日本の息子から、雪の便り。

2010年10月30日 | ドイツの暮らし
9月中旬から、長男の浩太が日本に行っている。
18歳。ドイツで兵役の代わりに北海道、札幌郊外の自然農場で
11ヶ月の民間代替業務。新しい環境にもだいぶ慣れてきたようだ。
兄妹間のfacebookのやり取りを覗かしてもらうと、ここのところ
IZAKA-YAのワーディングが目につく。自分の18の頃をつい思い出す。
飲めば酔いつぶれていたような気がする。

そんな浩太から久し振りに父親宛のメールが来た。
「10月なのに札幌ではもう雪が降った。60センチ位一気に積もったよ。」
「ところで父さん、本当に11月に札幌に来るのか?」
「札幌の街なら僕の方が詳しいよ。案内してやろうか。」
当たり前のことだが2年くらい前から親父には距離をとっていた息子が
今日はいろいろと話しかけてくる。
その上、「父さんが来るのが待ち遠しいなぁ、楽しみにしてるよ。」
ときた。





故郷は、遠きにありて想うものの流れかもしれないが、息子が
ひとつ成長したような気がして、思わず嬉しくなった。
ドイツ育ちの現代ッ子の息子といえども、独日の血が流れている。
北海道の広い土地の中で、日本での初めての暮らし。親父としては
正直、相当に嬉しい。良い一年に本当になってほしい。
「しっかりやれよ、浩太!」





今日はまるまる親バカ日誌となりました。
札幌の冬、夜の街。雪が舞っているかもしれない。
息子と飲み歩くのが今から楽しみだ。

若い人達を、抑えつけないでほしい。

2010年10月28日 | 社会




先月中旬のこと。写真上のKKコンビにほだされ外で昼食。
KikiさんとKanekoさん。ドイツで頑張る、見目麗しき女性二人。

日独の両親とドイツで育ったKikiさんは生粋のハーフ。イギリスで
勉強した後、ドイツに戻ってきた。見る角度や話をする人、その時に
使う言葉でドイツ人になったり、日本人になったりする。頬を赤らめ
両手を添えて笑っている仕草は昔の日本の女子高生の様!?
仕事で「Nein!ナイン!」と言うときはしっかり声のドイツ人女性。

Kanekoさんは日本のOL勤めを辞め、ドイツに来て6年目。
二つの大学で「持続型経営」を勉強している。僕の小さな会社で
4ヶ月の実習生をした後、時々バイトに来てくれる。真面目さと剽軽さ
が同居した好人物。

KKコンビだけでなくドイツには今、沢山の日本人女性がワーホリや
自費留学あるいは日本やドイツの企業で働きながら、自分の人生の道
を歩んでいる。僕がドイツで仕事を始めた25年前にもそのような
女性達がいたが、今はもっともっと増えている。

一方、日本人の若い男の子の姿は飲食店関係以外はあまり見ることがない。
デュッセルドルフの日本食レストランや居酒屋を賑わせているのは今も昔も
日本の会社の男性駐在員達である。

「若者よ、大志を抱け」などと大声を上げる気はさらさらない。
また、外国に出ること、そこに住み着き働くことが特別に良いこととも
思わない。けれども、受験競争で若者の視野を狭め、一斉就職や「就活」
で心理的抑圧を与えるような社会。若い人生には無数の選択肢があり、
沢山の時間と大きな広野が目の前に広がっている、という当たり前の
ことを当たり前と感じなくなるような環境。それが今の日本だろう。

その中で、若者達が知らず知らず身を小さくして、精神の背丈を縮めている。
特に若い男の子達にそれが著しいのではないだろうか。
実に残念なことである。21世紀は閉鎖系でなく、明らかに開放系の時代だ。
日本は、毎日の生活の中では社会の技術や消費の移り変わりが凄まじいが、
その表面下では、硬直性が著しい。

子供達を、若者達を抑えつけないでほしい。生きていること自体に
価値があるのだから。すくすく伸ばしてほしい。
自分の好きなことや大切なことを見つけるのにはたっぷりの時間がかかる。

日本やドイツで男の子でも女の子でも、いろんなところでいろんなKKコンビ
がたくさん出て来てほしい。


晩秋の満月、紅葉の随想。

2010年10月27日 | ドイツの暮らし
一昨日の夜中、庭に出ると晩秋の満月。日本でもドイツでも何百年、
何千年と何人もの人の命が人生に恋にその夢に破れ、この月を
見つめて来たのだろう。人の営みの切なさと連綿たる生命の歴史。
こんなことが僕の中では「食」のことや原発反対とつながっている。




