「今年中は絶対に訪ねてこないでね!」 ー ウィーンでの学生生活スタート

2015年09月28日 | 家族



今年の2月、ヨーロッパの古都ウィーンを初めて訪ねた一番下の
娘が、「今年の秋からここで勉強するよ!」と言って帰ってきて
から、約半年。 
 
(2015年2月28日の記事「古都ウィーン ー 今年の秋から…」はこちら



その間に東南アジアに何ヶ月も行ったり、ネパールの被災地の
ボランティアに参加したり、或いはドイツの病院で3週間研修を
したりと、目まぐるしく過ごしていましたが、今日、ウィーンに
旅立ちました。





これまでもオーストラリアや日本で語学研修で家を3~6ヶ月
離れることはありましたが、いよいよ親元を離れて異国の地での
大学生活が始まります。「今年中は絶対に訪ねてこないでね!」
とキッパリと言い残して、元気に出発していきました。
19~20世紀の近現代ヨーロッパの学問、芸術、文化の中心地で
あったこの伝統の地に身を置いて、これからの青春の時を、若い
人生を存分に生き、愉しみ、しっかりと自分らしく歩んでいって
ほしいと思っています。



下の娘も含めて、子供達三人が小さい時から親として伝えたかった
ことの一つが、食事の大切さと料理の愉しさです。
娘がウィーンに出発する数日前に、「美弥の野菜の料理に役立つ、
和食のベースを教えてあげようか。」と声を掛けると「うん、お願い!!!」
と、料理バカのお父さんには嬉しい返事がありました。そこで長男の彼女の
ハナちゃん(2年ほど前からビーガン一本槍です)と二人で、初めて
家族料理講習会となりました。
下の娘には珍しく、しっかりノートを取っていました。

家族の毎日の食事によく使う刻み生姜やにんにくのストックの方法や、
椎茸と昆布出汁で作る精進の万能旨味ストック、あるいはフライパンひとつで
出来る根菜や豆腐で作る和洋折衷のMISOスープなど、一人暮らしの
キッチンにすぐに役立つものが中心の内容でした。
(Ohnetaさん、いつもヘルプ・サポートありがとう!!) 



娘がウィーンに出発した数日後、後追いで和食の基本の食材と調理道具、
器などをセットして、独り立ちの旅のはなむけとしました。器などを探し
始めると半日がかりの仕事となりましたが、料理バカのお父さんはまた
気合いが入ってしまいました。





そんなわけで、家族のこんな特別な日には、少し長いメモを
書き留めたいものです。

 


安倍コベにNo!と言う若者達へ

2015年09月26日 | 社会



本当に久し振り、土曜日の休日。
ゆっくり朝寝をした後、友達のオーガニック農園へ、秋の良い一日、
昨日までのしんどさや心配がウソのよう。
社会がとんでもなくおかしくなければ、人の抑圧や原発事故、
戦争などの狂気がなければ、幸不幸の半分ほどは自分の心持ち次第
のところが多分にある。



だからこそ、安倍政権のようなものや、それを支えたり、従ったり
する構造は
許されない、潰さなければならないと思う。

でも、そのようなものにはっきりとNo!というだけでなく、個人の
生活の中で、No!という生き方をしないと、安倍コベな社会は
なかなか変わらないとも思う。今、立ち上がった日本の若者たち、
その中に生活の草の根的なところの、毎日の変革の力はどこまで
あるのだろうか? 
彼らの中にそのような内発的な契機が育っていれば、
日本の本当の「オルタナティプ」が生まれてくると思う。

僕はそれに期待したいし、その前の世代として、力になりたいと思う。

 


「戦争法案」が強行された ー 何十万、何百万の「安倍コベさん」達が支える、日本社会の硬直と抑圧

2015年09月21日 | 社会

「戦争法案」が強行された。

自民党の人達のやることや、その思考行動パターンは、今回は特に
それが顕著だったけど、会社や役所の中では、組織の力やその時々
の権力者にペイペイし、家に帰ると家庭内暴力を振るったりする人
とよく相似相関している。
そして、それは昔も今も日本の多くの男性の一つの典型的モデルを
確かに具現化している。だからこそ、自民党はそれなりの支持を
何十年も獲得してきているのだろう。

