「唯我独善」に与しないこと

2011年01月30日 | 脱原発

過去5~6年、年に2~3回仕事の関係でフランスの首都パリに行く
ようになった。僕の職業がドイツ語を中心にしていることもあり、
フランスやパリには本来、全く縁がなかった。





もちろん、フランスの文化や社会の中に根付いた西欧中心主義や大国
主義、その中華思想的な発想には相当の反発感があり、フランスは
自分から進んで何度も足を運ぶ国のようには思えなかったこともある。
こういう部分では我ながら、幼稚で意固地なところが昔からある。
アメリカに訪ねて行きたいと思ったことが一度も無いのも同じ理由
からだろう。アラブ諸国や中国に対しても似たような感覚がある。
日本に居た頃も、自民党や霞ヶ関の官庁、学校で押し付けられた
天皇制に対して、身体的な反発感、距離感、嫌悪感と胡散臭さ感が
ないまぜになった感情が、子供の頃から強くあった。

「唯我独善」的な傾向、方向性を持った国やその文化には親近感が湧いて
こない。これらの国々が核保有に積極的であるのも偶然ではないだろう。

僕は基本的に非政治的な性格だし、社会参加についても消極的な
人生を送ってきている。それでも、フランスの南太平洋での核実験
には大きな憤りがあったし、1996年当時、なんと非人間的な発想を
する人達なんだろうと憤慨し、この国には足を運ぶまいと考えたこと
をよく覚えている。

去年の秋、11月末に初めて広島の原爆資料館を訪れた。広島と長崎
のこと、そして日本での核・原発問題については、別の機会に自分の
考えを整理し、日常の中での具体的な行動につなげていきたいと思う。

ただここで触れておきたいことは、米国の政権担当者の多くの人々や、
それを支えた人達が、人類史上未曾有の無差別大量虐殺になることを
明らかに知りながら、それを戦後の軍事上、政治上の戦略のために、
モルモットに対して科学実験を行うような無機質な感覚で遂行した
ことである。それはベトナムでもイラクでもアフガニスタンでも
繰り返されている。

非人間的な行為であるだけでなく、アジアの人々や他民族を自らの
同胞と見なさない、人間として等しい命として見なさない、生命の
価値を層別化する感覚と思想がそこにある。この価値観と思考の構造
は西欧諸国と米国の近代から現代の歴史を貫いている。それは今日
でも欧米の権力構造と、そこに関わる人達の精神の中に程度の差はあれ
抜き難く存在していると思う。

私達日本人は明治以降の近代化の歴史の中で、この欧米の構造に反発
しながらもそれを模倣し、第二次大戦、そして1945年の国と文化の
崩壊に至った。その過程で自己の民族とアジアの他民族に対して
致命的な傷を残した。その後、戦後から今日まで、日本人は独自の
価値観を形成することはなかったと思う。私達は自国の独立性と
自らの文化の自律性、文化的自尊心を大方失った一方で、経済的発展
をその物質的、心理的代償として過ごしてきたのだろう。

「では、どうするか?」ということは、私達一人一人への問いかけで
ある。それに答えようとすることは日常の生活、毎日の暮らしの中、
自分の具体的な生き方の中にしかない。

生命を尊ぶこと、自己と他者を大切にすること、自らの文化を大切
にすること、毎日の生活を大切にすること、核・原発に反対する
こと、唯我独善に与しないこと、これらは大きな一つのつながり
だと思う。


本棚の中に古い本を見つけた。人は何故、書くのだろうか。

2011年01月20日 | 随想

明日から十日間の外国出張。フランスのパリで年に二回のメッセ
がある。その準備もあって、このところ目が回るほど忙しい。
夜中の1時、2時に自宅へ戻ることもしばしば。
「忙しい」はリッシンベン(心)に亡くすと書く。
このところまさに自分がなくなって、心をどこかに置き忘れて
きたかのよう。イカン、イカン。

