかけても、
あまり大きな興味を持ってもらうことができなかったことです。
僕にも説得力が足りないのでしょう。

それはそれとして、僕達の属する国籍や住む地域に関わらず、
まさにこれからの地球の未来、僕達全ての暮らしの10年、20年を、
そしてその後の世界を左右する本当に大切なテーマです。

「ウィ ァー ヤング。

ウィ ニード ザ ワールド  ❣️

と書かれたプラカードを掲げる若者達!

そうだ、その通り❣️❣️

「ワン ワールド・ワン クライメート!」

 

 


「日本の美の精神、表現を支えていたもの」

2017年11月02日 | 随想

人生の秋の庭仕事に憶うこと。

かって、日本の普通の暮らしの中に根付いていた、
誰の身の回りにもあった春夏秋冬、各々の四季の風景。
桜、銀杏、楓、柿。
濃緑、浅黄、黄色、緑、赤、朱、紅、、、。

昔、日本ではそんな暮らしの中で花や草を見て、月夜を仰ぎ、
風の音を、雨の音を聞き、暗い闇の中、焚火や釜戸の火に手をかざし、
或いは朝陽の中に光を見て、そうした何千、何万の時間の中で、
五感の記憶、印象、憶い出を幾重にも積み重ねていたのだろう。

そのようにして紡ぎ出された感覚は自ずと工人達の眼と手に伝わり、
何世代にも渡り、彼らの美の源流となっていたのだろう。

そのような日本の美の精神は、自分達の身に纏うものや、手にする
器や道具、飾物、そして口にするものにも、その調えにも反映し、
その表現を見出してきた。

その美の形式、形象は具体的でかつ抽象性に富み、その両者を自在に
行き交いするかのようにして、ありとあらゆる表現を見出して来た。
その表現、造形の完成度は極めて高く、稀有なものだったと思う。

今日の夕餉の席には、庭で見つけた秋の八葉を散らそう。

かっての暮らしの美、その形骸だけが残された僕達のこの表相の世界で、
僕の稚拙な眼と手は、自分達の中に微かに残された一縷の糸を手繰るよう。