金沢吟行によせて
(おことわり)これは、さる5月18日から19日にわたって行われた金沢吟行にことよせた旅の日記であります。吟行の記録については別途配布された資料をごらんください)
まだ20歳代の頃、中央研究所の一員であった私は秋の学会発表に出席するため金沢を訪れた。学会の開かれた金沢大学はまだお城の上にあった。坂道を上って、会場に辿りついたのを覚えている。宿は、当時教職にあった母が抑えてくれた教職員共済組合の宿は浅野川のほとりにあったように覚えている。夕食に、ごりの佃煮が供されように思うが、50年以上も前のこと、往事茫々で記憶は定かではないある。
句会の吟行には、所用で行っていた東京から現地参加した。前日、すこし早めに着いた私は、車を頼んで金沢市郊外にある金沢大学のキャンパスを訪れた。まことに広々としたキャンパスである。目的地の中央図書館を探しあてるのに一苦労した。目的は、ただひとつ。暁烏敏(あけがらすはや)の文庫を見るためである。
”暁烏文庫への道風薫る”
暁烏は明治の頃真宗大谷派の逸材、清沢満之(きよざわまんし)の私塾浩々洞の筆頭弟子である。清沢とともに真宗の宗教改革に大きく貢献した。性格的には、激しい人物で特に女性関係では世の指弾を浴びたこともあった。しかし、俳句の道を歩んで虚子の門をたたいており、虚子はそんな暁烏を評価し、また可愛がった。晩年、金沢を訪れた虚子は、次の句を詠んでいる。
”暁烏文庫内灘秋の風”(虚子)
これは、虚子82歳。金沢を旅した時の句であり、前日卯辰山に登ったあと、金沢大学の暁烏文庫を見ている。ちなみに、内灘は当時アメリカ軍の演習場になっていたが、翌年の昭和32年接収を解除されている。暁烏のことを、もう少しつけ加えておく。親鸞の歎異抄のことである。日本人なら、一度は読まねばならぬ本と思うが、これを現代の世に広めたのは清沢満之である。と、言われている。しかし評価したのは清沢でも、これを世に広く知らしめたのは、暁烏の『歎異抄講話』である。暁烏の熱い思いで溢れている。
暁烏が収集、所蔵した数万冊(ざっと5万冊)の書籍は金沢大学に寄贈され、今は中央図書館の地階にある空調の効いた書庫の中にあった。ありとあらゆる仏教書、哲学書から果てはなぜか工学関係の本に至るまで。彼が尊敬した清沢満之の本も、また後年彼の思いを引き継いだ毎田周一の本も。これらの書籍を眺めながら、しばし暁烏敏のことを偲んでいた。
”盲ひたる暁烏師や白き蘭”
宿に落ち着いてからまもなく夕闇の迫るころ、街へ繰り出した。花街のひとつ、主計町(かずえまち)あたりへ。浅野川ぞいには幾軒もの茶屋や小料理屋が立ち並び、今も昔の風情を残す落ち着いた佇まいである。浅野川大橋から、中の橋あたり、建物が途切れるあたりには主計町緑水宴という池泉回遊式の小ぶりな庭園や「鏡花のみち」と題された小径がある。そのあたりを行きつ戻りつし、そしてようやく暮れなずむころ、作家五木寛之が、その著『金沢さんぽ』で描いている”あかり坂、また”暗がり坂”をそぞろ歩るく。石段の坂を上り、少し広い道に出る、佃煮の店があった。そこで佃煮を求めた。店の奥に目をやると、ちらりと生け花がおかれているのをみた。断って奥を見せてもらうと、小さな茶室のようなスペースがあり、そこは会合に開放しているとか。京都でも、なかなか見ないような趣を感じた。
”暮れなずむ鏡花のみちや夏涼し”
