草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

卯月句会、無事終了しました

2023-04-11 | Weblog

皆さまのご尽力とご協力のお陰で、卯月句会は無事に終了しました。

今回の幹事は「ゆらぎ」が相努めましたが、次回は「九分九厘」が幹事をいたします。以降、月ごとに、交互に二人が幹事を致します。

なお今回は、感想文の書き込みはお願いいたしません。特段の変化もないと思われますので。

 

また一部の方で句や感想などをコメント欄に書き込まれる方がおられますが、以降は、直接本文に書き込んで頂くようお願いいたします。

とくに、たろうさんはコメン欄に書き込まれていますが、それがかなりのボリュームがあり、本文に書き写すのが大変です。つきましては、来月から直接

本文に書き込んでください。それには、本ブログのパスワードが必要となります。それは、「ksk364] ですので、よろしくお願いいたします。

ただ、その操作に慣れておられないと、結構煩雑(ややこしい)ので、別途やり方を「ゆらぎ」が電話などでお教えいたします。 

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新若葉(卯月句会) コメントをお願いします!

2023-04-08 | Weblog

丁半駒揃いましたので、コメントをお願いします。コメントにあたっては、各人の句の一行下に、一字分右へずらしてコメント書き入れてください。最後に(   )の中に俳名を記入して下さい。

 

九分九厘

 木漏れ日に馳走あずかる花見かな

    正に花見のど真ん中の句ですね。コロナ以前は、花見と言えば、満開の花の下で、ご馳走と酒で花見を満喫したものだった。しかし、このような花見は、この3年間のブランクで、すっかり遠い過去の光景となったしまったように感じる。

   だが、久しぶりに以前の花見を控えめではあるが、取り戻した。作者のその安堵した気持ちと感激がストレートに伝わってきます。(龍峰)

          今年はかなり早く桜の開花でしたがお花見に行かれ、桜の花の木漏れ日のもとで御馳走の宴ですね!!(かつらたろう)

 花雲の影に戯る川遊び 

  春の光と花の訪れに、人々の心も輝いて見えます。(葉有露)

 せせらぎのワルツ奏でし花の宴

  なんとも爽やかな花の宴を頂きました。(紘子)

   桜を見ながら、酒宴を楽しんでいる。その目に前に流れる小川は、さらさらと音を立てワルツのリズムを刻んでいるようです。何とも、のどかで贅沢な宴ですね。(ゆらぎ)

 憂さ忘るるも眩き昼の桜

 裏山の一本桜や風光る

       ご自宅の裏山にある一本桜とは、羨ましい限りです!!。朝な夕なに眺め愛でて居られる様子が、風光るとの「季語」が効いて見えるようです(かつらたろう)

 

かつらたろう

 あの辺り限界集落花の雲

  何とも切ない句ですね。しかし、これが現実。かつてこの集落にも若者が、子供がにぎやかに走り回り、桜の咲くころには花見を皆で満喫したものだった。それが、今や集落は年老いた  者のみが残され、限界集落となってしまった。だが、花は変わらず今年も満開、遠くから見れば花の雲の下に集落は静かに佇んでいるように見える。作者はこの集落にいろいろな思いを寄せつつ、深い憐れみを感じておられる。その気持ちが静かに伝わってきます。(龍峰)

   花の華やぎと集落の静けさが響き合っていると(紘子)

寄りて添ひ放れてよりぬ花いかだ

  美しい句です。咲いて、散ってその最後の姿も一芸を見せます。(葉有露)

 どこまでも赤き垣根や新芽立つ

 うたげ果て道の片方(かたえ)や花の屑

 色の出づ花の仕舞ひや散りぬべし

  人生の終わりに近い歳になると本句が身にしみますが、一方で元気激励を頂いた気持ちになりました。(九分九厘)

  栄枯盛衰の感が表れた秀句です! (ゆらぎ)

 

龍峰

 花万朶つつみ一面ゆるがしぬ

  普段の景色を、わずかの間別世界に仕立ててくれます。(葉有露)

 遠鳥(をちどり)の声隠しをり花の雲

  広い宇宙空間を感じます。そして音楽と色彩の華やかさが心に響いてきます。(九分九厘)

 八十路超え吉野の花に狂ひをり

  満開の吉野の桜を見て、まさに狂気乱舞。吉野へ行って見たくなります。(ゆらぎ)

      齢を重ねる度に、待ち遠しい桜の花と行く春を惜しむ心情になりますね?嘗て皆様と訪れた事を思い出しました。(かつらたろう)

 夕山に一樹浮かぶや山桜

  夕景の中の山桜の美しさ(紘子)

     「花の雲」を夕方に見る景色のようですね?夕暮れ時となっても、ぼんやり浮かぶように見える山桜の趣です。(かつらたろう)

 池の辺に舞ひ暮るるなり紅枝垂

 

らぎ

 幼子に折り紙をれば花の果

  中七の解釈が難しい句です。作者は過ぎし人生を遡行し幼子に戻ってみるが、その童心を今の老齢時に保っているのかどうかを自問自答をしている? 上五が、今の作者の姿と二重写しになっていると思いました。好きな句です。(九分九厘)

 AIてふもののお陰か春うらら

  便利なチャットGPTのお陰との事でしょうか?使い方によっては、文章構成などの苦労もなくすいすいです。然し、かなり問題もあるようであり、規制の動きもありとか?(かつらたろう)

