5月28日(土)、ドイツ全国で約16万人の脱原発デモが行われました。
6月中、ドイツの脱原発政策の具体的なロードマップおよび内容の決定は
これからの2~3週間で大きな山場に差しかかります。
メルケル首相は、昨秋の脱原発15年延長の後ろ向き政策で手痛い失策を
したはずなのですが、ここに来てまた、風見鶏的な姿勢で2020年までの
ドイツの全原発廃炉の政策を大分骨抜きにしそうな様子です。
緑の党をはじめとした野党の厳しい批判のみならず、「ここはもう一歩も
引けない、今回の脱原発の時機を逃してはいけない」とドイツのほぼ全ての
市民団体が必死になっていると思います。
ドイツの大きな枠組みは脱原発でも、その一つ一つの具体的政策がどこに
転ぶかを考えると、今がまさに剣が峰。
僕も「外国人市民として、少しでも断固たる脱原発派を応援したい。」
「福島の事故を経験した国の市民として、絶対に妥協出来ない」という
気持ちが高まります。
そんなこともあり、今日は僕達のイニシアチブ「Atomfree-eastwest」も
ドイツの旧首都ボンでのデモと集会に参加し、日本とドイツの脱原発を中心
としたテーマでスピーチを行いました。
その中で日本の脱原発・自然エネルギー転換・六ヶ所反対のシュプレヒコール
を行いました。本当に緊張しましたが予想以上に上手くいきました。
ドイツの人たちにも六ヶ所の問題が少しは伝えられたと思います。
この録画を下記のUstreamとYoutubeにアップしてあります。
(Ustream 1) http://www.ustream.tv/recorded/15023322
(Ustream 2) http://www.ustream.tv/recorded/15022404
(Youtube) http://www.youtube.com/watch?v=Rdm4QYASJf0
ドイツの脱原発運動の盛り上がりと市民のデモ文化がよく分かる内容だと
思います。また、ドイツの人達は今、日本の脱原発の状況にも大きな関心を
寄せています。是非ご覧になって下さい。
日本でも市民の一人一人が肩肘張らずに臆せず脱原発の声を上げていくことは、
とても大切なことだと思います。私達が国民として、市民として意思表示を
する手段は、選挙だけではないと思います。
選ぶ自由、言論の自由、表現の自由は民主主義の基本的権利。
それを生きた権利にするには、実行が第一だということをドイツの市民運動は
示していると思います。
夕方のまだ明るい陽差しの中、六週間振りに初夏のドイツに戻った。
どこもかしこも新緑が目に眩しい程。家族と友人達が出迎えてくれる。
久し振りに熟睡。翌朝、村のプールへ。孫を抱き抱えるお婆ちゃんの姿。
脱原発は本当は将来のエネルギーをどうするかの議論ではない。
私達の命の選択だとつくづく思う。
明日の土曜日は、ドイツ全国で10万人規模の脱原発デモが各地で行われます。
ドイツの旧首都、連邦環境省のあるボン市でも、およそ1万人の参加者が
予定されています。僕も「Atomfree-eastwest」の代表として招待されました。
6人のスピーカーの中のトップバッターとして、日本とドイツの脱原発について
スピーチをします。そのスピーチの中で、ドイツの参加者と一緒になって日本に
向けて脱原発のシュプレヒコールを送りたいと思っています。
大体、下記のような内容です。
「ダメダメ原発・アカ~ン原発・やめよう六ヶ所・行くぞ脱原発・日本の希望・
自然エネルギー・がんばれ日本・We will change・がんばれドイツ・We will change」
ドイツの人と日本語でのシュプレヒコールは初めてのトライ。その上、
Ustreamの配信も初めてのこと。
本当に上手くいくのだろうか。ものは試し、やってみよう!