”夕涼や三弦の音流れいし”
”あかり坂暗がり坂や白日傘”
金沢には、ひがしとにし、それに主計町という三つの茶屋街があるが、ここ主計町のそれが昔の雰囲気をよく残し、趣を感ずる。ひがしは、観光客向けのようだ。
夜は駅から、そう遠くない鮨屋へ。カウンターの小ぶりな店だが、主人夫婦の応対もよく、新鮮なネタを楽しめた。ちょうどオーストリアからの遠来のカップルと一緒になり、ウイーンフィルのことやニューイヤーコンサートのことで話が弾んだ。
”かんぱちの握りは旨し近江町”
(二日目 吟行初日) 句会の面々が到着するのはお昼過ぎなので、朝のうちに香林坊あたりを散策した昔は歓楽街であったと聞いていたが、今その面影はない。ファッションブランドの店が軒を構え、銀座の中央通かと見まがうばかりである。
”初夏の風吹き抜ける香林坊”
歩いていると”北国新聞”という広告があちこちで目に入る。その本社も香林坊にある。ローカルな新聞だが、そのクオリティは高いと聞いた。独自の達見を持つようだ。
”北国の文字踊りたる初夏の街”
この通りに面して洒落たホテルもあり、観光するには便利なところである。リゾートトラスト系ののホテルでは、オープンカフェというか外にまでテーブルをだして、まるでパリかニューヨークのパークアヴェニューを思わせる。イタリアンのランチをとり、珍しいベルギービールををいただいた。
句会の仲間、9名は金沢市役所の裏手にある<きくのや旅館>に投宿。今時珍しい古風な宿である。ここで合流して第一日目の吟行を開始した。21世紀美術館の裏手の道を辿り、石浦神社へ。そこから兼六園(真弓坂入口から)に入る。その広大なこと、巧緻を尽くした庭園の素晴らしさには目を瞠った。それにもまして新緑の美しさは、快晴の天気ともあいまって、私たちを歓迎してくれているようだった。全身が染まってしまいそうな青葉の中を抜けてくる風のさわやかさ、ひょうたん池では水面に楓の緑が映って、”床もみじ”ならぬ”水(面)もみじ”状態。木下闇の中を流れ落ちる滝つぼの水面が白く光って、まるで希望の明かりかと思う。また池の水面に山吹きのような花木のほのかな黄の色が映える。夏木立を流れるせせらぎの音が耳に残る。みなさん句帳に印象に残ることを書き留めているのであろう。足が止まってしまう。ほとんど進まない。茶室夕顔亭をすぎたころ、茶店があり、そこであんころ餅をいただいて疲れをいやした。それはよかったのだが、あんころ餅の旨さにしびれ、それまであった句心が吹っ飛んでしまし、しばらく句が詠めなくなってしまった。凡人のなさけさな!
さらに上へ、上へと。花見橋のところではカキツバタが満開。おりしも観光客が大勢いて写真撮影にいそがしい。しかし、”いずれがあやめ、かきつばた”というほどの美女にはお目にかかれなかった。(笑)ちなみにきれいな水の流れている曲水のカキツバタは夜明けに開く。その時、ポッと小さな音がするのだという。このあたりからは、三々五々状態で足をとめて句を詠む。月見橋、雁行橋・・・。芭蕉の句碑もあった。”あかあかと日は難面(つれなくも)も秋の風”
上坂口の近くから北東の方向を望めば、浅野川の向こうに卯辰山が見られた。この吟行のメンバーの中には金沢育ちが三人もいたが、それぞれに昔を懐かしんでいるようだった。幼少のころから、このあたりで育った主宰の胸中に去来したものは何だったのであろうか?
