草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

「江戸俳諧」から「ケータイ小説」までの一考察 (九分九厘)

2007-09-30 | Weblog
先ずは、一寸した息抜きに「炭太祇」の濃艶な句を下記に、ご紹介する。

  春雨や昼間経よむおもひもの

隠宅の窓ぎわの机に凭れて、ものうく春雨を眺めいっていると,隣家の妾宅から、旦那が来ていない昼間なので、嬌声のかわりに、殊勝な読経の声が珍しくも漏れてくるが、それが却って、変わったなまめかしさをおぼえさせる、という奇妙に倒錯的な官能的な句。

  鞦韆や隣みこさぬ御身躰

美女とブランコとの組み合わせは、フランスのロココ画家たちも、盛んに取り上げたテーマであったが、江戸時代の和服の女性は、長いスカートを思い切り空に向かって蹴り上げて、下から紐で漕いでいる男性を、眼福にあずかせるというふうには参らなかった
  ふらここの会釈こぼるるや高みより

しかし見下してにっこりと頬に血の昇った笑顔を恵んでくれることは、出来たのである。
  
  夜歩く春の余波(なごり)や芝居者

芝居がはねて、さんざめく歓楽街のなかを、晩春の生暖かい空気を横切って歩いて行く、その身のこなしの色めかしさが、ひとめで俳優だと知れる。

  うつす手に光る蛍や指のまた

闇のなかで蛍の光に仄かに浮かび上がる、美しい女の指と指との間のまたの、胸をふるわせるようなエロチシズム。それはその女の脇のしたや、ヴィーナスの丘の谷あいへ、男の連想をそそるのである。かと思えば、一転してダフニスとクロエの都会版のような風情の句。

  初恋や燈籠によする顔と顔

春信の絵のように、前髪を剃る前の少年の顔は、どちらが男か女か,神燈の仄明りでは、通りすがりの者には見分けがつかない。それは一瞬、レスビアンの光景かとも、見まがうのである。

  手へしたむ髪のあぶらや初氷   

いとしい女の手をとると、その冷たさのなかに髪油の手触りが感じられる。冬なのだ。
女は自分に逢うために、入念に髪の手入れをしてきたのだ。

  はつ雪や酒の意趣ある人の妹   

白い雪景色のなかに、ハッとするほどの美しい娘が、傘を傾けて歩いて来る。近ずいてみると、顔見知りの女なのだが、昨夜、あいにくのことには、彼女の兄貴とは、飲んだ上で喧嘩別れしたばかりなのだ。清らかな雪、艶なる娘、そして二日酔い、このユーモラスで意表をついた取り合わせ。

  恥ずかしやあたりゆがめし置炬燵

これはまた露骨なポルノのような句。「炬燵は恋の玉手箱」という俚言もあるように、差し向かいで炬燵にあたっていると、つい乱れてしまうのが当時の恋人たちの冬の愉しみであったのは、浮世絵師たちの得意の題材であった。その直後、二人の立ち去ったあとに、部屋に入った女中が、思わず頬を赧らめる。

 以上の俳句の選と注釈は小説家「中村真一郎」のもので、著書「俳句のたのしみ」(新潮社‘90)よりの抜粋である。たいして感心するほどの文章でもないが、明解で気晴らしにはもってこいである。彼は俳句で最も好きなのは「俳句ロココ風」と称して、炭太祇、大島蓼太、建部涼袋、加舎白雄 等など、江戸時代十八世紀後半の「俳諧小詩人」を高く評価している。特に御贔屓なのは太祇である。

