アーレンの朝の散歩ードイツの「地方創生」

2017年10月11日 | 社会

南独の秋の朝。
昔からのドイツのマルクトの風景の中をひとり歩きました。
アーレンは中世からの古い街、そこでの数日間の仕事を終えて、
今日は気が向くままの一人旅です。

第二次大戦中に連合軍の爆撃を受け、大きく破壊された街並みを
戦後復興して、経済成長の時代もその景観の保全を図ったこと。
そして、土地の人々がその中で今の暮らしを営んでいること。
それはこの街だけのことではありません。
ドイツで仕事をしていると各地の出張先でよく見る風景です。

政治・経済・文化の分散化、地方分権、地方分立の精神。
こういうことが現代ドイツの盛んな国力にも、そしてもちろん、
人々の日常の暮らしの満足度にもつながっています。

一極集中の人達が机の上だけで考えた「地方創生」などという
空言とはかけ離れた風景がここにあると思います。

 

 


『民主主義の基本とはー 四年に一回のドイツの総選挙』

2017年08月21日 | 社会

9月23日、四年に一回のドイツ連邦議会総選挙まで、後約一ヶ月。
街を歩いても、新聞を読んでも、選挙戦真っ只中、いよいよラスト
スパートという感じ。

さて夕食の後、テレビをつけると、『アンゲラ・メルケル首相と
一つのテーブルに!』
という、民放の特別番組が目に飛び込んで来た。
ドイツの市民、まさに老若男女が、直にメルケル首相に次々に
鋭い質問を投げかける。

難民問題、年金問題、低所得層への不均等な課税、ドイツ産業史最大の
スキャンダルに発展しかねないディーゼルエンジンの偽装問題、
トルコの言論抑圧、エドガンの独裁、両国間の対立、トルコ制裁の可能性、
或いはトランプ政権に対しての評価など、次々に事前の準備原稿も
シナリオもなしで、厳しい具体的な質問が投げかけられ、メルケル首相が、
その一人一人の質問者に面と向かい合って、二人の対話形式で答えていく。

まさにフェイス・ツー・フェイスで、そこにはルックアップもルックダウン
もない。首相の答えも全て、自分の言葉、その場の即興である。それでも、
しっかりしたデータ、知識に基づいた分析、全体の主張にもロジックの
乱れがない。

ドイツと日本では、民主主義の基盤が全く違う。そして、国を率いていく
政治家の質、教養、知的レベル、人格、個人としての独立性など、どの面
を見ても比較にもならない。

日本の政治家の質の悪さ、人格の低さは日本の社会的悲劇、そのシステム
の致命的な欠陥だと常々思うが、今日は、それを改めて思わざるを得ない。
暗澹たる思い。

安倍政権の幼児性、低能性、官僚への依存性、メディアとの癒着、そして、
それらを生み出し、支える、日本社会全体に蔓延した上下思考と自らより
高い権力への追従性、個人の独立の脆弱さなどが、今日の晩はどうしても
頭を離れない。

 

 

 


「ミュンヘン・オクトーバーフェストの広場でちょっと考えたこと」

2016年04月15日 | 社会

ドイツ国内出張初日、ミュンヘンの朝。肌寒い春の日です。



ミュンヘンの昔からの建物を見上げながら、仕事の前に
チンタラのんびりジョギングをしています。

戦前の南ドイツのブルジョアジーが建てた邸宅を見上げながら、
[今は大企業相手の弁護士、会計士などが事務所のステータス
としてよく使っています。]
ゆるゆると走っていくと、有名なオクトーバーフェストの広場に
着きました。



「だだっ広~い!!!」の一言に尽きます。



明日からはここで蚤の市と移動遊園地「キルメス」が開かれる
そうです。
日本からドイツに戻ってくると、最初の何週間かは、どこを見ても
何につけても体の大きい、スペースの大きい人たちだと改めて
思います。



さて、ミュンヘン・オクトバーフェストの会場は、ドイツ語では
「Theresienplatz」(テレージエンプラッツ)と呼ばれ、
バイエルン王国当時のババリアの女神像が建立されています。

 

かってのバイエルン王国の偉大と統一の象徴とのこと。
空に向かい聳え立つ、なかなかの威容ではありますが、僕は
こんなマッチョな男性美学で歪曲された女性像より、自然な姿
の3人の女性ランナーの方がずっと自然体で美しいと思いました。



何時の時代でも、国家の大袈裟な美学にはあまり良いことは
ありません。

今回の東京オリンピックの誘致騒ぎでも、その後の国立競技場
のデザイン騒動でも、このマッチョな男性論理の担ぎ手達が
大きな災いをもたらしているのは明らかです。
そのくせ、彼らはバイエルン王国を作ったドイツの当時の男性達に
比べると、やること、なすこと、体も器もスケールも小さい人達です。
日本は、世界に稀なる文化と美しさを有していた国です。
小さな東洋の一国で全然構わないはずです。

島国根性の誇大妄想症を約150年間続けてきた国、日本。
もういい加減にした方がいいと思います。

 