ここで相当の時間を費やしてしまったので、兼六園のほかのエリアはもちろんのこと、金沢城址公園をもスキップせざるを得なかった。それでよいのである。何も急いで回ることもない。金沢での思い出に浸り、また初めて金沢を訪れたものも、一歩一歩この地の良さを味わう。そこから、句が浮かんでくれば言うことはない。
夕食もかねた句会は、駅近くの<大名茶屋>という料理屋の一室で行われた。10句詠ということで、総数90句からの選。佳句・佳吟の中での選には一苦労の体であった。その中から私自身の句に加え、印象に残った数句を下記に記しておく。あくまで、句会の情景にマッチし、印象に残ったということで、必ずしも句の巧拙には限っていない。
”風薫る百回記念の古都の旅” (木綿)
”せせらぎの音の聞こゆる木下闇 (ゆらぎ)
”清流と風と遊ぶや杜若 (九分九厘)
”白山より日本海まで麦の秋 (ちこ)
”夏木立をみな緑に染まりたる(ゆらぎ)
余談になるが、金沢四高の歌に(男(おのこ)、女(おみな)のすむ町に)という文句があってそれを詠み込んで”夏きざすおとこおみなのすむ町に”、とやったのだがとってもらえなかった。あはは(笑)
句会を終えての夕食には、当地の名物なのか、のど黒の焼き物まで供されての馳走に満足した。
(三日目 吟行二日目)
この日も快晴に恵まれた。タクシーで、市内から少し離れたところへ連れていかれた。笠舞3丁目にある猿丸神社。平安時代からのもので猿丸大夫の旧跡。(”奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき”)という小倉百人一首の歌がつい思いおこされる。30メートルちかいケヤキの大木があり、幼い頃、近くに住んでいた主宰はこのケヤキに登って一人で遊んでいたとか。30年振りの再訪に、思い出が溢れたか、動かなくなってしまわれた。吟行の予定が目白押しだが、急がない、急がない! それが気ごころの知れた仲間との旅、そしてハンドメイドの旅の良さである。たっぷり時間を、ここで費やしたのち、桜橋近くの犀星文学碑に向かった。美しい犀川のほとりにあり、室生犀星はこの近くで生まれた。この川を愛していたらしく”犀川”という詩を詠んでいる。
”美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ
春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて
こまやけき本の情けと愛とを知りぬ
いまもその川のながれ 美しき微風ととも
蒼き波たたへたり”
犀川の堤に座り、穏やか流れになく葦切りの声に耳を傾ける。白山連峰も遥かにかすんでいる。今回の吟行の行程を、丹念に積み上げてくれた龍峰さん、もともと金沢に大学の頃まで住んでいた。こんな景色に誘い出されたのか、室生犀星の詩を朗々と読みあげてくれた。”ふるさとは 遠きにありて 思ふもの・・・”に始まる「小景異情」「犀川」そして「五月」八十路ちかい男が、こんなロマンチックな面をもつ。みんな、うっとりと聞きほれていた。
ここには犀星の文学碑と並んで虚子父子の句碑があった。そのうちの一句、”北国の時雨日和やそれが好き” 虚子の、この柔らかくまた自由自在な言葉遣いには感じ入った。みんなにこれを紹介し、”それが好き”を読み込んで句を詠もうと提案した次第。いいのが、後程登場する。
車で移動して、にし茶屋街へ。出格子の美しい街並みである。
”にし茶屋に”たあぼ”を偲ぶ夏の色”
~芸妓にあるまえの見習いのこどもを”たあぼ”という
”
そこから犀川大橋のたもとに行き、犀星が幼少の頃に預けられたという雨宝院にたちよる。さらに車を走らせ、大野庄用水に沿って立ち並ぶ長町武家屋敷跡に至った。犀川から引いた用水に沿って立ち並ぶ土塀が続く。そこからちょっと奥へ入る石畳の小路には今も人が住む家々が昔のままにある。それに交差して、さらに石の小路が走っている。静かな時が流れている。和服の女性の後ろ姿を見たように思うのは、目の錯覚かも知れない。絵日傘でも差していれば、京都の三寧坂や石塀小路もかくやと思うばかりの風情がある。
さらに歩を東に進めると、香林坊の百万石通りと並行して流れるせせらぎ通りに至る。ここで昼食をとった<割烹むら井>では、出されて驚く甘海老ドンが有名であり。大きな甘海老の天ぷらが七尾。なんとか完食した。どうもこの店は、金沢ではそれと知られた店のようである。たまたまパリに住む知人の女性が、このどんぶりの画像をみて、”ここの主人は、私と同じ年です。”色々な種類のお漬物を作っていて、食べさせてくれました。とってもユニークな方ですよ。”と言ってよこした。すっかり有名になってしまった。
”長町の甘海老丼や夏兆す”
昼食の後は、近くの石川四高文化交流館で句会をもった。レンガ造りの建物は、以前金沢大学の理学部のあったところで、ここで実験を繰り返したことが龍峰さんは、とても懐かしげである。今回は時間の関係もあり、各人5句の投句となった。相変わらず、いい句が並んだ。そのうちの、ほんの数句と問題の作のみご紹介するにとどめる。。
”わが心育みし川訪ひし夏” (主宰)
”風青し瀬音やさしくそれが好き” (木綿)
~「風青し」として投句されたとき、この言葉は季語にないとして、「若葉風」として本人が推敲した。しかし「風青し」が、いい響きなのであるので、その後気にかかっていた。あちこち調べたところ「ホトトギス」の季語ではないが、一二 の辞典では「青嵐」と同じとして表記されていた。ただし、現在ではほとんど使われていない。ここは季語であろうがなかろうが、「風青し」が効いているように思うので、取り上げた次第である。
”千年の古木の放つ若葉光” (四捨五入)
”犀川の風涼しけふ誕生日” (龍峰)
~名句であるかどうか意見の分かれるところもあろう。しかし、のめのめと言い切ったところがいいとして採られた? (笑) 誰だ? 句会の幹事役を務めてくれた龍峰さんの作であることが、発覚。であれば、隣の教室から流れる女性合 唱に対抗すべく、Happy Birth Day to you を声高らかにみなで歌い上げたのである。 気のはらぬ句会はいい!
