「Große Kleine Prinzessin ー 大きくなったなぁ」

2015年12月29日 | 家族

年に何回か、ずっと残業が重なり、家族との夕食の用意もままならない
日が続くと、デュッセルドルフの和食のお店に頼んで、寿司折を
持ち帰る時があります。





外国畑の寿司でも家のお皿に盛り付け直して、本来の天然の良い
醤油をつければ、そこそこ美味しいものです。
そして何よりも、食事の準備も後片付けの心配もなく、皆んなで
四方山話をしながら食べる遅い晩御飯は、即興のイベントのようで
独特の雰囲気、楽しさがあります。
今日の夕ご飯は、そんな感じでした。娘も息子もだいぶ大きくなって、
昔は詳しくは話さなかったことや、大人のややこしい話も卓上に
上るようになりました。



人生の幸せはこんなところにあるのかもしれません。
妻にとっては昔からの当たり前の事実です。
そんな夕食の後、末の娘が今、ウイーンからの夜行列車で着く
初めての訪ね人を迎えに行きました。

---------------------------------------------------------------------

【2015年12月29日】

一昨日、娘と一緒に走った冬の朝、「ああ綺麗だなあ」と思った風景。



自分がついついおろそかにしてしまう、若い時のこんな気持や、
姿勢をいつまでも大切にしていってほしい。
僕もまた、もう一度スタートしようと思う。
久し振りの真夜中までの仕事に、その内容に今日は神経も疲れ果て、
漸く床に入る前の一刻、
明日からのまた、より良い一日を思う時。



 



---------------------------------------------------------------------



【2015年12月26日】


クリスマスの二日目。





皆が朝寝坊している中、末の娘と早起き、1年振りくらいで二人で
ジョギングに行きました。



暖冬の冬、大きな青い空、村から出ると緑の畑が一面に広がって
いました。僕は膝が悪いので大半は自転車に乗って、娘の伴走です。



後ろから追っかけながら、大きくなった娘のしっかりした足取りを
頼もしく、楽しく見ていました。



「Große Kleine Prinzessin」とは、「大きな小さなお姫様」という意味、
娘には以前はいつも、父さんの「Kleine Prinzessin/小さなお姫様」と
呼びかけていましたが、最近は「Große/大きな」が加わるようになりました。
略称、父さんの「GKP」です。 


「日本から戻って ー 家族との御飯、久しぶりの和食」

2015年12月25日 | 日本の「食」

日本から戻って二日目、クリスマスイブの翌日は、久し振りに
家族揃って和食の一日でした



昼食には、ゆずを絞ったなめこおろしや国産大豆のなっとう、
きのこ、お揚げさん、ネギの味噌汁。



夕食には舞茸、本しめじ、椎茸等いろいろなきのことセロリ、
菜の花に茗荷、コリアンダーの炒め物。



そして、今日のハイライトは京都、錦の大國屋さんのうなぎ
の八幡、玉子締めでした。



88歳のドイツの義母も初めてなのに、とても美味しそうに
食べていました。
山岡さん、いつもご馳走様です。





 


「大阪・石橋の小さな焼き鳥屋さん ― 想像してもらうために私は唄おう」

2015年12月21日 | 日本の「食」

大阪、石橋は生まれて初めての街でした。
一年に一回だけ会える人のライブを聴きに行きました。
(行って本当に良かったです。このことはまた別の機会に書こうと思います。)

さて、「開演前に何か口にしないと」と思って入った10m平米位の
小さな焼鳥屋さん。石橋の駅の改札から歩いて20秒ほどのところです。
一人、心の中で「ああ、日本に帰ってきたなぁ」と思わず呟きました。





4席のカウンターだけ。頼めばすぐに冷たいビールと美味しい
お通しが出てきます。時間に急かれつつ、いくつかの焼き鳥も
頼みました。
それはそれは見事な焼き加減、タレの具合でした。







焼きおむすびも見事なもの。普通の白米のご飯ではなく、細かく
切った人参だけを薄味でほんの少し炊き込んだご飯をベースに
していました。
大きさも表面の焼き加減も実にきちんとしていました。



若い大将ながら、熟練した心のこもった仕事だと思いました。



最後の手羽先の焼き上げが時間切れになっても一言の文句も言わず、
「ああ、いいですよ、申し訳ないですね。」とニッコリ笑うのみです。

「こんなに美味しい焼き鳥、本当に久し振りでした。ありがとうございます。」
と深々頭を下げて、店を去りました。 
「食は人であり、文化である」とつくづく思ったひと晩です。
 