「3月11日の次の日に」ー 春の日の覚え書き

2016年03月12日 | 社会



今日は3月11日の次の日。
ドイツの僕の村にも、もうすぐ春が来そうです。
妻と義理の母と、友人のオーガニック農園でいつもの週末の買い物を
した後、三人で散歩をしています。



遠くに風車が二つ。



原子力発電など現代の人間の狂気の沙汰、本来、有ってはならないと
いうことを改めて実感します。
日本のアベさんは、本当にチャップリンのヒットラーのよう滑稽さ
極まりない人物ですが、このような人物を時の支配者に祭り上げている
日本社会の病巣は実に広く、深いものだと思います。
知恵も知識もなく、操り人形のような彼は、福島の惨事から五年経つ
日にも「資源の乏しい日本には原子力発電が必要不可決」などと
オウムないしオームのように繰り返していますが、日本は実際には、
世界にも稀に見るほどの自然豊かな風土の国です。

日本に足りないのは、日常の生活を大切にする一般の感覚と、その
自然の恩恵を生かす知識や知恵のある政治家や官僚です。
日常の暮しや家族一人ひとりの人生やその生活を大切に出来ない人達
には、生きる価値を中心にした社会のビジョンは描けません。
彼らを支配している価値は、経済や利便性、学歴や就職先などの
ステータス、仕事第一、同調性、国威発揚などの建前です。
まさに今の日本は窮屈な書き割り社会です。そこには、個々の人間の
生命の躍動がほとんど感じられません。



もちろん、そうではない人達も沢山います。その人達の活動に、ドイツ
にいても日本にいても少しでも役立ちたいと思います。
特に10代から30代の若い人達につなげられることが大切。
僕の場合には日本の若い世代の人達とも一諸になって、和食の本来で
ある健やかな美味しい菜食を、ドイツで伝えていくことなのだろう、
それが僕の役割であり、やりがいのあることでもあるのだろうと考えます。





3月11日の次の日、春の日の覚え書きです。


安倍コベにNo!と言う若者達へ

2015年09月26日 | 社会



本当に久し振り、土曜日の休日。
ゆっくり朝寝をした後、友達のオーガニック農園へ、秋の良い一日、
昨日までのしんどさや心配がウソのよう。
社会がとんでもなくおかしくなければ、人の抑圧や原発事故、
戦争などの狂気がなければ、幸不幸の半分ほどは自分の心持ち次第
のところが多分にある。



だからこそ、安倍政権のようなものや、それを支えたり、従ったり
する構造は
許されない、潰さなければならないと思う。

でも、そのようなものにはっきりとNo!というだけでなく、個人の
生活の中で、No!という生き方をしないと、安倍コベな社会は
なかなか変わらないとも思う。今、立ち上がった日本の若者たち、
その中に生活の草の根的なところの、毎日の変革の力はどこまで
あるのだろうか? 
彼らの中にそのような内発的な契機が育っていれば、
日本の本当の「オルタナティプ」が生まれてくると思う。

僕はそれに期待したいし、その前の世代として、力になりたいと思う。

 


「戦争法案」が強行された ー 何十万、何百万の「安倍コベさん」達が支える、日本社会の硬直と抑圧

2015年09月21日 | 社会

「戦争法案」が強行された。

自民党の人達のやることや、その思考行動パターンは、今回は特に
それが顕著だったけど、会社や役所の中では、組織の力やその時々
の権力者にペイペイし、家に帰ると家庭内暴力を振るったりする人
とよく相似相関している。
そして、それは昔も今も日本の多くの男性の一つの典型的モデルを
確かに具現化している。だからこそ、自民党はそれなりの支持を
何十年も獲得してきているのだろう。

本当に何十万人か、何百万か、或いはもっと沢山の安倍コべさんが
日本にはたくさんいる。そして、その多くの人が仕事には実に熱心で
課題遂行能力も相当高いところにある。
でも、自分の生きることの意味にはかなり大雑把だし、歴史文化や
彼岸の存在など、いわゆる超越的な価値への関心よりは、その場的な
表面形式への迎合的関心や従順性が際立っている。

日本の社会がもし本当に変わっていくならば、衆議院、参議院、或いは
官僚のような社会の上部構造の変化、改革だけでなく、自由と寛容を
毎日の生活の中で生きようとする人達が、よっぽど多くならなければ
ならないだろうとつくづく思う。

今日は末の娘がウィーンに引っ越す前の最後の週末。長男や彼女の
ハナちゃんも誘って、現代美術のインスタレーションで有名な市内の
美術館を訪ねた。

指定された制服を着たり、安全ネットの中で空中遊泳ごっこをする
のは、自分が選んだ時だけで十分だと思う。 





このことに関連するような、昔の記事(2010年9月)も下記に転記
しておきます。


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 今日は本当に久し振りの「ひとり水泳部」
泳ぐよりもブールサイドに寝っ転がって、大きな伸びをしたり
日向ぼっこをしたりホンワリしている。秋の陽射しも心地よい。
僕のコーチは、「明日のジョー」より「バカボンのパパ」。
無理をしない。





そんなことを考えながら、ここ最近読んだ2つのツイートを思い出す。

@minorikitahara「国益」って言葉を使って話す人に、
あんたは大臣か! と笑ったところ口論になる。 
バカにした訳じゃないよ、ほんとに冗談だと思ったんだよ! …
私にとって「国益」なんてものがあるとしたら、
ご近所どうし仲良くね! だけだな。一人一国益よん。


(その通り!)

