不思議の国の素敵な人達 - 日本の3つのシュトレン

2016年12月20日 | 日本の「旅」

ドイツの朝、7時40分。
日本から戻って3日目の朝。外はまだ暗い。朝星が一つ、二つ。

今回の日本の旅、クリスマス前のドイツからの帰朝者を不憫に思ったのか、
その3週間の間に、30代、40代、50代の各々に魅力的な日本の女性3人
から、シュトレン(Stollen)のお土産を戴いた。そのうえ、京都の大好きな
人からも帰る前の日に、古い町屋の客間で床の間の紅い南天を観ながら、
多分手作りのさっぱりしたシュトレンをご馳走になった。

なお、日本では一般にシュトーレンと呼ばれているようですが、
ドイツ語の本来の発音は短く、シュトレン(Stollen)です。

シュトレンの由来や背景については、以下の説明が簡潔で
わかりやすいと思います。
http://www.newsdigest.de/newsde/features/812-stollen.html

こんなシュトレン3つを全部家に持って帰ったら、旅のトランクを開けた
ドイツの妻は変な人、変な国と言って訝り、呆れていた。

日本に暮らしていた若い時、バレンタインデーにチョコレートを貰った
記憶など一度もないのに、これは一体どうしたことだろう?

僕がこの30年、40年でよっぽど魅力的になったのか?
それとも、日本がその間にさらに不思議な国になったのか?
そんなことを思いながら、3つのうちの1つのシュトレンを
オールドジャーマンというゾーリンゲンの卓上ナイフで切って、
オーガニックの無塩バターをたっぷりつけて食べたら、とても美味しかった。

今回の旅で出会ったいろいろな人達の顔が、思い出が浮かび上がってきた。
(ハリーナさん、パンドラデイさん、美味しいシュトレンどうも有難う。)

さあ、朝星もすっかり消えた。一日の始まりだ。
まずは村のプールに泳ぎに行こう。クリスマスも間近だ。
ドイツのシュトレンは、今年まだ一つも口にしていない。


冬の旅 - 「あぁ、京都に戻ってきたね。」

2016年12月09日 | 日本の「旅」

「あぁ、京都に戻ってきたね。」
川端三条、京阪の降り口で大きな旅行トランクを横に、ホッとする次男
と二人。

先週の日曜夜、八条口からから夜行バスで出発し、
新潟三条、越後湯沢、長岡、東京浅草、松本美ヶ原、大阪西天満、堺と
毎日移動する、包丁、醤油、食をテーマとした駆け足の仕事の旅。

そうそう、少し温泉もあったかな⁈ 

僕の仕事の話では同席しても分からないばかりで退屈なことも多かった
けれども、日独ミックス、ドイツ育ちの次男、彼にとっての、二つの国
とのこれからの関わりには良かったと思う。
旅費も宿泊費も相当の出費だったけど、これから大人になっていく次男
と良いことだったと思う。去年は長男とも似たように日本を回ることが
出来た。有難いことだ。

人生は旅、「旅は道連れ、世は情け」
これは親子の間、父と息子達との間にも当てはまることだ。同じ時間は
二度とは戻って来ないのだから。


 


冬の旅 - 浅草の街も今は薄闇の中

2016年12月07日 | 日本の「旅」

京都から日本の各地を巡る、次男と二人の冬の旅。
新潟三条で刃物の仕事を終えて、昨日は霙交じりの越後湯沢、そして
長岡の知人と再会を祝い、夜遅く最終の列車。
かって自分が生まれ育った東京浅草の町へ。

夜中に二人で散歩。人通りがすっかり絶え、しーんと静まりかえった
仲見世の中を抜け、亡き母の実家の傍を通り、子供の頃、夕飯の後に
いつも遊んでいた雷門の前ですっかり大きくなった息子と二人、夜の
記念写真。

