「よし、やっぱり免許をとろう!」①

2018年05月26日 | 随想

この前、右膝のリハビリの帰りに立ち寄ったピザ&パスタ屋さん。
実にイタリアンなクルマ。
「これはいいなあ、素敵だなぁ〜!」
それに白いスクーターも、「ローマの休日」のオードリーヘップバーンが
二人乗りしていたような感じだし……

「よし、やっぱり免許を取ろう!」

今、ドイツからの乗り換えでヘルシンキにいます。
日本まで後、9時間です。今年初めての、半年ぶりの京都。
今回の10日間のテーマはまさにクルマ。
吉田山から岩倉の教習所にまずは仮免目指して毎日、毎日、通います。

昔なら50の手習いとでも言ったのだろうか?
どっこい、好きこそものの上手なれ。
意思あれば道あり、青年よ大志を抱け、初志貫徹、老年の恋、
全ての道はローマに通ず。直進あるのみ。
後進はタブー、スピードだけには気をつけよう。

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京都の友人、知人の皆様、お久しぶりです。

今年初めての京都です。学科も技能も終わった午後、夕方からは毎日、
僕はいつでも空いています。「会えたらうれしいなぁ!」

声をかけてくださいね😘
もしよければ、覚えたての右ハンドル、左折、右折、安全運転の
コツも伝授します!?

 

実は、ちょうど一年前にも、ドイツで免許に挑戦しようと思い立ったことが
一度あります。こんな気持ちでした。

「57歳の夏。

僕達の家族五人の中で唯一人、ドイツ国籍も選挙権も自動車免許
もなく、それでも大過なく満足して、ドイツで30年以上過ごして
きました。
ところが、今年の春、いよいよ今後の人生のために「クルマの移動
の自由、自主独立性」は確保しようと思いたちました。… 」

 
 
と大げさなタイトルをつけた文章も記していたのですが、見事に挫折。
学科も技能もほとんど通わずに一年が過ぎてしまいました。

今回は母国、日本での挑戦。必ずやと思っています。 

 

 

 


「心の中の川」と「空からの雪」

2017年12月09日 | 随想

京都左京区の小さな丘の上、そこにある小さな住まい。

昔からの緑の神社、桜や紅葉の古いお寺に囲まれて、
戦後の全ての崩壊の中から生まれた1960年代の、
その時代の象徴のような、築50年を過ぎた建売・安普請の木造住宅。
今はすっかり古くなって、そこに暮らした家族もあの世とこの世で
一家離散。

そんなところに遠くからの縁があって、やはり日本の戦後生まれの、
その社会構造や価値観がどうしても性に合わず、今はすっかり
根無し草の外国生活を送ることになった僕。

そんな自分が、まだ若い老年の入り口に求めた小さな住まい。

「日本の冬の朝は家の中が本当に冷たい、京都の東山はもっと寒い、、、」
そんなことを思いながら、濃い目の昆布水をベースに冷蔵庫の隅で
すっかり忘れ去られていたような野菜を取り出して作った野菜スープ。

もうずっと昔の子供の頃のように、冬の朝の白い息を吐きながら、
自分の人生のような和洋折衷の野菜スープを啜っていると、届いた
ドイツの冬の訪れを告げる、朝の雪景色。

二つの風土の、二つの異なった寒さ。

僕はこの二つの違いを一つにすることは出来ないだろう。
心の中の川と空からの雪が出逢うのは一回限りのことではない。
でもそれは常に一瞬のことであるように。

 

 


半年ぶりの日本へ

2017年11月19日 | 随想

日本はきっと朝の10時頃だろう。

ドイツは真夜中から明け方へ向かう、魔者たちの丑三つ時。
ひんやりとした冷気、間もなく冬将軍の到来だろうか。

あと数時間もすれば、半年ぶりの日本へ!
京都では秋真っ盛りだろうか。
今回は自分には、人生初めて経験するような厳しい話が
其処であるのかもしれない。

それでも、明け方の身の締まるような静寂の中、古の寺の
境内の中をを独り歩む時のような、静かに心弾むような
気持ちが僕の中にはある。

東山の低い雲を、北山の空を仰ぐこと。
吉田山を、真如堂を朝に夕に散歩すること。銭湯に行くこと。
日本の野菜や魚で料理をすること。親しい人達や家族と
一緒にご飯を食べること。時々、独りでカフェに行ったり、
自転車でうろうろしたり。