小説の方法論にこだわった中村真一郎の俳句論議で、私の興味をひいた一節があった。
「和歌の使っている文語は、多分平安時代の当時の話し言葉からつくられた文章語なのであろう。そして俳句の文語なるものは、時代が移るにつれて、この平安文章語が江戸の話し言葉と大きく乖離してきたので、当時の話言葉の要素を文章語に輸血して生きいきとした、俳諧というものに作り変えていったのである。明治以降の散文は言文一致の運動が示すように、明治半ば以降に話言葉をもとに、作り出されたものであり、これが現在われわれが使っている散文の形態である。現在の散文はもっぱら話言葉に依存しているので、社会の変化に伴い絶えず変形をしていくのである。その一方で、現代語では作ることが出来ない即ち文語中心の一種の擬古体である短歌や俳句が、現にこの世で多くの人々に使われ、現代の感動をその詩文の中に盛り込むことができるという事実がある。ひょっとすると、現在散文にもっぱら使われている口語体なるものは、充分な表現能力を持ち合わせていないのでなかろうかと不安に思うことすらある。短歌や俳句が今の散文の欠如しているところを補完しているやに思われる。今の散文はというものは、伝統的な文章語に比べて、冗漫で粗雑で、文学の素材としては、このままではどうにもならない体のものである。」
「元禄の俳人たちの句の、その言葉とイメージとの連結のなかに現代語による定型詩の詩句の骨法があるように思われる。これは短歌に比べて、俳句が元来我が国の古典伝統に対する、庶民生活のなかからのパロディーとして発生したものであるから、その用語において純粋な文章語ではなく、当時の生活用語が混入し、それが現代の口語の源泉になっているという事実に関係がある。つまり俳諧のその言葉の並べ方は、現代の口語による詩句に効果のうえで大変に参考になるものである。つまり俳句は、半ば俗語でありながら、そこに伝統的なリズムを保持していて、それが口語を新しい詩の用語とする際に、その底に潜在的な律を発見する手がかりとなるのである。」

中村真一郎が特に元禄の俳諧小詩人が好きなのは、上記の論を根拠にして言っているものなのであろう。其角がその祖であるとしているが、芭蕉については別格本山として、世界の古今東西の十指のなかに入る大詩人としている。
              
話は全然変わるが、現在「ケータイ小説」なるものが中高女学生を中心に大流行しているそうだ。今まで全く知らなかったのであるが、馬鹿にしてはいけない。人気小説の携帯電話ネットの1日の最大アクセスが一千万をはるかに越え、単行本にすると百万部がすぐ売れるそうである。NHK<クローズアップ現代>に紹介されていたが、サイトに出る文章が全くの口語であって、典型的な私的用語である。二三行の文章を、現在の散文の文章語(私的用語に対し公的用語と称していた)で対比解釈していたが、当然解釈の文の方が長いものであって、冒頭の太祇の俳句と、真一郎の解釈の対比と似たところがあるのは全く皮肉なことである。一瞬、携帯液晶画面に口語の短行詩を見たような錯覚を覚えるのである。季語ではないが、若者共通の暗号である便利な記号☆♪・・等もあるのである。TV解説者は明治の言文一致運動以来の、あたらしい平成言文一致運動として大きな影響力を持っているので、冷静に見守る必要があると言っていた。出版業界やメディアのアプローチがもの凄いそうである。あと50年もすると文芸の世界は、想像もつかない世の中になっているのかもしれない。
                             以上
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今日の俳句/(ふたたび)菊枕  (九分九厘)

2007-09-28 | Weblog
据膳のありし日のこと菊枕
耳底にハイヒール響きて菊枕
菊枕中身取りだす女の夢

ゆらぎさんの「菊枕」の一句を肴にして、あれこれと<はいくる>こととは如何なるものかと考えてきましたが、なにはさておき、修行の未熟さに気が付き、ともかくも先ずは句を作るべしと思いました。もちろん「菊枕」を使ってのことです。但し、未だかつて菊枕で寝た経験はないことを申し上げておきます。さて、<俳句とは>と論じ奉ったものの、やはりそんなに理屈道理にはうまくいきません。出来上がりを見ると、何よりも、私の句はゆらぎさんの句と違って品が悪いようです。これは生来のものゆえに止むを得ません。しかしながら、俳句に最も必要なものは「品格」かもしれぬと気がついた次第です。乞御批評! 
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今日の俳句/菊枕(ゆらぎ)