朝起きたら、今日は雨。庭石が濡れて鏡のようだった。
秋の日本に戻ると、なんといっても懐かしいのが紅葉である。
「世の中にこんなに可憐で奇麗なものがあるのだろうか」と思わず
一人で涙ぐみそうになることもある。人が怪訝な顔で通り過ぎて行く。
ドイツでも、秋になると一人で紅葉狩りをしたくなる。




ドイツの紅葉、その1。晩秋の空。青空も白い雲も切り裂かれた
時間のように、冬の到来を告げようとしている。一瞬の光。紅い色
の華やかさ。つむじ風が舞う前に。




ドイツの紅葉、その2。誰もそこにはいなかった。誰も見なかった。
綺麗な姿で、一度の人生、何事もなかったかのように、ただ散るの
を待っている。風が吹くこともおかまいなしだ。




ドイツの紅葉、その3。白壁に映った紅葉。吹くこともない風を待つ
紅色の夢。眼に見えるものは、夢の始まり。見ることが出来なかった
失くした夢の始まり。




ドイツの紅葉、その4。
桜の木。春の色と秋の色。冬の到来はもう遠いことではない北風の
中の太陽。 僕達の想いの世界は、涙の色や夢のあやうさの中にある。
寄り添うことも支えあうことも一つ一つの出会い。



「上関原発をストップ!」ードイツから出来ることをしよう。 その(1)

2010年10月24日 | 脱原発

10月16日の土曜日に、上関原発埋め立て工事強行のニュースを
ツイッターで聞いてから一週間。
「ともかく、今回のことは見逃しには出来ない。これ以上僕達の故郷、
日本を壊すことは出来ない。」と思いたち、日本に向けて自分の考えや
RTを発信したところ、本当にいろいろな人からの連絡や共感の声が
伝わってきました。有り難うございます。

ツイッターで情報を伝達、拡散するだけでなく、何か具体的なことは
出来ないかと考え、下記のように10月19日に行われた名古屋COP-10
での国際共同声明のドイツ語版を作成しました。
原子力資料情報室と広島上関リンクにはこのドイツ語版のPDFを送付
するつもりです。

日本でもドイツ関係の機関(東京や京都のゲーテインスティトゥート、
在日ドイツ商工会議所、ドイツのテレビや報道メディアの日本支社など)
や在日ドイツ企業、日本各地の大学で働くドイツ人の先生あるいは
日本全国の独日協会など、今回の上関原発の問題に関心をもたれる方々
が沢山いるはずです。マスコミ関係者も含めて在日のドイツ人の方々は
日本の事情に詳しく、かつドイツにも広いネットワークのお持ちの方が
多いと思います。
僕一人では出来ることは限られています。有志の方々、このドイツ語版を
日本国内で活用してください。(PDFデータが必要な方はコメントの方に
記入をお願いします。)

僕の方はこれから腰を据えて、ドイツの中でどのような人や団体に伝えたら
本当に意味や効果があるのかをじっくり調べ、ドイツの人とも相談しながら
進めたいと思います。

正直に言いますと、この一週間はプライベートの時間は全て、そして自分の
仕事もなおざりにして、上関原発のことに関わってきました。このペースを
ずっと続けることは出来ません。また、11月に日本に出張があるので上関の
現場を自分の目で確かめてから、今後の行動を決めようと思っています。
無理をするよりは息長く、日本が上関だけでなく、脱原発の道に進むように
少しでも協力をしていきたいと思っています。






ドイツのスープ その1

2010年10月20日 | ドイツ・ヨーロッパの「食」
10月中旬。朝夕の冷え込みがずっと厳しくなってきた。
朝、庭に出て深呼吸をすると、冷気が身体の中に一気に入ってくる。
鼻の先もすぐに冷たくなる。夜は夜で電車から降りると、襟元に
厚手のマフラーの人ももちらほら、皆、肩を窄めて歩き始める。
そろそろ、スープの季節がやってくる。


ドイツ語でもスープはessen (食べる)と言う。
中学1年の英語の授業で、スープはeatと習ってどうしても納得
できなかった事を思い出す。
でもドイツやヨーロッパでスープを口にする時、確かにこれは
おつゆやお茶と違って食べるものだなと実感する。
パンとスープはヨーロッパの家庭料理の基本なのだろう。




