ドイツ、おばあちゃんから孫まで伝わる「緑の考え」

2013年09月22日 | 随想

今日はドイツ連邦議会の総選挙。妻は18歳の娘と20歳の次男と連れだって
投票に出かけた。

 
日曜日の午後4時。僕はいつものように一人でプールに行き、庭に座って、
今年収穫できた果物や野菜のことを考えている。
林檎、苺、葡萄、茸、破竹、紫蘇、三つ葉、山椒、南瓜、茄子、胡瓜、
春菊、
玉蜀黍… 来年は庭の菜園を少し広げてみようかと思う。

長男がやってきて、「パパ、もう選挙には行ってきた?」とうっかり聞いてくる。
僕は家族の中で唯一の外国人。約30年、ドイツに住むが選挙権は相変わらず
有していない。妻はもちろん、子供達三人も緑の党を選んだのだろう。
「オーマ」、義理の母も同じだったろう。

ドイツで緑の党が生まれてから約40年、三世代に渡って選ばれる政党に
成長した。一方で発足当時の中心世代は今、60代前後となっている。
日本でも名を知られたベルベル・ヘーンさんやシルビア・コッテイングさんも
この世代に属する。昔の古びた日本語で言えば、
二人とも「お母さん議員」だが、
むしろもう何人も孫のいる「おばあさん議員」だ。政治の議論に臨む時とは
打って変わって、相好を崩した笑顔になる。

そういえば、2012年の夏、日本の緑の党発足の大会でヘーンさんの通訳を
した時のこと、彼女にはお昼の弁当があまり口に合わず、ご飯の上のとり肉だけを
食べて、白米には手をつけずにすっかり残していたことも思い出す。
NRW州の環境大臣としてオーガニックを長年、積極に支えてきた人だけに
やや虚をつかれた感じだった。それと同時に、日本では緑の運動に関わる人たち
でも、自分達の大会でコンビニの弁当やペットボトルの飲料水を利用するのかと
随分驚いてしまった。


今回のドイツの総選挙、緑の党の支持率は直近の世論調査では約9パーセント。
福島の原発事故の後、ドイツで脱原発、反原発機運が盛り上がった2011年の
春から夏にかけて一時的にせよ、25%近くの支持率があったことを考えると、
その落差は著しい。福島以前の2010年の秋頃でも12%程の安定した支持率が
あったと思う。

長引くユーロ危機の中、その出口が今だにはっきり見えず、経済や社会の安定を
ドイツの多くの人達が既存の二大政党、CDUSPDに求めているのだろうか?
一方でドイツ政府の現状のユーロ政策に大きな反論を唱える新党「AfD」は
ドイツの5%条項を一気に飛び越え、連邦議会入りする勢いである。

外国人居住者、そして戦後の日本と福島の事故とその後を経験した日本人
である僕にとって一つ確かなことは、この国の政治・社会体制が相対的には
よく機能していることである。また、そこにはこの30年あまり、緑の党を
様々な形で支えてきた人達の生活感が
あると思う。ドイツ緑の党の組織内容や
その発展あるいは彼らの脱原発や環境への
関わりはこの数年、かなり広範囲に
日本で紹介されている。

日本の緑の党には、僕もきょうと緑の会員の一人として参加しているが、
この生活感やそれを支える日常の価値観に一番大きな乖離があるように思う。
日本では、外国、とりわけ欧米の思想や社会システムを明治以降は大きく取り
入れてきたが、日常の生活や家庭での暮らし、家族の人間関係とは直接つながりの
ない借り物であるところが多かった。日本の「緑の思想」もまだその一つなのだと思う。


「誕生日を前にしての覚え書き」

2013年09月04日 | 随想

僕の人生でなお、何を成し遂げたいのか、何を残したいのか?
こう問いかけること自体が、一つの捉われなのだろう。
一般にも広く認められたこのような慣習的な、かつ自分の習慣となった
思考法が僕を、僕の毎日を、そして家族や周りの人を生きにくくしている。
そんな問いかけが常に頭の中、自分の意識の中にあり、ひとりの時間に
それが自ずと湧き上がってくる僕の在り方、日常の感覚が、まず問題なの
だろう。そのこと自体が、日日に充足して良く生きることをむしろ妨げて
いるのだろう。 

何を残したいのかという問いの前に、毎日をどう暮らしたいのか。
当たり前のことだが、僕の一生、その暮らしは僕のこの毎日の中にしかない。
その毎日の一時間一時間、その中、その瞬間の行動、身振り、考え、人への
言葉で、そのような一回限りの行為の無数のつながりでこそ、僕の人生が
成り立っている。