そんなことがなんと嬉しいことだろう。

 

 


「日本の美の精神、表現を支えていたもの」

2017年11月02日 | 随想

人生の秋の庭仕事に憶うこと。

かって、日本の普通の暮らしの中に根付いていた、
誰の身の回りにもあった春夏秋冬、各々の四季の風景。
桜、銀杏、楓、柿。
濃緑、浅黄、黄色、緑、赤、朱、紅、、、。

昔、日本ではそんな暮らしの中で花や草を見て、月夜を仰ぎ、
風の音を、雨の音を聞き、暗い闇の中、焚火や釜戸の火に手をかざし、
或いは朝陽の中に光を見て、そうした何千、何万の時間の中で、
五感の記憶、印象、憶い出を幾重にも積み重ねていたのだろう。

そのようにして紡ぎ出された感覚は自ずと工人達の眼と手に伝わり、
何世代にも渡り、彼らの美の源流となっていたのだろう。

そのような日本の美の精神は、自分達の身に纏うものや、手にする
器や道具、飾物、そして口にするものにも、その調えにも反映し、
その表現を見出してきた。

その美の形式、形象は具体的でかつ抽象性に富み、その両者を自在に
行き交いするかのようにして、ありとあらゆる表現を見出して来た。
その表現、造形の完成度は極めて高く、稀有なものだったと思う。

今日の夕餉の席には、庭で見つけた秋の八葉を散らそう。

かっての暮らしの美、その形骸だけが残された僕達のこの表相の世界で、
僕の稚拙な眼と手は、自分達の中に微かに残された一縷の糸を手繰るよう。

 


此処は世界の何処にでもある居酒屋 ー 南ドイツの旅籠屋「白い羊」にて

2017年09月11日 | 随想

南ドイツ、ニュールンベルグからクルマで20分ほど、中世からの城壁に
囲まれた小さな村「ラオフ」の旅籠屋「白い羊/ヴァイセス・ラム」の
宿にて。

この村に初めて来たのは25年以上前のこと、僕もようやく30代の初めで、
今は成人した三人の子供達もまだいなかった。

当時は仕事盛り、年に100日はドイツ国内のあちこちに泊まりがけの
出張をしていた頃だ。
昨日何処にいたのかも定かでないような忙しさだった。
よくやっていたと思う。
異国で生まれて初めての商売をしながら会社を起こし、自分を見失わい
ことに必死でいながら、既に人生の道に迷ってしまっていたことには、
当時はまだ気がついていなかったのだと思う。

今日は久し振りにこの村に来た。夜の10時ごろに到着すると、どこの
レストランも閉まっていて、外は秋の真っ暗な空。

昔からの知り合いの宿屋の大将を訪ねる。
もう彼の厨房も閉まっていたが、ひとまずビールだけを頼みしばらく
すると、『何を食べるかい?」と大将が尋ねてきて、今日作ったばかり
だという粗挽きの地元のハーブの効いたソーセージを焼いてくれた。
少し焼き過ぎのような表面の焦げ具合。やや甘めのザウワークラウトと
一緒に、地元のマスタードをつけて食べる。美味しかった。

ラオウの村一番の別嬪さんだった大将の奥さんも今日はお客さんの
テーブルで大分酔っ払って上機嫌だ。小さかった息子さんも30過ぎに
なったそうだ。常連さんの冗談も愛想よく、上手にあしらっている。
夏休みで実家に帰って来ているのだろう。
僕の地元の赤ワインへの質問にも実に親切に応えてくれる。

此処は世界の何処にでもある村の居酒屋、何万、何千の料理屋の風景だろう。

僕にとっては今も少し哀しく懐かしい、自分のまだ若かった人生の、
当時の自分には見えなかった岐路を思い出すような村だ。

 


今ここにしかないこと - 57回目の春

2017年03月18日 | 随想

57回目の春。

それは人生57回目の桜ではないだろう。
若い時はそんなことも知らず考えずで、 
生きていたのだから。
この後は10回、5回の桜、、、。
どうであれ、一つ一つの、一回限りのこの春、この桜。

