「2016年4月 特別の春 ー 京都」①

2016年03月29日 | 京都の一日

京都に着いた翌日、桜の朝。
早朝6時過ぎに目を覚まし、先ずはドイツの妻に無事到着のこと、
夜は左京区の友人と長く話をしていたこと、またいつものように
沢山飲んでしまったことなどを報告。



その後、まだ肌寒い朝の空気の中、修学院近くの宿を自転車で出発。
高野川、そして加茂川を上流から下流へ、また上流へ。



異国の友人を訪ねる旅人のような心持ちで、川を離れては小道や
路地に入り、人々の朝の様子や家々を眺めてはその毎日の暮らしに
思いを馳せ、また水の流れ行く川岸へと戻る。


朝風に揺れ、水面の光を映す早咲きの白き桜の花。




今来る春に次の春を想うような自分の心持ちをもう手放そうと思う。


「20年前からの親バカ、ぶら下がりクライマーの決意」

2016年03月27日 | ドイツの暮らし

日本に旅立つ前日、ドイツは今、イースターの連休中です。



家族全員が揃うのも、本当に久し振り。
20、30年前の昔を思い出して、子供達3人を連れて、初めて
夜のインドアクライミングに行って来ました。

ところで、20年前の夏、3人の子供達はこんな姿でした。





今はこんな様子です。







大きくなった子供達3人がグイグイ登っていくのに、
「昔ちょっとクライマー」の僕だけが、ただぶら下がっている
感じ。



老体に鞭打ちつつも、とても楽しく、幸せな時間でした。

もう一度体全体や上半身を鍛え直そうとはっきり心に決めました。

さて、今は翌日、飛行機の中。
全身の筋肉痛を抱えて、桜の日本、京都に向かうところです。

歳をとるにつれ、ますます家族の時間、そして自分の時間を
大切にしようと思うようになりました。

PS 
20年前の写真を引っ張り出してきました。
中高年ぶら下がりクライマーの僕も、当時はこんな姿でした。
「もう一度、山に登れるようになろう!」







(1996年夏、スイス。アルプスでの山登り)


オーブン料理は妻の味、ドイツのお母さんの味!

2016年03月25日 | ドイツ・ヨーロッパの「食」

ドイツの家庭料理にはよくオーブン料理が登場します。



今日はポレー葱をベースにして、その上にマカロニのようなパスタと
イタリアのモッツァレラチーズをのせて、こんがり黄金色に焼き上げた
ものでした。
いつも、キッチン一杯に美味しそうな香りがたちこめます。
オーブン料理はこの頃はあまり食卓に登場しませんでしたが、昔から
妻の、そしてドイツ全国のお母さん達の得意料理です。



ついつい食べすぎてしまうのが玉にキズ。
沢山作るので、二、三日食べ続けることもあります。

 

今日は3杯目のおかわりでストップしました。
オーブン料理というと、僕にはドイツの洗濯機と同じで、30年経っても
何か如何にも外国のもののような気がして、今まで手を出さなかった
のですが、今年は和食だけでなく、ドイツのオーブン料理に挑戦しようと
思っています。その時には、妻と末の娘が料理の先生です。
「よろしくお願いします!」



ドイツ・デュッセルドルフで「小さき声のカノン」の上映会

2016年03月13日 | 脱原発

今日は鎌仲さんの「小さき声のカノン」の上映会がデュッセルドルフ
でありました。

現地在住の日本人とドイツの方々で、120人以上の聴衆が来ています。
今、鎌仲さんが聴衆からの質問に答えているところです。
その中の鎌仲さんの話、「ベラルーシでは首都ミンスクにチェルノビリ
の被曝者特別保養所があって、そこにはもう200人程の日本の官僚が
見学に来ています。けれども、日本にそのような施設を政府ないし国で
作ろうという話は一切ありません。」

 


「3月11日の次の日に」ー 春の日の覚え書き

2016年03月12日 | 社会



今日は3月11日の次の日。
ドイツの僕の村にも、もうすぐ春が来そうです。
妻と義理の母と、友人のオーガニック農園でいつもの週末の買い物を
した後、三人で散歩をしています。



遠くに風車が二つ。



原子力発電など現代の人間の狂気の沙汰、本来、有ってはならないと
いうことを改めて実感します。
日本のアベさんは、本当にチャップリンのヒットラーのよう滑稽さ
極まりない人物ですが、このような人物を時の支配者に祭り上げている
日本社会の病巣は実に広く、深いものだと思います。
知恵も知識もなく、操り人形のような彼は、福島の惨事から五年経つ
日にも「資源の乏しい日本には原子力発電が必要不可決」などと
オウムないしオームのように繰り返していますが、日本は実際には、
世界にも稀に見るほどの自然豊かな風土の国です。

