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長年営んできた小さな出版社を閉じ、南ドイツの田舎の街に引っ込んだ
初老の男。今の時代には帽子が似合う顔がもう居ないと手作りの帽子屋を
止めた読書好きな、清楚な50代の女性。
決して運命的な邂合には思えなかった。
それでも出逢ったその夜に、ガレージに入ったままだった昔のスポーツカー
に二人で乗り込み、一時間のつもりのドライブはやがてスイスへの国境を
超え、明け方の北イタリアの海辺を目指し、そして、そのまま車の中で
夜を明かすこと二日間、互いの人生の断片を途切れ途切れに伝えつつ、
南イタリア、シチリアの誰も知らない村、路地奥のホテルにたどり着く。
そこには、ジプシーのような小さな女の子が、二人の運命の糸を握るか
のように待ち受けていた……。
多分、そんなような話なのだろう。
年に何回か、読書好きなウチの奥さんに引っ張られて、ドイツや
オーストリアの現代作家の朗読会にこうやって二人して顔を出す。
外国人の、その上生まれつき音痴の僕はまず半分も聴き取れない。
それが純文学や詩作の会となると尚更だ。全ては想像の世界、
薄闇の世界、意味のつながりを失った音声が僕の耳の横を通り過ぎていく。
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今日の話も本当に上記のようなストーリーだったのだろうか?。
僕が聞き取れた一つ一つの言葉、センテンスの間に知らず知らず寝落ちし、
自らの夢の中の幻想とないまぜになった話ではないのか?
そう思って、ウチの奥さんに小さく声をかけるといかにも楽しそうに、
白ワインを片手に無邪気な笑顔をこちらに向けてきた。
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もう三十年を越えた二人の会話、僕の日頃の理解も実際はどの程度
出来ているのだろう?
そうそう、思い出した。
僕達が知り合ったのは1980年代の半ば。僕がまだ、遠い日本から
来たドイツ文学専攻の若い留学生の頃だった。セミも鳴かない北国の
初夏の午後のキャンパス。
「読書とは何か?」
僕はドイツの人にとっては自国の国文学、僕にとってはドイツ文学の
セミナーに外国人一人で参加していた。
「読書とは何か?」と問われても、当時の僕は、せいぜいドイツ語の
小学生。当番の学生のレポート発表も、その後の教授のコメントも
理解半分。様々な意見が飛び交うディスカッションの頃には、全ては
ちんぷんかんぷん。
興味も集中力も尽き果てて、窓の外の景色に目をやり始めた時に
飛び込んで来たのが、ウチの奥さんの若き姿だった。
振り返れば、ドイツに来て35年、二人の出逢いから30年余り。
ウチの奥さんが、今でもこうして、ドイツ語の文学朗読会に僕を
引っ張っていくのは、もしかすると、
「初心忘るべからず」、「決して運命的な邂合ではなかったのよ」
の暗喩なのかもしれない。
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