本当に何十万人か、何百万か、或いはもっと沢山の安倍コべさんが
日本にはたくさんいる。そして、その多くの人が仕事には実に熱心で
課題遂行能力も相当高いところにある。
でも、自分の生きることの意味にはかなり大雑把だし、歴史文化や
彼岸の存在など、いわゆる超越的な価値への関心よりは、その場的な
表面形式への迎合的関心や従順性が際立っている。

日本の社会がもし本当に変わっていくならば、衆議院、参議院、或いは
官僚のような社会の上部構造の変化、改革だけでなく、自由と寛容を
毎日の生活の中で生きようとする人達が、よっぽど多くならなければ
ならないだろうとつくづく思う。

今日は末の娘がウィーンに引っ越す前の最後の週末。長男や彼女の
ハナちゃんも誘って、現代美術のインスタレーションで有名な市内の
美術館を訪ねた。

指定された制服を着たり、安全ネットの中で空中遊泳ごっこをする
のは、自分が選んだ時だけで十分だと思う。 





このことに関連するような、昔の記事(2010年9月)も下記に転記
しておきます。


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 今日は本当に久し振りの「ひとり水泳部」
泳ぐよりもブールサイドに寝っ転がって、大きな伸びをしたり
日向ぼっこをしたりホンワリしている。秋の陽射しも心地よい。
僕のコーチは、「明日のジョー」より「バカボンのパパ」。
無理をしない。





そんなことを考えながら、ここ最近読んだ2つのツイートを思い出す。

@minorikitahara「国益」って言葉を使って話す人に、
あんたは大臣か! と笑ったところ口論になる。 
バカにした訳じゃないよ、ほんとに冗談だと思ったんだよ! …
私にとって「国益」なんてものがあるとしたら、
ご近所どうし仲良くね! だけだな。一人一国益よん。


(その通り!)

@footballanalist ドルトムント戦を見る。ただゲームを殺す力が
まだないのは、チームが香川が全能の神として君臨するときを
待っているから。…


(ドイツでは誰も考えなかったことだ!客観性も根拠も全く無いが
実にユニークな発想。)

双方どちらも気軽に書いた言葉だろう。でも両者の間には大きな
開きがある。一方は少し神がかり、変な愛国主義、意味の無い
島国根性。男性論理が転がって行く。他方はすっきり自然体。
女性の当たり前。

なお、このサッカー評論家の方のツイートは、
文芸春秋書籍営業部@bunshun_hceigyo のRTで見つけたものです。 
僕は「全能の神?。ただの外国人選手です。いくらRTとしても、
文芸春秋の知性を疑います。」と@bunshun_hceigyo にリプライ
したところ、いつの間にか、そのRT自体を削除していました。

文芸春秋は昔から好きな雑誌です。事大主義と事なかれ主義は
あまり好きではありません。

無理をしない。理の無いことをしないこと。

 


「ケルン大聖堂、リヒターさんのステンドグラス」

2015年09月15日 | ドイツ・ヨーロッパの「旅」

ドイツのケルン大聖堂の威容は、世界的に有名ですが、中に入ると
歴史的なステンドグラスも見事です。



その中で一つ風変わりですが、その色彩構成が実に見事で、基督教や
西洋の宗教画の歴史に詳しくなくとも魅力的な、大きなステンドグラス
が南側(正面向いて右側)の大きな窓にあります。



ドイツの現代芸術家、ゲルハルト・リヒターさんが10年ほど前に
新たに制作した作品だそうです。

太陽の光が軽やかに明るく、人間の中に内在する希望の力、その可能性
を浮かび上がらせる、映し出すようで、異教徒の心も素直に敬虔な
気持ちになれるようです。

聖書やキリスト教の言い伝えに基づいた他のステンドグラスとは異なり、
西洋、中東文化圏に発祥するヨーロッパの地方宗教、キリスト教の重苦しさ、
圧迫感がありません。またこのキリスト教の中で、アプリオリとして絶対視
されている唯一神への帰依だとか、荒唐無稽な作り話への違和感、反発的な
距離感が、見る者の中に一切生まれてきません。