”緑陰に犀星の詩を諳んずる”(ゆらぎ)
二日にわたる吟行でかなり歩き回り、お疲れの様子もなきにしもあらず。しかし気ごころの知れた仲間同士、へらず口をたたきながらも楽しく、盛り上がった吟行であった。これほどの齢をかさねて、こんな心豊かな交流ができることはなかなかない。望外の幸せである。
~~~~~~~~~~~~~~~
最後になるが、この旅の日記の続編を、いつか書いてみたいと思っている。それは見残したところがいくつもあるから。金沢城公園を散策してみたい、泉鏡花記念館へも行きたい。五木寛之文庫も開設された金沢文芸館へも。また鈴木大拙のことも追ってみたい。それに”ならまち花明かり”で出会った「ひがし」のお姐さんにも再会したい(笑) 加えて加賀百万石の伝統以前、つまり前田利家が支配する以前の金沢にも、つまり真宗門徒の手で出来あがった金沢のことを偲んでみたいのである。長町武家屋敷の石畳の道を抜け、せせらぎ通りに出るまえのところに、洒落た料理屋も見つけてある。今回の滞在の間に、少なからぬ人たちと出会ったが、なにか柔らかい感じがあり、よき印象を持って金沢を去った。
(おことわり)これは、さる5月18日から19日にわたって行われた金沢吟行にことよせた旅の日記であります。吟行の記録については別途配布された資料をごらんください)
まだ20歳代の頃、中央研究所の一員であった私は秋の学会発表に出席するため金沢を訪れた。学会の開かれた金沢大学はまだお城の上にあった。坂道を上って、会場に辿りついたのを覚えている。宿は、当時教職にあった母が抑えてくれた教職員共済組合の宿は浅野川のほとりにあったように覚えている。夕食に、ごりの佃煮が供されように思うが、50年以上も前のこと、往事茫々で記憶は定かではないある。
句会の吟行には、所用で行っていた東京から現地参加した。前日、すこし早めに着いた私は、車を頼んで金沢市郊外にある金沢大学のキャンパスを訪れた。まことに広々としたキャンパスである。目的地の中央図書館を探しあてるのに一苦労した。目的は、ただひとつ。暁烏敏(あけがらすはや)の文庫を見るためである。
”暁烏文庫への道風薫る”
暁烏は明治の頃真宗大谷派の逸材、清沢満之(きよざわまんし)の私塾浩々洞の筆頭弟子である。清沢とともに真宗の宗教改革に大きく貢献した。性格的には、激しい人物で特に女性関係では世の指弾を浴びたこともあった。しかし、俳句の道を歩んで虚子の門をたたいており、虚子はそんな暁烏を評価し、また可愛がった。晩年、金沢を訪れた虚子は、次の句を詠んでいる。
”暁烏文庫内灘秋の風”(虚子)
これは、虚子82歳。金沢を旅した時の句であり、前日卯辰山に登ったあと、金沢大学の暁烏文庫を見ている。ちなみに、内灘は当時アメリカ軍の演習場になっていたが、翌年の昭和32年接収を解除されている。暁烏のことを、もう少しつけ加えておく。親鸞の歎異抄のことである。日本人なら、一度は読まねばならぬ本と思うが、これを現代の世に広めたのは清沢満之である。と、言われている。しかし評価したのは清沢でも、これを世に広く知らしめたのは、暁烏の『歎異抄講話』である。暁烏の熱い思いで溢れている。
暁烏が収集、所蔵した数万冊(ざっと5万冊)の書籍は金沢大学に寄贈され、今は中央図書館の地階にある空調の効いた書庫の中にあった。ありとあらゆる仏教書、哲学書から果てはなぜか工学関係の本に至るまで。彼が尊敬した清沢満之の本も、また後年彼の思いを引き継いだ毎田周一の本も。これらの書籍を眺めながら、しばし暁烏敏のことを偲んでいた。
