家族でアーヘンでの月曜デモ - 「日本の原発運転再開」を止めよう

2011年06月24日 | 脱原発

Protest gegen die Atompolitik in Japan「ダメダメ原発、安全ウソウソ!」

先週の6月20日、仕事の後、約100km離れたドイツ中世の都市アーヘンでの
月曜デモに家族3人+息子の彼女、計4人で参加してきました。

前回5月28日のボンの大規模デモでの「ダメダメ原発」のアクションに続き、
「ヤメヨー再開、アカーン海江田、安全ウソウソ!」と「ヤメヨー20mSv、
アカーン20mSv、安全ウソウソ!」の日独のシュプレヒコールの第二弾。

今回は日本での原発運転再開と被曝の危険性隠蔽に対する日独共同の
抗議をテーマにドイツ語スピーチとシュプレヒコール行いました。
このドイツの人達との声が少しでも日本に届くことを願っています。
3月11日以降、ドイツでは全国約500ヵ所で「フクシマを忘れるな」の
脱原発デモ集会が行われてきました。アーヘンのように毎週欠かさず
開かれている集会も数多くあります。どこでも黙祷を欠かすことがありません。
また、下の写真で分かるように、子供達から大人まで色々な世代の人達が
参加しています。





日本での脱原発運動では、当面、現在停止中の原発約35機の運転再開阻止が
最も重要かつ有効な手段だと思います。
僕のドイツでの活動は微力ではありますが、これから7月、8月にかけて
ドイツでも「日本の原発運転再開阻止への共同アクション」を呼びかけて
いこうとしています。

来週は刃物の街、ゾーリンゲンの市民ラジオでこのテーマについて話すつもりです。
日本の現状に対して、このようなドイツでの活動がどこまで役に立つのかという
疑問が常につきまといますが、「一人一人が何もしなければ何も変わらない」
ということを自らに言い聞かせ、動いています。本当に難しい問いかけです。


なお前回5月28日のアクション、ボン市での「ダメダメ原発、アカ~ン原発」
シュプレヒコールはこちらです。
http://www.youtube.com/watch?v=edqvQG_uzXE


「6月11日・脱原発100万人デモ」まであと2日 - 山を動かす一人一人の力

2011年06月09日 | 脱原発

福島の原発震災以降3ヶ月、6月11日まであと2日。
全国で100カ所余り、脱原発を目指して日本各地でデモやイベントが行われる。
http://nonukes.jp/wordpress/

「僕達もドイツから応援したい。」
原発震災以降、常にそう思ってきた。衝き動かされるような切迫感、悲痛と
悲哀の間に根を下ろしそうな無力感。外国での自己の存在や生き方に対する
懐疑心。自らの風土や同胞への言葉にできないつながりの感覚。
様々なことがない交ぜになりながら、この3ヶ月を過ごしてきた。
「一体何が出来るのだろう?僕達のすることが何かの役に立つのだろうか?」
そんな気持ちに押し流されそうな時もある。何をしても疑問符はつきまとう。

しかし最後にたどり着くのは同じ考えだ。

「醒めた目でも希望の話をしようと思う。私達日本人が、この日本の社会、
このような帰結に至った日本の戦後65年の社会構造や日常を形成してきた
支配的な価値構造を変えられるかどうか、まだ分からない。
それでも僕は自らの生き方を大切にし、幻想は持たずとも、心の中に冷たい風が
吹いていても、一人一人の生き方のみが微力ではあれ社会を変えていくと
いうことを基本にしたいと思う。」

今日から2日後、6月11日が戦後日本の変わる小さな一歩になるかもしれない。
そのためには、それを信じる、ないしはそれを本当に望み、一人一人が
具体的に行動することだと思う。

僕達の、5月28日のボンでのスピーチとシュプレヒコールを支えて
いるのも、そのことだ。
それが6月11日に向けて僕達が出来ることだと思う。

僕達の一つ一つの活動がドイツからでも、日本と世界の現況を少しずつ
変えていくのだと信じよう。
日本にいてもドイツにいても、「一人一人の具体的な、実際的な行動」
のみが山を動かす。僕はそれを信じる。