今年82歳くらいのリヒターさん、本当にいいですね。



夜になってから、もう一度目の前を通る機会がありました。
闇の中に浮かび上がる姿、人の手が作り出したものとしては
本当に荘厳な姿です。中世から近代まで、人々に畏怖の感情
を引き起こし、「虎の威を借る」ことを生涯の職業とした
多くの教会関係者には、まさに歴史的な恰好のツールだった
のだと思います。本当に貴重な文化遺産です。

 

もしよければ2010年11月11日に記した昔の記事

『ケルン大聖堂』− 彼岸と比岸


も併せてお読みください。


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下記はインターネットで、見つけた記事
の貼り付けです。

 

ケルン大聖堂へのリヒターの贈り物

 
第二の作品は、2006年にケルン大聖堂の南側翼廊のために作られたリヒターの
ステンドグラスである。聖職者から厳しく攻撃されたこの作品は、変化する光の
中で輝く色彩の奇跡で、大聖堂を訪れる人すべてを強く惹き付ける場所となっている。
11,500個の正方形から成るこの抽象的なパズルは、72色の本物のアンティーク
口吹きガラスで出来ており、乱数発生装置によって組み合わされたものである。
しかしながら線対称的な反復により、ある美学的な配列が生み出されている。

この、大聖堂へのリヒターの贈りものは、一方では彼の初期からの美術的イメージを
裏書きするものであり、他方では一つの遺産として見なすことができる。 
レナーテ・プフォーゲル
美術史家、美術評論家

Copyright: Goethe-Institut e. V., Internet-Redaktion
2011年9月
関連リンク

 


我が家の定番「オリーブオイル鍋」

2015年09月13日 | ドイツの暮らし

長期出張前の家族との夕食。



久し振りに我が家の定番、平たく大きい土鍋を用意して、
「オリーブオイル鍋」を作りました。
まず、本当に沢山のセロリを薄切りし、土鍋一面に敷きます。
その上にニンニクの薄切り(絶対に忘れないように、でも、あまり
多くなく。味の決め手です)、赤や緑のパプリカ、あったら少し
エリンギや細ネギ、ザク切りトマトなどをのせます。
さて、その上にエクストラ・バージンオリーブオイルをたっぷりかけ回し、
さらに昆布水、白ワイン、白醤油、塩、レモン汁を適当に足していきます。
最後に白身の魚(今日は鱈でした)、イカ、海老など、その時に手に入った
海鮮を載せていきます。
(火を入れすぎると美味しくないものは出来上がる直前に入れて下さい)
最後にオリーブオイルや白ワインをもう一度振りかけ、胡椒を一振り、
ガラスの蓋をして、ガスの直火、中火にかけて下さい。数分すると
グツグツしてくるので、蓋を開けて、軽く上下をかき混ぜて、塩加減や
酸味を見て調整して下さい。海老やホタテなど火をあまり通したくない
ものは、ここらへんで入れて下さい。
出来上がったら、熱い土鍋をそのまま食卓へ、蓋を開けると美味しい
香りと蒸気が一気に立ち上がります。すかさず小鉢に取り分けて、熱々を
皆んなで楽しんでください。



いろいろな味や旨味が滲み出た出汁スープが格別の美味しさです。
それで、相方はごはんでもいいですが、暖かいバゲットを用意して、
それをこのスーブにひたして食べるとgoodです。

では、キリッと冷やした白ワインと一緒に、グーテンアペティート!!