”盲ひたる暁烏師や白き蘭”
宿に落ち着いてからまもなく夕闇の迫るころ、街へ繰り出した。花街のひとつ、主計町(かずえまち)あたりへ。浅野川ぞいには幾軒もの茶屋や小料理屋が立ち並び、今も昔の風情を残す落ち着いた佇まいである。浅野川大橋から、中の橋あたり、建物が途切れるあたりには主計町緑水宴という池泉回遊式の小ぶりな庭園や「鏡花のみち」と題された小径がある。そのあたりを行きつ戻りつし、そしてようやく暮れなずむころ、作家五木寛之が、その著『金沢さんぽ』で描いている”あかり坂、また”暗がり坂”をそぞろ歩るく。石段の坂を上り、少し広い道に出る、佃煮の店があった。そこで佃煮を求めた。店の奥に目をやると、ちらりと生け花がおかれているのをみた。断って奥を見せてもらうと、小さな茶室のようなスペースがあり、そこは会合に開放しているとか。京都でも、なかなか見ないような趣を感じた。
”暮れなずむ鏡花のみちや夏涼し”
”夕涼や三弦の音流れいし”
”あかり坂暗がり坂や白日傘”
金沢には、ひがしとにし、それに主計町という三つの茶屋街があるが、ここ主計町のそれが昔の雰囲気をよく残し、趣を感ずる。ひがしは、観光客向けのようだ。
夜は駅から、そう遠くない鮨屋へ。カウンターの小ぶりな店だが、主人夫婦の応対もよく、新鮮なネタを楽しめた。ちょうどオーストリアからの遠来のカップルと一緒になり、ウイーンフィルのことやニューイヤーコンサートのことで話が弾んだ。
”かんぱちの握りは旨し近江町”
(二日目 吟行初日) 句会の面々が到着するのはお昼過ぎなので、朝のうちに香林坊あたりを散策した昔は歓楽街であったと聞いていたが、今その面影はない。ファッションブランドの店が軒を構え、銀座の中央通かと見まがうばかりである。
”初夏の風吹き抜ける香林坊”
歩いていると”北国新聞”という広告があちこちで目に入る。その本社も香林坊にある。ローカルな新聞だが、そのクオリティは高いと聞いた。独自の達見を持つようだ。
”北国の文字踊りたる初夏の街”
この通りに面して洒落たホテルもあり、観光するには便利なところである。リゾートトラスト系ののホテルでは、オープンカフェというか外にまでテーブルをだして、まるでパリかニューヨークのパークアヴェニューを思わせる。イタリアンのランチをとり、珍しいベルギービールををいただいた。
句会の仲間、9名は金沢市役所の裏手にある<きくのや旅館>に投宿。今時珍しい古風な宿である。ここで合流して第一日目の吟行を開始した。21世紀美術館の裏手の道を辿り、石浦神社へ。そこから兼六園(真弓坂入口から)に入る。その広大なこと、巧緻を尽くした庭園の素晴らしさには目を瞠った。それにもまして新緑の美しさは、快晴の天気ともあいまって、私たちを歓迎してくれているようだった。全身が染まってしまいそうな青葉の中を抜けてくる風のさわやかさ、ひょうたん池では水面に楓の緑が映って、”床もみじ”ならぬ”水(面)もみじ”状態。木下闇の中を流れ落ちる滝つぼの水面が白く光って、まるで希望の明かりかと思う。また池の水面に山吹きのような花木のほのかな黄の色が映える。夏木立を流れるせせらぎの音が耳に残る。みなさん句帳に印象に残ることを書き留めているのであろう。足が止まってしまう。ほとんど進まない。茶室夕顔亭をすぎたころ、茶店があり、そこであんころ餅をいただいて疲れをいやした。それはよかったのだが、あんころ餅の旨さにしびれ、それまであった句心が吹っ飛んでしまし、しばらく句が詠めなくなってしまった。凡人のなさけさな!
