「クリスマスの後の一日、美術館にて」

2016年12月28日 | ドイツの暮らし

クリスマスの後、久し振りにデユッセルドルフの街に出て、美術館に
足を運びました。
西洋の絵画史を中世から今日まで、「カーテンの背後、隠蔽と
露出の間で」をテーマとして振り返る特別展示会でした。

僕はこの美術館の中央の吹抜け、天井まで一気に立ち上がる
大胆な空間構成がとても素敵だと思いました。

そして、人生を一芸にかけた様々な画家達が何百年に渡って遺した作品を
見ながら、そこに現れた人間の達成の素晴らしさと同時に、
全ての生の儚さを、まさにその両方を目の前にした気持ちです。

この世の儚さと素晴らしさをもっと大切にしよう。
一回限りの人生なのだから。
今日の午後は、一人で村のプールに行っていた時から家族と美術館の中に
いる時まで、ずっとそんなことをはっきりと感じ取れる貴重な時間でした。

それで、こんなこともあらためてメモしておきました。

毎日、人生の旅に出るように生きよう。

毎日が心平らかに充足していること。その日一日の時間に満足して
いること。その日にしたことが自分の心にそったことであること。
そして、好きなことを、自分の心に大切なことを続けていくこと。
何かを達成できるかは実に相対的なこと、その目的も、内容も、
質的レベルも、歴史の無常の中で全て相対的なこと。


「クリスマスの日曜日、外はとても静か」

2016年12月26日 | ドイツの暮らし

今日はクリスマスの日曜日、外はとても静か。
しーんとしている。家の中では、昔からのドイツのクリスマスの歌が
静かに流れている。

この二日間、いろいろなことが頭を巡る。家族のこと、自分のこと、
日本のこと、友達のこと、これからのこと、、、

クリスマスの樅の木。今年も友人のオーガニック農園から23日に
運ばれて来て、昨日、飾り付けをした。これから新年まで2週間くらい
は居間に鎮座している。それは常に家族が集まるところでもある。

東西の文化の表現の違いはあれど、日本で昔、お正月を祝ったことと、
人の心はほぼ同じだろう。

日本ではなんで、自分たちになんの関係も歴史もないクリスマスを
あんな風に不思議な形で祝うのだろうか?

今、日本ではコンビニでおせちを注文し、元旦からデパートや商店が
店を開けているという。

もう、何十年も日本の正月を経験したことがないけれど、
それが本当だとしたら、僕が子供の頃のあの日本の正月は、
何もかもが静かで、子供心にも何か身が引き締まるような、
清い気持ちの元旦の朝はどこに行ってしまったのだろうか? 

 

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(補足)

クリスマスの2・3日前に、友人の農園から樅の木が運ばれてきます。 
長男より3学年くらい下で、同じ学校に通っていた友人の三男も
すっかり大きくなり、高校を卒業した。
年末の忙しい中、家業を手伝って樅の木の配達係をしている。
赤ん坊や幼稚園頃から知っている近所の子供達が皆、このように
しっかりした若者になってきている。 

 


『今日はクリスマスイブ − ケストナーの「飛ぶ教室」と家族の風景』

2016年12月25日 | ドイツの暮らし

昨日のクリスマスイブ、僕達の小さな家族の風景。

ドイツの戦前の文筆家、ワイマール時代の社会世相を辛辣に突き刺す
風刺に始まり、ベルリンの頽廃的黄金時代の雰囲気を軽やかに
映し出す粋なシャンソンも何本も作詞したエーリッヒ・ケストナー。
社会への厳しい眼と人情味兼ね備え、ヒューマニスティックかつ
アイロニカルな精神に自ら潰れそうになっていた骨の芯からの
文学者だったエーリッヒ・ケストナー。彼だからこそ、
書くことの出来たドイツ児童文学の傑作、『飛ぶ教室」、日本でも
子供の頃の愛読書の一つだった方も少なくないかと思います。

戦前のドイツのギムナジウム、旧制高校の寄宿舎生活の生き生きした
描写と共に、昔からクリスマスの行事がどれほどドイツの人達に
大切なものだったのか、家族のつながりの結節点だったのかが
切々と伝わってきます。その精神の底流は、それから世界史上の
大きな戦争を幾つか経てもう80年以上も経った今も変わらず、
現代ドイツ人の暮らしの中に根付いているように思います。

さて、2016年12月24日の晩。

僕達夫婦の、ふだんは外で勉強している三人のすっかり大人ぽくなった、
独り立ちしてきた子供達も年末年始ということで実家に戻り、
来年2月には90歳を祝う皆の「オーマ」も今日は認知症もどこ吹く風、
元気溌剌、それはそれは愉しい、幸せな家族一同揃っての晩となりました。

