雪の中に閉じ込められたドイツ。
朝七時、今日は料理の日。
外はまだ夜中の暗さ。ドイツの冬が続いている…
雪明かりの中、定時にコッホさん到着。京都の宇治出身。
去年から姓が変わった。日本語にすれば「料理さん」。
昨年末から週に一回、僕と二人で「ドイツで作る和食」を試作している。
まずは二人で地下の食糧庫に、普段は庭に置いておく野菜を取りに行く。
外に出しておいた白菜、大根、カブの皮などの干し野菜、
水出しの昆布・椎茸の出汁ポットなどは、数日前から凍りついたまま…。
徐々に朝を迎えようとする蒼い空。雪化粧の松や樫の木々。
庭に降り積もった一面の雪。
銀白の風景の中に北国の冬、冷たく、淡くパステルカラーの
コントラストが浮かび上がる。
今日は何を作ろうか…。
まずは玄米、白米、モチ米、昆布、椎茸を水に浸けておこう。
ドイツの硬水と和食の食材はすぐには仲良くならない。
浸水時間だけでも三倍はかかる。
二つの異なったものは最初はいつも「なさぬ仲」。
親子の関係がなければこそ、互いが求め合い、結びつくには
長い時間と深い想いが必要。
文化の本当の交わりが人と人のつながりならばなおのこそ。
どのくらいの「親水時間」がかかるのだろうか。
うちの夫婦は30年。週に一度は言葉や文化のすれ違い。
料理や「食」は人の暮らしのこと。
少なくとも男女の仲ほど長い歴史がある話だ。
早朝、僕の手は動かない。ぼんやりとした夢の続き。
ひとまず、今日は「ボルビック」で鰹と昆布の出汁を新しくひいて、
コッホさんと一杯ずつお茶代わり、ほっこり…。
さて今日のテーマは酢の物、和え物、米麹。
午前中の段取りを考えながら、雪の中で凍りついた昨晩の梅雑炊を溶かして
「ありがとう、有難いこと」の意味を思う…。
夫婦の生活30年、家族水入らずのこと、ドイツで暮らすこと、和食のこと、
自分がこうして生きていられること。「ありがとう、有難いこと」
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日本とドイツの間で暮らしながら「料理すること」と「書くこと」、
自分のための覚え書き
2012年10月
『Rさん、連絡有難う!
ドイツで元気にやっています。
日本のことは、自分の家族のことのようにいつも考えています。
毎日のように自宅の厨房に立っています。
日本の一番素敵な深い部分に携わることも、この壊れて失われた国には
大切なことと思います。
それを自分の作る料理と文章で伝えていくことも、僕の人生の試みかと
思っています。』
2012年11月
『確かに時代の大きな流れ。正確にはアメリカの物質的文化を中心とした
グローバリズムと深く関係すること。
戦後日本の洋食化のスタートは米国の小麦戦略。
もちろん、もう戻る道は無い。
でも、日本に、非欧米圏の私達にとってより大切な将来は、いわゆる国際化や
表層的な多様性ではなく、自らの出自、固有性、文化的継続性との対面に
あると思う。』
『過去を振り返ること。未来を思うこと。今後のことを本当にきちんと捉え、
本当に大切なことが毎日の生活、一年、一年の中心になるようにしたい。』
『今日から日本出張。
ドイツに住んで30年。ドイツに戻る」という言葉は自然に出てくるが、
「日本に戻る」という表現はもう決して自分のものではない。
生まれ育った国にも、家族と暮らすこの土地にも、どちらにも異国と愛着の
思いがある。』
『瀬戸内明石の城跡にて。
午前12時過ぎ、時々、青空が覗く。広く、静かな城址公園の中、
二の丸から本丸を廻る。
そこから少し下ったところ、昔からの城垣にかこまれた隠れ家のような
小さな池。
秋、花、綿雲、青空、木々、緑、紅、橙、黄の葉、全てを映し出して、
風に揺れるさざ波の水面 。』
2012年12月
『日本。僕はこの国には本当に住めないと思う。多くの人々の生活が
あまりに希薄な感じ。支離滅裂な生活の中身。
人生の半分を異国の土地で過ごしたからなのだろうか、
ただ、この深い違和感は既に20才の頃、信州の山々に通っていた頃から
既に感じていたものだ。
当時から東京に戻るたびにあった、この息詰まるような感覚。』
『ドイツでも日本でも歴史の当たり前は無言の大衆。
反対ではあるが、意思表示はしない。
自分たちの毎日の生活が忙しい。長いものに巻かれたり、
様子見をしていたり。忘れていることは一回限りの命の大切さ。』
『久し振りの日曜日。ドイツの僕の村の人達が、子供達が、
父親や母親が、三々五々。静かに時間が流れる午後二時のプールサイド。
ここには日本の福島の今のことも、原発再稼働のことを知る人も、
考える人も一人もいない。
ドイツ、彼らには彼らの心配事がある。でも、国が壊れる、失われることを
怖れることは今はない。其れはだいぶ昔のこととなった。』