さらに上へ、上へと。花見橋のところではカキツバタが満開。おりしも観光客が大勢いて写真撮影にいそがしい。しかし、”いずれがあやめ、かきつばた”というほどの美女にはお目にかかれなかった。(笑)ちなみにきれいな水の流れている曲水のカキツバタは夜明けに開く。その時、ポッと小さな音がするのだという。このあたりからは、三々五々状態で足をとめて句を詠む。月見橋、雁行橋・・・。芭蕉の句碑もあった。”あかあかと日は難面(つれなくも)も秋の風”
上坂口の近くから北東の方向を望めば、浅野川の向こうに卯辰山が見られた。この吟行のメンバーの中には金沢育ちが三人もいたが、それぞれに昔を懐かしんでいるようだった。幼少のころから、このあたりで育った主宰の胸中に去来したものは何だったのであろうか?
ここで相当の時間を費やしてしまったので、兼六園のほかのエリアはもちろんのこと、金沢城址公園をもスキップせざるを得なかった。それでよいのである。何も急いで回ることもない。金沢での思い出に浸り、また初めて金沢を訪れたものも、一歩一歩この地の良さを味わう。そこから、句が浮かんでくれば言うことはない。
夕食もかねた句会は、駅近くの<大名茶屋>という料理屋の一室で行われた。10句詠ということで、総数90句からの選。佳句・佳吟の中での選には一苦労の体であった。その中から私自身の句に加え、印象に残った数句を下記に記しておく。あくまで、句会の情景にマッチし、印象に残ったということで、必ずしも句の巧拙には限っていない。
”風薫る百回記念の古都の旅” (木綿)
”せせらぎの音の聞こゆる木下闇 (ゆらぎ)
”清流と風と遊ぶや杜若 (九分九厘)
”白山より日本海まで麦の秋 (ちこ)
”夏木立をみな緑に染まりたる(ゆらぎ)
余談になるが、金沢四高の歌に(男(おのこ)、女(おみな)のすむ町に)という文句があってそれを詠み込んで”夏きざすおとこおみなのすむ町に”、とやったのだがとってもらえなかった。あはは(笑)
句会を終えての夕食には、当地の名物なのか、のど黒の焼き物まで供されての馳走に満足した。
(三日目 吟行二日目)
この日も快晴に恵まれた。タクシーで、市内から少し離れたところへ連れていかれた。笠舞3丁目にある猿丸神社。平安時代からのもので猿丸大夫の旧跡。(”奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき”)という小倉百人一首の歌がつい思いおこされる。30メートルちかいケヤキの大木があり、幼い頃、近くに住んでいた主宰はこのケヤキに登って一人で遊んでいたとか。30年振りの再訪に、思い出が溢れたか、動かなくなってしまわれた。吟行の予定が目白押しだが、急がない、急がない! それが気ごころの知れた仲間との旅、そしてハンドメイドの旅の良さである。たっぷり時間を、ここで費やしたのち、桜橋近くの犀星文学碑に向かった。美しい犀川のほとりにあり、室生犀星はこの近くで生まれた。この川を愛していたらしく”犀川”という詩を詠んでいる。
”美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ
春は春、なつはなつの 花つける堤に坐りて
こまやけき本の情けと愛とを知りぬ
いまもその川のながれ 美しき微風ととも
蒼き波たたへたり”
犀川の堤に座り、穏やか流れになく葦切りの声に耳を傾ける。白山連峰も遥かにかすんでいる。今回の吟行の行程を、丹念に積み上げてくれた龍峰さん、もともと金沢に大学の頃まで住んでいた。こんな景色に誘い出されたのか、室生犀星の詩を朗々と読みあげてくれた。”ふるさとは 遠きにありて 思ふもの・・・”に始まる「小景異情」「犀川」そして「五月」八十路ちかい男が、こんなロマンチックな面をもつ。みんな、うっとりと聞きほれていた。
ここには犀星の文学碑と並んで虚子父子の句碑があった。そのうちの一句、”北国の時雨日和やそれが好き” 虚子の、この柔らかくまた自由自在な言葉遣いには感じ入った。みんなにこれを紹介し、”それが好き”を読み込んで句を詠もうと提案した次第。いいのが、後程登場する。
