冬から春へ ー 大根の浅漬け

2015年01月31日 | ドイツ・ヨーロッパの「食」

ドイツの冬は曇り空の日が多いのですが、今日は今年初めての
春を告げるような青空です。



昨日はドイツの緑色の蕪、コールラビ(
Kohlrabi)を炊きましたが
鍋の中をよく見ると、冬から春への空が写り込んでいました。



冬は漬物の季節です。
昨日は大根の乱切りと柚子の皮の浅漬けも作りましたが、
外の寒さとは対照的に、春を待つ小さな花が咲いたようでした。








大根の乱切りの浅い塩漬けは、三杯酢に少し柚子を垂らして、
蕪の茎と生姜のみじん切りと和えて、そこに三杯酢と少しの柚子を
垂らしても、とても美味しいです。
大根の乱切りの塩漬け(約1%強)は、これ以外にもスーブの具にも
使えるし
、
とても便利ですよ。興味のある方、詳しくは、
「塩がわかると料理がわかる」をお読み下さい。
いい料理本だと思います。


 


去りゆく食文化 ー 「和食を日本の輸出産業へ」!?

2015年01月24日 | 日本の「食」

パリの街角で見上げた、冬の青空。



10
年ほど前から仕事で一年に23回、ドイツからこのヨーロッパの古い都に
来ることが
あります。今から150年ほど前の日本人には、まさに見上げるような
都会だったのでしょう。
それから30年ほどすると、マネ、モネ、ゴーギャン、
そしてヴァン・ゴッホなどが
日本の美術、特に北斎や歌麿の木版画に決定的な
影響を受け、自然主義の空間把握、
描写からとうとう離れ、フランス、ヨーロッパ
の近代絵画に新たな眼や色彩技法をも
たらしたことを思い出します。

 

それから約100年した現代、これとやや似たようなことが今一度
起きています。
1980/90年代から今日に至るまで、日本料理の技法や素材の扱い方、
料理の視点がフランス、ヨーロッパの意欲的な一流料理人に与えた
影響は、日本で一般的に
知られているよりもよほど大きいものです。
それはバリであれ、ドイツの都会であれ、現地のジェフや料理人と
話しをすると、ひしひしと伝わってくることです。

もちろん、明治初頭の一期一会のような東西文化の解遨、出逢いの深みを
現代になぞることは滑稽なことです。

当時と決定的に違うことは、日本でもヨーロッパでも世界の距離が一気に
縮まり、人や情報の交流が自由になる中で、新たな文化的発見や体験も
受容や変革の深みに至る前に、いち早く消費され、大衆化されていくことです。

料理の世界においてはそれはなおさらのことでしょう。

実際に、バリのどの街角を見ても国籍不詳の
SUSHI
の看板がかかっています。
ありがたいことです。
このような日本料理の平面的な浸透、国際化は日本政府
の最近の経済政策、「和食を日本の輸出産業へ」に呼応して、ますます商業化
の道を辿り、今後はさらにその経済的成功を収めるのだと思います。

一方で、日本はコンビニ、スーパーの弁当、出来合いの惣菜が日常の食卓を席巻し、
食料自給率が
40%
を切った国、その海も国土も放射能汚染に広範囲に覆われた国、
農業も漁業も高齢者に任され、米も大豆も醤油も味噌もますます少なくなっていく
国です。こんな話はまず海外には伝わりませんし、伝えたくもないことなのでしょう。

今、僕達が目の前にする和食の国際化、それは100年後の歴史的視点から振り返れば、
既にふるさとを失って根無し草となった食文化が、自らの幻想の中で咲かした
最期の大輪となるのでしょう。
その点では、明治以降の近代化の中で海外の国々、
とりわけ西欧諸国でもてはやされつつ、自国の中では
途絶えていった日本の伝統工芸、
絵画、浮世絵などとよく似た運命なのかもしれません。


日本の食文化を支えてきた本来の部分、和食の伝統に生涯携わっていきたいと思う
僕の気持ちも、このようなことと深く繋がっていると思います。

 

 




「毎日の中にある一粒一粒の未来 - 味噌作りの一日」

2015年01月18日 | ドイツの暮らし

今日はとても良い一日でした。


 


料理の好きな友達夫婦と一緒に、そして未来を胸一杯に抱いて
いつも輝いた眼をしているその一粒種の娘さんと、これから、
今日から新しい人生を踏み出す僕の仕事場の若いスタッフと
本当にみんなでわいわいガヤガヤ、右往左往しながら、
今年初めての味噌作りをしました。

一昨年に次ぎ、今回が二回目です。

日本の心ある人達が丹精を込めた自然栽培の大豆や黒豆、
そして塩切りをすませた米麹を、遠いドイツのこの地で手にしつつ、
こんなに素晴らしい食文化を育んできた国で生まれ育ったことを
本当に有難いことだと思いました。

お味噌を作った後は、皆んなで鍋物を囲み、最後は、
よしだよしこさんの名曲、僕達全てに関わる
3
11日以前、
以降の「忘れないということ」をしんみりとして聞きました。

仙台で仕事をしていた友達夫婦も自主避難の後、ドイツに移住し、
3
年が過ぎました。いろいろな苦労がありました。
今日の味噌の
出来具合が分かるのは約一年後のことです。小さいことでも来る
未来に向けて、一人一人の人が当たり前の期待と歓びを持って
日々を暮らしていけることは、国や経済、或いは企業、会社などの
大義名分よりもずっと、とても大切なことだと思います。

それを蔑ろにするような国や社会の在り方には僕は組したくないと思います。








 


Being in the world ー 一瞬一瞬の生命に祝福あれ!