今、ここにしかないこと。
春の宵闇の中、お前はその準備をして来たのだろうか。


「ドイツの新幹線ICEの中で - 誰もいない空間」

2017年02月14日 | 随想

南独に向かうドイツの新幹線ICE の食堂車の中。
昔から仕事が忙しくなると、この移動の合間時間に食堂車でボンヤリとし、
ようやく自分を取り戻すようなことがある。

四人掛けのテーブルに一人で座り、目を上げれば紙の上の料理以外には
何もない、誰もいない空間。
明日からニュルンベルクのオーガニックフェアで二日間の仕事、
そのまま家にも帰らず、日本への短期出張。何で僕はまたこういうことを
するのだろう?

「あぁ、今日のお昼にはまだ家にいたのに、子供達と食卓に
ついていたのに…。」

50年以上も前に亡き母が着ていた、センスに富んだ、
品の良い黄色と黒のストライプのセーター、僕が持っている数少ない
形見の一つを、娘がいつからか着るようになった。
その姿を数年前に初めて見たときは、僕は心の中で号泣して
しまったように思う。
今回は自分が勉強しているウイーンの街に持ち帰るという。
「あぁ、それが良いね」と言いつつ、普段の生活の中で、大切に、
大切に着てほしいと思う。娘もそんな気持ちが分かったようだ。
「パパが作るタラコスパゲッティ、本当に美味しいね。昔の通りだね。」

僕はまた、心の中で二粒、三粒、また涙を流してしまった。
人は歳をとると涙もろくなると言う。
34歳の亡き母はそのずっとずっと前に逝ってしまった。彼女の涙の
いきさつも行方も、その哀しみも遠い昔、僕はかって知ることもなく、
今では何もたどり得ないこと。

東京、九段坂下の病院の廊下。
暗闇以外には何もない、誰もいない空間。
その果てに響いて止むことのなかった母の叫び声。癌の末期の痛みに
耐え切れなかったのか、誤った結婚への悲痛、人生への悔悟の慟哭
だったのか、ぼくはもはや其れを知ることはない。
それでも僕の耳は一生其れを忘れない。


冬の長い旅 - 戻る場所があり、帰るところがあること。

2016年12月17日 | 随想

4週間の日本の旅も終わり。関空に向かう朝。
会えた友達もいれば、会えなかった友達もいる。

僕はいつも「日本に、京都に戻る」と自然に思うけど、それでも
『ドイツに帰る』と言う。かって見ず知らずだった遠い国、そこ
には自分がつくった家族がいる。

戻る場所があり、帰るところがあること。二つの場所は大きく異なり、
その日常は重なり合わない。ひとつ同じことは、どちらにも大切な人
達がいることだ。そこで僕は一人ではない。

幼い時に肉親と死に別れ、孤独を与えられた者には、一生その影が
つきまとうだろう。胸の中の寂寥は取り除くことはできない。

友人、知人、人々との一回、一回の出逢いを名残り惜しむように、
大切に。
家族との日常も一日、一日とかけがいのない時間の積み重ね。

人生の4分の3あたり。今年の秋は二つの国で沢山の紅葉を見た。


朝のプールで ー 答えのない考え

2016年06月09日 | 随想

平日の朝、仕事場には顔を出さず、まず近くのサッカー場に走りに行く。



その後、村のプールに行くと近くの小学校の子供達の水泳の時間が
終わったばかりで、更衣室も、水泳場も人っ子一人いないような様子。
見渡せば、赤ちゃんを連れたお母さんが一組、二組、水泳を日課と
しているような年金受給者の70歳前後の男性が一人、二人、午前中の
光の中で、僕の目に映り始める。



僕の住むこの村は、ドイツの何処にでもよくあるような、都市生活者と
それなりの大規模農業従事者の混じり合った(耕地面積50〜100ha)、
保守的な、日本から見るとまるで田園都市のような、やや退屈な
落ち着いた生活圏だ。
多分、その住民達は生まれながらのドイツ人が多く、外国人や移民の
割合は比較的少ない。