@footballanalist ドルトムント戦を見る。ただゲームを殺す力が
まだないのは、チームが香川が全能の神として君臨するときを
待っているから。…


(ドイツでは誰も考えなかったことだ!客観性も根拠も全く無いが
実にユニークな発想。)

双方どちらも気軽に書いた言葉だろう。でも両者の間には大きな
開きがある。一方は少し神がかり、変な愛国主義、意味の無い
島国根性。男性論理が転がって行く。他方はすっきり自然体。
女性の当たり前。

なお、このサッカー評論家の方のツイートは、
文芸春秋書籍営業部@bunshun_hceigyo のRTで見つけたものです。 
僕は「全能の神?。ただの外国人選手です。いくらRTとしても、
文芸春秋の知性を疑います。」と@bunshun_hceigyo にリプライ
したところ、いつの間にか、そのRT自体を削除していました。

文芸春秋は昔から好きな雑誌です。事大主義と事なかれ主義は
あまり好きではありません。

無理をしない。理の無いことをしないこと。

 


20歳の誕生日に 向けて ー「若い人達を、抑えつけないでほしい。 がんばろう!日本 はもう要らないよ。」

2015年07月06日 | 社会

先週の金曜日に末の娘がタイ、ラオス、カンボジア、そしてネパール
の旅から約10週間ぶりに、元気な姿で戻ってきました。





旅の最後の4週間はタイでの予定を中止し、昨年の秋に初めて訪ねた
ネパールのカトマンズに戻り、震災後の復旧活動に外国人ボランティア
として参加することになりました。東南アジアの旅先から、
「予定を変えてネパールに行こうと思う。」という連絡を受けた時には、
多少心配しましたが、ドイツに戻ってきた娘の話を聞いていると、
本当に良い経験だったようです。
娘が参加したのは震災で家を失った現地の方々に、仮住まいの住居を作る
プロジェクトでした。壁の骨材となる竹を組んだり、土壁を塗ったり、
トタン屋根を拭いたり、ボランティアチームの一員として初めての大工
仕事に毎日励んでいたようです。



今日は20歳の誕生日を迎えました。
下の写真、子供の時から食べ続けてきた朝食のミュースリーも、
今は自分でその時々のフルーツやナッツを刻み込んで、器用に
作っています。その向こうには妻が用意しておいた誕生日の
プレゼントが置かれています。 



子供が大人になる過程においては、生まれた時代の価値規範や、
その国の伝統・文化的背景、社会の枠組み、学校の教育の仕組み、
家族との関係性、両親の経済力など、実に様々な要素が絡み合い、
一人の人格を形成していくのだと思います。
そのパターンはまさに千差万別で、偶然の運と不運が大きく左右する
ことです。30年余り前、僕にとっては20歳の生はあまりに重たく、
誰とも祝うことなく、辛いことが多かった人生の時期でした。

娘の場合には人生の幸運もあると思いますが、生の重みや社会的拘束
には拘りなく、自分の「今」を生きていることは、実に素晴らしいこと
です。娘が、「生きることが楽しいこと」をしっかり身につけて、それを
自然体として、毎日を暮らしていることにはつくづく感心します。



このように考える時、娘がお腹にいる時からの妻の毎日、毎日の
優しさの力、そして、それを妻に与えた義理の母の存在、実に
大きかったことと思います。



妻も義理の母もおおらかで人に優しく、学校の成績や世の中の順位には
全く無頓着で、娘を叱ることも殆ど見たことはない、そういうことが
娘の今の在り方に大きく関わっているのだと思います。

今日の晩ご飯の際、自然に出たこれからの人生への花向けの言葉は、
「20才おめでとう!」、
「これまでの20年間に乾杯!そして、これからの良き20年に向けて乾杯!」
でした。 




どの父親にとっても娘の20歳の誕生日は、感慨深いものだと思う。
そして一つのことだけでなく、様々なことに思いが及んで行く日だろう。

その中で今日、この文章を書きながら、頭の片隅で思い起こしていたのは、
「若い人達を、抑えつけないでほしい。」と「がんばろう!日本 はもう要らないよ」
の二つのフレーズだ。それぞれ、2010年10月末と2011年7月末に記したことに
つながっている。下記にその時の文章をもう一度、書き留めておきたいと思う。


2010年10月28日 「若い人達を、抑えつけないでほしい。」



(中略)
若者よ、大志を抱け」などと大声を上げる気はさらさらない。
また、外国に出ること、そこに住み着き働くことが特別に良いこととも
思わない。けれども、受験競争で若者の視野を狭め、一斉就職や「就活」
で心理的抑圧を与えるような社会。若い人生には無数の選択肢があり、
沢山の時間と大きな広野が目の前に広がっている、という当たり前の
ことを当たり前と感じなくなるような環境。それが今の日本だろう。

その中で、若者達が知らず知らず身を小さくして、精神の背丈を縮めている。
特に若い男の子達にそれが著しいのではないだろうか。
実に残念なことである。21世紀は閉鎖系でなく、明らかに開放系の時代だ。
日本は、毎日の生活の中では社会の技術や消費の移り変わりが凄まじいが、
その表面下では、硬直性が著しい。