帰還せし列車の席や花山葵

  あれから12年、ようやく原発周辺の一部地域の住民に帰還の許可が出た。住民にとっては長く待っていた許可ではある。しかしこの先には幾多の困難が予測される。恐らくその帰還は ほろ苦いものだろう。住民のそのような気持ちに、作者は思いを馳せておられる。それは「花山葵」という「花咲く前のつぼみの花茎」を意味する季語の取り合わせに 現われていると思う。そ れは決して華やいだ気持ちではなく、山葵のあの辛さの気持ちである。(龍峰)         

 苦しみて生きつつをれば桜しべ降る

  山あり谷あり、花も嵐も全てを知っています。(葉有露)

  この世は生きて居れば色々悩み苦しむ事も多いいです。人の世の習いなど関係なく、自然界は移り変わって行くようですね!!。最近「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」なる一節を知り、えらく共感しました。(かつらたろう)

 朝まだき命惜しめや花筏

  花筏への静かな思い(紘子)

 

紘子

 さくらまたさくら青空のびやかに

  簡潔で臨場感に溢れた句と思います。(九分九厘)

  桜の花の盛りを思わせるような秀句です。言葉遣いが、素晴らしい!(ゆらぎ)

  桜の花のトンネル行きでしょうか?その上には青空が広がり、映像と音楽を見ているようです。ひらがな使いの詠みが柔らかく、心地良いですね!!。(かつらたろう)

 花盛りてふ寂しさの一日あり

  満開の花、その花にも影があるように森羅万象、絶頂の人にもその裏には寂しさがある。盛りの花を見ていると、ふとそのようなことを思う日であったと、作者は思い巡らせておられるのではないだろうか。(龍峰)

  何事も始めがあれば必ず了りがあり、桜の花も盛りともなれば後は落花ばかりです。花の栄枯の盛衰を詠み、まさに「春愁」とはこのような事かとも!!。(かつらたろう)

 雨けぶる桜並木の黙深し

  人々の姿も少なく、華やかな桜たちもいつもとは違う佇まいです。(葉有露)

 花に触れ鵯一羽風となる

  花のひとひらが散ったときの瞬間の印象。鵯が現れたのがロマンティックです。(九分九厘)

 満開のさくら華やぎ透きとほる

 

葉有露

 鞦韆や子らは天より帰り来て

  暖かくなって子供らは外に出て、ぶらんこで遊ぶようになった。勢いよく漕いで高い位置から降りてくるくる子は、あたかも天から帰ってきたような感じを受ける。作者は更に、それは一瞬 天から神の御子が降りて来られたような思いにもなる、と感じておられるのではないだろうか。(龍峰)

 ぶらんこに志村喬は生き続け

  志村喬の映画(生きる)では、市役所の年老いた課長が、夜の公園で一人ぶらんこを漕ぎ、「ゴンドラ」の歌を口ずさむ。あのシーンで、志村喬は「永遠の人」となりました。郷愁を誘う秀句です! (ゆらぎ)

  有名な志村喬主演の名画「生きる」ですね?人は誰でも、「人生の生きる意味」について気付き考える事があるようです。最近、洋画でもリメイクされていて大変人気かとも。(かつらたろう)

老夫婦並びし杖に春光が

老い二人杖それぞれに春光が

朧月いつもの我が家遠くあり

  そんなに急いで家に帰ることもあるまいと、朧月を我と同化させる作者の気持ちが伝わってきます。(九分九厘)

  朧月夜を二人で散策すれば、そんなに遠くない我が家も「遠くに感じるようだ」との実感のようですね?これも穏やかな春ならではのようです。(かつらたろう)

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新若葉

2023-04-07 | Weblog

 

 

いよいよ四月です。七日に卯月句会が始まります。晩春の句をお詠みください。

(お詫び)前回の弥生句会は、3月6日から4月5日ということで、本来ならば、仲春の句を詠むべきでした。小生(ゆらぎ)の勘違いで晩春の句をお詠みくださいと、誤ってお願いしてしまいました。そのような訳で、再度で申し訳ありませんが、晩春の句をお詠み頂くよう、伏してお願いもうしあげます。ご容赦お願い申し上げます。

投句要領は、前月(弥生句会)と同様です。

①ひとり五句投句。

なを投句はゴシック体で表記します。 また詠み手の名前もゴシック体にします。

 

九分九厘

 木漏れ日に馳走あずかる花見かな

 花雲の影に戯る川遊び

 せせらぎのワルツ奏でし花の宴

 憂さ忘るるも眩き昼の桜

 裏山の一本桜や風光る

 

かつらたろう

 あの辺り限界集落花の雲

 寄りて添ひ放れてよりぬ花いかだ

 どこまでも赤き垣根や新芽立つ

 うたげ果て道の片方(かたえ)や花の屑

 色の出づ花の仕舞ひや散りぬべし

 

龍峰

 花万朶つつみ一面ゆるがしぬ

 遠鳥(をちどり)の声隠しをり花の雲

 八十路超え吉野の花に狂ひをり

 夕山に一樹浮かぶや山桜

 池の辺に舞ひ暮るるなり紅枝垂

 

 

らぎ

 幼子に折り紙をれば花の果

 AIてふもののお陰か春うらら

 帰還せし列車の席や花山葵            

 苦しみて生きつつをれば桜しべ降る

 朝まだき命惜しめや花筏

 

紘子

 さくらまたさくら青空のびやかに

 花盛りてふ寂しさの一日あり

 雨けぶる桜並木の黙深し

 花に触れ鵯一羽風となる

 満開のさくら華やぎ透きとほる

 

葉有露

 鞦韆や子らは天より帰り来て

 ぶらんこに志村喬は生き続け

 老夫婦並びし杖に春光が

 老い二人杖それぞれに春光が

 朧月いつもの我が家遠くあり

 

 

 

 

 

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