「原子力おことわり!」の黄色のショルダーバッグ、日本で予約できます。

2011年09月29日 | ドイツの暮らし




「原子力おことわり!」の黄色の麻袋。日本とドイツで使い始めて約2ヶ月。
本当に便利です。いつでもどこでも、脱原発アクションが毎日簡単に出来ます。

9月初めにはドイツの全国放送でも紹介することが出来ました。僕のドイツの
日常の中ではこんな感じで使っています。
(日本での予約先はこの記事の一番下に記載しています。よろしくお願いします)






(独仏ベルギー三国合同の脱原発デモにスピーカーとして参加、
ベルギー・テイオンジュ原発に向かう途中。)




(近くのオーガニック農家の収穫祭にて)





(ドイツ・デュッセルドルフ中央駅。スタッフと仕事先へ向かう途中)




(出張時のサイドバッグ、パリの地下鉄の駅にて。朝のコーヒーを飲みながら)




(クリスマスに向けての「ヘルプ・フクシマ」のアクションツールとして。)

この「原子力おことわり!」バッグの最大のメリットは、毎日の暮らしの中で
ともかく簡単に使えること、実によく目立つことです。
日本でもドイツでも脱原発に必要なことは、一人一人の少しの勇気と
ハッキリとした意思表示だと思います。

みどり京都の方々の協力を得て、この「原子力おことわり」バッグの日本での
購入・申込先が決定しました。今から予約できますので、是非下記のメール
アドレスにご連絡下さい。

Eメール: kyoto.sugiyama@gmail.com
(担当者:杉山廣行さん)



僕のtwitterでも毎日、この黄色の麻袋の問い合わせが増えてきています。
ともかく1000部の予約発注がまとまらないと、日本に向けて送ることが
出来ません。一人でも多くの方が日本で使って、脱原発の声が毎日広まって
くることを願っています。

このブログを書く時に、いつも協力してくれているスタッフの和気君が、
いみじくも言いました。このバッグなら「ほぼ毎日、脱原発が出来ますね。」
僕も本当にそう思います。


「福島と、自分の子供達のために」ー 独・シュトゥットガルト脱原発デモでのスピーチ

2011年09月03日 | 脱原発




少し前になりますが、8月13日にシュトゥットガルトのデモに参加してきました。
日本人スピーカーとして、今回は7月下旬に足を運んだ福島市、飯舘村、南相馬の
話をしてきました。また、その中で日本でのデモ文化と「原子力おことわり」の麻袋を
一人一人の意思表示のために、今後何とか日本で広げていきたいということを話しました。

ドイツで僕が出来ることの一つは、日独の脱原発運動のパイプ役になることだと思います。
「幻想を抱かずに出来ることはやる。自分がやりたいからやる。生活も大事。
一人一人の行動が大事。適材適所。大切な価値は自らの行動で子供達に伝えていきたい。」
いろんなことが頭の中を巡ります。
考え、感じ、行動すること、役に立つこと、それを信じること。そんな気持ちです。

下記、8月13日、南独シュトゥットガルト近郊、ネッカーヴェストハイムで
行ったスピーチの日本語訳を掲載します。その日に撮った写真が何枚かありますが、
この記事の一番下にスピーチの日本語訳を記載しています。
時間があれば目を通してみてください。 






















ドイツから来た「脱原発ショルダーバッグ」ー 毎日の暮らしの中でプロテスト!