現代の基準、僕達が習い教わった人生や社会を図る物差しからすると、
今、この国は地球上で最も豊かな国の一つなのだと思う。社会全体の
均衡もそれなりに取れている。



どんな社会も、ひとの人生の意味に答えることは出来ないだろう。

けれども、その問いかけが、
生きること自体の苦や、因襲的な差別、社会的な抑圧、既存の
価値構造の縛り付けから出発せざるを得ないか否かは、大きな違い
だと思う。

現代日本の問題は、生き辛さの一つはここにあるのだと思う。


「30年前、僕はこんな夕べを想像していたのだろうか」

2016年06月08日 | 随想

初夏の夕べ。蒼い空に星々が輝き出す前の特別な時間。

耳を澄ますと10種類、20種類の小鳥たちの様々な声が響き合い、
遠くに、近くに重なり合い、風が揺らす笹の葉や松の葉の間から、
海辺のさざ波のように、山小屋の夕べの音のように、彼等だけの
言葉を交わしている。





仕事などしたくなかった初夏の一日がこうして暮れてゆく。
そして、少し白夜のような、本当は異国の、北国の夜が近づいてくる。
それでも今日はさっきまで、まだ昼間のような夕方の太陽を見上げながら、
緑の中の大きなプールを10回も20回も往復していたんだ。
その上、昼には庭の草も摘んで、初めてオーブンで豆腐の田楽も
作ってみた。

今、夜が来る。



薄口の出汁につけた白いアスパラガスは、淡い薄紅色の
新生姜にほんのりと軽く肩を抱かれるようにして、少しの柚子の絞り汁
と清澄な薄淡い数滴の醤油と共に、僕の口に収まった。

そろそろ赤い火星も、周りの星も見えてきた。



僕はまだ一人で庭に座っている。ロゼのワインもまだ少しある。

30年前、日本を出た時、僕はこんな夕べを想像していたのだろうか。


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 今年の6月3日に記した文章、
「ドイツに戻って - 人生の 2/3 あたり 」
とつながりのあることがらです。


ドイツに戻って ー 人生の2/3あたり

2016年06月03日 | 随想



昨日の夕方、日本、京都からドイツに戻りました。30年余り、
日本とドイツの間を往復していますが、今回の旅はとりわけ大きな
節目になるように思います。
京都の友人、知人の方々、日本での日常の暮らしでは右も左も
あやふやで心許ない自分ですが、御助力、応援いただき、
御礼申し上げます。
どうも有難う!
そして、今回はゆっくり会えなかった友人の方々、逢えるであろう
まだ見知らぬ方々、お会い出来ることを楽しみにしています。
七月の祇園祭の頃、京都に、日本に戻ります。



今日は朝からニュールンベルグヘの出張です。ドイツでの
僕の日常のスタートです。



雨の早朝、緑の中で目を覚まし、
「あぁ、ここが僕の家族との暮らしの場なのだなあ」と、
そして、南独を目指して飛ぶプロペラ飛行機の中では長年見慣れた
体の大きい人達を眺めながら、「ここが僕の仕事の場なのだなあ」
とあらためて思いました。




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今回の滞在では、生まれてからずっと京都に暮らす、一人のしっかり
した方が「高田さんにとって、心のふるさとは日本というよりも、
昔ながらの日本なんだね。」と表現されましたが、確かにそのとおり
のようです。



いつも、子供達三人には「父さんが好きなのは、アルトヤーパン、
オールドジャパンだよ」と話しかけてきました。
それは確かに昔の日本、過ぎ去った日本ではなく、また、昔からの
と言うよりは、今にある昔ながらの日本のことなのでしょう。
そして、その中に包み込まれた無垢なもの、確かなもの、暖かいもの、
本質的なものに深い愛着を感じてきたのだと思います。

さて、今日は朝早くからニュールンベルグに出張、久し振りの
通訳業務でした。日独の大きな合同企業の監査役会議で、
何千億円の売上の話やその中でどのようにして更なるコスト低減
を図り、利益率の上昇を達成するかが全ての前提となる話でした。
このような現代の経済イデオロギーの話を僕は過去30年近く、
数限りなく訳してきたように思います。
自分の職業分野ではあるのですが、そこで扱われる内容やテーマ
には本質的な興味を一度も抱いたことがないと、改めて思います。