子供達を、若者達を抑えつけないでほしい。生きていること自体に
価値があるのだから。すくすく伸ばしてほしい。
自分の好きなことや大切なことを見つけるのにはたっぷりの時間がかかる。

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2011年7月31日 「がんばろう!日本」はもう要らないよ。 ー19歳の未来のために




慶良間諸島、座間味島の小さな港。
昼下がりの船着場に一人で座っている。
シーカヤックで30分も漕げば、目の前の無人島に着くだろう。
真夏の明るい海、エメラルドグリーンの海。
Tシャツもバミューダも脱いで潮風に吹かれている。
波音の歌を聞いている。今のただひと時。
壊れた国のこともその歴史も今は忘れていたい。

那覇から約2時間。座間味島の小さな港。
夏雲の浮かぶ、青い大きな空。入港してきた
「フェリーざまみ」の真っ白な船体と見事なコントラストだ。
船腹にはしっかりした力強い書体で、「がんばろう!日本」と
大書きされている。
何をがんばるんだろう? 一体、それは何を意味するのだろう?
この国には震災の前にも、未曾有の原発事故の後にも、
空疎な言葉や掛け声が飛びかっている。

「がんばろう、日本」「オールJAPANの力で!」
そんなものには、なんの意味もない。

日々の生活の中で、子供達の生命を大切に、大切にしよう。
若者達が生き生きと、伸び伸びとした社会。
仕事ばかりにならず、毎日の暮らしがゆったりと。
一人ひとりが良く生きれるように。

7月初めから実習中の長男を訪ねてやって来た、この座間味の島。
66年前。沖縄決戦の前哨地として日米の支配層の政治的意図、国権の
犠牲となり、「鬼畜米英、女子供は全て凌辱される」ことを信じさせられ、
軍部の情宣イデオロギー教育の下、集団自殺を強いられた人々の島。

 
戦中、戦後、そして今日まで、一体、幾つのこのような言葉が使われてきたのだろう。

「国体護持」「大東亜共和圏」
「欲しがりません、勝つまでは。」
「ジャパン アズ ナンバーワン!」
「未来を運ぶ原子力、クリーンなエネルギー」
「がんばろう!日本」
「省エネでも電力不足。脱原発不可」




(敦賀半島、もんじゅと美浜原発を目の前にした水晶浜、ダイヤモンドビーチ。
原発事故の後でも此処で子供達と海水浴をする家族連れや若者達。)

村を街を壊し、車と家電に囲まれて、墓場の隣にマンションを建て、
田圃を潰して、郊外大型店やネオンのお化けをつくり、
何百年の砂浜を潰して、過疎地に原発をつくり、
その前で夏の海水浴をして平然としている国民や、それを子供達の
夏の思い出として何も訝らない親や、若者達を生み出して来た国。
こんな奇怪な、歪んだ社会はもう要らない。

日本とドイツの両親、文化の間に生まれた長男には父親の国、日本の風土や歴史、
暮らしの文化、人々の優しさを知ってほしいと思う。
けれども、この社会に住んでほしいとはどうしても思えない。
人は何かの能率や成果の為、国の経済的発展やモノの為に生きている訳ではない。

日本に来て約一年、長男の浩太は北海道の自然農場と慶良間の海、日本の自然と
その中で生きる人々に囲まれて、良く成長したと思う。
18から19歳の貴重な時をこのように過ごせたことは、本当に有難いことだと思う。

これからも若い時を、生命の溢れる時を、今を伸び伸びと十分に生きてほしいと思う。
そして、人との交わりの大切さを知り、その中に自分を、自分のやっていきたいことを
見出してほしいと思う。



座間味の港で、約2ヶ月ぶりに会った長男、海焼けして逞しくなっていた。
若者の生命は将来のためだけではなく、「今」を生きるためにあるのだ
とつくづく思う。











 


「デュッセルドルフの初夏の夜に想うこと」

2015年06月02日 | 社会

ライン川の街、デュッセルドルフの初夏の夜景です。





久し振りに市のコンサートホールでブラームスやラヴェルの曲を
聞きました。昔はプラネタリウムだった建物で、その窓から、月夜
の川に浮かぶ遊覧船の灯りが水面に映ります。





この日の演奏は来独中の関西交響楽団、バイオリン奏者の外国人指揮者
と共に息の合った、非常にまとまりのよい演奏でした。



 

たまたま、デュッセルドルフに住むことになってかれこれ33年、
未だに自分のふるさとのような意識はありませんが、こんな夕べには
「住めば都」と思って暮らしている方がいいのだろうと感じます。

ルール工業地帯を控えたこの街は、南ドイツのミュンヘン、あるいは
現在のドイツの首都ベルリンのような、昔からの歴史や文化が深く
刻まれている街では決してありません、むしろ、新興の大型商業都市の
ような趣もあるところです。それでも日本の多くの地方都市の戦後の変遷、
そして今の姿を考えると、10倍も20倍も、住む人達の暮らしやすさや愉しみ、
働くことと住むことのバランスを考えた都市開発がきちっと行われてきました。
これはドイツの他の地域の大小の都市や、小さな街についても同様に
言えることです。
東京への政治・経済・行政・労働市場などの一極集中、中央集権型の
社会体制が日本の地域の多様性と活力をどこまで削いでしまったのか、
つくづく残念なことです。