この麻袋のショルダーバッグの使い方は、8月12日の記事にその例がありますので、
こちらも一度お読みください。





ドイツのデモの雰囲気も一緒にお分かりいただけるかと思います。

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ネッカーヴェストハイム第二原発について前でのデモと独語スピーチ(日本語訳)
 2011年8月13日(15:20分ごろ)
 <核戦争防止国際医師会議IPPNW ヨルク・シュミット氏による招待)

グーテンターク! もしくはグリュースコット(南ドイツの地方で使われるこんにちは)!
まず、最初に、緑の党から最初の州首相が生まれたこと、そして原発賛成に別れを告げたことをお祝い申し上げます。
私は、高田知行と申します。日本から昨日帰ってきたばかりですが、今日ここで皆さんにお話しできることを大変うれしく思います。

最初に少し自己紹介させていただきます。私は、ドイツ人の妻そして子どもと、ドイツに25年以上暮らしております。
かってドイツ文学を学びましたが、残念ながら、ゲーテやシラーはそれほど好きではありません。おそらく、大仰な言葉づかいと国家主義的な傾向の故だと思います。それに対し、二人のハインリッヒ、つまりハインリッヒ・ハイネとハインリッヒ・ベルには、心から心酔しています!

両者とも、個人というもの、つまり個々人の運命を尊重し、日々の生活の大切さ、日々の生活からくる喜びを理解していました。これは、民主主義の根底でもあり、また、まさに脱原発運動の立っているところでもあります。

おそらく、ハイネやベルが生きていたら、今日ここに私たちと共にいたでしょう。
ゲーテはというと……わかりませんが、どちらかと言うと、メルケル首相の傍に立ったかもしれません……。

私たちは、“Atomfree-eastwest”という名前で活動しており、基本的な目標として、二つ掲げています。

第一は、日本とドイツの脱原発活動を支援し、両者の連携をすすめることです。
ここに、ジュートのかばんをお見せします。私たちは、日本のデモ活動を支援するために、このかばんを広げようと作っています。間もなく日本の緑の党から、1.000個の注文がある予定です。
第二の目的は、福島原発の被災者を救援することです。私たちは、5月に有機食品を支援物質として、福島に送っております。そして、クリスマスに向けて、放射能汚染の危険にさらされている地域の小さい子どもを持つ若い夫婦に、ドイツ全土から、小さなプレゼントを励ましの言葉とともに贈りたいと考えています。

さらに、来年から、福島の青少年を招待して、ドイツでサマーキャンプや実習が行えるようにネットワークをつくりあげたいと願っています。
私たちの活動はごく小さなものです。しかし、もととなる考えは、希望を生み出すこと、勇気を与えること、そして、将来への展望を開くことです。

現在のような財政危機の時期にあたって、もちろん、私たちも、活動に必要なお金は不足しています。ですから、「福島の子どもたちのために」、皆さんが何らかの形で、活動を支援してくだされば、たいへんありがたく存じます。
関心のある方は、この後、私にご連絡ください。“atomfree-eastwest”というホームページも持っております。

さて、福島に話を戻します。
2011年3月11日は、世界の歴史の分岐点になるかも知れません。日本にとっては既にそれは明らかなことです。日本は、FUKUSHIMAの前と後では同じ国ではなくなりました。(3月11日以降)多くの日本人は今、言葉に言い表せない心の傷を抱いています。最近、話の最中に、人々が涙で言葉を詰まらせるのを、私は何度も経験しました。

福島の事故は、個々の被災者に具体的にどのような結果をもたらし、そしてまた日本人の生活をどのように変えたでしょうか?
避難は、生活の根が断ち切られることを意味しています。家を捨て、職場を失い、慣れ親しんだ地域社会を失い、家族すら、しばしばバラバラになっています。
その結果、家庭生活は壊され、孤独、自殺、絶望、アルコール依存、経済的困窮、希望も展望もない状態へと多くの人々が陥っています。

私自身、3週間前、福島県の避難区域、飯館という村に行ってまいりました。村は、福島第一原発から20キロ制限区域の外にあります。福島原発で爆発がおきた3月の15日から22日の間、北東の風が吹き、雪が大量に降り、放射能物質とくにセシウム137が大量にこの村に降り注がれました。
村の住民は、その当時そのことを知らず、数日間、非常に高度の放射能にさらされました。

その健康被害の規模は、何年かたってやっと明らかになるでしょう。

(2011年7月23日の旅行日記の引用)

