毎日の暮らしの中で「ひとりデモ脱原発」その(1) ー 男一匹シリーズ

2011年08月26日 | 脱原発




先日の記事でも書きましたが、7月中旬からの約4週間の日本滞在の間、
この「原子力おことわり!」の麻袋、ドイツからやってきた
「脱原発」ショルダーバッグを肩に提げて歩いていました。

日本各地で、「いつでもどこでも、少しの勇気とユーモアでプロテスト」を
モットーに色々な場所で様々な人達と話をしました。
脱原発のテーマが日常の話題となったこと、その気持ち、気運が多くの
人々の間で高まっていることをはっきりと感じました。
一方で、泊原発の再開や民主党の代表選候補の顔ぶれを見るまでもなく、
原発維持・推進勢力がその硬直した思考や旧来の価値観で、盛り返しを
図ろうとしていることも明らかです。

だからこそ、今、大切なことは一人一人がはっきりと意思表示をすることです。

このドイツから来たショルダーバッグのメッセージは、
「脱原発に必要なのは、一人一人の少しの勇気。毎日の暮らしの中で、
肩肘張らずにはっきりとプロテストをしよう。」だと思います。

今日から何回かに分けて、脱原発ショルダーバッグのメッセージ写真集を
続けてアップしていきたいと思います。まずは男一匹シリーズです。

この麻袋が、脱原発への一人一人のステップ、意思表示のきっかけと
なればとても有難いことです。僕も毎日使っています。ドイツでも時々、
人が振り返ります。
毎日の暮らしの中で簡単に使えるとても良いメッセージツールだと思います。
今、秋頃までに日本でもこの麻袋が手に入るように努力しているところです。
関心のある方は是非、ブログのコメント欄にご連絡下さい。
「原子力おことわり!」をお願いします。



京都・東寺のにて。世界文化遺産の五重塔の前で。
日本の歴史が続いていくように。木と森の文化が守られるように。
「原発維持」は要らない。




輪島の塗師職人。器の名人。家族で10年近く愛用している
飯碗や汁碗、どうもありがとう。
能登半島珠洲の原発建設に徹底して反対した人でもある。人生の先輩。




輪島塗の伝統を引き継ぐ若手の蒔絵師さん。10年来の知り合い。
久しぶりの再開で原発の話「僕はもちろん反対です!」
日本の本来の伝統や暮らしに根付いた人の意見である。




京都・御所前のホテルにて。取引先の知人。
EMの自然の力を生かした食材長持ちパックメーカーの方。
「素敵なバッグ、いい感じですね。」




僕がよく行く音楽バーのマスター、根っからのミュージシャン。
「僕の好きなジョン・ブラウンは、米国で孤立しても脱原発を
決して譲らなかった人だよ。」




去年からの知り合い、毎年4週間日本語を勉強しに来る米国の精神科医の方。
もの静かに「どうぞ、一緒に写真を撮ってください。」
来年もまた会いましょう。




京都で「OKABAR」を運営している知人の方。ソフトな雰囲気だが
はっきりした意思の人。口には出さずとも「原発を維持するような
社会は僕達が未来を描けるような社会ではない。」と思っているのだろう。
(おかばあのぶろぐ




京都・美山で個性豊かな人生を歩むフランス料理の達人。
村の談合選挙に立ち向かい、相当苦労したこともあったらしい。
しなやかな反骨精神の人。にっこりと笑って「原発おことわりします。」


「醒めた目でも、心の中に冷たい風が吹いても、希望の話をしよう。」

2011年08月22日 | 脱原発

福島の原発事故やその背景を考えるとき、僕の考えは往々にして、
日本の戦前・戦後の歴史的過程、日本の今の社会の歪みと抑圧的構造、
日常の中で自然と時間軸への感覚を失った日本人の暮らしぶり等に
行き着いてしまう。

「原発事故、放射能汚染が日常の生活の一部、もはや取り返すことも
取り除くことも出来ない自業自得の運命となった国、日本。

私達が受けた心の深層部への打撃、損なわれた心、精神の裂け目は
相当に大きいのかもしれない。意識と無意識の二つの層に関わっている
ように思う。まだはっきりとした言葉にはならない。