6月11日、一人でも多くの人が街に出て、「脱原発!NIPPON脱原発!!」の
声を上げて欲しい。僕もドイツで行動します。




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2011年5月28日・旧首都ボン ドイツ全国大規模デモ。
6月11日を目指して「日独で脱原発を目指すスピーチ・シュプレヒコール」和訳


こんにちは。今日はこうしてお話しする機会をいただき、有難うございます。
私は家族と一緒にドイツで暮らして25年になりますが、日本に(4月中旬から6週間ほど)帰国しており、ようやく一昨日ドイツに戻ったところです。

私が今日ここに立つ理由は、FUKUSHIMAについて、そして日独両国の脱原発について語るためです。
私にとってそして多くの日本人にとって、原発は最早、エネルギー技術とか一国の国益の問題などではないのです。それはまさに人の生命、私達の未来に関わる問題です。

 今、日本、ドイツ、そして世界全体で私達の前にあるのは、同じ一つの未来です。原子力に支配された今日の世界で、私達は各国ないし一人一人に切り離された別々の存在では最早ありません。
原子力政策は今や、一国家の問題に留まるものでありません。現在行われている日本の原発推進政策は世界全体を危険に晒すものであり、歴史的にも今だかつて例がないことです。

 ここで、日本から2つのメッセージを読ませていただきます。
最初のメッセージは京都のNGO、「環境市民」という環境活動を行っている 市民団体からものです。
「私達の命を今後もずっと脅かしつづける原発を最早、許すことはできません。ドイツの人々が妥協することなく、脱原発の意思を貫徹してくださることを願っています。私達は互いに協力し合い、市民の力で原発の無い世界を実現しましょう!」

もう一つは、『みどりの未来』(日本の緑の党)からのものです。この緑の党はまだそのスタート時点で、約30年前のドイツの緑の党のような状況にあります。彼らは今、互いに手をつなぎ、国会に議員を送ろうと努めています。つい先ごろ、この組織はドイツから緑の党のコッティング連邦議員(原子力政策担当)を招待し、一緒に福島の避難地域を訪れたり、地震の危険のある浜岡原発にも行きました。議員は東京や大阪など各地で脱原発に関する講演や記者会見をしました。私も通訳として日程をほぼ同行しました。コッティング議員の言葉は、多くの日本の人々の心に訴え、少なからず影響を与えました。
さて、その『みどりの未来』からのメッセージです。
「私たちは、ドイツが行った脱原発の決定に心から賛同し、ドイツの人々と連帯したいと思います。あなたがたと共に、原発の無い世界の実現に取り組んでいきます。たとえ、道のりが遠いものであろうとも!」

 皆さん、ドイツの方々にはなかなか想像できないことかも知れませんが、この2つのメッセージはどう響きましたか。そうです、近来、特に福島の原発事故の後、ドイツは多くの日本人に将来の可能性を照らし出し、その市民運動にも大きな啓発、刺激を与えました。脱原発を目指す過去数十年の、ドイツの脱原発・市民運動、そして緑の政治が、日本の多くの人々にとって一つの規範であり、希望の担い手ともなっていることは確かです。

2011年3月11日は世界の歴史の分岐点になるかも知れません。日本にとっては既にそれは明らかなことです。日本はFUKUSHIMAの前と後では同じ国ではなくなりました。(3月11日以降)多くの日本人は今、言葉に言い表せない心の傷を抱いています。日本で、そしてここドイツでも、話の最中に人々が涙で言葉を詰まらせるのを私は何度も経験しました。

 しかしながら日本の政府と電力会社は、現在ある原子炉を今後も存続させようと躍起になっています。日本は従来の原子力政策を基本的には維持する考えです。その中で原子力エネルギーへの依存性、そして経済的利益ということが、常に前面に出ています。そこで議論になるのは、原子炉の安全性を高めるということだけです。脱原発に関する議論は、未だに政治の場で真剣に取り扱われていません。
 この点から言うと、その硬直性において日本とフランスはまさにその双璧です。中央集権を軸とした国家体制に基づく原発推進イデオロギーの下では、未来の希望や生き甲斐のある社会は生まれてきません。これは、私の確信するところです。

