俳句は私の日誌みたいなものです。同じような日常が毎日続きますが、その中で生きている自分を「言葉」で表現するのに俳句は便利なものです。その時に咲いている花などを取り上げて、己を言葉で表すべく、俳句に身をあづけることになります。所詮、自分を美化したり揶揄したりしているのでしょう。
このコロナ禍の八月末、訪れてきたのが睡蓮の花。これが睡蓮鉢に清々しく生気をもたらしてくれます。太陽があがると満開となり、午後の夕暮れには次第に花びらをしぼめていきます。それから、かれこれ20年近く60センチ水槽で金魚を飼っていますが、最近は水替えや餌やリを忘れてしまうことが多くなりました。生き物を飼うのはそろそろ止めねばなりません。今回は断片的ですが、私の日常を詠んでみます。
浮き沈む金魚と私ふたつで一つ
睡蓮やモネのラブラブ訪れり
夏草に散歩の道を譲りけり
遅咲きで花も小ぶりか百日紅
秋暑しドップラーサイレン耳の底
ばね指の痛みに注射敬老の日
コーヒ豆価格上がりつ天高し
秋鯖や出刃の片刃に人の知恵
2キロ先七回裏の花火かな
以上