そんな中、真夜中、居間の本棚の中に古い本を見つけた。
忙中閑あり。ドイツ語の小さな詩集のような本。
自分の過去の経験と重なるところも随分ある。
今日はその話をしよう。下は僕の自由訳。





夜中の2時近く。タクシーの中。外は暗い雨。
クルマのライトのみが、赤や黄色に光っている。
ラジオから流れるポップスはうつろな響き。

昔の話を想い出す。

三十回は声にして「君が好きだよ」と繰り返していたら、
ある晩、突然、「あなたは私と何がしたいの?」ときた。
あなたは29回、考えてのことだったのだろうか?
もちろんそうではない。
何もない。その瞬間が切り離されていたから。

二人とも互い違いだし、いろいろなことがあったから、
意味や時間のつながりを追いかける言葉は得意ではなかった。

あなたの声。
秋の日のように。
大雪のなかを歩いたように。

僕達はひとりひとりだった。
切り離されたいのちを、手と手が結んでいた。

夜中の2時近く、タクシーの中。
過ぎ去る時間を追いかけて、暗闇の中を光が流れていく。
結びついては離れてゆく。

あなたには当たり前。
僕には偶然を必然にするものが欠けていた。
人生の多くの時のように。

二つの椅子。その間には多くの、あまりに沢山の時間が
既に流れていた。テーブルだけが二人をつなぐよう。
僕はどちらにも座ることが出来なかった。

夜の2時。クルマはもうすぐ、家に着く。
そこには僕の場所もあるだろう。
過去が明日をつくるように、静かに雨が降り続く。


原文ではこの先も続きがあります。多分、素人の詩作の試みだった
のだろう。特に優れた詩でもないし、内容もありきたりだと思う。
それでも自分の気持に響いてくるのはなぜだろう。
多分、この作者が拙いながらも、自分の経験や想い、彼の人生の
中で忘れられない幾つかの心象風景を、一つの意味のまとまりと
して捉えようとしているからだろう。
言葉は他者に対すると共に自己にも向かっている。前者を発語の
主体として、それが高い極みに達したときに人は文学として評価
するのだろう。

一方で言葉の自己認識、浄化、昇華の作用はまず書く主体自体に
現れるのだろうと思う。前記の文章では、この作用が強く働いて
いると思われる。文章表現において、僕はこの側面、効果は決して
侮れないと思う。効率や成果を常に求め、それを第一とする僕達の
現代社会では、上手下手、出来不出来、他者の評価を気にしすぎたり、
重要に思いすぎたりするのではないだろうか。
しかし、人が表現することや書くことは、もっと主体的で自己を
大切に思う行為ではないのだろうか。
ともかく、今日の僕の訳はここでひとまず終わり。
残念ながら時間切れ。なお、作者は不詳です。





次の日、起きると、庭の笹が風に揺れていてとても綺麗だった。
笹は僕が見ているかどうかは気にしていない。
冬の朝、新しい一日が始まる。

陰鬱礼賛は、和洋折衷から!?

2011年01月15日 | 随想

先日、「陰鬱礼賛は、遠い遠い昔のこと」と書いてから、このことを
折にふれて考えている。
先週の日曜日は、友人夫婦と夕食会。僕が前菜とスープを担当、
友達のエルケさんがメインディッシュとデザートを担当で、和食と
ドイツ料理の合作ディナーを作り、一晩を楽しんだ。
下の写真はその時のテーブルセッティング。

「箸は横置き。デザートスプーンも横置き。どちらも最初から
並べておく。日本のけじめとドイツのマナー。」





僕の作れる和食はたいしたことはない。レパートリーが限られている。
まずは、鮭の酢〆にラディッシュとミョウガの梅酢漬けを添えて。
赤身のヅケのバリエーション二種類。京都の友人の器にのせて。
次はイカの下足と里芋の焚いたん。仕上げに、日本から持って帰った
柚子をたっぷり擂り込んだ。居酒屋風料理でひとり照れくさかったけど、
実に大好評。僕もびっくり。
(僕は下手だけども、おしょうゆやみりんだけは本当に良いものを
使っている。これは昔から子供達に伝えたいことの一つだった。)