 原子力は、ウラン鉱石の採掘から核廃棄物の最終処理に至るまで全てのプロセスにおいて、人間と生命を脅かす危険なものです。それ故、未来自体を損なうものです。それは抽象論ではありません。
 福島原発の近くに住む一人の男性が、数週間前に自殺をしました。彼は熱心な有機農業家で、長い間、畑を入念に管理し、野菜を作ってきました。収穫した作物は、主に近隣の小学校・子供達に向けられたものでした。原発事故によって畑が汚染されているのが明らかになり、作った野菜をすべて投棄しなければなりませんでした。長年の苦労や献身、人生の目的がすべて無に帰してしまったのです。彼には最早、未来も希望も残されていませんでした。投棄した翌日、彼は自殺をしたのです。

 私達はこの悲劇を繰り返してはなりません。無力感に押しつぶされてはなりません。どんなことがあっても希望、未来を信じたいと思います。
そのために、ただここで話し合うだけでなく、一緒に行動しましょう。どうか皆さん、日本の脱原発を支援する呼びかけを一緒に行い、日本に伝えようではありませんか。

(デモの参加者と、日本の脱原発を呼びかける日本語でのシュプレヒコール開始、テキストは5月27日の記事を参照して下さい)

 福島の事故以来、ちょうど3ヶ月後の6月11日には初めて、日本で全国規模の大きなデモが予定されています。ドイツからの連帯が期待されています。ドイツからも私達の運動を応援してください。

以上/ドイツ語スピーチ及び和訳文責 高田知行

(ドイツ語の和訳については今回も、東京在住、田口信子様の多大なるご協力を頂きました。誠に有難うございます。)

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ドイツ語スピーチ原文

Demo Bonn, 28.5.2011

Redemanuskript


Guten Tag, ich freue mich, dass ich heute zu euch sprechen kann.
Mein Name ist Tomoyuki Takada.
Ich lebe mit meiner Familie seit über 25 J in Deutschland… und bin gerade vor 2 Tagen aus Japan zurückgekommen.

Warum ich heute hier her gekommen bin und auch mit euch sprechen wollte:
Es geht mir um Fukushima und den Atomausstieg in Japan und Deutschland.
Atomkraft ist für mich – und auch viele Japaner – keine energietechnische Frage mehr und keine Frage nach dem nationalen Interesse.
Es geht hier um das Leben und um unsere Zukunft!
Wir haben nur EINE Zukunft für Deutschland und Japan und die ganze Welt!
In diesem atomaren Zeitalter sind wir voneinander nicht mehr getrennt. Ich glaube fest, Atompolitik ist keine nationale Angelegenheit mehr! Die zur Zeit herrschende Atompolitik ist eine internationale Weltgefährdung - ohne ihresgleichen in der Weltgeschichte!!

Ich möchte auch 2 Botschaften aus Japan vorlesen.
Die erste ist von einer japanischen Umweltorganisation, Kankyo-shimin, „Umwelt und Bürger in Kyoto“:
„Auf dieser Erde wollen wir keine Atomkraft mehr zulassen, die unser Leben über Jahre schädigt und zerstört. Lassen Sie sich in Deutschland bis zum Schluss auf keinen Kompromiss mehr ein!
Wir stehen mit Ihnen für eine atomfreie Welt!“

Die andere kommt von den „Japanischen Grünen“, die „Grüne Zukunft“. Sie stehen noch am Anfang, - wie vor ca. 30 Jahren in Deutschland. Sie versuchen jetzt, sich zu vernetzen und in das nationale Parlament bald hineinzukommen. Neulich hatten sie auch die grüne Politikerin, die Atomsprecherin der Grünen nach Japan eingeladen… und sie haben gemeinsam das Fukushima-Evakuierungsgebiet und das erdbebengefährdete Hamaoka-AkW besucht und Atomausstiegsseminare und Pressekonferenzen in Tokyo und Osaka abgehalten. Ich war auch als Dolmetscher die meiste Zeit dabei. Ich kann sagen: Es hat in Japan viele Menschen angesprochen und einiges bewirkt:
Nun die Botschaft der „Grüne Zukunft“:
„Wir solidarisieren uns mit euch und tragen euere Entscheidung für den Atomausstieg voll und ganz mit. Mit euch  zusammen versuchen wir unseren Weg für eine Welt ohne Atomkraft zu beschreiten. Wenn auch ein langer Weg in Japan bevorsteht.“