車で移動して、にし茶屋街へ。出格子の美しい街並みである。
”にし茶屋に”たあぼ”を偲ぶ夏の色”
~芸妓にあるまえの見習いのこどもを”たあぼ”という
”
そこから犀川大橋のたもとに行き、犀星が幼少の頃に預けられたという雨宝院にたちよる。さらに車を走らせ、大野庄用水に沿って立ち並ぶ長町武家屋敷跡に至った。犀川から引いた用水に沿って立ち並ぶ土塀が続く。そこからちょっと奥へ入る石畳の小路には今も人が住む家々が昔のままにある。それに交差して、さらに石の小路が走っている。静かな時が流れている。和服の女性の後ろ姿を見たように思うのは、目の錯覚かも知れない。絵日傘でも差していれば、京都の三寧坂や石塀小路もかくやと思うばかりの風情がある。
さらに歩を東に進めると、香林坊の百万石通りと並行して流れるせせらぎ通りに至る。ここで昼食をとった<割烹むら井>では、出されて驚く甘海老ドンが有名であり。大きな甘海老の天ぷらが七尾。なんとか完食した。どうもこの店は、金沢ではそれと知られた店のようである。たまたまパリに住む知人の女性が、このどんぶりの画像をみて、”ここの主人は、私と同じ年です。”色々な種類のお漬物を作っていて、食べさせてくれました。とってもユニークな方ですよ。”と言ってよこした。すっかり有名になってしまった。
”長町の甘海老丼や夏兆す”
昼食の後は、近くの石川四高文化交流館で句会をもった。レンガ造りの建物は、以前金沢大学の理学部のあったところで、ここで実験を繰り返したことが龍峰さんは、とても懐かしげである。今回は時間の関係もあり、各人5句の投句となった。相変わらず、いい句が並んだ。そのうちの、ほんの数句と問題の作のみご紹介するにとどめる。。
”わが心育みし川訪ひし夏” (主宰)
”風青し瀬音やさしくそれが好き” (木綿)
~「風青し」として投句されたとき、この言葉は季語にないとして、「若葉風」として本人が推敲した。しかし「風青し」が、いい響きなのであるので、その後気にかかっていた。あちこち調べたところ「ホトトギス」の季語ではないが、一二 の辞典では「青嵐」と同じとして表記されていた。ただし、現在ではほとんど使われていない。ここは季語であろうがなかろうが、「風青し」が効いているように思うので、取り上げた次第である。
”千年の古木の放つ若葉光” (四捨五入)
”犀川の風涼しけふ誕生日” (龍峰)
~名句であるかどうか意見の分かれるところもあろう。しかし、のめのめと言い切ったところがいいとして採られた? (笑) 誰だ? 句会の幹事役を務めてくれた龍峰さんの作であることが、発覚。であれば、隣の教室から流れる女性合 唱に対抗すべく、Happy Birth Day to you を声高らかにみなで歌い上げたのである。 気のはらぬ句会はいい!
”緑陰に犀星の詩を諳んずる”(ゆらぎ)
二日にわたる吟行でかなり歩き回り、お疲れの様子もなきにしもあらず。しかし気ごころの知れた仲間同士、へらず口をたたきながらも楽しく、盛り上がった吟行であった。これほどの齢をかさねて、こんな心豊かな交流ができることはなかなかない。望外の幸せである。
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最後になるが、この旅の日記の続編を、いつか書いてみたいと思っている。それは見残したところがいくつもあるから。金沢城公園を散策してみたい、泉鏡花記念館へも行きたい。五木寛之文庫も開設された金沢文芸館へも。また鈴木大拙のことも追ってみたい。それに”ならまち花明かり”で出会った「ひがし」のお姐さんにも再会したい(笑) 加えて加賀百万石の伝統以前、つまり前田利家が支配する以前の金沢にも、つまり真宗門徒の手で出来あがった金沢のことを偲んでみたいのである。長町武家屋敷の石畳の道を抜け、せせらぎ通りに出るまえのところに、洒落た料理屋も見つけてある。今回の滞在の間に、少なからぬ人たちと出会ったが、なにか柔らかい感じがあり、よき印象を持って金沢を去った。