一方でこんな時、僕はドイツでの生活がもう35年になろうとしているのに、
心の中はやっぱり家族の中で一人、ドイツの外で生まれ育った
外国人かなとも多少思います。

そんな背景もあるのか、もともと鈍感なのか、あるいはその両方なのか、
ともかく幼少期、思春期を母子家庭の長女として寂しく過ごすことも
あった妻が、自ら母親となって準備する家族のクリスマスに秘めた
深い想いが、どうしても肌感覚でしっかり感じ取れず、互いにバタバタ
したり、すれ違ったりして、各々哀しい思いをすることも少しあります。

それでも、今日はクリスマスイブ、妻が腕をふるった特別な夕食。

家族の宴たけなわ。僕達としては珍しいしっかりと伝統的なドイツの
ご馳走を楽しんだ後は、家族の贈り物の時間。

長男からは2015年、16年の二人の日本旅行、自転車の旅の
自作写真アルバム、次男からは日本の映画のDVD二本、
末娘からはビーガンの料理本とエスプレッソマシーン、
妻からは上質のセーター、義母からはベジタリアンの分厚い本格的な料理本、
そして其々に心のこもった手紙が付いていました。
父子家庭で育ち、その父親を一度も尊敬することなく、家に居ないこと
を常に福としていた自分には
「父さん、大好き.いつも有難う。いろんな時に自分の手本だよ!」
などと書かれると、心の中は涙ボロボロとなるのです。
子供達三人がここまで真っ直ぐに育ったのは本当に妻の広く
優しい心根のおかげだなあとつくづく有り難く思う瞬間です。

僕は日本の私小説はあまり好きではありませんが、今日はクリスマス、
ケストナーさんの『飛ぶ教室」を思い出しつつ、倖せなことは倖せとして、
自分のためにも、家族のためにも、こんな気持ちをしっかり
書き留めておこうと思いました。

ちょっと照れ臭い文章となりました。でも、ドイツ、そして多分、
ヨーロッパの他の国々でもクリスマスは本当に家族の幸せを祈るお祝いで、
サンタクロースや忘年会のメリークリスマスの帽子や、
苺のショートケーキとは全く関係のない大切なことなんだということも、
日本の友人や知人に少しでも伝えたいと思ったのでした。

 


不思議の国の素敵な人達 - 日本の3つのシュトレン

2016年12月20日 | 日本の「旅」

ドイツの朝、7時40分。
日本から戻って3日目の朝。外はまだ暗い。朝星が一つ、二つ。

今回の日本の旅、クリスマス前のドイツからの帰朝者を不憫に思ったのか、
その3週間の間に、30代、40代、50代の各々に魅力的な日本の女性3人
から、シュトレン(Stollen)のお土産を戴いた。そのうえ、京都の大好きな
人からも帰る前の日に、古い町屋の客間で床の間の紅い南天を観ながら、
多分手作りのさっぱりしたシュトレンをご馳走になった。

なお、日本では一般にシュトーレンと呼ばれているようですが、
ドイツ語の本来の発音は短く、シュトレン(Stollen)です。

シュトレンの由来や背景については、以下の説明が簡潔で
わかりやすいと思います。
http://www.newsdigest.de/newsde/features/812-stollen.html

こんなシュトレン3つを全部家に持って帰ったら、旅のトランクを開けた
ドイツの妻は変な人、変な国と言って訝り、呆れていた。

日本に暮らしていた若い時、バレンタインデーにチョコレートを貰った
記憶など一度もないのに、これは一体どうしたことだろう?

僕がこの30年、40年でよっぽど魅力的になったのか?
それとも、日本がその間にさらに不思議な国になったのか?
そんなことを思いながら、3つのうちの1つのシュトレンを
オールドジャーマンというゾーリンゲンの卓上ナイフで切って、
オーガニックの無塩バターをたっぷりつけて食べたら、とても美味しかった。

今回の旅で出会ったいろいろな人達の顔が、思い出が浮かび上がってきた。
(ハリーナさん、パンドラデイさん、美味しいシュトレンどうも有難う。)

さあ、朝星もすっかり消えた。一日の始まりだ。
まずは村のプールに泳ぎに行こう。クリスマスも間近だ。
ドイツのシュトレンは、今年まだ一つも口にしていない。


冬の長い旅 - 戻る場所があり、帰るところがあること。

2016年12月17日 | 随想

4週間の日本の旅も終わり。関空に向かう朝。
会えた友達もいれば、会えなかった友達もいる。

僕はいつも「日本に、京都に戻る」と自然に思うけど、それでも
『ドイツに帰る』と言う。かって見ず知らずだった遠い国、そこ
には自分がつくった家族がいる。

戻る場所があり、帰るところがあること。二つの場所は大きく異なり、
その日常は重なり合わない。ひとつ同じことは、どちらにも大切な人
達がいることだ。そこで僕は一人ではない。