日本の未来を考える時に、これは決定的なことだとこの20年間常に
思い続けてきました。


「歪んだ国の歪んだ言葉」

2015年04月16日 | 社会

4月14日の覚え書き。



辺野古の作業停止指示の後、福井地裁の再稼動否の仮処分の後、
日本政府首脳の「 粛々と進めます」という言葉の奇怪さ、
無神経の不気味さ。過去何十年に亘り、日本本来の風景が
各所で破壊された後、その動きを支えてきた同じ人たちが今、
公の場での日本語から、そこに本来内包されるべき倫理感や人間性を
疎かにして、言葉自体を骨抜きにしていっている。

戦前と同じように、そのとき現れてくるのは、重々しいだけの
空疎な正体不明の漢語系の二字熟語や四字熟語だ。

この国の指導者達とそれを支える人達は、もう相当おかしいところに
来ている。
政治、行政だけでなく、テレビのニュースやワイドショーを
見ても、雑誌を開いても、大衆に向けられた言葉の歪みや同調性への
偏向は著しいものがある。


言葉の崩壊自体が今のこの国の在り方を如実に表している。




「毎日の暮らし ー 僕らの時代が喪失したもの」

2012年01月13日 | 社会


2011年12月、飯舘村での除染活動


新年も2週間が過ぎようとしている。今年はもっと料理や家族のこと、
「食」や毎日の暮らしにまつわること、身の回りの大切なことから
出発して書きたいと思う。
もともと、このブログを「ほぼ毎日ドイツ」というタイトルで書き始めたのも、
そんな想いに導かれてのことだろう。ところが、去年の3月、福島の
原発事故以降は、脱原発のことやその運動への関わりばかりがテーマと
なってしまった。確かにそれが僕の日常だったのだろう。
日本に行くことも4回、特に秋以降は福島原発事故に関わって福島市や
飯舘村に何度も足を運ぶこととなった。大事な仕事だったとは思う。

けれども、原発のことを自分なりに深く考えていくと、いつも一つの問題、
一つの感覚にぶつかる、たどり着くように思う。

「こうして身の回りのことや、生活、暮らしの中の当たり前のこと、
自らの健康や心、生命に直接関わること・・・。多くの人がそれを
二の次にして日常を送っている・・・。いつからこんなことが当たり前に
なったのだろう?」
「自分や家族、周りの人のために当たり前にていねいに料理を作ること、
いくらかの野菜、果物、穀物を自分で植えたり収穫したりすること・・・。
朝は早起きして深呼吸をして、太陽を見上げて有難いと思うこと。
何故こういう当たり前のことを忘れてしまったのだろう?」
「自分の生命が何百、何千億の人々の一つであること、それが自然の
大きな流れの中にあること
。何故、こういうことが頭では分かっていても、
日常の身体的感覚や行為、所作の中では失われてしまうのだろうか。」

「フクシマ」の原因や帰結には日本の経済・社会・価値の構造や、
その象徴たる原子力村、軍事・経済を中心とした米国モデルの世界的な
浸透・支配など、いろいろなことが考えられる。けれどもこのような、
いわゆる知識・情報に基づく理解・分析が本当に世界を変えていくのだろうか?
近現代の歴史の答えは明らかに否である。

僕らの時代の喪失はもっと大きいものなのだと思う。それは世界の全ての
先進国とその周辺で起きていることだろう。それはもう数世代を超えて、
100年以上続く流れだろう。この流れは戦後、とりわけこの30、40年で
一気に加速したと思う。日本はこの点でも発展途上、後進国から一気に先進国へ、
そして時代の最先端へとたどり着いたのだと思う。

日常をていねいに生きること、毎日の暮らしをだいじにすること。
それがこの時代に僕達が出来る大切なことの一つだと思う。




2011年12月、20km圏内、福島県浪江町の海岸から
(後景は、福島第一原発の事故現場)




2011年12月、同じく福島県浪江町、請戸の港近く。
津波後、そのまま残された家屋の跡。


1945年8月15日 ー 日本の「脱原発」はこの教訓を生かすこと。

2011年08月17日 | 社会

日本から戻って二日目、8月13日。ドイツ・シュトゥットガルトの
脱原発デモに参加し、福島と飯舘村を7月に訪ねた時の自分の経験や
放射能汚染と被曝の問題、日本の脱原発の状況について話をしてきました。
(この件については次のブログ記事で詳しく語りたいと思います。)

「日本の太平洋戦争への歴史とその終結、そして戦後66年の日本社会の
発展とその歪みには必然的な関連がある。」
このことを常に肝に銘じて、これからの人生を生きていこうと思う。
それが子供達にも他の人達にも伝わる言葉と行動を一つずつ見つけて
いくことが自分の課題だと思う。