本来、飯館村は避難区域なので、誰もいないはずですが、時折、人をみかけます。そうした人は、日中、そこで働いて、夜は緊急避難所に行って眠るのです。

村は消滅し、通りには、人も車もなく、学校も店も閉められてしまいました。
放射能のため、水田は耕すことができなくなりました。
田畑には、雑草が高く生い茂っています。ここでは、7マイクロシーベルトという数値が測定されています。つまり、政府の基準をそして、国際的上限値を明らかに超えているわけです。

飯館村の一部はゴーストタウンのようです。もともと、この村は小さな美しい村でした。今は、この村から未来は見えません。福島市で働いていた村民もたくさんいました。福島市から40分の距離しかないのです・・・。村は失われた故郷になりつつあります。

(引用)

避難所を訪れ、飯館村からの避難者とも話しました。
そこで、避難者の方々は、福島競馬の専用宿舎を避難所として、二人用の小部屋で暮らしています。
その多くの方々が高齢者で、農業に携わってきた方です。彼らの顔は、野良仕事からできた皺が刻まれています。

避難者の方々がくり返し尋ねる、つき刺すような問いは、ただ一つ。
「いつ、村に戻れるのか」 
長い長い沈黙、答えは得られません、そして涙があるだけである。

原発被害にあったこの村だけでなく、日本のあちこちで、多くの人が深刻な不安に捕らわれています。野菜は? 水は? そして空気は?と。それらがどこからくるのか、どれだけの放射能数値を示すのだろうかと常に問わざるをえないのです。

赤ん坊や幼い子を持つ多くの若い母親は、子どもが後になって、重い病気にかかるのでないかと恐れています。

不安、無気力、無力感、なげやりといった感情が、普段の生活では抑えているものの、潜在的にいつも、現在、日本人の心を覆っています。

日本で、そして世界のいかなるところでも、この人間悲劇を再び繰り返してはならず、これ以上無力感に陥らせてはなりません。
どんなことがあっても、希望という信念をあきらめてはなりません! そのため、我々はここで話すだけでなく、共に行動しようではありませんか。

前世紀、ドイツは、人間性を否定する立場に立ったことがあります。しかし、今日この世紀において、ドイツは、地球の未来そして市民社会の勇気と可能性を担おうとしています。
私もまた、この30年来のドイツの活動に関与できたことを誇りに思っています。まさに、FUKUSHIMAの事故の後、多くの日本人は、ドイツは一つの規範であり、勇気をくれるものとしてみています。

それでは、日本の脱原発のために、一緒にシュプレヒコールをし、日本へ声を届けようでありませんか。
(脱原発シュプレヒコールを始める)


(今回も東京の田口さんに和訳作成の協力を頂きました。本当にどうも有難うございます。)

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(ドイツ語スピーチ原文)

Kundgebung AKW Neckarwestheim II / 13.08.2011 (ca. 15:20)



Guten Tag oder Grüß Gott, zunächst noch herzlichen Glückwunsch zum ersten grünen Ministerpräsidenten und „Ade“ zu Atomfreundlichkeit … Landesvater ??
Mein Name ist Tomoyuki Takada;
ich bin vorgestern aus Japan zurückgekommen und freue mich ,
dass ich heute zu euch sprechen kann.

Zunächst kurz zu meiner Person ... ich lebe mit meiner deutsch-japanischen Familie seit über 25 Jahren in Deutschland.
Einst hatte ich Germanistik studiert und mochte aber „Goethe und Schiller“ nicht so sehr - vielleicht aufgrund ihres Hangs zu  hochtrabenden Worten und Staatsorientiertheit - ... Dagegen begeisterte ich mich aber für 2 Heinriche, nämlich Heine und Böll!
 
Die beiden beachteten das Individuum, die Schicksale der einzelnen Menschen und verstanden die Bedeutung der Alltäglichkeit und deren Freude in unserem Leben.
Das ist auch die Grundlage der Basis-Demokratie,  und -
das ist genau der Boden, von dem die Anti-AKW-Bewegung ausgeht!