そして翌朝、24階のホテルから望むスカイツリー、極東の島国に屹立
するバベルの塔から見下ろされた観音様。僕は言葉もなく、カメラの
シャッターを押し続ける。
 

この風景の中に僕のふるさとはもう一片もない。あるのは過去の記憶
の片割れにすぎない。その一つ一つの破片を辿るように、小学生の頃
の自分の通学路、遊び場だった観音裏の弁天山から仲見世の裏通りを
経て、松屋へ、新仲見世から浅草六区を経て二人でホテルに戻る。

「父さんは此処にはとても住めないな、どうやっても生きていける
場所ではないな」と言う父親のあらたまった言葉に、「何を今さら
当たり前の、当然のことを」とごくごく普通に首肯く22歳の息子。
僕もそれで良いと心の底から思う。確かにこの子達をこの化け物の
ようになってしまった、この東京で育てたいとは一度も思ったこと
はなかった。

僕の人生に決定的だった亡き母の面影も、かっての浅草の街も今は
薄闇の中。消え行く糸の先をたどるように、僕の追憶の中で綴られ
ていくのみだとあらためて思う。


冬の旅 - 「雪国」のかけらもない時代

2016年12月06日 | 日本の「旅」

夜の底が白くなった。
雪の冷気が流れ込んだ。

次男と二人、冬の旅。
京都から夜行バスで新潟へ、三条で刃物の仕事をした後、越後湯沢で
の静かな一日。

午後の時間を二人だけで空っぽの温泉で過ごす。露天の湯に身を浸し、
ぼんやりと冬空を仰ぐ。天空から降り落ちる霙まじりの冬の花。

そして、もう当たり前に「雪国」のかけらもない街を後に、知人のいる
長岡へ。そこは山本五十六生誕の地でもある。
今日のニュースによれば真珠湾を安倍が尋ねると言う。
もう歴史も何もなく、狂気を軽薄のオブラートに包み込むのみの国。

「雪国」の当時も社会の狂気はあった。しかし、それを包み込んだのは
耽美家の幻想の文章で、少なくとも軽薄軽長ではなかった。


「子供達に残せるもの - 共に過ごした時間」

2016年11月30日 | 日本の「旅」

(改築中の窓から望む、真如堂と東山)

日本、京都に着いて、戻って10日。
1週間前に到着した次男に続いて、末の娘もウイーンの大学を1週間
サボって、後続で到着しました。

57、23、21才の親子三人合わせて101歳のミレニウム。日独家族が
京都に初めて持つ小さな住まい、そのリフォームの現場をテーマに
毎日愉しく弥次喜多道中をしています。

(宗忠神社の境内に面した開口部、近さんと庭の木の柵の高さを
現物でシュミレーション、ドイツの建築家だとここまでは
やってくれないだろう。)

(吉田山の家を始めて尋ねる末娘と次男の記念撮影)

(いつも、左京区の窓のようだったハリーナさん。閉店前に
改築チーム全員でお昼ご飯)

そんななか、タイ在住の料理人の友人に「また、日本で会いたいね!」
と連絡したところ、「今年はあなたにとって、大きな変化、決断の年、
どんな気持ちか今度話してね。」との返信がありました。

そう言われるとその通り。今回の三人の旅。吉田山の小さな家、これ
からの人生でもあまりないことだろうと思い、この10日間の記録を
写真日誌でとっておこうと改めて思いました。
「自分の手に余ることをしているのではないか?」と、夜中に目が覚
めて、不安になることもありますが、それも良し。

人生70年。やりたいことはしっかりやろう。子供達に残せるものは残
していこう。そして、それは父親と過ごした時間、互いのしっかりした
経験のみだろうと思う次第です。 

 

(子供達が小さい時から、京都の叔父さんのように慕ってきた
はんちゃんとゆかりさん、それに器の吉井さん
としくんとゆきちゃんの「出町うさぎ」で。
子供達はずっと忘れることはないと思う。)