私達日本人が、この日本の社会、このような帰結に至った日本の戦後65年の
社会構造や日常を形成してきた支配的な価値構造を変えられるかどうか、
まだ分からない。本当に難しいと思う。

この国が大きく変わることに期待をかけて、自分の生活をないがしろにしたり、
失望したり、それにこだわり過ぎないようによくよく気をつけよう。

「脱原発」や「自然エネルギー」への転換はあり得るかもしれない。
多分、そうなるだろう。それ自体は悪いことではない。

けれども、今の日本の社会構造自体が大きく変わることは、まず無理なこと
だと思う。日本の近現代の歴史の歩み、日本社会に対する自らの経験からは、
そう思わざるを得ない。
日本の病巣はあまりに深い。暮らしのあらゆる分野に行き渡り、多くの多くの
人々の感覚の中にしっかり根を張っている。
それでも、一人一人の生き方のみが微力ではあれ、社会を、時代を
変えていくということは確かなことだ。

幻想も、行き過ぎた熱情も、裏返しの失望も役に立たない。

心の中に冷たい風が吹くときがあっても、
自らの生き方を大切にしなければならない。大切にしよう。
醒めた目でも希望の話をしようと思う。」

幻想を抱かずに、希望の話をすること。自分を見失わないこと。
今日はそのために、過去の記録から幾つかのことを書き留めておこう。


「2010年10月17日の記録/twitterより」




祝島、上関町の海を守ること。そこに暮らす人達のために。私達の故郷、
日本を壊さないように。子供達の命と未来を大切にするために。
瀬戸内海、田ノ浦の埋め立てに、原発建設に反対します。
日本もドイツも未来は本当に一つ。
それは経済原理、効率重視、原発建設ではなく、何百年、何千年と
続いてきた自然や文化、人の心を大切にすること。



「2010年11月3日の記録/ブログより」




21世紀、緑のドン・キホーテが戦いを挑んでいるのは風車ではない。
戦うべきは、旧態依然の経済効率最優先の考え方、そしてそれが産み
出してきた技術やシステムだろう。その先端にあるのが、21世紀の
エネルギー問題の解決を、原子力発電に求める姿である。

日本では緑のドン・キホーテは多勢に無勢。この環境を変えて行くのは
まさに個人の一人一人だろう。ドイツにいても僕もその一人。

ドン・キホーテは諦めない。荒唐無稽の妄想に見えても、夢と希望を
胸に抱いている。21世紀の邪悪な巨人は風車ではない。それは他にいる。
見間違えないようにしよう。


「2010年2月21日の記録/twitterより」

日本の山口県上関田ノ浦ではとんでもない事が今、起きています。
中国電力の原発工事強行とそれを支持する山口地裁の仮処分決定。
これは私達の、市民の基本的権利を著しく損なうもの。
人の命はまだ失われていませんが、人々の心の深いところが引き裂かれて
います。肉体的、精神的死者が発生します。壊れた国でも私達の故郷。

「自分等の子供にこんなとこ見せられますか。未来につながる
ことですかこれが。今の生活のために仕事してるのは分かるけど。。
子供に堂々と言えるんですか。誰がこんなこと望むんですか。」
(2月21日、山口県上関田ノ浦の原発予定地、強行工事現場から)


「2010年5月4日の記録/ブログより」




福島県は会津若松の辺りだろうか、一枚一枚よく手入れされた田んぼが
何百枚と左右に大きく広がっている。何代も営々と営まれてきた農の姿。
昔からの東北の轂倉地帯。点在する集落、そばには村の墓場と桜の木々。


その田畑と里山の風景を見下ろすかのように、都会への送電線が張り
巡らされ、その為の大きな送電塔が縦横に並び立つ。
戦後日本の社会や経済、そして私たちの生活を支えてきた風景。
その源を手繰り、追いかけて行けば、日本の何人もの田中角栄や、それを
支えた地元の権力者、有力者、有権者達、都会の財界や官僚達に、そして、
日本各地の補助金や公共事業、そして、過疎地を狙い撃ちした原発誘致と、
推進派と反対派と補償金交付に引き裂かれた村々にたどり着くのだろう。

