「哲学者・美術家・詩人」あるいは「一つの言葉・一つの歴史・一つの食事」

2017年09月01日 | 言葉&読書

今日、たまたま出逢った言葉。
「哲学者のように考え、美術家のように見、そして詩人のように感じ、書く。」

かって、「昆虫記」を著したアンリ・ファーブルを同時代のフランスの
劇作家、エドモン・ロスタンが評した言葉。
この昆虫記を日本で初めて訳したのが明治・大正の奇人、アナルキスト、
大杉栄。彼もこの言葉に深い感銘を受けていたらしい。
その彼の二人目の相思相愛の妻が、大正時代の奔放かつ稀有なる文学者で
あった女流作家、伊藤野枝。

二人ともに関東大震災直後、当時の無言の大衆の追従、盲目、支持を背景
にした国家権力に暴殺され、まさに非業の死を遂げた。

昨日のお昼ご飯は、庭で採れた春菊と豆腐の味噌汁、それにレンティル豆と
ナス、セロリ、キノコなどをしっかり炒めたペーストや赤パプリカ、アボカド
などをたっぷり載せた野菜ボート、そして、同じく庭で採れた葡萄で初めて
作った一杯のジュース。

何の関係もないような一つの言葉、一つの歴史、一つの食事。

夏の終わり、雹が降る金曜日の夜。
ただひとり、キッチンに座る僕の中では、その三つが響き合う。

 

 


久しぶりのドイツ映画 -「あなたへのSMS 」

2017年02月23日 | 言葉&読書

ドイツへ向かう飛行機の中、久しぶりにドイツ映画を見る。

そのタイトルは、「あなたへのSMS 」

ドイツの今をつたえる若き才能、
天性の女優カロリーネ・ヘルフルト(Karoline Herfurt)、目の動き
一つで、女性の心の動きを、その豊かな表情を、ひとの心の浮き沈み
を伝えてくる。その彼女が映画監督としてデビューし、自ら主役も
務めた、初めての作品ではないかと思う。

物語の中心は、目の前で起きた突然の自動車事故で最愛の婚約者を
失った絵本作家のクララ。それから2年経ちなお、亡き恋人への想い
を受け手のないSMS に書き続ける。
偶然のきっかけで、その愛惜に満ちた一つ一つの言葉を受け取るように
なった地方紙の新聞記者マルク。二人の愛が始まる。

まさに現代のベルリンを舞台とした都市生活者のアイロニーとコメディ。
真摯な軽妙さで描かれた男と女の恋愛劇。実によく出来ている。
少し涙が出た。

男女の性差が、その生き方の可能性がが社会の上下構造の縛りから
離れ出し、個人の対等が生活感覚の基本となり始めた今のドイツ。
日本のそれとは大きくかけ離れている。そう言う社会条件がなければ
有り得ない、男女の心の機微、愛情の在り方がよく描かれていたと思う。
一方で、日本のドラマや映画の紋切り型の男女のロールプレイ、
幼稚な愛情劇との明らかなコントラストを思わざる、感じざるを得ない。
字は人を表すと言うが、映画の質も、社会の因習やそれへの囚われを
端的に浮かび上がらせるのだろう。


「二人の出逢いから、30年後の朗読会に思うこと」

2017年02月09日 | 言葉&読書

長年営んできた小さな出版社を閉じ、南ドイツの田舎の街に引っ込んだ
初老の男。今の時代には帽子が似合う顔がもう居ないと手作りの帽子屋を
止めた読書好きな、清楚な50代の女性。

決して運命的な邂合には思えなかった。
それでも出逢ったその夜に、ガレージに入ったままだった昔のスポーツカー
に二人で乗り込み、一時間のつもりのドライブはやがてスイスへの国境を
超え、明け方の北イタリアの海辺を目指し、そして、そのまま車の中で
夜を明かすこと二日間、互いの人生の断片を途切れ途切れに伝えつつ、
南イタリア、シチリアの誰も知らない村、路地奥のホテルにたどり着く。