今回の京都ではその初日に実に的確に姓名字体判断をする方に
出会いました。
「あなたは、随分自由に生きてきたようですが、そのわりには
心の中にやり残したことがある、このままでは死にきれないと
いうほどの思いを強烈に抱いているようにお見受けします。」
とはっきり指摘され、自分で感じていた以上に胸の中にど真ん中
の直球を投げ込まれた気がしました。今もしっかり尾を引いている
言葉です。

吉田山の小さな住まいでは何もない中、屋内テント生活を始め、
なかなか大変でしたが、久しぶりに畳に布団で約一週間を過ごしました。



朝早く東山を望み、朝陽の照り渡る真如堂をおおい包むような
青もみじの中を歩き、吉田山の木立の中をあてもなく散歩したり、
或いは彼方此方から大文字を望む、左京の道や路地を自転車で
気の向くままに走り回ると、
「あぁ、此処は本当に良いところだ、なんと有り難いことなのだろう」
とつくづく思います。



ここで料理をしたり、ものを書いたり、友達と長い話をしたり、
山を歩いたりするようになれば、その嬉しさはなおさらのこと
でしょう。ドイツと日本、二つの椅子には座れない、どちらにも
座れないと思い続けたことも長くありますが、これは本当は
僕の中の二つのことで、実は一つで有り得ることなのかもしれません。

自分が好きなことを大切にし、精神と身体をそこに向けていくと、
固有の分立も一つの普遍に結ばれていくのではと、今は思います。
自分は既に人生の3分の2は過ごしたのかもしれませんが、まだまだ
3分の1はあります。ここにきて、このように感じられること、
考えられることは格別に嬉しいことです。

旅は人を感傷的にするとよく言いますが、それは多分、表面的な
ことでしょう。自覚的な旅ならば、それは人生の意味をより明らか
に照らし出します。

「人生は旅なり」とは何もかもが過ぎ去っていくのではなく、時間の
変遷の中で自分の本分に従って、その時々を生きていくことを意味する
のだと思います。

こんなことを考えるようになったのは、昨年末から数ヶ月のことです。
その時は大変に思っても、自分の内なる響きに、それまでの小さな
試みに、その時の不安や迷いによく耳を澄まし、勇気を持って、
落ち着いてしっかり、大きな一歩を踏み出すと良いのだと思います。

 

今日は大分、個人的なことを長く書きましたが、自分のために
書き留めておきたかった考えや事柄です。 
読む人にも何かの参考になれば良いと思います。  




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 今年の5月22日に記した随想、
「重なり始める二つの時間 ードイツから日本、京都へ 」
から約二週間後、ドイツに戻ってから記した文章です。


「重なり始める二つの時間 ードイツから日本、京都へ 」

2016年05月22日 | 随想

御所の朝。日本に戻って二日目。時差で朝5時前に目が覚めてしまう。



もう数時間経つのだろうか、松の巨木や青モミジの中を
縫うように歩きつつ、昨日からの日誌を書き続けている。





朝の光が照り輝いている。北山を遠望し、東山に目を移せば、
遠く長い時間と、今の僕の時間が重なり合うようだ。

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2016年5月22日

出発の前の日も、ドイツから日本への飛行機の中でもほぼ徹夜状態
だったので、今日は一日中何をしていてもボーッと、ポーッと
している。


そう言えば、子供の頃に、家でも学校でもいつもボーッとしている
子だねとよく言われていたことを唐突に思い出す。

三条の友達にお土産を届けても、自分が何を話しているのか、
何を話したのかもよく分からない、、、三つ子の魂百までも、、、。

そうやってひとりでフラフラしつつ、ニトリというホームセンターの
ような大きな家具センターのようなところに、生まれて初めて足を
運ぶ。



右も左も分からず、見るもの聞くもの知っているようで、よく知らない
ものばかりだ。



表面の美観ばかりで、無垢な素材の良さを忘れたありとあらゆる
工業製品に身の周りを囲まれて、どこまでが日本で、どこまでが
洋風、西洋の物真似なのか、もうさっぱり分からない。