この日本の戦後の一極集中、中央集権体制、大都市と農村部の上下構造、
権力主義がもたらしたものが、福島原発事故につながっていることは
間違いない。

では、それを一人一人がどう変えていくのか、どうしたいのかということが
本当の問いかけである。


「2011年7月31日の記録/ブログより」




村を街を壊し、車と家電に囲まれて、墓場の隣にマンションを建て、
田圃を潰して、郊外大型店やネオンのお化けをつくり、
何百年の砂浜を潰して、過疎地に原発をつくり、
その前で夏の海水浴をして平然としている国民や、それを子供達の
夏の思い出として何も訝らない親や、若者達を生み出して来た国。
こんな奇怪な、歪んだ社会はもう要らない。





日本とドイツの両親、文化の間に生まれた長男には父親の国、
日本の風土や歴史、暮らしの文化、人々の優しさを知ってほしいと思う。
けれども、この社会に住んでほしいとはどうしても思えない。
人は何かの能率や成果の為、国の経済的発展やモノの為に生きている訳ではない。

若者の生命は、人の命は将来のためだけではなく、何よりも「今」を生きる
ためにあるのだとつくづく思う。



1945年8月15日 ー 日本の「脱原発」はこの教訓を生かすこと。

2011年08月17日 | 社会

日本から戻って二日目、8月13日。ドイツ・シュトゥットガルトの
脱原発デモに参加し、福島と飯舘村を7月に訪ねた時の自分の経験や
放射能汚染と被曝の問題、日本の脱原発の状況について話をしてきました。
(この件については次のブログ記事で詳しく語りたいと思います。)

「日本の太平洋戦争への歴史とその終結、そして戦後66年の日本社会の
発展とその歪みには必然的な関連がある。」
このことを常に肝に銘じて、これからの人生を生きていこうと思う。
それが子供達にも他の人達にも伝わる言葉と行動を一つずつ見つけて
いくことが自分の課題だと思う。





ひとあし早いドイツの秋。高く、どこまでも広がっていく、
透きとおった大きな青空。
今日は本当にいい天気だ。静かな朝の時間。梨の木の横に立って
この大きな空を見ている。 その向こうには自分の母国、日本がある。
66年前のこの日、8月15日。終戦の日。父や母達が生きた時代。
僕が生きる時間も、福島も其処につながり、僕達の時代の責任がある。





(ちょうど一年前、2010年8月15日と6日、そして8月30日の記録)

8月15日が今年も過ぎようとしている。
日本の軍国時代、全体主義が終焉を迎えると共に日本人の精神的、
文化的独立性にかってない変化がもたらされる転回点だったと思う。
子供達に食事の後、日本人の血が半分は流れていること。
8月15日を記憶し、いつかは自分達の事として考えてほしいと話す。


8月6日、65年前の今日、原爆が広島に落とされた。
人類史にかってなかった無差別大量虐殺が行われた日だ。
その虐殺は、米国が国家の意思として 何十万人の命に対して
計画的に行なったことである。その非道は長崎で再び繰り返された。
米国の非を、命の冒瀆を日本もヨーロッパも問うことは出来なかった。

僕の父親は山口県柳井市の出。海軍の志願兵で飛行機乗りだった
とのこと。戦後、焼け野原の東京に出て来て、闇市で
働いたりしながら身を立て、浅草生まれの母親と出会い
一緒になったとのこと。

父親が育ったのは広島市。原爆で家族、親戚の大半が亡くなっている。
しかし、その話を父親から詳しく聞いたことはない。
僕もあえてそれに触れていこうとはしなかった。それにはいろいろな
事情がある。

今、自分のことと子供達の将来のことを考え、このことに取り組んで
みようと考えている。
今年の秋、柳井と広島に足を運ぶつもりだ。

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2010年8月30日の記録/「脱原発15年延長? 反対します!」

ドイツで脱原発を15年先延ばしにしようという考えが、
メルケル首相を中心として独政府内で高まっている。保守党内からの
反発も出ている。緑の党の猛反発は必至。

70年代後半のオールタナティブの運動から始まり、党としての形もなく
「緑の人達」としてスタートしてから、ドイツの社会の在り方や政治の
方向性に大きな 影響を及ぼしてきた。
その当時からの支持者や関係者には、「思えば遠く来たもんだ」との感慨は
相当あるだろう。その気持ちは、当時20代の若さから現在50代となり、
職につき子供・家庭を持ち、安定、保守化した僕達の世代の日常感覚とも
相当重なる部分があるだろう。