日本に足りないのは、日常の生活を大切にする一般の感覚と、その
自然の恩恵を生かす知識や知恵のある政治家や官僚です。
日常の暮しや家族一人ひとりの人生やその生活を大切に出来ない人達
には、生きる価値を中心にした社会のビジョンは描けません。
彼らを支配している価値は、経済や利便性、学歴や就職先などの
ステータス、仕事第一、同調性、国威発揚などの建前です。
まさに今の日本は窮屈な書き割り社会です。そこには、個々の人間の
生命の躍動がほとんど感じられません。



もちろん、そうではない人達も沢山います。その人達の活動に、ドイツ
にいても日本にいても少しでも役立ちたいと思います。
特に10代から30代の若い人達につなげられることが大切。
僕の場合には日本の若い世代の人達とも一諸になって、和食の本来で
ある健やかな美味しい菜食を、ドイツで伝えていくことなのだろう、
それが僕の役割であり、やりがいのあることでもあるのだろうと考えます。





3月11日の次の日、春の日の覚え書きです。


「ドイツのオルタナティブと脱原発の長い歴史 ー おしどりマコさん、ケンさんへの手紙から」

2016年03月09日 | オルタナティブ&オーガニック

おしどりマコさん、ケンさんへ



3月4日、デュッセルドルフの講演の際にお会いした高田です。
本当に久し振りに「今日は良かった」と思いました、ありがとうございます。
お二人のこれまでの活動、先日の講演に心から御礼申し上げます。
 
今日、ネットでマコさんケンさん達の記事等も初めてよく読んでみました。
2014年のシュトゥットガルト近郊、ネッカーベストハイムの3月の集会では、
マコさんケンさんの舞台での姿を目にしていたのですが、その後詳しく耳を
澄ますことがありませんでした。これから、その分を取り返しましょう。
 
さて、先日の、マコさんがAsse(アッセ)に行った時の話の中で、対応した役人さんが、
「80年代のドイツはまだ、動いていなかった」と説明していましたが、これは
「彼自身が全く動いていなかっただけ、今在る彼の姿につながるその当時の彼が、
その後のドイツの社会を大きく変えていく動きに全く気がついていなかった、
見ようとしていなかった」ということが本当のところです。
 
そのこともお伝えしたいのですが、それよりも1968年頃の学生運動の後、
1970年代から80年代にかけて大きく盛り上がっていった、ドイツのオルタナティブ
の運動、当時のドイツの若者達(大体僕の感覚では、25歳前後の人達)が暮らしの中から、
男女関係の中から、食生活の中から、普段着る服から、議論の仕方から、自分達の
価値観や行動パターンを変えていったそのトータルな運動が、この40年間でドイツの
社会やその活動を支えている中間層の人達を大きく変えました。
一言で言えば、だいぶ明るく開放的に、自由になったのです。
 
メルケル首相の3月11日以降の突然の脱原発も、その前の年の秋に「脱・脱原発」を
無理やり押し通した彼女が、ドイツを変えた過去の若者達が福島の事故の後、長い
居眠り状態から覚めて、一気に彼女を追い詰めることに恐れをなして窮地の手段を
取ったことです。
 
1981年から、ドイツで若い外国人学生として暮らし始めてから、このドイツの
オルタナティブ/「アルタナティーヴェ」の運動は、この国の一番素敵なところだと
常に思っています。うちの奥さんも、当時は真っ赤なジーンズを履いて、大学の
教室から教室へと反核のビラをニコニコしながらばら撒き、それはそれは
素敵な姿でした。
 
ここらへんのところを、マコさんケンさん達になんとか伝えたいな、と思って
メールを書き始めました。
下記の破線以下の部分にこのテーマに関わる2つの文章(①と②)を記載して
おきます。最初の①は僕の書いたものでもありますが、旅の最中、時間があったら
目を通してください。
 