ドイツのスープ その1
コールラビ(Kohlrabi)は本当に有り難い野菜である。和洋両方に
バッチリ。浅漬けに良し、お味噌汁に良し、スープに良し。
クリーム煮も中々いける。写真はコールラビのポタージュスープ。
パンと一緒に昼食にぴったり。


毎日の暮らし、大切なこと。

2010年10月18日 | 家族
一昨日の土曜日から、瀬戸内海、上関原発建設の反対運動のことで、
多くの時間を、そこに関わって費やした。大切なことだと思う。
長く日本を離れているからこそ、出来ることはしたいと思う。
それでも、日常の生活、毎日の暮らしがおろそかになることを
続けてはいけない。暮らしのバランスを崩すことの弊害は、
過去の仕事の中で十分に経験してきた。

だから、今日のブログは家族との二枚の写真で終わりにしたい。



秋が本当に深まってきた。人には光が必要。



人生の明るさを感じられることに感謝。この気持を常に
忘れないようにしよう。

(キキさん、今日は遅くまでブログを書くのを手伝ってくれて
本当にありがとう。お互いに大変な一日でした。)

瀬戸内海、上関原発建設に反対すること。

2010年10月18日 | 脱原発

写真は日本の瀬戸内海、山口県上関の海岸。向こうに見えるのは何百年も
自然と共に人々が暮らしを営んできた、祝島。ここに原子力発電所建設
する計画があり、祝島の人々を中心に約30年間の反対運動が続いている。
その中で今、中国電力が建設工事の第一歩として、この海岸の埋め立てを
強行しようとしている。





ドイツ・フライブルク在の環境ジャーナリスト、村上敦さんがこの
上関原発建設の問題に関する日本からの問いかけに対して、先日、
下記の7つの連続ツイートをしています。

僕は、村上敦さんの意見は専門家の知識・経験と自らの考察に支えられた、
しっかりした見解、示唆に富む意見だと思います。
下記にこの計7つのツイートを引用、紹介します。


『こんなツイートが届きました。@sekimati6004 中国電力が原発の
新立地としている瀬戸内海の上関の事ご存知でしょうか?対岸の
人々が28年に渡って反対、埋め立て阻止をしていますが、国を挙げての
強行工事が始まりました。私も電力会社や県庁に抗議いたしましたが
海外からの声もお願い!

私は日本における原発反対運動については詳しくなく、何か発言できる
立場ではないのですが、一番問題であるのは、過半数の国民が仕方が
ないからと賛成の立場でいることです。

ドイツで現在行なわれているシュトゥットガルト駅再開発計画は、
民主主義的で、法的に認められた手続きで進められてきました。
しかし、それには異議があると、それをストップさせようと、
数十万人の人びとがデモや座り込み、政治的な交渉を続けています。


もし、現在のドイツで、どこかに原発設置の計画があり、工事が開始
されたなら、数百万人規模のデモが起こるでしょうし、そもそもそれを
強引に進めようとする政治家は出てきません。

日本の上関の工事は、民主主義的な手続きと、法的に誤りのない形で
現在、進められています。もし、それが誤りであるならば
(個人的な意見では誤りだと確信していますが)、その制度を正すだけ
の社会的なエネルギーを必要とします。

ですから、現在、それでも進められてしまう状況こそが、今の日本の
社会正義なのだと思います。過半数の方々が推進でよいと考えている
社会において、何ができるのか、残念ながら私にはそこまでの知恵は
ありません。

@sekimati6004さんには申し訳ないのですが、今のところ、私には
ドイツや欧州で起こっている出来事を、できるだけ正確に伝えて
ゆくことしかできません。その情報が少しでも、今の社会正義を変化
させるために役立つことを願って。



僕も素人ですが、基本的には同じ意見です。このようなことには、自分の
関わりや立場、自らの暮らしの現場を良く意識し、慎重に考えるべきだと
思います。またドイツで生きる場所も環境も異なっている中で、出来ること
は非常に限られていると思います。
けれども僕が日本人であり、私たちが日本とドイツ、地球の一市民である
ことは確かです。そこには一人
一人の個人、人間としての自由と責任がある
と思います。

今日と次世代への責任から、僕は上関原発建設に反対します。そのような
想いを込めて昨日、次のようにツイートをしました。

上関町の海を守ること。そこに暮らす人達のために。私達の故郷、
日本を壊さないように。子供達の命と未来を大切にするために。 瀬戸内海、
田ノ浦の埋め立てに、原発建設に反対します。英文の資料を是非送って下さい。
日本もドイツも未来は本当に一つ。必ず応援します。