ひとあし早いドイツの秋。高く、どこまでも広がっていく、
透きとおった大きな青空。
今日は本当にいい天気だ。静かな朝の時間。梨の木の横に立って
この大きな空を見ている。 その向こうには自分の母国、日本がある。
66年前のこの日、8月15日。終戦の日。父や母達が生きた時代。
僕が生きる時間も、福島も其処につながり、僕達の時代の責任がある。





(ちょうど一年前、2010年8月15日と6日、そして8月30日の記録)

8月15日が今年も過ぎようとしている。
日本の軍国時代、全体主義が終焉を迎えると共に日本人の精神的、
文化的独立性にかってない変化がもたらされる転回点だったと思う。
子供達に食事の後、日本人の血が半分は流れていること。
8月15日を記憶し、いつかは自分達の事として考えてほしいと話す。


8月6日、65年前の今日、原爆が広島に落とされた。
人類史にかってなかった無差別大量虐殺が行われた日だ。
その虐殺は、米国が国家の意思として 何十万人の命に対して
計画的に行なったことである。その非道は長崎で再び繰り返された。
米国の非を、命の冒瀆を日本もヨーロッパも問うことは出来なかった。

僕の父親は山口県柳井市の出。海軍の志願兵で飛行機乗りだった
とのこと。戦後、焼け野原の東京に出て来て、闇市で
働いたりしながら身を立て、浅草生まれの母親と出会い
一緒になったとのこと。

父親が育ったのは広島市。原爆で家族、親戚の大半が亡くなっている。
しかし、その話を父親から詳しく聞いたことはない。
僕もあえてそれに触れていこうとはしなかった。それにはいろいろな
事情がある。

今、自分のことと子供達の将来のことを考え、このことに取り組んで
みようと考えている。
今年の秋、柳井と広島に足を運ぶつもりだ。

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2010年8月30日の記録/「脱原発15年延長? 反対します!」

ドイツで脱原発を15年先延ばしにしようという考えが、
メルケル首相を中心として独政府内で高まっている。保守党内からの
反発も出ている。緑の党の猛反発は必至。

70年代後半のオールタナティブの運動から始まり、党としての形もなく
「緑の人達」としてスタートしてから、ドイツの社会の在り方や政治の
方向性に大きな 影響を及ぼしてきた。
その当時からの支持者や関係者には、「思えば遠く来たもんだ」との感慨は
相当あるだろう。その気持ちは、当時20代の若さから現在50代となり、
職につき子供・家庭を持ち、安定、保守化した僕達の世代の日常感覚とも
相当重なる部分があるだろう。

しかし、脱原発の問題でこれ以上妥協することは自分達の出自、彼らの
政治的運動の原点に関わることである。当時とは違う形であれ、
議会を超えた国民的運動、反対の議論を巻き起こす力となって欲しい。

また、ドイツがここで妥協すれば、ドイツ国内だけでなく昨今の
地球温暖化やCO2の問題絡みで、原発を見直そうという他の先進国や
日本の原発推進派にも格好の材料を提供することとなる。
原発の必要性を唱えようとすれば、いくらでもその理由は付けられる
だろう。しかし、チェルノブイルの事故は過去の話ではない。

議論すべきは代替エネルギーへの転換を未来への共通の課題として捉え、
それを如何にすれば早期実現できるか、どのように化石燃料からの転換を
進めていくかということだろう。

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上記のような散文的な文章や感想が、2010年から一年経った今でも
まだ自分の現実の大半だと思う。
しかし、このような漠然とした意識では弱すぎる。
自分のためにも、次の世代のためにも、もっと掘り下げた考えや行動が
必要だし、それを生み出していこうと思う。


「がんばろう!日本」はもう要らないよ。ー19歳の未来のために

2011年07月31日 | 社会




慶良間諸島、座間味島の小さな港。
昼下がりの船着場に一人で座っている。
シーカヤックで30分も漕げば、目の前の無人島に着くだろう。
真夏の明るい海、エメラルドグリーンの海。
Tシャツもバミューダも脱いで潮風に吹かれている。
波音の歌を聞いている。今のただひと時。
壊れた国のこともその歴史も今は忘れていたい。


那覇から約2時間。座間味島の小さな港。
夏雲の浮かぶ、青い大きな空。入港してきた
「フェリーざまみ」の真っ白な船体と見事なコントラストだ。
船腹にはしっかりした力強い書体で、「がんばろう!日本」と
大書きされている。
何をがんばるんだろう? 一体、それは何を意味するのだろう?
この国には震災の前にも、未曾有の原発事故の後にも、
空疎な言葉や掛け声が飛びかっている。

「がんばろう、日本」「オールJAPANの力で!」
そんなものには、なんの意味もない。

日々の生活の中で、子供達の生命を大切に、大切にしよう。
若者達が生き生きと、伸び伸びとした社会。
仕事ばかりにならず、毎日の暮らしがゆったりと。
一人ひとりが良く生きれるように。

7月初めから実習中の長男を訪ねてやって来た、この座間味の島。
66年前。沖縄決戦の前哨地として日米の支配層の政治的意図、国権の
犠牲となり、「鬼畜米英、女子供は全て凌辱される」ことを信じさせられ、
軍部の情宣イデオロギー教育の下、集団自殺を強いられた人々の島。