そのようなものを日常の当たり前としている人達に囲まれて、
僕はやっぱり、自国でも他国でも異邦人として生きていると
つくづく思う。

何年か前から、いつかは日本に住むような時が来るのだろうか、
と思っていた。





あれは去年の冬、晩秋から冬への大原、冷たい透き通った空気の中、
残りの柿を、枝から落ちることを忘れたその紅い実のひとつひとつを
眺めながら、半日近く、夜の闇が降りるまで一人で歩いていた。

その次の日だったのだろうか、「あぁ、もうこの土地をひとりで歩く
のは止しにしよう。この京都の街に暮らしてみよう。」
何年か前からぼんやりしていたことが突然はっきりした瞬間だった。

この春、俄かにそのことが進み始めている。
約35年前、若い時の自分は、日本を、今から思えばそれはむしろ
東京の生活や社会環境のことだったのだろうが、そこから離れよう、
此処では自分の人生を送りたくないとはっきり思っていた。
それは今も変わらない。
変わったのは日本に関する自分の知識や経験だろう。





僕の生まれ育った国は稀なる美しい国で、その多くは壊され、
その社会の閉塞性は35年前よりもさらに一段と深まっている。
家具の買い方ひとつも分からず、押入れや布団の大きさにも
疎い自分が、今、京都吉田山の近くに住まいを構え始めよう
としている。




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今年の4月13日に記した随想、
「ドイツ春と日本の春 ー 二つの椅子、二つの桜」
から約一月経って記した文章です。

 


「ドイツの春と日本の春 ー 二つの椅子、二つの桜」

2016年04月13日 | 随想

曇り空の中、2週間の日本、京都からドイツに戻りました。

今回の旅は数年後に振り返れば、より大きな意味を持つのかもしれ
ません。今後の人生の大きな転機の一つ、僕一人だけでなく、家族皆の
日本との関わり方にも大きな節目になるように思います。

デュッセルドルフの空港に降り立つ前、ちょうどライン川が下に見えました。
この川岸に初めて立ったのは、自分がまだ23歳の時。東京の大学院を
第一学期、三ヶ月で休学し、ドイツに自費留学、日本人音楽家夫妻の
ベビーシッターとしてスタートした時です。



桜満開の京都、今回の旅は本当にいろいろなことがありました。
二週間振りにドイツの家に戻ると、庭にはまだ名残の桜。
こんな時は、僕の中の二つのふるさとが重なったり、離れたり
します。





毎年の春の風景。ちょうど一年前、去年の4月の同じ頃、
こんなことを書いていました。

夏の夜空に浮かぶ天の川、
それは大きな生命体の結晶のよう。
春の桜吹雪は白昼夢。過ぎ行く恋の道行。儚くも痛切な夢。
桜の花びら一枚一枚は風に舞い、水に落ち、再び一つと
なる、私達一人一人の人生のよう。」 

今年の桜はそれほどセンチメンタルにはなりません。
それは多分、今、過去よりも未来に自分の眼が向いているから
だろうと思います。



さて、ドイツに戻って初日の夕飯は、飛行機の中の徹夜で
くたくたな体にムチ打ち、次男に日本から持って帰ったナメコ
で彼の好物のお味噌汁を作りました。



最後に今回求めた器を開梱し、明日からの料理をまた楽しみに
日本からドイツへ24時間ぶりの「お休みなさい!」



 


PS:

さて、今回の京都での経験は、これからも夢の中に沢山出てきそうです。
そのように個人にとって大切なことはその夢の中には現れても、
文章にはなかなか表現しにくいことだと思います。

下の写真はそんな夢の種の一つ一つです。











僕の暮らしの中にある二つの椅子。どちらかに座らなければと
思っていた時もあった。今でも時々どちらに座っているのか
分からず、どちらにも座れない時もある。

揺れる心よ、それでもそれが僕の今までの暮らし、生きている
形なのだろう。

ドイツの春と日本の春。そこには本当は魂の大きな違いは
ないのかもしれない。でも、其処まで行き着いた人は殆どいない。



 

京都・鞍馬で見た桃の花。

 

 