2007-09-27 | Weblog
匂やかな湯の宿にあり雨の萩

冗舌もはや静まりて菊枕
開け放ち菊枕してまどろみぬ 
面影はほのかに浮かび菊枕
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今日の俳句/十五夜 (九分九厘)

2007-09-25 | Weblog
満月の孤絶さえぎるものもなく
光芒の乱視耐えざる月夜かな
虫の声五種類ほどに聞き分けり

今日は十五夜。満天雲のない素晴らしい月夜である。滅多にない機会ゆえに,一杯機嫌で裏山を散歩して嘱目の句に挑戦。
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今日の俳句/鬼灯 (九分九厘)

2007-09-24 | Weblog
鬼灯の怖い名字に裏切られ
鬼灯やほろよい機嫌の高瀬川
鬼灯や連ねて三途の橋渡し
枯鬼灯三味の撥音に首動く
鬼灯の枯れても久し描く朱

絵の師匠のアトリエにドライフラワーがある。デッサンの教材である。その束の中に鬼灯があり、もう十年近くなるが褪色したものの朱色が奇麗に残っている。師匠は生徒がデッサンしている間は、津軽三味線を弾くのである。

偶然にもゆらぎさんと同じ頃に鬼灯の句を作っていたようです。これも何かの縁です。
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今日の俳句/鬼灯(ゆらぎ)

2007-09-23 | Weblog
風の音も空の色さえ九月尽

鬼灯の朱彩りぬ夜の闇
鬼灯の紅深けれど秘めしこと

鬼灯や嘘つき通す日もあらむ(New)
鬼灯や終焉の色なお紅く(New)
蝕める鬼灯かさと風の音(New)


 読書日記を更新しました。『男の品格』、のぞいて見てください。
遊び心のお話です。
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制度としての季節/またまた「百人一句」 のこと (九分九厘)

2007-09-22 | Weblog
百鬼さんのご推奨、高橋睦郎著「百人一句」の巻末に掲載されていた、仁平勝と高橋睦郎の対談中に次のような高橋氏の発言があった。

「日本は季節の変化が豊かな国だから季節に敏感になって俳句が生まれた、という説明は正確でない。むしろ制度として季節を感じるという事が、人間本来のあり方に適っているものだというふうに持っていって、それをもっと一般化・世界化していかなくてはいけないと僕は思っている。」

<制度としての季節>という言葉は、聞き慣れない言葉であるが、何かで読んだ記憶が頭をかすめ本箱の隅を探していたら、中村雄二郎のエッセー集成「考える愉しみ」(青土社’93))が出てきた。この本の<言葉と人間空間>なる章の中に、「制度としての<自然>と漱石」なる小論がある。哲学者或いは文芸評論家としての中村雄二郎の俳句の季語に対する意見も極めて面白いものであった。この<制度>という言葉は、誰が最初に使い始めたのかはわからないが、下記にその要約をしてみる。

日本人には概して植物を中心にした風物のうちに、そして季節の移り変わりのうちに、何よりも自然を感じるところがあると言ってよさそうだ。例えば部屋のなかに、自然のままの岩石のかけらと、小ワニの剥製と、よく出来た造花のあやめを置いてみるとき、自然のままの岩石よりも、本物そっくりの造花のあやめに<自然>を感じかねないのである。
一つの国や社会のものの見方や感じ方の総体としての文化には、それぞれ固有の分類システムが含まれている。むしろ、文化とはすべての事物を区別し、分類するシステムそのものであるとさえ言える。そこにおいて、自然的なものも分類区別され、その分類を通してはじめて<自然>に対する見方や感じ方も、はっきりと捉える事が出来る。その自然は言語によって名づけられ分類されるわけだが、分類された<自然>は、すでに<制度>化された自然なのである。例えばここに<花>を取り上げてみると、日本語の<花>は植物上の単なる花だけではなく、とりわけ<桜>をさし古来の日本人の生活感情のうちに格別な位置を占める。すなわち<自然>の制度化とは、外なる自然の制度化であるとともに内なる自然、感覚や感受性の制度化であるといえる。感情や情念的な行為も言葉と同じように作り出されたものであって、たとえば父子の情のような人間のなかにすでに刻み込まれているようにみえる感情でさえ、本当は制度なのであるといえる。