僕は特に政治的な活動をしたことはこの50年間、一度もありません。それは
今後も変わらないでしょう。けれども、この上関原発建設に反対することは、
今後、息長く続けて行こうと思います。

大きなことは出来ませんが、自分のドイツでの生活、家族との暮らしの中で、
当たり前のことを当たり前に意識的にするように、個人として、一市民として
上関原発建設の反対を支援、協力しようと思います。

最後に、ドキュメンタリー映画「地球交響曲
のプロデューサー、
龍村ゆかりさんのツイッターの言葉を引用させていただきます。
僕もその通りに思い、感じています。

YukariTatsumura 海は命の源、中国電力様 お願いです、
自然の恵みをいただき、感謝しながら生きている人々の暮らしを
壊さないでください。日本はもう電力は十分です。原発を作るために
海を汚し、森を伐採すれば命は死に絶えるのです。
命を脅かす原発はもういりません。


ドイツの赤ワイン、葡萄の丘「アール地方」

2010年10月15日 | ドイツ・ヨーロッパの「旅」



先週の日曜日。秋晴れの一日、東西南北青い空。輝く太陽。
猫も杓子も繰り出す。浮かれ出す。
僕も妻と娘と連れ立って、ドイツの伝統的赤ワインの産地、
アール(Ahr)地方へ。

クルマで出かけるときは僕はいつも助手席。うちの「ママライン」の
ナビゲーター役。子供達も免許も持っていない父親は、coolの正反対。
口を揃えて「学校でも恥ずかしい」らしい。僕はいつでもどこでも
ワインやお酒が自由に飲める方がずっと良いと長年思ってきた。
しかし今こそ、老後に向かって免許を取ろう。三年後が目標。
子供達に先を越されてなるものぞ!





閑話休題。クルマもそろそろアールの村に着いた。デュッセルドルフ
からクルマで約一時間半。なだらかな丘陵地帯のアール地方は
ヨーロッパのワインの産地としては最も北限。ベートーヴェンの
生誕地ボンからもさほど遠くない。文献を調べた訳ではないが
「運命」の大音楽家もアール名産の赤ワイン、ちょっと薄口の
ピノ・ノアールを嬉しいにつけ悲しいにつけ、口にしたに違いない。

ピノ・ノアール、ドイツ語でシュペート・ブルグンダー。本家の
ブルゴーニュとはまたひとつ違う趣き。ドイツの赤。フランスの赤。
日本の誰かの詩にあったような気がするが、「みんな違ってみんな良い」。
(とはいえ、本醸造よりは純米酒、ブランドワインよりはオーガニック。)



(アール地方ではピノ・ノアール、フリュー・ブルグンダー
ドルンフェルダー、ポルトギーゼなどの赤葡萄種がある。)

10月中旬、ドイツでもフランスでも葡萄農家・ワインの造り手は今大忙し。
毎日、天気予報、お日様と睨めっこ。アールの葡萄畑でも北方の産地だけに
少しでも糖度を上げたい。「ヨーロッパの北限でも美味しいワインを作るぞ。」
僕も思わず肩入れしたくなる。





葡萄畑の散歩に出かける前に、まずは腹ごしらえ。沢山の観光客に
混じって早めのお昼。村の料理屋さんに飛び込み、まずは白ワインと
赤ワインを試してみる。まあまあ。アール名産の赤ワインで煮込んだ
牛肉料理も妻と娘と三人で分けて食べてみた。残念、がっかり、
大はずれ。(ドイツでも味の素のようなマギーや、各種の人工調味料は
スーパーや普通のレストラン、時々高級店にも満ちあふれている。)
どこの国でも観光客相手の料理屋はこんなものだろう。この地方は
ワインだけでなく美味しいものがあるだけに、しっかり場所を選ぶ
べきだった。





オーガニックはフランスよりもドイツ、ドイツ語圏のスイス、オーストリア
の方が日常生活の中でずっと普及しているだろう。それに応じて、ドイツには
オーガニックワインの造り手、蔵元が実に数多くある。日本では僕も大好きな
フランスの「自然派ワイン」がまず話題に上るが、ヨーロッパのオーガニック
ワインの中でもかなり特色の強い、個性的なものだと思う。僕はドイツ語圏の
オーガニックワインも実にすっきりしていて気持よく、愛好しているが、
日本ではあまり知られていない。そもそも、ドイツワインは日本では日陰の存在。
その上、甘口のワインと思われている。残念だなー。