Wenn ihr es hier auch kaum glaubt - oder habt ihr es aus diesen Zusprüchen aus Japan vielleicht herausgehört?? – Deutschland hat in den letzten Jahren, besonders nach Fukushima auf viele Japaner eine große Ausstrahlung und positive Auswirkung auf die Bürgerinitiativen in Japan.
Es ist wirklich wahr: Deutschland ist mit eurer Bürgerbewegung in den letzten Jahrzehnten und der grünen Politik zum Atomausstieg ein Vorbild, ein Hoffnungsträger für viele Menschen in Japan geworden.

Der 11. März 2011 wird die Welt verändert haben. Für Japan gilt dies auf jeden Fall.
Es gibt Japan vor Fukushima und nach Fukushima.
Viele Menschen in Japan tragen heute, eine seelische Wunde, die sich nicht artikulieren lässt.
Ich habe mehrfach in der letzten Zeit, wenn ich mit meinen Landsleuten in Deutschland und in Japan gesprochen habe, erlebt, dass man im Gespräch die Tränen nicht mehr unterdrücken kann.

Die Regierung und die Betreibergesellschaften in Japan beharren trotzdem auf der Weiterführung der bestehenden AKWs.
Die bestehende Atompolitik in Japan wird weitgehend aufrechterhalten.
Die Atomenergie-Abhängigkeit und die wirtschaftlichen Interessen werden groß geschrieben.
Gesprochen wird nur von den erhöhten Sicherheitsmaßnahmen der Atomkraftwerke. Es wird keine politische Diskussion über den Atomausstieg ernsthaft geführt.

Hier in dieser Hinsicht überbieten die Japaner und Franzosen sich gegenseitig. Aber die Zukunft und eine lebenswerte Welt kommen nicht von diesem zentralstaatlich geführten Atom-Ideologie-Verbund! Das ist meine feste Überzeugung!

Die Atomkraft ist menschen- und lebensfeindlich in ihrem gesamten Prozess. Angefangen vom Uranabbau bis zu ihrer ungeklärten Entsorgung. Damit ist sie auch zukunftsfeindlich. Das ist keine Abstraktion.

Ein Mann in der Nähe des Fukushima-AkWs hat sich vor einigen Wochen das Leben genommen. Er war engagierter Bio-Bauer und arbeitete über Jahre für seinen Gemüseanbau und pflegte seine Anbaufläche mit großer Sorgfalt. Die Ernte lieferte er unter anderem an die benachbarte Grundschule. Nach dem Bekanntwerden der radioaktiven Verseuchung seiner Böden musste er sein Gemüse komplett vernichten. Damit wurde auch seine jahrelange Arbeit und Lebensaufgabe vernichtet. Es gab keine Zukunft und keine Hoffnung mehr. Er nahm sich das Leben am folgenden Tag.

Wir wollen diese menschliche Tragödie nicht wiederholen und die Ohnmacht nicht weiter zulassen. Wir wollen trotz alledem an die Zukunft glauben. So wollen wir jetzt hier nicht nur sprechen, sondern  gemeinsam handeln…

So bitte ich euch nun, mit uns gemeinsam die Aufrufe-Aktion zum Atomausstieg in Japan mitzumachen und nach Japan zu schicken. 

Am 11. Juno, drei Monate nach Fukushima, wir planen erstmalig in Japan landesweite Groß-Demonstrationen. Wir brauchen euere Solidarität! Unterstützt uns an dem Tag auch aus Deutschland.“


「沖縄座間味島・広島・福島・家族」 - 伝えるべき言葉への想い

2011年06月03日 | 家族

今日は家族の話、そして、今、自分達に起きていること、過ぎ去らない昔のことに
ついて書こうと思う。




(2011年4月、沖縄・慶良間諸島・座間味島の海岸にて。
美弥、健、ママライン、自分。ようやく心が解けたとき。)