 


「ラオフの村にて」- 南ドイツの風土と郷土料理

2015年09月08日 | ドイツの暮らし

ヨーロッパアルプスを形作る山々の国、オーストリアやスイスに近接する
南ドイツは、政治的には今でもかなり保守的な地域ですが、緑の多い山々や
高原、大小の湖、森林に恵まれた、とりわけ、初夏の輝かしい陽光と
透き通った空気がそれはそれは印象的な風光明媚な地方です。

この南ドイツの歴史的文化的中心地の一つ、ミュンヘンから特急列車で
約一時間程走ると、中世からの街、ニュールンベルグに着きます。
南独の丘陵地帯「フランケン地方」の入口となる歴史的な都です。

ニュールンベルグは第二次世界大戦末期には連合軍の徹底的な爆撃にあい、
街は壊滅的な打撃を受けました。しかし、かってはドイツの「水の都」と
呼ばれ、16世紀には北方ネサンスの旗手、アルブレヒト・デュラーが
ドイツの絵画史上に残る足跡を残した街です。

さて、随分前置きが長くなりましたが、このニュールンベルグから
近郊列車でさらに20分ほどのところに、まさにドイツの中世の城壁に囲まれた、
小さな村「ラオフ」(Lauf)があります。来年は750年記念祭もあるようです。







この村の近くでひょんなことから定期的に仕事するようになってから25年、
今でも2年に一回程は足を運びます。子供達が小さい時は農家民宿で
一週間程の夏の休暇を過ごし、カヌーをしたり、岩登りをしたところです。
今日はそんな昔の頃の知り合いの村の料理屋のご主人を夜中の11時過ぎに
不意に訪ね、突然の再会を地ビールで乾杯、二人で祝いました。







ドイツは30年住んでも僕には未だに近くて遠い異邦の土地ですが、
それでも気の合う人、一緒の時間を過ごした人とのつながりがあります。
風土とそこに暮らす人々、郷土の料理や地酒、旅人へのホスビタリティー、
その裏返しのような異邦人に対する距離感、僕はそんな異国の様々な音色を、
その響きを聴きながら、歴史的な時間の中の僕達一人一人の個々の時間を
思うことがよくあります。
楽しくもあり、少し哀しくもありの特別な時間です。





さて、このフランケン地方では、とても美味しい地元の鯉料理があります。
鯉のコクも十分にに残しつつ、野菜の出汁の中で軽く炊き上げ、
ホースラディッシュ、レモン、溶かしバターなどを好き好きに組み合わせて食します。
秋から冬の名物料理、美味しいですよ。





その他にも初秋の旬のジロール茸の色々なレシピや伝統的な豚肉の料理、
食に興味がある人なら、とても面白いことが相当あります。





日本でドイツ料理を何も知らない人たちが、「ドイツは料理が美味しくないから」
などというのは、随分、頭が高く、僕には、滑稽かつこちらが
気恥ずかしくるような変な話です。
とはいえ、「我を知らず、彼をも知らず」みたいなことは世の中にも、
自分の生活の中にもよくあることです。


 


友達の有機無農薬の農園で - 今年の秋の収穫祭

2015年09月06日 | ドイツの暮らし




今日の日曜日は、友達のオーガニック農園の秋の収穫祭でした。
ペトラとハイナーの若い二人が有機無農薬の複合型・直販型農園
を自ら立ち上げ、三十年間続けてきたことが、大きな実を結んだ
ことが伝わってきます。今は僕達の住むこの村のコミュニティーに
欠かせない大きな存在です。









 

毎年、この収穫祭に来ると、今のドイツのとても良いところ、
自由な雰囲気、毎日の暮らしの楽しさや家族との時間を大切に
する部分が、当たり前に身近に感じられてます。

今年は、娘がお世話になったネパールのカトマンズから、
知り合いの方もやって来ていて、本当に楽しい午後の時間でした。
沢山、写真をアップしますので、ご覧になってください!

