戦中、戦後、そして今日まで、一体、幾つのこのような言葉が使われてきたのだろう。
「国体護持」「大東亜共和圏」
「欲しがりません、勝つまでは。」
「ジャパン アズ ナンバーワン!」
「未来を運ぶ原子力、クリーンなエネルギー」
「がんばろう!日本」
「省エネでも電力不足。脱原発不可」




(敦賀半島、もんじゅと美浜原発を目の前にした水晶浜、ダイヤモンドビーチ。
原発事故の後でも此処で子供達と海水浴をする家族連れや若者達。)

村を街を壊し、車と家電に囲まれて、墓場の隣にマンションを建て、
田圃を潰して、郊外大型店やネオンのお化けをつくり、
何百年の砂浜を潰して、過疎地に原発をつくり、
その前で夏の海水浴をして平然としている国民や、それを子供達の
夏の思い出として何も訝らない親や、若者達を生み出して来た国。
こんな奇怪な、歪んだ社会はもう要らない。

日本とドイツの両親、文化の間に生まれた長男には父親の国、日本の風土や歴史、
暮らしの文化、人々の優しさを知ってほしいと思う。
けれども、この社会に住んでほしいとはどうしても思えない。
人は何かの能率や成果の為、国の経済的発展やモノの為に生きている訳ではない。

日本に来て約一年、長男の浩太は北海道の自然農場と慶良間の海、日本の自然と
その中で生きる人々に囲まれて、良く成長したと思う。
18から19歳の貴重な時をこのように過ごせたことは、本当に有難いことだと思う。

これからも若い時を、生命の溢れる時を、今を伸び伸びと十分に生きてほしいと思う。
そして、人との交わりの大切さを知り、その中に自分を、自分のやっていきたいことを
見出してほしいと思う。



座間味の港で、約2ヶ月ぶりに会った長男、海焼けして逞しくなっていた。
若者の生命は将来のためだけではなく、「今」を生きるためにあるのだ
とつくづく思う。


取り返すことも、取り除くことも出来ないことについて

2011年06月01日 | 社会

先週の木曜、5月26日まで日本に戻っていた。その後すぐにボン市での
デモと日独での脱原発を目指すスピーチの準備があり、時差を気にして
いる暇もなかった。6週間振りのドイツ。相変わらず、日本から遠く離れた
異国ではあるが、25年も過ぎれば自分の生まれた国よりも慣れ親しんだ所も
あるような気がする。





けれども、このドイツに戻ってからの一週間、毎日、自分の身に迫って
くるのは、日本とドイツの文化や風景の相違ではない。
頭の中を巡るのは大概二つのこと。一つには日独の社会と暮らしの構造の
基本的な違い。(両国とも奇跡の経済復興を遂げた国として並び称されるが、
それは表面的なこと。戦後65年間の社会的発展と歴史には大きな相違がある。)

もう一つは原発事故、放射能汚染が日常の生活の一部、もはや取り返す
ことも取り除くことも出来ない、自業自得の運命となった国・日本と、
それを経験せずに、風や雨や空気を当たり前に受け止め、野菜や水を普通に
口にする日常が送られている国との違い。

私達が受けた心の深層部への打撃、損なわれた心、精神の裂け目は相当に
大きいのかもしれない。意識と無意識の二つの層に関わっているように思う。
まだはっきりとした言葉にはならない。

絶望の話をしているのではない。醒めた目でも希望の話をしようと思う。
私達日本人が、この日本の社会、このような帰結に至った日本の戦後65年の
社会構造や日常を形成してきた支配的な価値構造を変えられるかどうか、
まだ分からない。
それでも、僕は自らの生き方を大切にし、幻想は持たずとも、心の中に
冷たい風が吹いていても、一人一人の生き方のみが微力ではあれ社会を
変えていくということを基本にしたいと思う。

今回日本に戻っている時に、折に触れて想い出していた作家、戦後の知識人が
二人いる。もし生きていたらば、福島の原発事故を彼らはどう捉えたのだろうか。
加藤周一も井上ひさしも、若い時から自分の精神や生き方にとって大事な知性、
戦後の日本人であった。

「日本の社会では、「みんなで渡れば恐くない」ということがよく言われます。個人が集団に参加するときには、その集団の価値を自分のものとして参加するもので、・・・
自分の意見よりも、みんなが言うことが正しいということですね。これは個人主義ではありません。それでは個人の自由がなくなってしまいます。
しかし、「みんなで渡れば恐い」ことだってあるのです。たとえば、第二次世界大戦に参加した日本、中国侵略を始めた日本がそうです。・・・
あれは「みんなで渡った」結果です。「みんなで渡ったから恐かった」のです。・・・

全会一致型でみんなが同じことをすることが正しくて、「みんなで渡れば恐くない」というのは真っ赤なウソです。そんなばかなことはありません。
ほんとうに恐い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。
個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。

(2002年6月6日、東京での講演会『学ぶこと 思うこと』に収録された
加藤周一さんの文章からの抜粋です。)