ドイツ・ベルリンの平和団体から派遣され、北海道・札幌郊外の自然農場で
昨年の9月から兵役代替業務を務めていた長男の浩太。福島の原発震災が
起きた3月11日は恒例の広島での平和セミナーに参加していた。僕の父親の
親族、そして何十万人の日本人が原爆によってその命を断たれた土地だ。

翌日の3月12日には日本で民間業務を行っていたドイツの若者達、約20人に
対して、ドイツへの即時帰国指示が発せられた。浩太も3月15日に成田経由で
ドイツに戻ることになった。ほぼ不眠不休で日独のテレビとインターネットの
情報を読み合わせつつ、飛行機の手配を図り、広島からの新幹線、東京駅から
成田への移動に対し、福島原発第一の事故がさらに拡がった時に、日本語の
おぼつかない息子をどうやって安全圏に移動させるか、その際に最低限の水と
食料を確保するのにどうするのか、頭を悩ませたことを思い出す。
そんな中でも、「戦後65年の帰結がこれだったのか」という思いが、何度も
何度も押し寄せてきた。

結局、浩太達の兵役代替業務は4月30日をもって例外的に終了となり、今年の
夏まで日本での滞在を考えていた20人のドイツの若者にとっては、人生の
始まりにおいて、突然の空白期間が生じることとなった。日本の惨状を思えば
大したことではない。それでも一人一人の若者にとっては小さな夢の喪失である。

そんな中、5月7日に浩太は日本に戻り、札幌郊外八剣山の自然農場で最後の
勤めを果たすこととなった。ホストファミリーの学さん、御厚意に感謝致します。
どうも有難うございます。




(2011年4月末、座間味島の海。ネイチャーランド カヤックス・
佐野さんと過ごした一日。家族で初めてウミガメを見る。)


明日から沖縄・慶良間諸島の座間味島に、島の方々の御厚意、賢さんと
佐野さんとの御縁、御援助により実習生として約2ヶ月移り住むこととなります。
御助力、本当に有難うございます。よろしくお願いします。




(座間味村の地図)

「そして私は、那覇の西方海上に浮かぶ慶良間諸島へと通い始めた。
慶良間諸島の海は、素晴らしい透明度を誇っている。那覇から高速艇で
渡嘉敷島に35分、座間味島には1時間で着く。港に近づくと海の色は紺碧
からエメラルドグリーンに変わり、島の緑と調和して美しい。
この海は世界でも有数の透明度を誇るダイビングのメッカであり・・・」
            (出典:森住卓/沖縄戦「集団自決」を生きる)

浩太は何も知らない。19才の時、僕も同じように何も知らなかった。
海軍志願兵、病で特攻隊から生き残った父親の話には、柳井出身・広島育ちの
親父の話には、原爆の話には耳も貸そうとしなかった。
僕が息子に出来ることは、広い大きな人生、肯定的な生き方、人、時間、
自然との大きなつながりをつかめるように願うこと。

日本、沖縄、座間味の人と自然に触れて、いろいろなことを感じ、考え、
体得できることがあれば、父親としては嬉しい。





今の浩太が読めなくても、知らずとも、最後に幾つかのことは書き留めて
おきたいと思う。それは日本の戦争が、それを支えた思想や体制が座間味島に
沖縄にもたらした1945年の帰結についてのことだ。
(自分が50を過ぎるまで、この沖縄の歴史について何も考えていなかった
ことは本当に申し訳なく、恥ずかしく思う。)

「絶対アメリカには捕虜になるな。最後、どうにもならないときには、
死になさいという教えは、誰でも受けていました。今から考えると、
あの『集団自決』というのは。何だったのかなと思うのですよね。」

「父は『どうしても死なないといけないのか』と漏らしたけれど、兄は
『軍の命令だから』と、父親を諭すように言って、水杯を交わした。・・・
そして子供達を抱き寄せて、『こんなに大きく育てたのにくやしい。
ゴメンね、父さんも一緒だからね』と言って涙を流し・・・」

「オバーが、どうしたのかと聞くと、『お父さんが殺した』と言っていた。
双子のもう一人の貞夫は、入り口の水桶にもたれかかるようにして息絶えていた」

「国として都合の悪いことでも、事実は事実として受け止めて欲しい。
沖縄の戦争の歴史の真相を隠すことはおかしい。二度とあの戦争を子や孫に
させてくないですよ・・・」