このような制度化された<自然>という観点から、古来の日本人の<自然>に対するとらえかたを考える上で、興味深い多くの問題を含み、また手がかりを与えてくれるものに俳句の歳時記がある。山本健吉が言っている如く、歳時記は外面的には単なる季語の集成であるが、実は日本人が長い間歳月をかけて磨き上げたきた、<美意識と知的認識>の精髄であり、季語によって形づくられた一つの立体的な<秩序の世界>なのである。すなわち季語の世界は、永い歳月の間にピラミッド型に形成された、一つの世界である。その頂点(中心)に四季を代表する五つの景物<花><郭公><月><雪>それに<寝覚>または<紅葉>がある。このまわりに斜面に沿って、和歌の題、連歌の題、俳諧の題が取り巻いていく。そしてその裾野をなす最底辺(周辺)部に、日本の風土のあらゆる季節現象を尽くそうとする、ただの季語が存在していて、現実の世界に溶け込んでいる。中心部は日本人の美意識によって厳しくなされた選択であり、底辺部は事実のあるがままの記述がなされ、ザインとしての記述であるが、そこにも選択が働いていないわけではない。つまりこのような重層性をもって成り立っている季語の世界は、そのフィクション性の度合いが中心部と周辺部とでは大いに異なっている。それにもかかわらず、全体が<自然>や事物の擬制化され、制度化された世界なのである。ただ、狭い意味での季語はあるがままの即自的な自然や事物と接し、それらとの限界領域をなしている。また季語の世界の中心部近くに働く美意識の選択は、そういう美意識を育んだ文化としての京都の風土と宮廷人の限られた生活に密接に結びついていた。自然と直接ぶつかった万葉人と違い、洗練された美意識によって自然をなぞり類型化したのであった。和歌に限ったことではなく、俳句においても中央の季感によって地方の作者が句を作っていることが多い。例えば、漁民や船乗りの間暴風などの厳しい季節現象を表していた生活の言葉が矮小化されて季語の世界に取り込まれる場合も少なくない。かくして、全ての自然現象や事物はそのまま一つの秩序としての季語の世界に入りうるわけではなく、文化的にも地域的にも求心的原理によって選択されたり変容を受けたりする。中心部から離れた荒々しい自然現象や風物の発見は遠心原理にもとずく自然との接触であるが、次第に秩序の世界に取り込まれて、静止的な場所に位置し遠心的な原理の働きと生なましさを失うのである。つまり季語の世界は静止し惰性化した形をとりやすく、従って遠心的な原理によって様々な角度からこれに問いかけていくことが必要になってくる。歳時記の世界に私は制度化された自然の一つの典型なあり方を見た。ここではあらゆる自然現象も風物もすべて四季と新年の分類にうちに、つまり季節という自然の移り行きのうちに区分され、位置づけされるのである。そこでは行事も人事も風物と化し、自然と化し、そうすることによってかえって全ての自然が制度化されているのである。人間そのものまで、忌日つまり死んだ日によって四季のうちに分類され季語に準ずるものになっているのであるから徹底している。そして季語の世界あるいは体系は、その最周辺部があるがままの自然や事物に接しているだけにかえって私たちはその拘束から逃れ難いのである。

 以上が季語に関する中村氏の論であるが、「百人一句」の対談に於いては、<制度化された季節>の詳しい言及は冒頭の記述以外には何もない。曰く「むしろ制度として季節を感じるという事が、人間本来のあり方に適っているものだというふうに持っていって、それをもっと一般化・世界化していかなくてはいけないと僕は思っている。」高橋睦郎のこの論を上記のピラミッドモデルに当てはめてみると、保守的な伝統回帰の匂いがしてきて、一般化、世界化の手法にはなりえないのではないかという疑念がわいてくる。おそらく睦郎の考えていることは、中村氏のいうピラミッドの中心部の古来の美意識が、人間の我を解脱したマンダラの世界に置き換えたものになっているのであろうと、私は想像している。中村氏の論は歴史的文学論で、いささか<制度>についての解釈に両者の考えに違いがあるものと考える。いずれにせよ中村氏のほうがより批判的な立場にたっているのは間違いがないことである。