「2015年12月日本出張 ー 東京の朝、能登の海」

2015年12月11日 | 日本の「旅」

【2015年12月09日】

東京の朝、日本出張四日目、新潟三条から戻ってきた翌日。
今日から能登へ、モノレールで羽田空港へ向かう途中。





昔、江戸の海があったところを走り続ける。



ひたすら眠り続ける人達。
現代日本・東京の朝の風景。


【2015年12月11日】

夏に続く能登の旅。輪島の外れ、西保海岸。



この西保海岸は、とっても上質な天然の岩のりが採れる所と聞く。



耳が千切れるような寒さの能登の冬。
今年はまだ、その冬の厳しさが全く感じられません。



仕事の合間に、西保海岸の海を少し歩きました。
家族への贈り物の石を五つ、見つけました。

 


「根無し草の原風景 ー 久し振りの浅草」

2015年12月07日 | 日本の「旅」

僕の中で、遠ざかることも本当に近づくことも出来ない故郷、
日本への旅が始まったのは、一体、何時の頃からだったのだろう。
もう子供の時に、そして、僕がまだ日本の中に居た時に、
其れは既に始まっていたのかもしれない。

ドイツに暮らすようになって30年余り、何度、僕はこのような旅を
繰り返してきただろう。決して属することはなく、それでも離れがたい
ことを確認するような旅。

ドイツに関わるずっと以前、もっと早くの頃から僕の帰属性の喪失は
始まっていたと思う。

--------------------------------------------------------------------------------

日本に着いて一晩が明けた。初冬の朝。太平洋岸の小さな島国の
爽やかな青空。
何十年ぶりかで浅草の朝の街を散歩する。



自分にもかつて、故郷のようなものがあったのだろうか。



今、小学校一、二年生の頃に毎日通った通学路、観音様を横に見て、
弁天山の鐘楼の細い通りを歩いている。







芭蕉の句。「花の雲、鐘は上野か、浅草か」

子供の頃にはそんな詩歌のことは露知らず、学校帰りの弁天山は、
友達との格好の遊び場だった。特に人気があったのは、石垣や
鐘楼の後ろに隠れての石投げ合戦だ。一度は、友達の片目を
危うく潰すようなこととなり、母親の大目玉をくらった。
鉄棒が苦手だった僕が、雲梯を覚えたのもこの弁天山だった。



五十年前とほぼ変わらない雷門の風景、僕が子供の頃、当時は
夜八時過ぎになると人通りも絶え、仲見世のシャッターも閉まり
シーンとしていた。
目の前にある交番のお巡りさんに見守られて、夕食の後、近所の
子供やいとこ達と一緒に、雷門の屋根越しによくキャッチボールを
していたことを思い出す。
上手く投げないと、屋根瓦にぶつかってどこにボールが行くかわからない。
僕達はそれを追いかけて、上手くキャッチ出来ると鼻高々だった。

雷門前の名物の柳も、自分の祖父母「じじとばば」が植樹したものだと
常に聞かされていた。今ではそれが本当か嘘か確かめる術もない。
祖父は一代で浅草の内外に鳴り響く和菓子屋「きねや」を立ち上げた人
だが、踊りや色々な遊びが大好きで、祖母には大変苦労を掛け、折角
築き上げた資産もだいぶ使い込んだらしい。
僕には大体、怖いだけのおじいさんだったが、晩年、僕が大学生の時に
入院していた祖父を訪ね、たまたま下の世話をした時に、怖かった祖父
が涙顔で何度もお礼を述べ、その後も「知行は本当に立派になった」
と繰り返していた。

父の仕事の失敗で十に満たぬ歳でこの浅草の街から離れ、当時、東京の
郊外の田舎だった世田谷に引っ越した時、それが僕のまだ幼い人生の
大きな転機だったのだろう。どこで覚えたのか、僕はその後何年にも
渡って「都落ち」という言葉を自分の頭の中で繰り返していた。

僕の人生が「根無し草」になったのも、多分この時からのことだろう。 
自分の原風景がある場所、その後の生き方の原形を刻み込まれる時間が
流れた場所、それが浅草の街だったのだと思う。