若い人達を、抑えつけないでほしい。

2010年10月28日 | 社会




先月中旬のこと。写真上のKKコンビにほだされ外で昼食。
KikiさんとKanekoさん。ドイツで頑張る、見目麗しき女性二人。

日独の両親とドイツで育ったKikiさんは生粋のハーフ。イギリスで
勉強した後、ドイツに戻ってきた。見る角度や話をする人、その時に
使う言葉でドイツ人になったり、日本人になったりする。頬を赤らめ
両手を添えて笑っている仕草は昔の日本の女子高生の様!?
仕事で「Nein!ナイン!」と言うときはしっかり声のドイツ人女性。

Kanekoさんは日本のOL勤めを辞め、ドイツに来て6年目。
二つの大学で「持続型経営」を勉強している。僕の小さな会社で
4ヶ月の実習生をした後、時々バイトに来てくれる。真面目さと剽軽さ
が同居した好人物。

KKコンビだけでなくドイツには今、沢山の日本人女性がワーホリや
自費留学あるいは日本やドイツの企業で働きながら、自分の人生の道
を歩んでいる。僕がドイツで仕事を始めた25年前にもそのような
女性達がいたが、今はもっともっと増えている。

一方、日本人の若い男の子の姿は飲食店関係以外はあまり見ることがない。
デュッセルドルフの日本食レストランや居酒屋を賑わせているのは今も昔も
日本の会社の男性駐在員達である。

「若者よ、大志を抱け」などと大声を上げる気はさらさらない。
また、外国に出ること、そこに住み着き働くことが特別に良いこととも
思わない。けれども、受験競争で若者の視野を狭め、一斉就職や「就活」
で心理的抑圧を与えるような社会。若い人生には無数の選択肢があり、
沢山の時間と大きな広野が目の前に広がっている、という当たり前の
ことを当たり前と感じなくなるような環境。それが今の日本だろう。

その中で、若者達が知らず知らず身を小さくして、精神の背丈を縮めている。
特に若い男の子達にそれが著しいのではないだろうか。
実に残念なことである。21世紀は閉鎖系でなく、明らかに開放系の時代だ。
日本は、毎日の生活の中では社会の技術や消費の移り変わりが凄まじいが、
その表面下では、硬直性が著しい。

子供達を、若者達を抑えつけないでほしい。生きていること自体に
価値があるのだから。すくすく伸ばしてほしい。
自分の好きなことや大切なことを見つけるのにはたっぷりの時間がかかる。

日本やドイツで男の子でも女の子でも、いろんなところでいろんなKKコンビ
がたくさん出て来てほしい。


秋晴れの一日、「東西ドイツ統一20周年」

2010年10月03日 | 社会



10月3日。今日は東西ドイツ統一20周年の記念日。
僕はドイツでは国籍も選挙権もない外国人だけれども、この日を
やっぱり大切に思う。一人で5年、そして家族と約25年間暮らして
きた国だからだ。僕と同じような立場、想いの外国人がドイツには
何百万人もいるだろう。東西ドイツの大きな格差の中、社会的衝突
や分裂も起こさず、同時に何百万人もの外国人居住者や移民を受け
入れてきた。社会の懐、寛容性が深い国である。

ドイツ統一20周年の記念日。この特別な年の記念式典を首都
ベルリンでなく、ブレーメンで行うところが戦後ドイツの矜持
ではないだろうか。連邦制と地 方分権を本当に大事にしている。
だから、何処に行っても中央、上昇志向の人が少ない。
現代ドイツは地方の国である。ドイツは戦前の教訓を生かした。

秋晴れの一日。ドイツ統一20周年。うちの奥さんはそんなこと
にはお構いなく、冬が来る前の最後の日光浴を楽しんでいる。
朝ご飯の時にも他の話をしていた。僕も午後になるまで今日の
ことは忘れていた。社会と毎日の暮らしがそんな風に成り立つことは
とても有り難いことだ。
けっして当たり前ではない。だからこそ毎日、
大切にしよう。





秋晴れの一日。太陽が輝いている。午後の光が透きとおるよう。
庭の紅葉が風に揺れている。浅緑、黄、紅、光の四重奏。嬉しくて、
沢山の写真を撮った。でも眺めているだけの方が、もっと楽しい
かもしれない。






今年は春菊が豊作。食べきれないうちにぐんぐん育って次々と花を
咲かせ始めた。食べられないのに困ったものだと思っていたら、
今日は秋の光を浴びて、その花々が見事に輝いている。
よく見ると白い花びらと黄色い花びらの二通り。
僕曰く、葉は春菊、花は秋菊。






秋晴れの午後。庭のリンゴの木の下に行くと実が沢山落ちていた。
リンゴジュース、パンケーキ、アップルパイ、焼きリンゴ、ジャム。
面倒くさい時は小さく切ってそのまま食べる。ドイツの人はあまり
皮をむかない。 近くのオーガニックショップにはこの季節、ジュース
の絞り屋が移動式の搾汁機を持ってやってくる。
ドイツのリンゴは甘さ控えめ、すっぱさたっぷり。





庭のリンゴももうすぐ終わり。5月に白い花をつけてから9月の
終り実が落ちるまで、ドイツの一番良い季節を共に過ごしていく。
しっかりとした、まるまるとしたリンゴが五つ。
秋の午後、うたた寝をしている人がひとり。