「あなたが死ぬ時に、誰が涙を流すのだろうか」 ー スペインとドイツの二日間

2015年09月05日 | 随想

昨日はスペインのバルセロナにいました。
仕事上、今年三月の飛行機墜落事故のスペイン人とドイツ人の
御遺族の方々に通訳として対面することになりました。
遺された伴侶の方、息子さん、娘さん、御両親の方々の哀しみ、
嘆き、心に負った深い傷は癒しようがなく、言葉がありません。
それでも貰い泣きはせずに、なるべく正確に、無念の想いのその
表現を、亡くなった方への言葉を少しでも、出来る限り伝えること
が僕の役目です。

心の病を患っていた副操縦士の自死の道連れとなり、まさに人生の
不合理に直面しての不慮の死。亡くなられたお二人の方は僕とほぼ
同い年、50代後半の男性二人でした。
「この年になれば、兄妹や友人に死に別れることはもう何度も
あったこと。それでも、子供に、自分の息子にこんな形で先に
逝かれたこと、このことは耐え難く、どうにもならない。」
と繰り返し語る、八十を越えた遺族のお母様の慟哭が、今も耳に
響きます。
人の死が避けがたいこと、其れがいつ来るかもしれないこと、
当たり前のことですが、そのことを毎日の生活の基本として、
一日一日を自覚的に生きていくことは容易なことではありません。

 


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ドイツに戻った翌日、今日は妻の従兄弟の結婚式です。





2歳の子供のいる若い二人が、これからの人生を互いを伴侶として
送っていくことを誓い、祝おうとする特別な日です。二人にとって、
家族、親戚、昔からの友人達が一堂に会し、まさに記念すべき、
人生の特別な一日だったと思います。
僕自身はこの二日間で、スペインとドイツを移動することになり、
慌ただしい時間でしたが、常に頭の中にあったのは次のような文章、
問いかけです。

「あなたが死ぬ時に、誰が涙を流すのだろうか、私達は、その人達と
交わす言葉の一つ一つを、その時間を、そして自分の一回限りの人生の
時間を、一日一日、大切に過ごしているのだろうか?」

  

 

 


バルセロナ、ピカソ美術館を訪ねて

2015年09月04日 | ドイツ・ヨーロッパの「旅」

今日はバルセロナでの仕事が予定より早く終わったので、妻と二人で
前回5月にはその前を通るだけで、足を運ぶことのできなかったピカソ
美術館に行きました。
バルセロナ旧市街の細い路地が交差する一角、その歴史的建物の前には
世界各地からの訪問客が入場待ちで列を成しているのが常のようですが、
小一時間ほどで中に入ることが出来ました。



大きな中庭(パティオ)から階段を上がり、美術館の中に入っていくと
天井の高い大小の展示室があって、ピカソの各々の時代の代表作とともに
普段は目にすることの出来ない下絵や習作も幅広く展示されていて、
彼の千変万化とも言える作風、創作プロセスが目の前に広がります。
(日本語の詳しいオーディオガイドもあります。翻訳文もよくこなれて
いました。)

なかでも、外国の展覧会ではあまり披露されないピカソの十代前半から
の初期作品も数多く展示されており、特に見応えがありました。
初期の作品(13歳の頃からのものがあります)の一つ一つを見ていく
と、ピカソの実に確かな眼と、若い時に徹底的に鍛えられた精密な
描写力がよく分かります。



「科学と慈愛」(1897年)/ピカソ15歳の時の作品

彼の絵師としてのこのような際立った基礎力が、その後の画家
としての発展と、カメレオンのような様々な作風の下支えになって
いることを感じます。







レオナルド・ダビンチの言葉に
「精神と手がともに働くことがなければ、芸術は生み出されない。」
と言う定義的表現がありますが、ピカソの場合にも、まさにそれが
当てはまるようです。

僕自身はキュービズムを生み出したピカソの後期から晩年の作品には
あまり興味を抱けませんが、絵画としての面白さやその美術史的意味
にも、好みや知識がついていきません。
むしろ、彼の画家というよりは絵師としての創作の軌跡、その自由自在
な豹変ぶりに興味が湧きます。また、ピカソと言えばいかにも生気に溢れ、
筋骨隆々とした壮年の自信に満ちた男性の姿が目に浮かびますが、その背後に、
一見ひ弱で細身の神経質そうな子供が隠れていたのだろうという推測が、
今回の美術館訪問の後に頭の中を巡ったことです。