しかし、脱原発の問題でこれ以上妥協することは自分達の出自、彼らの
政治的運動の原点に関わることである。当時とは違う形であれ、
議会を超えた国民的運動、反対の議論を巻き起こす力となって欲しい。

また、ドイツがここで妥協すれば、ドイツ国内だけでなく昨今の
地球温暖化やCO2の問題絡みで、原発を見直そうという他の先進国や
日本の原発推進派にも格好の材料を提供することとなる。
原発の必要性を唱えようとすれば、いくらでもその理由は付けられる
だろう。しかし、チェルノブイルの事故は過去の話ではない。

議論すべきは代替エネルギーへの転換を未来への共通の課題として捉え、
それを如何にすれば早期実現できるか、どのように化石燃料からの転換を
進めていくかということだろう。

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上記のような散文的な文章や感想が、2010年から一年経った今でも
まだ自分の現実の大半だと思う。
しかし、このような漠然とした意識では弱すぎる。
自分のためにも、次の世代のためにも、もっと掘り下げた考えや行動が
必要だし、それを生み出していこうと思う。


ドイツから来た「脱原発ショルダーバッグ」ー 毎日の暮らしの中でプロテスト!

2011年08月12日 | 脱原発

昨日、日本からドイツに戻りました。気温は24度、もう秋が来たようです。
約4週間の日本滞在の間、毎日、この「原子力おことわり!」の麻袋、
ドイツからやってきた「脱原発」ショルダーバッグを肩に提げて歩いていました。

2ヶ月前の日本滞在時に比べて、「脱原発」のテーマが日常の話題となったこと、
その気持ち、気運が人々の間で高まっていることをはっきりと感じました。
この流れはますます強くなっていくはずです。





だからこそ、今、大切なことは一人一人がはっきりと意思表示をすること
だと思います。一方で、脱原発のデモや集会に個人で参加するのは、
日本では、なかなか大変なことです。

このショルダーバッグのメッセージは「脱原発に必要なのは、一人一人の
少しの勇気。毎日の暮らしの中で、肩肘張らずにはっきりとプロテストをしよう。」
だと思います。

日本の今の状況を本当に変えられるのは、政治家でも行政でもなく、
市民一人一人の声だと思います。そのためにこのショルダーバッグが役に
立てばと思いました。使い方は実に簡単です。ただ肩に提げて買い物に
行ったり旅行やビジネス出張のサブバッグとして使うだけです。それだけで
何十人、何百人という人に自分の気持ちと脱原発のメッセージを伝えることが出来ます。

多くの人達が、「子供達の健康を守りたい。」「未来を、自分達の手に取り戻そう!」
「もう、原発はこりごりだ!」など、いろいろな気持ちを胸に抱いているはずです。

今回はこんなことを考えながら、日本のあちこちで脱原発ショルダーバッグを
持ち歩きました。いろいろな人と話をしました。その中で僕の直感では、
これからの日本を変えていくのは、より良い未来を作り出せるのは、男性よりは
女性達ないし女性原理だろうということです。

日本のあちこちで、たくさんの女性がこの「脱原発」ショルダーバッグを
担いでくれました。東京と京都の市民団体とも日本での活用法について
話をしました。多分、9月中旬頃にはこの脱原発のメッセージバッグが各々の街で
使い始められるはずです。毎日400人、500人の女性や男性がこのバッグを
肩に担いで、原発の無い日本を目指して歩き始めることを願っています。

以下、「原子力おことわり」のメッセージ、女性達の声シリーズです。
(来週は男性達の声シリーズをお届けしたいと思います。)




僕がいつも泊まる、京都のホテルのフロントの方。
「本当に素敵、私もぜひ持って歩きたい」と言ってくださいました。
日本に最初の1000枚が届いたら、すぐにお知らせします。




5月の「Help Fukushima! Sayonara Genpatsu!」の日独チャリティ
コンサートでもお世話になった環境市民のお二方。
秋までにはこのバッグをお届けしたいと思います。ぜひ広めてください。