仙台訪問の4日目、現地支援のNGO「つなプロ」(被災者をNPOとつないで
支える合同プロジェクト、http://blog.canpan.info/tsunapro/ )との
打ち合わせの後、アイリカさん、小林さん達と仙台市近郊の避難所に向かう。
今日で4回目の現地ミニコンサート。
現地での準備は「チャリティソリューション」の多田さんとデビットさんが全ての
準備をしてくれた。本当にどうも有り難う。
(避難所の方々の前でプッチーニの歌曲を歌うアイリカさん)
最後の曲は、仙台出身の詩人、土井晩翠にちなんで滝廉太郎の名曲「荒城の月」を
日本語で歌う。避難所の方々も僕たちも一人一人、各々の想いで静かに聞き入る。
夜8時過ぎ、ホテルの部屋に戻ると思いがけない朗報が待っていた。
まず、「浜岡原発の即時停止」の運動を一緒にやってきたうちの奥さん、Mamaleinに
伝えようとドイツに電話する。妻も本当に喜んでいた。
約500通の「浜岡原発の即時停止」賛同メッセージを送ってくれた「日本とドイツの同志」の
方々にも御礼のメーリングをする。
そのあと、「左京区のマドンナ」さんにも連絡してビールを手にしたつもりで
仙台と京都で乾杯。
twitterを眺めると、すぐにまたケチをつけたり、電力の需給バランスを難しく
語っている人達が目に付いたが、明るいことは暗くする必要はない。陰を見るよりも
光を捉えるほうが大切な時がある。
「浜岡原発停止の要請。僕は本当に嬉しい。まずは喜ぼう。菅さん、よく言った!
良いことは良い事と認めよう。一歩前進。みんなで喜ぼう‼ そして、気を引き
締めてさらに前進。声を寄せてくれた400人以上のドイツの人にも早く伝えたい。
お礼も伝えたい。 今日はいい日だ。子供達にも伝えたい。」
2時間ほどして一人で居酒屋でご飯を食べていると、ドイツから17と15の次男と
末の娘が電話をかけてきて、「パパ、Hamaokaのこと本当に良かったね!」と
祝ってくれた。僕も子供たちが明るい声で嬉しそうにしているので、脱原発は
人間にとって実に当たり前のこととつくづく思った。
大義名分、事大主義、国益などに振り回されてはいけない。そう言う人達は
大概暗い顔をしている。「毎日の暮らし」からだいぶ遠いところにいるようだ。
脱生活・原発推進は表裏一体の事だろう。そこには未来が見えない。
いきいきとした希望が無いのだから。
久し振りの春の陽光の下、バスで仙台へ。
高速道がまっすぐに前へ、前へと続いていく。福島県は会津若松の辺り
だろうか、一枚一枚よく手入れされた田んぼが何百枚と左右に大きく
広がっている。何代も営々と営まれてきた農の姿。昔からの東北の轂倉地帯。
点在する集落、そばには村の墓場と桜の木々。
その田畑と里山の風景を見下ろすかのように、都会への送電線が張り
巡らされ、その為の大きな送電塔が縦横に並び立つ。
戦後日本の社会や経済、そして私たちの生活を支えてきた風景。
その源を手繰り、追いかけて行けば、日本の何人もの田中角栄や、それを
支えた地元の権力者、有力者、有権者達、都会の財界や官僚達に、そして、
日本各地の補助金や公共事業、そして、過疎地を狙い撃ちした原発誘致と、
推進派と反対派と補償金交付に引き裂かれた村々にたどり着くのだろう。
この日本の戦後の一極集中、中央集権体制、大都市と農村部の上下構造、
権力主義がもたらしたものが、福島原発事故につながっていることは
間違いない。
では、それを一人一人がどう変えていくのか、どうしたいのかということが
本当の問いかけである。
今日から4日間仙台に滞在、現地のNPO、市民団体の人達とドイツからの
救援物資について打ち合わせをする。
アイリカさん達ともいくつかの避難所を訪問する予定。