そんなことを思いながら、アールのビオワインの造り手、リヒターさんの所に
向かう。途中でストリート・ミュージシャンが素敵な歌を歌っていた。最近、
日本ではこんな時すぐに「癒される」音楽など、不気味な表現を使うようだ。
あるいは「至福の瞬間、至福の味」。ライターやジャーナリストが好んで
使うのか、本や雑誌でよく見かける。僕の故郷、日本は、ヒーラーと七福神
大安売りの国になってしまったのか。アールのワインがどんなに美味しくても、
僕は「至福の瞬間、アールなう」などとは夢でもつぶやきたくない。

イカンイカン。妻にも娘にも興味も無ければ分かりもしないことを、また一人で
考えていた。チチンプイプイ。

続きは来週へ。さて、アールのビオワインは美味しかっただろうか。乞うご期待。




家族揃って「団欒の瞬間」なう!?

秋の日の写真

2010年10月07日 | ドイツの暮らし
9月の初めから約一ヶ月。今年の秋は表情豊かだ。
夏の名残の輝きから冬将軍のかすかな足音まで、その顔立ちや身振りは
実に様々だった。「女心と秋の空」など実にバカなこと。そう思って
辞書を覗いてみたらば、元来ハ「男心と秋の空」、変ワリ易イコトノタトエ
と書いてあった。確かにこんなことを思いつく人は、吹けば飛ぶような輩
だったのだろう。さてさて、自分はと問いかけるのは野暮なこと。




「オルタナティブ/ Alternativ」

2010年10月06日 | オルタナティブ&オーガニック

先週のこと、太陽の光るドイツの秋。

時々、二言、三言、言葉を交わす
70才のマラソンマン。
長い道を歩んできた。
大きな青空の広がる中、
人生を真っ直ぐに走っていく。

僕は、こういうドイツは好きだ。






昨日のこと、近くの友達のオーガニックショップへ。
チーズを片手にした小さな女の子。2歳。
世界と未来、その全てが目の前に広がっている。
僕の人生は今、50年。
あとの20年はこの子達の未来に役立つように。
50年分の恩返し。





先日のこと、朝、ひとりで村のプールに行く
浅めのプールでは「母と子のスイミング教室」
マザー&ベイビーの中にファザーが何人か混じっていた。
男も女もベイビーもみんなで一つ。世界は両性具有。
手をとりあって、これからの世界を作るのは
あなた達だ。
僕達も精一杯のことをしよう。





ドイツでも日本でも、未来は一つ。
0歳、2歳、18歳、31歳、50歳、74歳、100歳。
世界はひとりひとりの手にかかっている。
地球を壊さずに、共存を求めていくこと、
それを「オルタナティブ/ Alternativ」という。
僕達の世代の責任もそこにある。
若い時の夢や情熱は幻ではない。


秋晴れの一日、「東西ドイツ統一20周年」

2010年10月03日 | 社会



10月3日。今日は東西ドイツ統一20周年の記念日。
僕はドイツでは国籍も選挙権もない外国人だけれども、この日を
やっぱり大切に思う。一人で5年、そして家族と約25年間暮らして
きた国だからだ。僕と同じような立場、想いの外国人がドイツには
何百万人もいるだろう。東西ドイツの大きな格差の中、社会的衝突
や分裂も起こさず、同時に何百万人もの外国人居住者や移民を受け
入れてきた。社会の懐、寛容性が深い国である。

ドイツ統一20周年の記念日。この特別な年の記念式典を首都
ベルリンでなく、ブレーメンで行うところが戦後ドイツの矜持
ではないだろうか。連邦制と地 方分権を本当に大事にしている。
だから、何処に行っても中央、上昇志向の人が少ない。
現代ドイツは地方の国である。ドイツは戦前の教訓を生かした。

秋晴れの一日。ドイツ統一20周年。うちの奥さんはそんなこと
にはお構いなく、冬が来る前の最後の日光浴を楽しんでいる。
朝ご飯の時にも他の話をしていた。僕も午後になるまで今日の
ことは忘れていた。社会と毎日の暮らしがそんな風に成り立つことは
とても有り難いことだ。
けっして当たり前ではない。だからこそ毎日、
大切にしよう。