なおその前に、話は少しややこしくなりますが、この関連でもう一つお伝えしたい
ことがあります。
 
ドイツ(広くは西ヨーロッパの国々)には、1970年代どころか、ナチの時代も
ワイマール共和国の時代も第一次世界大戦も越えて、19世紀末前後の
ユーゲントシュティールの芸術・生活運動の時代まで遡る、常に社会の伏流の
ような若者の反体制、対抗文化、サブカルチャーの脈々とした伝統があります。
そして、その中で芸術家、芸人達が果たした役割は小さくありません。ドイツの
ワイマール時代のシャンソンや、戦前戦後と続くカバレティストの文化もそこに
繋がっています。日本では「飛ぶ教室」や「テンコちゃんとアントンちゃん」等の
児童文学で有名なエーリッヒ・ケストナーもその一人です。
 
 

(ドイツのオルタナティブの120年の歴史的行進、こんなイメージです。)
 
おしどりマコさんケンさん達をドイツに呼んでいるのは、実はドイツのこの120年の
芸人達の幽霊や、今は亡き、過去何万、何十万人の反体制派の若者達なのかもしれません。
この縁を大切にしてください。
 
ドイツのオルタナティブにつかず離れず、暮らしているうちにもう30年を越してしまった
僕も、マコさん達の活動を応援します。
ドイツに来たいと思ったら、是非声をかけてください。具体的にサポートします。
講演で疲れたら、僕の自宅でご飯と味噌汁、ぬか漬け、野菜炒めをご馳走します。
ともかく口八丁手八丁でサポートしますので、ドイツに日本の現状を伝えるようにしてください。

日本が外圧からではなくその内側から変わっていくためには、いろいろな内外のツッコミや
毎日の暮らしにつながるインパクトが必要なのだと思います。
 
では、旅の途中、風邪をひかないようにご自愛ください。 

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① 2012年6月の「Actio」という雑誌の中の次の文章、
「生きる価値のある未来を求めた社会 ー 3・11後に脱原発を決めたドイツ 」
 の中から、「連邦制・地域分散型のドイツ」及び「ベースにあるオルタナティブ」 
 の部分を下記に引用します。目を通してみてください。



■連邦制・地域分散型のドイツ

 脱原発をめぐるドイツと日本の違いについて、たくさんの方が発言していると思いますが、
私個人としては二つ、大事な側面があると思います。一つは政治の方向性及びシステムの違いです。

 国の基本的方向、政策の側面から見れば、戦後の復興において日本は自民党政権の下で国力の
発展を追求し、追いつき追い越せ的な発想で、ジャパン・アズ・ナンバーワンを目指しました。

 一方、ドイツの70年代は社会民主党(SPD)が連立政権内にあり、労働組合寄りの政策を
行っていました。経済発展の利益は一般の労働者に還元されることが厳しく求められ、基本的な
社会インフラへの投資が利権の奪い合いベースではなくそれなりに計画的に行われていました。
国民の生活の安定、暮らしの豊かさにつながる政策のウェイトがずっと大きかったように思います。

 さらに根本的な違いがあります。日本は政治・行政が極端な中央集権型ですが、ドイツは連邦
共和国であることです。各州の独立性は高く、連邦と同様に一つの国として運営されています。
消費税などの分配も州へ直接入る部分が確保されています。

 ドイツの国会は二院制ですが、上院にあたる連邦参議院は、州の意思を連邦の立法・行政に
反映させるために州政府の代表で構成されています。下院の連邦議会で議案を通しても、上院で
過半数を採れなければ戻されてしまう。このシステムは民主主義を養う上で非常に重要だと思います。
日本の参議院と異なり、ドイツの場合には各州の意向がきちんと国政に反映され、検証されるシステム
になっているわけです。

 政治だけでなく国自体も地域分散型モデルです。文化、産業、学術研究の拠点が分散しており、
労働市場も各地にあります。連邦共和制であり、かつ地域分散型であること。
それが現代ドイツ社会の基本的強みだと思います。

 今回、大飯再稼動の問題で日本に行く前、16歳の娘と18歳の息子と3人で外で食事をしました。
その際ふと思いつき、ドイツのどこが好きで誇りに思っているのか尋ねたところ、娘は「ドイツは
パンがとてもおいしい」と言った後、「自分の国の民主主義は機能している、良いと思う」と答えました。
家では特に政治的な話をしていないのでびっくりしました。続いて息子が「僕もそう思うけど、学校の
システムも悪くないよね」と。自分の子ども達ながら若い人達がこういうことを普通に感じるのか、
ドイツはなかなかの国になったのだなと改めて思いました。


■ベースにある「オルタナティブ」

 もうひとつ重要なのは70年代以降のオルタナティブ(Alternativ)、ドイツ語でアルタナティーフの
動きが、過去40年間、ドイツの社会や生活にもたらした影響です。オルタナティブとは、当時主流で
あった既存の政治枠や社会のシステムに依存しない、別の生き方、暮らし方を求めるあり方の総称です。
物質主義、権威主義、環境破壊主義からの価値転換を目指した、日常生活に直結した動きでした。