前菜のスタート時はこんな風景。たまたま持って行った白い徳利と猪口
が白のテーブルクロスに良く映えていた。こんな時にも光と影の使い方
のことを考える。日本で和洋折衷の文化が始まったのはいつ頃のこと
だろう。谷崎一郎の「陰鬱礼賛」が書かれたのが、たしか1933年頃。
当時の日本の階層社会の中、都会の中産階級以上には確かに西欧文化の
影響が暮らしの中に入り始めていたのだろう。
日本人の大多数、農村人口、庶民にはまだ何の関係もなかったことだと
思う。




「陰鬱礼賛」が書かれたのは、和洋折衷があったからこそ。
歴史的には、明治の初期から続いた日本の文化的安定感への
危機感が知識人、文化人の間には既に通底する感覚となって
いたのだろう。
1945年、広島、長崎の原爆と終戦以降、米国の占領政策と
その延長下の高度成長時代、和洋折衷はもうあり得なかった。
大正から昭和中頃まで、かろうじてつながっていた自国文化の
体力や教養を支えとした異文化の解釈、吸収力は既にあり得ない。
良くも悪くも、継承されてきた価値観も崩れ去っている。
1960年代以降、過去約50年間、和洋折衷自体もまた昔のこととなった。

今あるのは、和洋折衷でも共存でもない。シュティールの崩壊で
あろう。それは芸術であろうと暮らしの中であろうと分野を問わない。
僕もこの時代の中で生まれ、育ってきた日本人である。
だから、このテーマは自分を一生追いかけてくるだろう。
しっかりと付き合って行きたい。



陰鬱礼賛は、遠い遠い昔のこと

2011年01月08日 | ドイツの暮らし

昨年の11月。友人に招かれてケルンに食事に行ったときのこと。
少しフランス風の洒落た感じだが、そんなに高級な料理屋でもない。
前菜が出てきたとき、テーブルの灯りを見ながらふと思い、
ツイッターにつぶやいた。

「日本の暮らしから蝋燭の灯りが消えて久しい。 戦後、蛍光灯の光が未来への希望や因習からの訣別と結びついていた時期は確かにあった。2010年の日本。陰鬱礼賛は遠い昔のこととなった。」



実際は日常の暮らしでは家の中であれ、レストランであれ、あるいは
戸外であれ、今のドイツの方が陰鬱、光や灯りの明暗をずっと大切に
しているように思う。





たしかにドイツやヨーロッパには、日本のような繊細な美意識で
物の明暗や色調のニュアンスを計ることは文化的には希薄だった
かもしれない。けれども日常の中でこのようなことに気を
配ったりそれを楽しんだりすることでは、彼らの方がよっぽど
伝統的であると思う。

義母が数年前、谷崎潤一郎の陰鬱礼賛のドイツ語訳を僕にプレゼント
してくれたことがある。その際に、「日本人は暮らしの中に本当に繊細
な感覚を持っているんだねえ」と言われたときには、僕はどう答えたら
いいのか分からず、しばらく言葉を見失っていた。



12月26日のつぶやき
「クリスマスと蝋燭の灯り。 外国の風習なのに、何故か懐かしい風景。
戦後、日本の家の暗さから、その家族制度の因襲から離れたい思いは
本当に強かったのだろう。ただ今では、僕達が何処に進みたかったの
かが、分からなくなっていることが多い。もう分からないのかもしれない。」





日本人は四季を尊ぶ国民だとよく言われる。
春夏秋冬の移り変わりの中に自然の美しさを見いだし、それを愛でる
繊細な感覚があるとよく言われるし、多くの人がそれを信じている。
明らかな幻想である。なぜこの現実離れした考えが未だに根強く
はびこっているのだろうか。これも、僕達が陥っている様々な共同幻想
の一つなのだろう。