この小論のタイトルが「制度としての<自然>と漱石」となっているのは、この小論の後半の論旨が、制度化された自然からの脱皮を図ったのが、実は漱石の「吾輩は猫である」の小説である、というところにある。すなわち、正岡子規以来俳句や短歌と結びつきつつ発達した写生文から、小説に進んだ漱石が、季語の世を形づくる短歌や俳句の<自然>に対する見方や感じから根本的に脱皮して、<自然>に対する新しいとらえ方を切り開いた代表的な一人であるものとするのである。漱石は「吾輩は猫である」で、猫をとりたてて動物的<自然>として描いているわけではなく、その意味では猫はむしろ人間化されている。しかしその代りに、人間がそれだけ<動物>化されている。猫の目を通して本能的な<自然>が浮かび上がってくるようになっていて、人間が植物的<自然>としてよりは動物的<自然>としてとらえられている。この小説が、登場人物にしゃべらしながら、奇怪で不気味な経験を克明に記述していきながら、制度化された自然の感覚や感情を大きく革新して新しい領域を切り開こうとしたものであると、中村氏は高く評価している。(この漱石論の詳しいことについては紙面の都合上割愛させてもらうことにします。)
                               
                              以上
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今日の俳句/稲穂(フェニックス)

2007-09-20 | Weblog
(棚田に咲く曼珠沙華の見事な写真を、フェニックス様よりお送り頂きました。
句と合わせご紹介申し上げます。珍しい白い花の写真もあります。日替わりでご紹介します。
この福岡県浮羽郡にある「つづら棚田」は、棚田百選にも取り上げられている
くらい見事なものです)

黄金の稲穂の匂い陽の匂い
コンバイン稲穂の匂い運び来る
彼岸花揃いて燃ゆる棚田の畦に
秋晴れの棚田に山影くっきりと

 
このブログでは、残念ながら写真を沢山アップロードできません。その代わりに
浮羽の棚田の写真集へのリンクをはりましたので、お楽しみください。このサイトは、
ニコンのD100を愛用されている方の「デジタル写真館」です。リンクをはらせていただき
ましたことお許しください。
フェニックス様、素晴らしい棚田をご紹介いただきありがとうございます。
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今日の俳句/秋蛙 (九分九厘)

2007-09-19 | Weblog
秋蛙オペ同意書に手をついて
散瞳の眼窩に咲き入る白菊かな
目薬に溺れる黒目の海月かな
病眼の涙に影さす赤蜻蛉
眼帯の闇暗にたじろぐ夜長かな
眼を病めば匂いでさぐる花野かな
看護婦のお尻で知るや秋の駒

暫くのあいだ、眼の手術で入院していました。新築の大病院で冷房完備の中、至れり尽くせりの夏休みになった感がある。本を読むのもままならず、時間をもてあまし俳句をメモしておいた。写生句らしきものは最後の一句のみ。このような入院時に、俳句で遊べることは本当に便利なものである。眼のほうは手術成功、無事順調に回復いたしております。
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百人一句(再び)(フェニックス)

2007-09-18 | Weblog
(9月7日の九分九厘さんの「百人一句」の記事に関し、フェニックス様から
長文のコメントを頂きました。コメントの海の中に埋もれさせておくのは、もったいないので、ここに改めて”記事”として掲載させていただきます)

    ~~~~~~~~~~~~~~~~

「百人一句」の女性俳人の句について① (フェニックス)

九分九厘さま、お約束の書き込み、大変遅くなりました。また、お薦めの阿波野青畝の句はまだ充分に味読する時間がございませんので、今回は高橋氏が取り上げられている100句の中から、今まで、私が少しなりとも親しんできた俳人の句について、特に女性俳人について少しだけ書かせていただきたいと思います。
さらに、時間の関係上、2度に分けて書き込ませて頂きたいと思います。

