クリスマス前の最後の日曜日。ドイツの何千という街で約一月続く
クリスマスのマルクト。冷たくなる耳をマフラーの下に隠し、この国で
生まれた妻と久し振りに訪ねれば、一つになることのなかった現在と過去が
同時に浮かび上がる。生きることの光と闇。その中で重ねられ、続いて行く
多くの、無数の人生。僕もその一つだと思う。
生きることの幸せと哀しさ。無言の冬の闇の中に教会の鐘の音が響き渡る
ような冬の夜。
2013年12月10日
日本、京都近郊の地で
古く新しい地に移り住んだ僕の大切な友人夫婦。
「これからも二人の道を歩いて行こうね。」
2013年12月17日
ドイツ、デュッセルドルフ近郊
ドイツの自宅に戻って2か目の朝、村のプールから見た朝焼け。
もう冬が目の前にやって来ている。朝の8時頃、夜が長くなる北の国の冬。
12月16日の早朝、御所西の宿を発ち、家族、毎日の仕事、そして自分の
厨房が待つ第二の故郷ドイツに向けて、約15時間空路の旅。
二つのトランクには日本の野菜、柑橘•薬味類(ゆず、かぼす、しょうが、
みょうが、三つ葉など)、きのこ(舞茸、平茸、椎茸、エノキ、しめじ)、
根菜(蓮根、牛蒡)、お芋各種(長芋、里芋、頭芋、海老芋)、
冷凍いくら500g、京都のお揚げさん大小15枚、亀岡のどら焼、干柿など、
計20kg超、ジーンズやセーター、下着を枕に仕事の資料や読み差しの本を
カバーにしても、カモフラージュのあちこちから溢れんばかり。
二つの内、一つのトランクには京都・鴨川近くの行きつけの花屋で手に
入れた鉢植えの柚子の木を「ドイツの地で大きく育て!」と隠し込み、
手荷物の中にも蓮根、牛蒡、お芋さんの余りを忍ばせ、ドイツ•デュッセル
ドルフ空港に降り立つ。税関に向けて大荷物のカートを押しつつ、
運を天に任せるとはこの心地。
日本からの食材は家族、子供達への貴重な文化遺産である。だからこそ
ヤオヨロズの神々が僕を見守っている。今回も無事、税関を通過。
ドイツの自宅、居間の窓際に鎮座する小さな日本の柚子の木。
トランクの中、窮屈だったことだろう。温暖の国から北の異国に連れて来て
しまい、申し訳ないと思う。育って行けるだろうか。なんとか育って欲しい。
下はドイツで最初の晩に家族と共に食べた夕食の写真。その後、時差と睡魔と
戦いながら、イクラの醤油漬けを仕込んでようやく床に就く。
(今回の醤油漬けには、柚子果汁、生揚げ醤油、薄口、煮切り味醂を合わせて
みたが、良く出来たと思う。子供達の大好物だ。)
日本を離れて約30年。今日は人生の大きな節目となる日。晩秋の秋晴れ。
京都で再び、日本の一市民と半分なりました。来年からはドイツだけでなく、
日本でも少しづつ暮らしていきたいと思う。
右京区太秦の近くで住民届けをし、日本では印鑑というものが必要な
ことに目を白黒させた後は、京都生まれ、京都育ちの年上の友人と
京都住民&日本選挙権復活記念に、鞍馬温泉へ日帰りの旅。街中から二条城、
疎水を経て、秋の陽に輝く東山を望み見て、大原、八瀬方面に約30分ほど。
突然、「鞍馬温泉は八瀬にはない!」と気がついた京都の先輩。急カーブの
方向転換で宝ヶ池、貴船方面へ。
鞍馬の深山、月夜の明かり、薄墨の蒼い山々に囲まれ、湯につかりながら
二人それぞれに「京都の地は懐が深い。」の想い。同じ言葉の中に
含まれた、異なった過去と未来。
「心の内は来し方行く末のことも、今生の闇の中、よろづ思い忘れて、、、」
ドイツの妻に京都市民誕生の報告をする。18の娘も電話口で「パパ、
本当に良かったね。私も嬉しい。誇りに思うよ」と弾んだ声で応えてきた。
僕には本当にありがたいことだ。
自分の生まれ出た国とその社会への関わり方はいろいろ有る。そして国と
社会は一つに重なりながらも各々に異なったものだ。
日本の場合、それはどら焼きのようなものだと思う。中心にある餡子が国で、
外側がこの社会だ。餡子は日本の和菓子を支える基本。何を作るにも欠かす
ことは出来ない。一方、どら焼きの皮はいかようにもなる。もともと洋の
素材を和式化して生まれたものだ。それでもこの外の皮が全てをダメにする
こともある。今の日本はまさにその転機だ。本当に危ないと思う。
けれども、僕は昔から餡子の方が好きだった。祖父も和菓子の職人で、
いつも餡子を練ることを大切にしていたという。僕も餡子の方に関わって、
それを守り伝えることに少しでも役に立ちたいと思う。どら焼きの皮も
なくては困る。だが、それは人生をかけるようなことでは全くない。
今日は人生の記念すべき日だ。京都の一市民となって本当に嬉しい。