秋晴れの一日。太陽が輝いている。午後の光が透きとおるよう。
庭の紅葉が風に揺れている。浅緑、黄、紅、光の四重奏。嬉しくて、
沢山の写真を撮った。でも眺めているだけの方が、もっと楽しい
かもしれない。






今年は春菊が豊作。食べきれないうちにぐんぐん育って次々と花を
咲かせ始めた。食べられないのに困ったものだと思っていたら、
今日は秋の光を浴びて、その花々が見事に輝いている。
よく見ると白い花びらと黄色い花びらの二通り。
僕曰く、葉は春菊、花は秋菊。






秋晴れの午後。庭のリンゴの木の下に行くと実が沢山落ちていた。
リンゴジュース、パンケーキ、アップルパイ、焼きリンゴ、ジャム。
面倒くさい時は小さく切ってそのまま食べる。ドイツの人はあまり
皮をむかない。 近くのオーガニックショップにはこの季節、ジュース
の絞り屋が移動式の搾汁機を持ってやってくる。
ドイツのリンゴは甘さ控えめ、すっぱさたっぷり。





庭のリンゴももうすぐ終わり。5月に白い花をつけてから9月の
終り実が落ちるまで、ドイツの一番良い季節を共に過ごしていく。
しっかりとした、まるまるとしたリンゴが五つ。
秋の午後、うたた寝をしている人がひとり。




東ドイツ50年と「ソリヤンカ」のスープ

2010年10月02日 | 社会




今年の夏の旅行の時に久し振りに食べたスープソリヤンカ」。
ドイツの伝統的なスープではない。
もともとはロシア、東欧の方の料理。

ベルリンの壁が崩壊する前、旧東独(DDR)で半年程働いた時、何処に
行ってもこのスープがあった。
工場の食堂、暗い冬の街の国営ホテル、
雪の中で次の接続を待ちながらの小さなレストラン。何処でも
メニューにはこのスープがあった。キュウリのピクルスやハムや
肉の切れ端がトマト味のソースの中でぐつぐつと煮込まれて、
油が表面に浮いていた。今でもその名前を聞くと、旧東独の
知人や友人との悲しい思い出がよみがえってきて、切なくなる。

西ドイツでの学生生活を中断し、旧東独ライプチッヒからやや離れた
ビッターフェルトの工場地帯、国営の化学コンビナートで日独の通訳として
働いた時のこと。社会主義・共産主義の国での初めての生活だった。

そこで見たこと、経験したことはマルクスが語り、ハイネが夢見た社会とは
何の関係もなかった。それは権力の嘘と建前話が隅々まで行き渡った
全体主義の社会だった。人々は外で話をする時には小声で話し、酒場や
料理店では右、左に視線を伸ばしながら、ものを語る癖がついていた。
化学廃液を垂れ流しにしていた湖からは、
風向きが変わると僕達が住む
外国人専用宿舎まで息が詰まるような異臭が漂って来た。

けれども、ドイツの人の気さくさや素朴さ、心の暖かさを旧東独ほど感じた
ことはない
。家庭での持てなしや、互いに話をすることをとても大切に
していた。
一度、クリスマス休みで、東独ライプチッヒから西独フランクフルトに
夜行列車で国境を超えて戻って来た朝、街行く人達の無機質な表情、
言葉のかどの立ち方、人当りのキツさに驚くよりは、呆然としたことを
今もよく覚えている。


今年の夏の旅行先では妻と二人で
ソリヤンカ」のスープをすすった。
当時とは異なり、具材がきちっとしていて、さっぱりした味だった。
妻にも旧東独地域の親戚が何人かいる。25年が過ぎた。

明日は東西ドイツ統一20周年の日。僕達、西ドイツに住む人間は旧東独復興
の財政的重荷や個人個人にかかる統一負担税の話をよくする。東ドイツの
人の「親方日の丸
な気質を揶揄したり、冗談の種にしたりもする。

けれども、この20年間、毎日の暮らしがすっかり変わり、失職や転職を
繰り返したのは東ドイツの人達である。全体主義の過去、抑圧の歴史、
技術の遅れ、資産、生活水準の格差、その引け目や苦しさを経験してきた
のは西ドイツの人達ではない。

一つの料理が他国に伝わり、日常の暮らしの中に入り込むには様々な背景が
ある。その味が変化していくには多くの人々の人生がある。
僕は外国人だけれども、どれだけ多くの人達がどんな想いでこの50年間
ソリヤンカ」のスープをすすってきたかと思うと、言葉に詰まる。