今日は思わず自分の過去への入り口を目の前にし、いつかは一度、
その中に踏み込んで行こう、行かざるを得ないだろうと思う。

その中で見い出すであろうこと、それは、もう成人となった三人の
子供達に、彼らの母国語、ドイツ語で書き残しておくようにしたい
と思う。
過去を探る想いは、未来へのつながりを求める力と裏腹の
関係にあるのだろう。それは「根無し草」の話ではない。 

 





2012年8月-「京都・御所の夏」

2012年08月05日 | 日本の「旅」

台風が近づく中、沖縄座間味島での5週間の実習から次男が戻って来た。
真夜中に京都のホテルで合流。朝は早起き。ドイツの妻にまず無事の報告。
その後、二人でスーパーに朝食を買い出しに。
おむすび、卵焼き、キュウリ、トマト、お茶、牛乳など。

「日本の都会生活、何でもあるけど何にもない...」

そんな他愛のないことを考えながら、御所の小川の近くに自転車を止めて二人で食事。

小さな、小さなスズメが目の前まで寄ってくる。
二人で互いの近況を伝え合う。




御所は僕達家族にとっても特別の場所。
春、夏、秋、冬。子供達三人が小さい頃から何度、ここを訪ねただろう。

昔、妻と僕が後ろに回り、自転車で右に左へと走る子供達は大きなスズメかツバメのようだった。

次男は18歳。もうすぐ独立独歩の道を歩み出す。


北の街・札幌。長男を訪ねての旅。

2010年11月14日 | 日本の「旅」
11月8日にドイツを出発。日本に約4週間の一時帰国。

翌日の9日、成田、羽田経由で雨模様の札幌に到着。約20時間の旅。
疲れた。でも、もうすぐ二ヶ月振りに、息子の顔が見れる。
ホテルまでもうひと踏ん張りだ。

ホテル着。札幌のフードライター、小西さんと初めて会い、
いろいろと話す。北海道の食の現場に非常に詳しい。
しっかりした方だ。そのあと小一時間もすると、息子がロビーに
やって来た。長男の浩太は9月中旬からドイツでの兵役の代わりに、
日本で民間の代替業務をしている。
互いに照れくささを隠して、珍しくツーショット。
そのあと早速、札幌の街を歩き一緒に飲んだ。

再会を祝って、まずは乾杯!
ミュンヘン、札幌、ミルウォーキー。
僕は一人でアネット・リンや笠谷、青地の壮挙を思い出す。
約40年前のこと。息子が生まれる20年以上前のこと。

浩太が働く八剣山の自然農場は札幌の奥座敷、定山渓の近く。

自然の豊かなところである。日独夫婦のホストファミリーの方々に
出会えたことも有り難いことだ。



浩太は大分しっかりしてきた。まだ子供のような部分をたくさん残し
ながらも、青年への道を確かに歩き始めた。

9日の夜から三日間一緒に過ごしたが、自分のことをいろいろと
話し、僕にも久し振りに息子の感じていることや、考えていることが
伝わってきた。将来の生活や活動については、まだはっきりした希望
や目標はなさそうだが、今、毎日を前向きに過ごし、自分に対しての
肯定感を持っている。
とても良いことだ。大切なことだ。

札幌から千歳空港に向う列車の中、東の方に朝焼けが見える。
写真を見ながらこの三日間のことを振り返る。
来年の4月、また北海道に来ようと思う。
4月5日、19歳の誕生日を一緒に祝ってやりたいと思う。



琵琶湖と歌う遠い昔の物語

2010年08月04日 | 日本の「旅」
ドイツに帰る前、何の予定もない一日。

寄せる波の音を聞きながら、湖の道を歩む。
空を行く風と風の間に鳶が浮いている。
湖に船を漕ぎ出せば、遥か向こうに湖東の山々が拡がる。
大きな、大きな空。風が吹き渡る。
こんな僕でも詩の一つも歌いたくなってくる。
琵琶湖と歌う遠い昔の物語。