幼い時に肉親と死に別れ、孤独を与えられた者には、一生その影が
つきまとうだろう。胸の中の寂寥は取り除くことはできない。

友人、知人、人々との一回、一回の出逢いを名残り惜しむように、
大切に。
家族との日常も一日、一日とかけがいのない時間の積み重ね。

人生の4分の3あたり。今年の秋は二つの国で沢山の紅葉を見た。


冬の旅 - 「あぁ、京都に戻ってきたね。」

2016年12月09日 | 日本の「旅」

「あぁ、京都に戻ってきたね。」
川端三条、京阪の降り口で大きな旅行トランクを横に、ホッとする次男
と二人。

先週の日曜夜、八条口からから夜行バスで出発し、
新潟三条、越後湯沢、長岡、東京浅草、松本美ヶ原、大阪西天満、堺と
毎日移動する、包丁、醤油、食をテーマとした駆け足の仕事の旅。

そうそう、少し温泉もあったかな⁈ 

僕の仕事の話では同席しても分からないばかりで退屈なことも多かった
けれども、日独ミックス、ドイツ育ちの次男、彼にとっての、二つの国
とのこれからの関わりには良かったと思う。
旅費も宿泊費も相当の出費だったけど、これから大人になっていく次男
と良いことだったと思う。去年は長男とも似たように日本を回ることが
出来た。有難いことだ。

人生は旅、「旅は道連れ、世は情け」
これは親子の間、父と息子達との間にも当てはまることだ。同じ時間は
二度とは戻って来ないのだから。


 


冬の旅 - 浅草の街も今は薄闇の中

2016年12月07日 | 日本の「旅」

京都から日本の各地を巡る、次男と二人の冬の旅。
新潟三条で刃物の仕事を終えて、昨日は霙交じりの越後湯沢、そして
長岡の知人と再会を祝い、夜遅く最終の列車。
かって自分が生まれ育った東京浅草の町へ。

夜中に二人で散歩。人通りがすっかり絶え、しーんと静まりかえった
仲見世の中を抜け、亡き母の実家の傍を通り、子供の頃、夕飯の後に
いつも遊んでいた雷門の前ですっかり大きくなった息子と二人、夜の
記念写真。

そして翌朝、24階のホテルから望むスカイツリー、極東の島国に屹立
するバベルの塔から見下ろされた観音様。僕は言葉もなく、カメラの
シャッターを押し続ける。
 

この風景の中に僕のふるさとはもう一片もない。あるのは過去の記憶
の片割れにすぎない。その一つ一つの破片を辿るように、小学生の頃
の自分の通学路、遊び場だった観音裏の弁天山から仲見世の裏通りを
経て、松屋へ、新仲見世から浅草六区を経て二人でホテルに戻る。

「父さんは此処にはとても住めないな、どうやっても生きていける
場所ではないな」と言う父親のあらたまった言葉に、「何を今さら
当たり前の、当然のことを」とごくごく普通に首肯く22歳の息子。
僕もそれで良いと心の底から思う。確かにこの子達をこの化け物の
ようになってしまった、この東京で育てたいとは一度も思ったこと
はなかった。

僕の人生に決定的だった亡き母の面影も、かっての浅草の街も今は
薄闇の中。消え行く糸の先をたどるように、僕の追憶の中で綴られ
ていくのみだとあらためて思う。


冬の旅 - 「雪国」のかけらもない時代

2016年12月06日 | 日本の「旅」

夜の底が白くなった。
雪の冷気が流れ込んだ。

次男と二人、冬の旅。
京都から夜行バスで新潟へ、三条で刃物の仕事をした後、越後湯沢で
の静かな一日。

午後の時間を二人だけで空っぽの温泉で過ごす。露天の湯に身を浸し、
ぼんやりと冬空を仰ぐ。天空から降り落ちる霙まじりの冬の花。

そして、もう当たり前に「雪国」のかけらもない街を後に、知人のいる
長岡へ。そこは山本五十六生誕の地でもある。
今日のニュースによれば真珠湾を安倍が尋ねると言う。
もう歴史も何もなく、狂気を軽薄のオブラートに包み込むのみの国。

「雪国」の当時も社会の狂気はあった。しかし、それを包み込んだのは
耽美家の幻想の文章で、少なくとも軽薄軽長ではなかった。


こんなに素敵な柿色はいつ見たのだろうか。

2016年12月03日 | 京都の一日

こんなに素敵な柿色はいつ見たのだろうか。


数日前、年長の友人と子供達二人、美山の、少し人里離れたような
お蕎麦屋さんの縁側で見た景色です。

その翌日、皆で参加した家族
料理教室でも秋の美しい風景が食卓にありました。



そして今日は本当に良い秋晴れの一日でした。真如堂、午後の、
秋の最後の光の中、名残の紅葉が輝いていました。






幸せな一日でした。少し恥ずかしいですが、こういうことが僕達の生き
ている本来の喜びなのだろうなぁと思う一日でした。

明日も良い一日でありますように。