その後、石橋の商店街を小走りで抜けて、飛び込んだ高架下の
小さなライブハウス「アビリーン」。
(国交省から現在立ち退きを命じられ、12月末で閉店とのことです)

ギリギリで間に合ったそのライブ、今日の歌い手、よしだよしこさんとは
去年の京都でのライブ以来、ちょうど一年ぶりの再会でしたが、歌詞も
メロディーラインも心に響く歌が続きました。
そして最後を飾った曲は、「高野くんの焼き鳥屋」という曲です。



この曲は、シンガーソングライター、よしだよしこさんの新しいアルバム、
「3/4あたり」の中心となる曲だと思います。
大きな時間を内包した、一つの物語のような曲です。
その一部を抜粋で下記に記します。


「いわきの駅から歩いて1分
 高野くんの作った焼き鳥屋がある
 七人座れる立派なカウンターは 
 取り壊された家から譲ってもらった…

 …故郷は富岡まち半径20キロ圏内という
 名前の町のひとつ
 美しい海辺の町にまだ人は
 住んでいない、住んでいない…

 …4回目に店に行った夜初めて話してくれたこと
 がれきの中で両親を探して歩いた時のこと
 私は一生懸命想像しながら黙って話を聞いた
 寒くて暗くて悲しくて怖い風景想像しながら
 黙って聞いた
 淡々と話す高野くんは昔原発で働いていたから
 自分の被曝量も量りながら
 がれきの中をさまよった
 お母さんは2週間後、
 糖尿病で目が不自由になったお父さんは
 3週間後に見つかった…

 …自分の目で見ること 自分の耳で聴くこと
 そして自分の心で感じたことを唄うところから
 また始めようと思った
 いわきの小さな焼き鳥屋のカウンターで
 そう思った…

 …立ち止まったら二度と前には進めない
 そんな風に生きてきた人たちのことを唄おう
 例えばあなたが遠くって聞こえない場所にいるのなら
 想像しよう 想像しよう
 想像してもらうために私は唄おう…

 …いわきの駅から歩いて1分
 高野くんの作った焼き鳥屋がある
 いらっしゃい 店は繁盛 いつも繁盛
 私はレバーのタレが好き」


その夜、僕は以前よりやや細面になったよしこさんの笑顔、
歌い、話す形姿に触れながら、自分の人生の中でその生き方を
一生忘れることのない女性の一人だと、改めて思いました。
そしてこんな晩には「もう一度、日本で暮らすようにしよう」と
思うのです。
 


「京都での一日。人生の合間、出町柳から大原へ」

2015年12月19日 | 京都の一日

京都、出町柳の冬。



川端通りで大原に向かうバスを待ちながら。



冬の風に揺れる柳の枝。



川辺で無心に遊ぶ、独りの子供。

人生の合間に、何も予定のない一日。
自らの小さな野心や心配が、徐々に遠のいていく。
冬の里を歩けば、僕の心も解き離れる刻があるのだろうか。
 
冬到来の前の大原。 







僕らの心の中に今もある、日本の里山の風景。
晩秋の彩り、眼に、心に染みるようでした。





失われたものと、なお続いていくもの。
それは自分の人生でもあり、日本の過去70年の姿でもあるだろう。


「2015年12月日本出張 ー 東京の朝、能登の海」

2015年12月11日 | 日本の「旅」

【2015年12月09日】

東京の朝、日本出張四日目、新潟三条から戻ってきた翌日。
今日から能登へ、モノレールで羽田空港へ向かう途中。





昔、江戸の海があったところを走り続ける。



ひたすら眠り続ける人達。
現代日本・東京の朝の風景。


【2015年12月11日】

夏に続く能登の旅。輪島の外れ、西保海岸。



この西保海岸は、とっても上質な天然の岩のりが採れる所と聞く。



耳が千切れるような寒さの能登の冬。
今年はまだ、その冬の厳しさが全く感じられません。



仕事の合間に、西保海岸の海を少し歩きました。
家族への贈り物の石を五つ、見つけました。

 


「根無し草の原風景 ー 久し振りの浅草」

2015年12月07日 | 日本の「旅」

僕の中で、遠ざかることも本当に近づくことも出来ない故郷、
日本への旅が始まったのは、一体、何時の頃からだったのだろう。
もう子供の時に、そして、僕がまだ日本の中に居た時に、
其れは既に始まっていたのかもしれない。