 ドイツでは68年以降、政治運動が極端、暴力化し挫折しました。その後、暴力や政治主体で上部構造
を変えるのではなく、ソフトな、日常生活の中での価値の転換を求め、暮らしを足下から変えていく試み
が学生運動以降の世代の若者達から始まりました。

 私が80年に初めてドイツに渡った時は、ちょうどそうした運動が盛り上がってきた時期でした。
彼・彼女らが始めたのは、男女が生活の中で対等に話をし、質素に暮らすこと。当時、政治的に
しっかり物事を考えている女性たちは、大学の中で編み物をしていました。それは自分の着るもの
をつくる、時間をゆっくり過ごすというシンボリックなことだったのです。

 そうした人たちは、原発反対や東西ドイツ国境地帯への中距離核ミサイル配備反対などの行動を
担っていました。この世代はその後、次第に保守化したり、家庭を持ったりして、既存社会の一員と
なっていくのですが、当時抱いた根本的な価値は心の中の芯として保っていた。それがドイツの
オーガニックの運動や「緑の党」の盛り上がりを支えた原動力になったと思います。

 つまり「緑の党」のベースには、それ以前の70年代頃からはじまったオルタナティブという動き、
若い世代の生活変革、そのような意識に支えられた幅広い勢力が存在したのです。
この社会的・文化的な変革のポテンシャルを見逃してはいけないと思います。日本でもこの
「オルタナティブ」な価値、生き方が意識的な若者世代、特に女性達の間には世代を超えて確実に
広がっていると思います。脱原発だけでなく、日本の社会を変えられるのはこのような女性達が
中心となった力ではないかと想像します。


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上記と一緒に、下記②の文章も併せて読んでいただければ幸いです。
 
② Energy Democracy「ドイツ・エネルギー転換の歴史-最初の40年」
   この論文の冒頭の一部を紹介します。(http://www.energy-democracy.jp/1320)
 

多くの人たちが、ドイツのエネルギー転換(Energiewende)は、日本の福島第一原発事故を
受けて、アンゲラ・メルケル首相が脱原発を決めたことから始まったと思っています。
しかし、Energiewendeは、政府がそれ以前に決めていた脱原発の計画に戻ってきたことに
他なりません。ドイツの歴史と社会に深く根付いた長いプロセスは、自然エネルギーの大幅な
増加を引き起こす政策を創り出し、いまや低炭素経済への移行の中心的な駆動力となっています。

エネルギー転換のハーフタイム」:環境シンクタンク・エコ研究所による自信にあふれる
祝典のタイトルは、アンゲラ・メルケル首相による2011年の福島第一原発後の劇的な決定に
ついて、忘れられていた多くのことをよく表していました。いまや2050年までに経済の脱炭素化
をめざすこととなった社会的プロジェクトは、メルケル政権が原子力発電からの離脱計画を復活
させる数十年前からはじまっていました。

エネルギー転換 - 社会と経済の全面的な変容 - は、長期にわたる草の根運動、事実にもとづく
議論、気候変動への関心、主要な技術の発展、そして、ドイツとその他の地域で試みられてきた
実践の経験などから生じたものです。(時間軸はこちらを参照)

草の根の抵抗

エネルギー転換の起源はさまざまあるのですが、ひとつの強力なきっかけは1960年代の学生運動
から続いて西ドイツで起こった「新しい社会運動(New Social Movement)」でした。

反原発運動は、数年後にエネルギー転換と呼ばれるようになる一連のモノゴトにとって、もっとも
重要な新しい社会運動でした。反原発キャンペーンは、1973年にドイツの黒い森に近く、スイスと
フランスに接するワイナリー地域のもっとも南西の端でおこった出来事から生まれました。
そこには、ヴィールという小村があり、そこでは地域のワイン農家が、近隣のフライブルク大学から
やってきた活動家や、フランスやスイスで関心をもつ市民などが原子力発電所の建設を阻止する動き
を組織しました。彼らはまずはじめに建設予定地を占拠し、警察が彼らを強制排除し、その様子が
全国にテレビで放映された後、電力会社がこれを法廷に持ち込み、最終的には取り下げられました。………


(以上が冒頭の部分です。もし興味があれば、上記のリンクで一度この論文の全文を通読してみてください。
とてもよくまとめられた文章です。)