草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

今日の俳句/六甲山に雪(龍峰)

2008-02-07 | Weblog
1月末より冬将軍が列島に横たわっている。2月はじめに、待望の今冬2回目の雪が我が六甲山に来た。

  六甲に雪降る夜は人も絶え
  六甲に雪降るらし鳥西へ
  裏山に雪近づきぬ鳥消える
  淡雪や足跡かすか堂の前
  雪雲の厚きまま峰峰に
  雪雲やリハビリ進むライトジャズ       
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久々に俳論を(ゆらぎ)

2008-02-04 | Weblog
(『俳句四合目からの出発』(阿部筲人)をご紹介し、みなさまのご意見を仰ぎます。)

「俳句 四合目から出発」
   ((阿部筲人 しょうじん) 講談社学術文庫 06年10月 第33刷)

阿部筲人は明治33年に生まれ、昭和43年に没した俳人である。加藤楸邨は、
年来の友人である。昭和21年という敗戦まもないころの荒涼たる世の眺めに触発
されて詠んだ句は、集中随一の佳品と評されている。

  ”若葉すやなだれ来る世をみるばかり”

その彼が、 初心俳句10万句そしてさらに5万句を加えていちいちカードで分類するという作業をくりかえし、俳句初心者の繰り返す過ちを拾いだした。500頁を越える大冊である。その中身の一端をご紹介する。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
 

”いままで無数の初心俳句に接してきましたが、常に痛感することは、どの人も常に同じ入り口から入り、常に同じ過誤を繰り返します。たとえば星や灯は必ず「瞬く」と表し、センチな人は「うるむ」と言います。雨は必ず「しとど」に降り、果物は必ず「たわわ」になります。紅葉やカンナは必ず「燃え」、空や水や空気は必ず「澄む」で、帰路は必ず「急ぐ」とし、自転車は必ず「ペダル踏む」とやります。農夫は「背を曲げ」、農夫は「腰太し」に決まっています。母は必ず「小さし」であり、これはまあいいとしても、どんな老齢の作者でも、必ず「妻若し」とやるのは、いささかベタ惚れが強すぎます。早乙女は必ず「紺絣」を着、どんな洗いざらしでも「紺」を匂わせます。日向ぼっこは必ず老人と孫と猫が縁側に登場します。犬は出てきません”

もうすこし、初心者俳句がはまるきまり文句のわなの例を本書から引いてみよう。

”年が明けると「孫の手」を引いて「古き社」に詣で、初日を「背に負うて」帰る。水「ぬるむ」ころともなれば、花は「ほころん」で「ほのか」に香り、空が「澄め」ば心も「澄み」、「子らの瞳(め)」はいつも「つぶら」。 「しとど」に雨が降り、「一陣」の風が吹き起こったかとみるまに台風「一過」して、やがてみかんは「たわわ」にみのり、なぜか「柿一つ」枝に残る。秋の夕べは、「どっと昏(く)れ」、夜の「帳」が「静かに」おりて「深い」闇のかなたで灯は「またたき」、星は「うるむ」。”    

 これはほんのさわりである。そして言う。

”日常氾濫している言葉使いや物の見方がいつのまにか頭にしみこみ、われわれはそれにとらわれてどうにもならない。日常はこれで用が足りるとしても、一歩俳句の道に踏み込むとなると、自分の深い心地を表すのに、道ばたに転がっているこんな言葉や見方で間に合わせてはいられなくなるのが、当然のことです。ここに気がつかないのは、永久に初心者であります。「自分の気持ちは自分の言葉で」ということが、ここにあります”

そうして次から次へと初心者の冒しやすい過ちの例を示してくれる。

”(夫婦俳句)
 秋灯下老妻ぼろを縫ひ綴る
 出張は明日妻の手料理夕茜

 夫が妻を詠いますが、甘い態度が川柳をぷんぷん匂わせます。

 (理屈の支柱俳句ーも・に俳句)
 紫陽花の雨に童話を読み聞かす
 
 雨で外で遊べない。だから本を読んでやる、という理屈仕立てであります。
 その原因は助詞の「に」にあり、これも「も」と同様に初心のそこつな使い方の
 代表語です。(注 子規も「も」は嫌味なり」と強く断定しています)

 この「も・に俳句」をすこし並べますから、その欲張り加減を十分に察しとって
 ください。
 
  絵葉書に河鹿の声「も」書き添えぬ
  一人にて今宵「も」蚊帳の灯を消しぬ

 (説明俳句)原因と結果、理由と帰結を一句の中に完備させる形になります。論  文などでは、筋道が立つことはいいのですが、理屈をいってはならない俳句に  は、かえってさまたげになる性質であります。

  毒芹に驚き山羊を引き離す、

 上半が理由、下半分が結論。ちゃんと筋が通っていますから、読者は想像を
 働かす余裕も楽しみもなく、触発される気分がありません。
 
  山涼し夜に居て地虫ひそかなる

 筋書き通り述べています。山は、涼しく、そして夜、だから地虫もひそかに
 鳴いているのだと、筋の明らさまな説明俳句となります。”