そこには、ジプシーのような小さな女の子が、二人の運命の糸を握るか
のように待ち受けていた……。

多分、そんなような話なのだろう。

年に何回か、読書好きなウチの奥さんに引っ張られて、ドイツや
オーストリアの現代作家の朗読会にこうやって二人して顔を出す。
外国人の、その上生まれつき音痴の僕はまず半分も聴き取れない。
それが純文学や詩作の会となると尚更だ。全ては想像の世界、
薄闇の世界、意味のつながりを失った音声が僕の耳の横を通り過ぎていく。

今日の話も本当に上記のようなストーリーだったのだろうか?。
僕が聞き取れた一つ一つの言葉、センテンスの間に知らず知らず寝落ちし、
自らの夢の中の幻想とないまぜになった話ではないのか?

そう思って、ウチの奥さんに小さく声をかけるといかにも楽しそうに、
白ワインを片手に無邪気な笑顔をこちらに向けてきた。

もう三十年を越えた二人の会話、僕の日頃の理解も実際はどの程度
出来ているのだろう?

そうそう、思い出した。
僕達が知り合ったのは1980年代の半ば。僕がまだ、遠い日本から
来たドイツ文学専攻の若い留学生の頃だった。セミも鳴かない北国の
初夏の午後のキャンパス。

「読書とは何か?」
僕はドイツの人にとっては自国の国文学、僕にとってはドイツ文学の
セミナーに外国人一人で参加していた。

「読書とは何か?」と問われても、当時の僕は、せいぜいドイツ語の
小学生。当番の学生のレポート発表も、その後の教授のコメントも
理解半分。様々な意見が飛び交うディスカッションの頃には、全ては
ちんぷんかんぷん。
興味も集中力も尽き果てて、窓の外の景色に目をやり始めた時に
飛び込んで来たのが、ウチの奥さんの若き姿だった。

振り返れば、ドイツに来て35年、二人の出逢いから30年余り。
ウチの奥さんが、今でもこうして、ドイツ語の文学朗読会に僕を
引っ張っていくのは、もしかすると、
「初心忘るべからず」、「決して運命的な邂合ではなかったのよ」
の暗喩なのかもしれない。


詩人の日記「鳥と人間と植物たち」

2010年06月08日 | 言葉&読書
部屋の中を片付けていたら田村隆一さんの随筆、詩人の日記
「鳥と人間と植物たち」が出てきた。
数日前から折にふれては読んでいる。
ふっと胸を突かれるような言葉があちこちのページにこめられている。
昔読んだはずなのに、一つ一つの詩が新たに響いてくる。

以前はうたた寝しながら読んでいたのだろうか。

ハイネの五月

2010年05月25日 | 言葉&読書
一昨日のメモ。5月24日、月曜日。

今日は本当に良い天気。妻と娘と三人で、久し振りに
デュッセルドルフの街に出る。





ハイネの歌にもある、5月のドイツは一番いい季節

"Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen,
Da ist in meinem Herzen
Die Liebe aufgegangen.

Im wunderschönen Monat Mai,
Als alle Vögel sangen,
Da hab ich ihr gestanden
Mein Sehnen und Verlangen."

                                (Heinrich Heine)


「美しく輝きに満ちた五月
蕾達がいっせいに開き始める
そのとき、僕の心の中には
初めて恋が芽生えた。

美しく輝きに満ちた五月
鳥達が歌いはじめたとき
僕はその人へのあこがれ、
想いのたけを打ち明けた。」
                              (僕の自由訳)





上記の詩は若きハイネの詩集「歌の本」の中の一つ。
ロベルト・シューマンの有名な歌曲集「詩人の恋」の冒頭の歌。

デュッセルドルフはハイネ生誕の地。僕もこの大学の学生だった。
30年近く前のこと。今でもゲーテよりはハイネの方がずっと好きだ。