ドイツに暮らすようになって30年余り、何度、僕はこのような旅を
繰り返してきただろう。決して属することはなく、それでも離れがたい
ことを確認するような旅。

ドイツに関わるずっと以前、もっと早くの頃から僕の帰属性の喪失は
始まっていたと思う。

--------------------------------------------------------------------------------

日本に着いて一晩が明けた。初冬の朝。太平洋岸の小さな島国の
爽やかな青空。
何十年ぶりかで浅草の朝の街を散歩する。



自分にもかつて、故郷のようなものがあったのだろうか。



今、小学校一、二年生の頃に毎日通った通学路、観音様を横に見て、
弁天山の鐘楼の細い通りを歩いている。







芭蕉の句。「花の雲、鐘は上野か、浅草か」

子供の頃にはそんな詩歌のことは露知らず、学校帰りの弁天山は、
友達との格好の遊び場だった。特に人気があったのは、石垣や
鐘楼の後ろに隠れての石投げ合戦だ。一度は、友達の片目を
危うく潰すようなこととなり、母親の大目玉をくらった。
鉄棒が苦手だった僕が、雲梯を覚えたのもこの弁天山だった。



五十年前とほぼ変わらない雷門の風景、僕が子供の頃、当時は
夜八時過ぎになると人通りも絶え、仲見世のシャッターも閉まり
シーンとしていた。
目の前にある交番のお巡りさんに見守られて、夕食の後、近所の
子供やいとこ達と一緒に、雷門の屋根越しによくキャッチボールを
していたことを思い出す。
上手く投げないと、屋根瓦にぶつかってどこにボールが行くかわからない。
僕達はそれを追いかけて、上手くキャッチ出来ると鼻高々だった。

雷門前の名物の柳も、自分の祖父母「じじとばば」が植樹したものだと
常に聞かされていた。今ではそれが本当か嘘か確かめる術もない。
祖父は一代で浅草の内外に鳴り響く和菓子屋「きねや」を立ち上げた人
だが、踊りや色々な遊びが大好きで、祖母には大変苦労を掛け、折角
築き上げた資産もだいぶ使い込んだらしい。
僕には大体、怖いだけのおじいさんだったが、晩年、僕が大学生の時に
入院していた祖父を訪ね、たまたま下の世話をした時に、怖かった祖父
が涙顔で何度もお礼を述べ、その後も「知行は本当に立派になった」
と繰り返していた。

父の仕事の失敗で十に満たぬ歳でこの浅草の街から離れ、当時、東京の
郊外の田舎だった世田谷に引っ越した時、それが僕のまだ幼い人生の
大きな転機だったのだろう。どこで覚えたのか、僕はその後何年にも
渡って「都落ち」という言葉を自分の頭の中で繰り返していた。

僕の人生が「根無し草」になったのも、多分この時からのことだろう。 
自分の原風景がある場所、その後の生き方の原形を刻み込まれる時間が
流れた場所、それが浅草の街だったのだと思う。

今日は思わず自分の過去への入り口を目の前にし、いつかは一度、
その中に踏み込んで行こう、行かざるを得ないだろうと思う。

その中で見い出すであろうこと、それは、もう成人となった三人の
子供達に、彼らの母国語、ドイツ語で書き残しておくようにしたい
と思う。
過去を探る想いは、未来へのつながりを求める力と裏腹の
関係にあるのだろう。それは「根無し草」の話ではない。 

 





「ムッター、どうも有難う! ー 今日は何を作ろうか?」

2015年12月03日 | 日本の「食」

ドイツの88歳になる義理の母が、一人暮らしはもうシンドイということで
引っ越して来て、僕達と同居するようになってから、約二週間になります。

ここ数年、家の料理は僕の担当なので、義理の母のご飯も僕が作ることが
多いのですが、いつも「本当に知行のご飯は美味しいね。ほっとするね。」
と言ってよく食べてくれます。



それも、こんな感じで和洋折衷というよりは、かなり日本の昔からの
和食風なのですが、全然違和感がないようです。



手前味噌ですが、うちの料理ではいつも昆布水や出汁だけはきちっと
整えて、醤油や味噌などの基本調味料は、日本の天然の本当に良い
昔からのものを使っています。そうすると、食材自体はドイツにあるもの
で作りますが、和食の本来の優しい旨みや滋味がしっかり備わるのだと
思います。そして、その味わいは万人共通の美味しさにつながるのだと
思います。





上の写真の野菜や雑穀(たかきび)の炒め物や、あるいは豆腐と
根菜(昆布水で下煮したドイツのセロリの株の部分)とほうれん草の
炒め物なども喜んで食べてくれます。



毎日、こんなことが実感できるので、義理の母に「今日は何を作ろうか?」
と、冷蔵庫やテラスから食材を取り出して考えるのは
なかなか楽しく、
嬉しいことです。


「ムッター、どうも有難う!」