 (見方・考え方の陳腐俳句)
 「ビール」の飲み方は必ず「ぐっと」来て、泡を噴くのは当然でしょう。つまみ は「枝豆」

  枝豆の青さを添えてビールかな
  生ビールぐっと飲み干す映画出て
  泡多き人生の一夜ビール干す

  「アスファルト」は、必ず夏に溶けます。

  アスファルト溶け炎昼を無帽でゆく

 (個人的素材をあつかう俳句)われ俳句、自己宣伝俳句、親族俳句、師友俳句
  君俳句、などなどを俎上にあげる

   羅(うすもの)や浪費いつまで「寡婦われは」
   「句をつくる楽しみありて」盆の月
      ー結構なことですね
   久々の友と夜長を語りあう
      初心には、この「友」の頻出度が高く、かつどれもダメで・・・

 (主観露出俳句)
  「あめつちに寡婦生きがたき」秋の暮れ
   浴衣着て「若さを想い」星に立つ

       ~~~~~~~~~~~~~~~

 すこ長くなりましたが、ここまでのところは単に初心者が陥りやすい言葉のわなを指摘していますが著者の本当の狙いは、具象性です。これまでと比べると遙かに
重要な問題で、初心といわず俳句に携わる限り厳格に要求される、として根本的に説明をしています。そして心の中の感動を「外に定着する手続きを「具象化」としてかなりのページを費やしています。ひとことで言えば、こちら側(抽象名詞、抽象動詞)の言葉を「混入させることなく「完全な具象性を具備した」表現でなければならない、ということです。これに反した俳句の例を次々に取りあげ、ユーモアたっぷりにやり玉に挙げております。

 (野狐禅俳句)・・・自分一人で悟りきったつもりで詠んでいる
  さまよえる静かな「命」秋の蝶
  母の日や「生涯」小さき束ね髪
  夏菊の丘に妻と「世」を語る。
  春眠の父「人生」に衰えぬ

 (どんぞこ俳句)(自意識過剰俳句)
 (煩悶俳句)
  合歓の花乱れし「思索」まとめんと

  自分だけの心中を押しつけます。観念的に浮き上がります。

 (サッカリン俳句)
  水仙にある「純愛」よアイシャドウ

 (孤独俳句)
  秋涼ゝ「一人」の縁に星うるむ
 (思い出俳句)(春愁俳句)
 (形容詞の結論俳句)

 などなど並べ立てるときりがない。最後に「詳悉法」という事情を全部言い切る句について、きびしい言葉で語っている。

 (ああして、こうして、どうした俳句)

  香水のハンケチ忘れ客帰る
  土用入り花咲く稲穂に米は成る
  天高く白雲浮きて行楽日 
 
      ~~~~~~~~~~~~~~~

さてここからが本題です。みなさんは、この本の著者の語るところに、どのような感想をもたれるでしょうか?

文芸評論家にして書誌学の権威である谷沢永一は、その著「百言百話」のなかで、この一節をとりあげ、”日本人に通有の発想の型を浮かび上がらせた、と感嘆しています。

” (解説者の)向井敏のみるところ・・・だれでもはじめて俳句に手を出すとまず口をついて出てくるのがこうした決まり文句なのだが、阿部筲人はそこの<日本人の物の「見方の共通点・最大公約数、あるいは最低水準線>を見、<てこでも動かぬ固い岩層の存在>をたしかめたのである”


ある意味面白い本ではあり、一読するのも悪くありません。

 注)私自身の感想は、あえて省きました。みなさまに先入観をあたえてしまわぬように。失礼の段、お許しください。すでに用意してありますが、後ほど書き込ませていただきます。

     ~~~~~~~~~~~~~~~
(追加の書き込み)私の感想です。

なるほど、谷沢の云うところは、確かであろう。しかし、私は少し違うところに日本人に共通する発想の型を見た。それは、何事も常に欠点を探し、過ちを指摘して指導しようとする姿勢である。すこし話は、飛ぶが、欠点には目をつぶり、その人の良いところを伸ばそうとする欧米によく見られる姿勢とは、反対のものである。

 俳句の本として、時折ぱらぱ見るのは参考になっていいかも知れないが、その指摘するところを熟知したからと言って、いい俳句、感動を与える俳句が詠める訳ではない。解説で向井敏は、「実作者としての阿部筲人は残念ながらついに一家の
風を定めるに至らなかった・・」と書いている。

学ぶべき点は沢山ありますが、あまり気にせずどんどん句を詠んで行きたいと思っています。

 
 

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今日の俳句 / 早梅 (九分九厘)

2008-02-02 | Weblog

探梅の尋ぬる色の違わずや
寒梅や古りにし里の盛りなり
早梅や風は気儘に枝を過ぐ
寒梅や来る雲影の無くもがな
早梅の匂い届かぬ通り道

須磨離宮公園の梅園に今年初めての梅の花を見る。

梅一輪一りんほどのあたヽかさ  嵐雪

この有名な句は、少々理屈ぽいとは思うものの、だからこそ、そしてこれからの季節の移り変わりの的を得ていて、大変好きな句です。
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