日本では「建前と本音」とよく言うが、今日では建前の中には幻想が
入り交じり、本音を支える本質は脆弱で骨抜きになっている。
日本に戻っている時、何かの拍子に本当に壊れた国だなあと思う。
哀しみが体中に広がっていく。センチメンタルではない。





朝7時。外はまだ暗い。三日月が光る。その左は金星だろうか。
朝星は銀色。今は最後の黄金の光。


ドイツ-大晦日から元旦へ

2011年01月03日 | ドイツの暮らし
明けましておめでとうございます。
正月三が日だというのに、ドイツはもう仕事始め。

今年は子供達も大きくなってドイツ流の年越しとなり、元旦も
その流れでドイツ風。僕は愉しさもあり、少しさみしさもあり。
ともかく記録しておこう。

大晦日の夜。友達夫婦に呼ばれ、ドイツ流の年越しとなる。
手作りのご馳走に呼ばれ、ワイングラスを傾けて12時を待つ。
いつもながら、ドイツの人達はホームパーティが本当に上手いと
思う。皆が談笑する中、一人で感心している。妻も水を得た魚のよう。
顔が輝き、目がくりくりしてくる。面白いなぁ。学生の頃から人が
集まるといつもこうだったなぁ。
人とのお喋りが本当に好きなのだろう。良かったね。





除夜の鐘は鳴らずとも、ゆく年来る年に区切りをつけたいのは
皆同じ。0時と共に雪の中で花火を盛大に打ち上げる。
友人や近所の人達と良い年になることを願って、シャンペンで乾杯。

30年前のドイツでの初めての大晦日。一人で床に入っていた。
夜中に突然の大音響。あちこちで爆音が響く。
第3次世界大戦が勃発したのだと思い、覚悟を決め布団をかぶり
直したことを思い出す。嘘のような本当の話。

今でも、ゆく年来る年は静かに祝うものと思う。
だから毎年、大晦日、元旦は家族の中で一人、異邦人ノ存在。
しかし、異邦人であることは哀歓を織り成しながら、人生が
愉しいことでもある。



大晦日を過ぎても宴はたけなわ。夜中の2時頃、子供達も興奮して
まだまだ寝ようとしない。
旧年を越えて新年の1月6日まで、キリスト教の信仰では一年の特別な
時間を象徴するクリスマスツリー。その蝋燭の光の下に子供達が集まり、
鉛を溶かして、お母さんと昔ながらの占いを始める。




元旦の朝。というより既にお昼。昨日の夜更かしがたたったのだろう。
寝ぼけ眼で二階から下りてくると、テーブルの上にちょこんと子ブタ達
が座っていた。 一瞬、今年の干支かと思い込む。
もちろん、それは勘違い。僕の日本での人生の記憶は、だんだん怪しく
なっている。
ブタ君は、ドイツでは昔から幸運の印。貯金箱に使われたり、プレ
ゼントのアクセサリーに使ったりする。
今年は正月の用意が全く出来ず、うつむき加減だった僕に、妻が
わざわざ気を使ってくれたのだった 。ママラインにもブタ君にも
ありがとう。



新年初の水泳の帰り。太陽が顔を覗かしている。
村の小さな墓地を一人で散歩。根雪が融け始め、墓石達も
その下で安らぐ人たちも笑みをたえているよう。
小鳥のさえずりも聞こえてくる。僕はどういう訳か突然、
冬の厳しさが過ぎた3月頃の日本の春山を想い出す。

「もう一度、日本の山に帰ろう、行こう。」
若い頃、心の支えだったふるさとの山々を再び訪ねようと思う。
30年過ぎた後、自分の中で日本とドイツがひとつになるように。
もし二つに分かれていても、横並びで手を結び合うことはあるかも
しれない。