Also - Heine und Böll würden heute sicher mit uns hier stehen!!
Goethe? Weiß ich nicht ... vielleicht lieber mit Frau Merkel anderswo ...

Unsere Initiative heißt „Atomfree-eastwest“ und hat zwei wesentliche Ziele:
 
Erstens die Anti-AKW-Bewegung in Japan und Deutschland zu unterstützen und miteinander zu verbinden,
(hier: Jutetasche zeigen, Wir versuchen als Unterstützung der Demokultur in Japan diese Taschen bekannt zu machen und zu verbreiten. Bereits 1000 Stück wurden von den japanischen Grünen bestellt.)

Unser zweites Ziel ist: den von dem Fukushima-AKW-Unfall betroffenen Menschen zu helfen. Wir haben im Mai eine Hilfslieferung mit Bio-Lebensmitteln nach Fukushima schicken können. Und zu Weihnachten hin werden wir versuchen, den jungen Familien mit kleinen Kindern in der Gegend, die besonders stark radioaktiv gefährdet ist, kleine Geschenkpakete mit Zusprüchen und Botschaften aus ganz Deutschland zuzusenden.

Und ab nächstem Jahr wollen wir das Netzwerk ausbauen, dass die Kinder und Jugendlichen aus Fukushima ein Sommercamp und Praktikumsaufenthalt in Deutschland machen können.
Unsere Initiative ist winzig klein, aber das Prinzip ist, Hoffnung schaffen, Mut spenden und Perspektiven eröffnen.

Es mangelt natürlich bei uns, wie heute in der Finanzwelt überall, an dem nötigen Geld ... von daher wäre ich wirklich dankbar, wenn Ihr in irgendwelcher Weise unsere Aktionen für die „Kinder Fukushima“ unterstützen könntet.

Wer Interesse hat, bitte nachher bei mir melden. Wir haben auch eine Homepage unter „atomfree-eastwest“.

Nun zum Thema Fukushima:

Der 11. März 2011 wird die Welt verändert haben. Es ist eine historische Zäsur. Für Japan gilt dies auf jeden Fall.
Es gibt Japan vor Fukushima und nach Fukushima.
Viele Menschen in Japan tragen heute, eine seelische und psychische Wunde, die sich schwer artikulieren oder ausdrücken lässt.
In der letzten Zeit, wenn wir miteinander gesprochen haben, habe ich mehrfach erlebt, dass man plötzlich im Gespräch die Tränen nicht mehr unterdrücken konnte.

Was bedeutet Fukushima für den einzelnen Betroffenen konkret - und wie hat sich der Alltag in Japan verändert?

Die Evakuierung bedeutet Entwurzelung! Man hinterlässt sein Haus, verliert seinen Arbeitsplatz, hat keine vertraute, soziale Umgebung, und die Familien sind oft auseinander gerissen.
Die Folgen sind oft zerstörtes Familienleben, Isolierung, Selbstmord, schwere Depressionen, Alkoholprobleme, Geldnöte, Hoffnungs- und Perspektivlosigkeit.

Ich war vor 3 Wochen selbst in dem Evakuierungsgebiet Iitate-Mura, in der Präfektur Fukushima, außerhalb der 20 km-Sperrzone vom AKW Fukushima Daiichi.
Der Nordost-Wind und der starke Schneefall hatten im Zeitraum vom 15. März bis 22. März, wo die Explosionen im Fukushima-AKW stattfanden, radioaktive Materialien, vor allem Casium 137, in Unmengen ins Dorf hinein gebracht.
Die Bewohner dort wussten zu der Zeit nichts davon und wurden mehrere Tage der immens hohen Radioaktivität ausgesetzt.

Das Ausmaß der gesundheitlichen Schädigung wird sich sicher erst in Jahren zeigen.

(Zitat aus meinem Reisetagebuch vom 23. Juli 2011)

An sich sollten in Iitate keine Leute sein, denn die Gegend ist evakuiert. Jedoch sind vereinzelt Menschen da. Auch arbeiten sie teilweise tagsüber hier, gehen aber zum Schlafen in die Notunterkünfte.