京都の真ん中、四条通り阪急ビルの前で。
アルバイトの女性の方、声を掛けたら「脱原発、もちろんいいですよ!」




新潟三条で。同世代の日独のお母さんペア。
二人とも「原発は絶対反対です!」




京都東寺のがらくた市で。
入り口でアイスコーヒーを販売していた女性。
「脱原発のバッグ、いいですね。」




東北地方出身の若い女性の方。
「私の親戚も福島にいます。私はもちろん脱原発です。」




東南アジアから日本に来た実習生の二人。
「私達はもちろん、脱原発です。」




ドイツオペラの練習をしていた女性グループの一人。
「音楽を愛する心と、原発推進は相容れません!」とのこと。




沖縄・座間味島の将来を担う若き女性達。
「もちろん、原子力は要りません!」

日本の今の状況を変えられるのは私達一人一人の声だと思います。


いつでも、どこでも出来る『ひとりデモ脱原発!』

2011年08月03日 | 脱原発




日本に戻って2週間。ドイツを出る前に見つけた、この麻布の
「脱原発」のショルダーバッグを肩にしてあちこちに行きました。
遠くからも一目で分かる「原子力おことわり」のメッセージが
表と裏に日本語とドイツ語で書かれています。
大きくて何でも入り、バッグとしても実に便利です。
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部が作ったものです。
一袋につき50セント(約60円)が日本の原発事故被災者の方々に
支援金として送られます。
毎日の買い物や夏の旅行、ビジネスマンなら日本各地への出張に
最適の脱原発メッセージバッグではないでしょうか。
日本でも入手出来るように、ドイツの関係者に働きかけてみます。

例えば京都の街中で、あるいは静岡、敦賀、新潟、佐賀で
毎日200人から300人の人々がこの「原子力おことわり」の
バッグを持ち歩いていたならば、一回限りのデモや集会よりも
具体的な効果や広がりが生まれてくると思います。

京都の知り合いのNGOの人達や東京の「みどりの未来」の人達と
具体的な展開やアクションプランを検討します。
皆さんもご協力下さい。

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さて、手始めにまず一人でこの2週間、日本のあちこちでトライしました。
結果は上々、実に簡単かつはっきりと意思表示が出来ます。
下記にその一部を紹介します。

『ひとりデモ脱原発!』 のメッセージ発信。
日本の暑い夏、あちこちで、一人で皆んなでプロテスト。
まずは沖縄・座間味の海からです。


いつでも、どこでも出来る『ひとりデモ脱原発!』
夏の想い出は麦わら帽子。 子供達がどの砂浜でも自由に遊べるように。
当たり前のことが、もう一度当たり前になるように。




夏の浜辺、夏の光、僕達は普通の暮らしがしたいだけ。
空、海、光、風、土は人の生きる力の源。被曝リスクを考えるために
あったのではない。脱原発はごく自然なこと。




いつでも、どこでも出来る『ひとりデモ脱原発!』
東京の下町浅草、慶良間の座間味島で育った1959年生まれの二人。
広島の原爆投下、10万人を殺した東京大空襲、座間味島の集団自決の非業ー
自分の父親や母親が強いられた、全て「国のため」に行われたこと。
もうその嘘は要らない。だから二人で脱原発!




新潟三条の刃物鍛治とゾーリンゲンの女性オーナー。
日本とドイツの刃物マイスターが二人で、スッパリと「脱原発!!」
「俺は孫を守りたい!私はチェルノブイルを忘れない!」




座間味の海で、島の少女がニッコリと「原子力?おことわり!」
今年からいよいよスタートの「ダメダメ原発、やめよう原発、アカーン原発」の
日独ポスターコンクールで早くも入賞候補です。
(ただし、このコンクールは下記のような日本の文科省や経産省の主催では
ありません。まだ私一人のコンクールです。)

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下の2つのポスターは、2009年度第16回原子力ポスターコンクール入選作品の例です。
主催は文部科学省・経済産業省資源エネルギー庁です。
原発推進イデオロギーの美化、プロパガンダ。小さな子供達や若者を騙してはいけない。



10歳男子、文科省大臣賞受賞 ー
この少年は今、どこで何を考えているだろうか。




(18歳女子、優秀賞受賞)

ここまで来ると身の毛がよだつ。おぞましい。
僕が25年前に手にした旧東独の全体主義プロパガンダと酷似している。
学校教育の中でこんなバカなことは許されてはならない。