2015年01月11日 | ドイツの暮らし



真夜中、午前三時。
長い、長い料理の時間もようやく一段落。

今日の夕飯の炊き込みご飯も、お豆と野菜と塩豚のスープも、
次男のための手羽先の塩焼きや、薄切りの牛肉の
あっさり焼きも、
糠味噌の手入れや、美味しかった
牛蒡や山芋、人参のお新香も、そして
その後、夜中の12時からの鯖や干ガレイの下処理も、
腹子の煮付けも、
魚のアラで取ったスープストックも、
その間に一人で飲んだ二本近くの白と
赤のワインも、
今、この瞬間にはもう過去のこととなった。
人生はその一年一年ではなく、その瞬間瞬間が、
実は「光陰矢の如し」に過ぎていく。 

さて、今日の日に何と言っても特筆すべきは、子供達三人と一緒に行った
一日絵画コースのことだろう。

 



何故だろう。今日はその数時間の間に、何回か急に強烈に
感じたことがある。

 「
絵を描くことも、料理することも、子供達と一緒の時間を過ごすことも、
"Being in the world"
  」
即ち、今、此処に、この世界に存在すること生きていること。

「Being in the world」とはその瞬間、瞬間を、自らを、その可能性を、
ある時は一人で、
ある時は分かち合って生きることだろう。

人間の存在や
芸術の根本も、あるいは家族との時間も、みんな、
こういうところに
つながっているのだろう。


限りある一回限りの生命に祝福あれ!

 
 


満月の夜 ー 失われた「陰鬱礼賛」

2015年01月06日 | ドイツの暮らし

今年初めての満月。




近くの友達の家に大晦日の集まりの写真を届けに行く途中、
思わず嗚呼と思って、シャッターを押しました。こんな月夜を見ても、
ドイツの友達のところで室内の灯りの使い方を見ても、僕達の
今の日本の暮らしには「陰鬱礼賛」は遥か昔のことと思う。

 

 

日本人は四季を愛でるだとか、旬を大切にするとか、自然と共にだとか、
いまだによく聞く言葉だけども、現代日本の共同幻想の一つにしか過ぎない
とつくづく思う。

僕達の国は原発54基を知らず知らずに見逃し続け、
フクイチ事故の惨事で自らの国土、風土を失いかけてもなお、
原発再稼働を推進する政府を国民大半が看過する国だ。
社会や政治の深い病巣の裏に、日常の暮らしのなし崩し的な
空洞化が著しいと思う。
都市部を中心とした毎日の生活の仕方や、自分の、あるいは
子供達に伝えていく人生の価値観がとんでもなく片寄ってしまった
のだろう。

京都市左京区のロクローさん達のような試みが、暮らしの中に
根づきながら、日本のあちこちで、いろいろな形で生まれてくるだろうか。

日常の、市民の動きが今、本当に大切なのだと思う。


 


「我が家の新年」

2015年01月03日 | ドイツの暮らし

正月三が日も間もなく過ぎようとしています。




我が家の新年、いつものように和洋折衷のご飯でした。
年末年始、家に戻っていた息子達も勉強先に帰り、
僕も明日から仕事です。

今年は長年思うばかりで手をつけられなかったこと、
「ドイツ語で日本のこと、特に日本の食卓、食文化について書くこと」を
いよいよ始めようと思います。

そのためにもまずは早寝早起き、ますます料理と運動に励み、
体と平らかな心が伴うようにしたいと思います。
互いに健やかで良い年になりますように!!



















 


「年越しの集い ー 暮らしの中の素敵な文化だなぁ」

2015年01月01日 | ドイツの暮らし

明けましておめでとうございます。各々、良い年になりますように!




昨日はここ数年、恒例となった友人の家での年越しの集い。
其々が何かを作って持ってきたり、得意な歌を披露したり、
今年の特別なことを話したり。十二時にはドイツの通例で、
外に出て盛大に花火を打ち上げ、互いの健康と良い年を祈ってお祝いします。

その後僕も三年続いて、年越し蕎麦ならず、年明け蕎麦を作りました。
今年は皆が楽しみにしていてくれたので、美味しくできてホッとしました。

では、良い年になりますように!



ドイツの友人達は、誕生日の時や何かのお祝いの時には外で食事を
一緒にする、というようなことはまずなく、手作りの美味しいものを
用意して自宅に招くことが殆どです。ドイツの日常の中でとても素敵な
ことであり、大切なことです。その時の空間の演出やテーブルセッティング
など本当に見事で感心することがよくあります。今日は特に感動しました。
一朝一夕では身につかない「暮らしの中の文化の姿」と思います。
僕が知る限り、経験した限りでは、ドイツの謂わば中産階級のような、
しっかりした社会の層では、子供達が親のそのような姿を知らず知らずに
覚えて自分達の中に取り込み、継承していっているようです。