Das Dorf ist ausgestorben, keine Menschen auf den Straßen, keine Autos, - Schulen, Geschäfte geschlossen.
Die Reisfelder konnten nicht bestellt werden wegen der Radioaktivität. Auf den Feldern wachsen hochgeschossene Unkräuter. Hier bis zu 7 Microsievert gemessen, - überschreitet damit eindeutig die Regierungsangaben und deutlich höher als die internationale Oberbegrenzung.

Teilweise erschient es wie eine Geisterstadt…Es war eigentlich ein kleines blühendes Dorf! - Jetzt ist es von einer Zukunft abschnitten. Viele, die in der Stadt Fukushima arbeiteten, wohnten hier; es sind nur 40 Minuten Fahrtzeit von Fukushima… Wie eine verlorene Heimat. --


(weiteres Zitat)

Besuch einer Notunterkunft und Gespräch mit den Flüchtlingen aus der Iitate-Gegend.
Sie sind in einem Jockeyheim an einer Rennbahn untergebracht, kleine Zimmer zu zweit.
Viele ältere Menschen, Bauern, deren Falten von Sonne und Wind gezeichnet sind.
 
Es gab eine einzige Frage, die wirklich bohrend und immer wiederholt wurde:
„Wann könnten wir in unser Dorf zurückkehren??“
Langes, langes Schweigen, - - keine Antwort, - -  nur Tränen.

Nicht nur in diesem atomaren Katastrophengebiet, überall in Japan sind viele Menschen von tiefen Ängsten  betroffen. Ob das Gemüse, das Wasser oder die Luft … man fragt sich immer, woher sie kommen und wie die Strahlungswerte sein könnten.

Es gibt viele junge Mütter, die sich Sorgen machen, ob ihre Babys oder kleinen Kinder später schwere Erkrankungen erleiden könnten.

Ängste,  Ohnmacht, Gleichgültigkeit und Lethargie sind heute die beherrschenden Gefühle bei uns in Japan, die oft im Alltag unterdrückt werden, aber latent immer vorhanden sind.

Wir wollen die menschliche Tragödie in Japan und nirgendwo noch einmal wiederholen und die Ohnmacht nicht weiter zulassen. Wir wollen trotz alledem das Prinzip der Hoffnung nicht aufgeben! So wollen wir hier nicht nur sprechen, sondern gemeinsam handeln.

Im vergangenen Jahrhundert hat Deutschland einmal für das Negative der Menschheit gestanden. Heute in diesem Jahrhundert steht Deutschland für die Zukunft unserer Erde und den Mut und die Möglichkeiten, einer zivilen Gesellschaft.
Ich bin auch stolz, die Bewegung in Deutschland in den letzten 30 Jahren miterlebt zu haben. Viele Japaner betrachten Deutschland gerade heute nach Fukushima als Vorreiter und Mutspender.

So bitte ich euch nun, mit  uns gemeinsam die Aufrufe-Aktion zum Atomausstieg in Japan mitzumachen und nach Japan zu schicken.

(Wir fangen mit dem Atomausstieg-Sprechchor an.)

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デモの後、デュッセルドルフへの電車を待つ間、シュトゥットガルトでお昼を食べました。
今日のスピーチに登場したドイツの文学史の大文豪シラーさん
(ベートーヴェン第九の第四楽章の作詞者)にも縁のある南ドイツの大学街、
ダイムラーやボッシュ等の本社があるところ。「シュペッツェレ」や
「マウルタッシェ」など
南独・シュヴァーベン地方ならではのおいしい料理も楽しめます。
ドイツ人は生真面目・質実剛健な国民等とよく言われます。
いろんな問題も抱えています。けれども日本のように、未曾有の原発事故を引き起こし、
それでも原発推進・容認を覆せない国とは大違い。
相対的には、批判的な精神を有した、開放的な社会だと思います。それは頭の理屈ではありません。
日常の暮らしの中のいろいろな所に実感できることです。