二つの色が一つになっている。 


「あなたが死ぬ時に、誰が涙を流すのだろうか」 ー スペインとドイツの二日間

2015年09月05日 | 随想

昨日はスペインのバルセロナにいました。
仕事上、今年三月の飛行機墜落事故のスペイン人とドイツ人の
御遺族の方々に通訳として対面することになりました。
遺された伴侶の方、息子さん、娘さん、御両親の方々の哀しみ、
嘆き、心に負った深い傷は癒しようがなく、言葉がありません。
それでも貰い泣きはせずに、なるべく正確に、無念の想いのその
表現を、亡くなった方への言葉を少しでも、出来る限り伝えること
が僕の役目です。

心の病を患っていた副操縦士の自死の道連れとなり、まさに人生の
不合理に直面しての不慮の死。亡くなられたお二人の方は僕とほぼ
同い年、50代後半の男性二人でした。
「この年になれば、兄妹や友人に死に別れることはもう何度も
あったこと。それでも、子供に、自分の息子にこんな形で先に
逝かれたこと、このことは耐え難く、どうにもならない。」
と繰り返し語る、八十を越えた遺族のお母様の慟哭が、今も耳に
響きます。
人の死が避けがたいこと、其れがいつ来るかもしれないこと、
当たり前のことですが、そのことを毎日の生活の基本として、
一日一日を自覚的に生きていくことは容易なことではありません。

 


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ドイツに戻った翌日、今日は妻の従兄弟の結婚式です。





2歳の子供のいる若い二人が、これからの人生を互いを伴侶として
送っていくことを誓い、祝おうとする特別な日です。二人にとって、
家族、親戚、昔からの友人達が一堂に会し、まさに記念すべき、
人生の特別な一日だったと思います。
僕自身はこの二日間で、スペインとドイツを移動することになり、
慌ただしい時間でしたが、常に頭の中にあったのは次のような文章、
問いかけです。

「あなたが死ぬ時に、誰が涙を流すのだろうか、私達は、その人達と
交わす言葉の一つ一つを、その時間を、そして自分の一回限りの人生の
時間を、一日一日、大切に過ごしているのだろうか?」

  

 

 


「静かな一人の時間、朝の緑の中で考えたこと」

2015年06月08日 | 随想

初夏の青空、ドイツらしい風景だ。



朝の散歩、自転車で恐々と足腰のトレーニングを再開。
もう十年ほどになるのだろうか、山スキーで左のふくらはぎを痛めて以来、
思うようにはなかなか走れなくなっている。その上、最近は膝の痛みもある。
こんな時には50半ばの年齢を感じてしまう。でも諦めない。
もう一度山登り、山スキーに復活しようと去年の冬に決めたことだ。



帰りに近くの友達の農園で初夏の野菜を買い込む。



買い物の後、緑の中を走りながら、ふと思う。

「かれこれ30年仕事をしてきた。子供達もずい分大きくなった。
人生、後15年か20年、経済活動と直結した仕事が未だに一日の中心に
置かれているのは本来、おかしいな。もうはっきりと切り替えるべき
だろう。

これからまだ生きていく中で、自分の身の回りや自らに、もっと
したいことや、出来ることがある、その方がずっと大切だし、
自分にも、家族や周囲にもよほど役の立つことだろう。
僕のような自由業には定年退職が無い。経済的活動からすっかり離れる
ことは出来ない。だからこそ、経済活動、生計を立てるための労働は、
最小限にしていくように、本当によく気をつけよう。」
 



朝の時間に緑の中で太陽を浴びて一人でいると、こういう当たり前
に大切なことがよく分かるような気がします。

一方で知らず知らずのうちに、既成の考えや感覚に左右されている
ことが、自分の中にはまだずい分あるなと思います。
一回限りの人生なので、それではあまりに勿体無いことだと
思います。



こういうことは、多分、多くの人が、とりわけ50歳を過ぎて
生計のための仕事をしている人達が抱く考えだと思います。
それでも実際にその考えを実行する人は、ほんの僅かです。

長年の生活習慣と慣れ親しんだ思考・心理パターンから離れて
いくことは、一朝一夕のことではありません。だからこそ、
違う生き方、自らの願望に関する鮮明なイメージが決定的な
要素なのだと思います。
静かな一人の時間を持つこと、その時に浮かんでくる自分の
中の想い、願望、基本的イメージを手に取るように鮮明にすること、
そして、それを毎日、少しずつ確実に実行すること。

とても魅力的な、やりがいのあるプロセスだと思います。