☆ 山門を出れば日本ぞ茶摘唄   菊尼舎
 日本で詠まれた句のはずなのに、これは一体どんなsituation なのだろうと最初思った。しかも、これは江戸時代末期の一女性の句なのだ。しかし田上菊舎という作者を知れば、なるほどと頷ける句となった。彼女は江戸時代末期を生きた大変自由な女性だったのだ。長門国長府藩毛利家に仕える田上由永の長女として、1753年に生まれ、16歳で嫁ぎ、24歳で夫と死別し、以後俳諧の道に進むことになるが、28歳で尼僧となり、当時としては珍しいほど日本国内をあちこち旅して回った。 揚句は1788年ごろ、美濃からの帰り道、京都に寄り、宇治にある黄檗山万福寺を訪ねた時に詠んだものだと言われている。当時最も新しい禅、黄檗宗の本山は全山これ中国の趣だったそうだが、菊舎はその山門を出て改めて接する日本的な風景に何を思ったのだろうか。「山門を出ずれば日本ぞ」と菊舎に詠ませたものは何だったのか。 高橋氏は「...その山門を出ると日本という、倒錯的カルチャーショックが菊舎を中国文化の基本である詩に、書に、画に、琴に、茶に向かわせる。」と言っているが、実際、彼女は書、画、琴、茶と何でも嗜むことのできる、今風に言えばマルチ人間だったのだ。
そして、二度目に長崎を訪れた時には清の儒者と詩を贈答している。
  
 南冥先生にはじめてまみえ侍りて
 “重ね汲むや菊月の酒末長う” 
 ”天目に小春の雲の動きかな“
 
現代風にコメントすれば、「カッコイイ!」の一言です。
江戸末期にこのような女性がいたことに、驚きとともに心強さを感じた。

晩年は長府で静かに過ごし、1826年に74歳で生涯を閉じた。長府にお墓と幾つかの句碑があり、ここに揚げられている1句の碑も大乗寺というお寺にある。また、本覚寺の墓石には、辞世句“無量寿の宝の山や錦時”が刻まれている。 余談ですが、菊舎が晩年を過ごした長府の住い跡の敷地に私の友人宅(かなり古い)があり、そのことを記した標識があります。

 
☆ 緑陰や矢を獲ては鳴る白き的  しづの女
  この俳人は次に触れる、杉田久女、橋本多佳子、中村汀女とともに、九州出身、または九州に縁のある俳人として、大変興味がある。この中で根っからの九州の女性として挙げられるのがこの竹下しづの女だろう。 彼女は福岡県は京都郡の農家に生まれ、福岡女子師範学校に進み、教職経験があり、二男二女の母親であり、そして夫亡きあとは県立図書館の司書をしながら、子供たちを育てたという、大変強く、愛情深く、また向学心に燃える女性だった。彼女を一躍有名にしたのが、大正9年8月号のホトトギスの巻頭を飾った「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてっちまをか)」の句である。 仕事を持ちながらの母親の実感だと思うが、何と大胆な句だろう。高橋氏も、しづの女のこの句も大胆なら、それを巻頭句に取った虚子という人も見事だと言っている。 

さて、氏が百句の一つに選んだ句から話が逸れてしまったが、この句はまた、何と清新で力強い句でしょう。初夏の緑陰の下、流鏑馬の的を射る様子がありありと目に浮かぶ。真っ白い的に矢が当った時の音を私は耳にしたことはないが、きっと辺りを制する鋭い音だと思われる。 高橋氏はこの句について「矢を獲ては鳴る的はしづの女じしん、矢は夫であり、子どもたちであり、彼女の運命だろう。彼女は運命を発止と受け止めて、高らかに声を上げる。それが、彼女の表現であり、俳句なのだ。」これ以上のしづの女評はないと思います。

高橋氏が揚げられている彼女の他の句のうち、次の2句はまさに上に述べられた彼女の姿を表した句だと思います。
  “子といくは亡き夫といく月真澄” 
 “日日(にちにち)の足袋の穢しるし書庫を守る”

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