「どこにも逃げ場の無い閉ざされた島の中で、軍は、『軍官民共生共死』の下、
住民の行動を監視、統制し、さらに絶対に米軍に捕らえられてはならぬ、と
厳命されていた。」

「人々がいかに追いつめられていたとしても、そこにある行動選択の
『命令』がなければ、肉親をわが手にかけるという異様・異常な行動に
出ることはなかったろう。」

            (出典:森住卓/沖縄戦「集団自決」を生きる)


浩太や子供達に、その意味が伝わるように、この一つ一つの言葉をドイツ語で
書き記し、伝えていくことは、日独の子供達の父親となった僕の務めだと思う。
それは近いうちに必ず果たそうと思う。

今起きている原発の問題、日本の現状や被曝の実際を隠蔽し、塗り替える
情報操作、大衆操作の事実。このことを考える時にも、僕達は自らの過去の
歴史を振り返るべきだと思う。

座間味島での2ヶ月。親バカであっても、浩太には心と体がつながる、
よい経験になって欲しいと思う。

賢さん、佐野さん、座間味島の方々、よろしくお願いします。


取り返すことも、取り除くことも出来ないことについて

2011年06月01日 | 社会

先週の木曜、5月26日まで日本に戻っていた。その後すぐにボン市での
デモと日独での脱原発を目指すスピーチの準備があり、時差を気にして
いる暇もなかった。6週間振りのドイツ。相変わらず、日本から遠く離れた
異国ではあるが、25年も過ぎれば自分の生まれた国よりも慣れ親しんだ所も
あるような気がする。





けれども、このドイツに戻ってからの一週間、毎日、自分の身に迫って
くるのは、日本とドイツの文化や風景の相違ではない。
頭の中を巡るのは大概二つのこと。一つには日独の社会と暮らしの構造の
基本的な違い。(両国とも奇跡の経済復興を遂げた国として並び称されるが、
それは表面的なこと。戦後65年間の社会的発展と歴史には大きな相違がある。)

もう一つは原発事故、放射能汚染が日常の生活の一部、もはや取り返す
ことも取り除くことも出来ない、自業自得の運命となった国・日本と、
それを経験せずに、風や雨や空気を当たり前に受け止め、野菜や水を普通に
口にする日常が送られている国との違い。

私達が受けた心の深層部への打撃、損なわれた心、精神の裂け目は相当に
大きいのかもしれない。意識と無意識の二つの層に関わっているように思う。
まだはっきりとした言葉にはならない。

絶望の話をしているのではない。醒めた目でも希望の話をしようと思う。
私達日本人が、この日本の社会、このような帰結に至った日本の戦後65年の
社会構造や日常を形成してきた支配的な価値構造を変えられるかどうか、
まだ分からない。
それでも、僕は自らの生き方を大切にし、幻想は持たずとも、心の中に
冷たい風が吹いていても、一人一人の生き方のみが微力ではあれ社会を
変えていくということを基本にしたいと思う。

今回日本に戻っている時に、折に触れて想い出していた作家、戦後の知識人が
二人いる。もし生きていたらば、福島の原発事故を彼らはどう捉えたのだろうか。
加藤周一も井上ひさしも、若い時から自分の精神や生き方にとって大事な知性、
戦後の日本人であった。

「日本の社会では、「みんなで渡れば恐くない」ということがよく言われます。個人が集団に参加するときには、その集団の価値を自分のものとして参加するもので、・・・
自分の意見よりも、みんなが言うことが正しいということですね。これは個人主義ではありません。それでは個人の自由がなくなってしまいます。
しかし、「みんなで渡れば恐い」ことだってあるのです。たとえば、第二次世界大戦に参加した日本、中国侵略を始めた日本がそうです。・・・
あれは「みんなで渡った」結果です。「みんなで渡ったから恐かった」のです。・・・

全会一致型でみんなが同じことをすることが正しくて、「みんなで渡れば恐くない」というのは真っ赤なウソです。そんなばかなことはありません。
ほんとうに恐い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。
個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。

(2002年6月6日、東京での講演会『学ぶこと 思うこと』に収録された
加藤周一さんの文章からの抜粋です。)