九分九厘さんのように、何かテーマを持って詠んでみようと考え,よく訪れる古都奈良の風光を取り上げることにしました。季節は初春。
奈良は、見るところがあちこちに分散していて、交通手段も限られています。それにうまいい料理を食べさせるところもあまりありません。また安くてかつ快適な宿もほとんどありません。
それでも奈良へ足が向くのです。なぜなのでしょう? それは奈良が日本の国の発祥の地のようなところだからでしょう。それで会津八一の『自注鹿鳴集』と和辻哲郎の『古寺巡礼』を携えて、いそいそと出かけるのであります。
詠んだ句に関連してあれこれ説明文をつけていたら、何やら詩文集のようなものになってしまいました。
奈良なれや七堂伽藍初桜
(飛火野)
飛火野にナチュラルホルン浅き春
~若草山山麓に広がる飛火野は、広々としていて寝ころでで空を見上げたくなります。 ここでは鹿寄せと言って鹿の呼び寄せをすることがあります。冬季は2月8日3月から11日まで、集まった鹿には、ご褒美として団栗の実が
与えられます
(明日香村)
~飛鳥川という川がある。ここに架かる飛鳥橋がある明日香村飛鳥には日本最古の寺飛鳥寺がある。近くに飛鳥京跡がある。多くの天皇の宮が置かれていたらしい。君主の宮が存在していたことから当時の倭国の首都としての機能もあっ たと考えられるが、定かではない。
日の本の生まれしところ明日香村
鶯の谷わたり聞く明日香村
風光る明日香の棚田鳥の声
~明日香村は全域が「明日香村特別措置法」で守られていて、古いものが壊されずに残っている。斜面に等高線を描くように無数の棚田が造成されている。それらは、遠い先祖が子孫のために築いたものであるという。
(明日香村 大和平野遠望 安野光雅描)
(法隆寺/法輪寺/法起寺)
~法隆寺あたりは、法隆寺/法輪寺/法起寺と三つのお寺が点在しており、足の向く侭気の向くまま散策するのにとてもよいところである。法隆寺は、斑鳩町にあり聖徳宗の総本山である。
微笑みて百済観音春の夕(ゆう)
~百済観音は身の丈六尺九寸一分、すらりとして見上げるばかりの長身である。朝鮮風の宝冠を頂き、左手に宝瓶を執り、右手は掌を上にむけてまっすぐ正面に差し出している。今は、施された彩色も剥げ落ちて灰黒色の蒼古な色合いを呈している。百済の国から将来されたというだけで、その由緒もその後の伝来もまるでわかっていない。紀野一義は、”分からないことだらけ、それでいいのではないか。どこの誰が、いつ頃、どうやって、という詮索ばかりしている日本人にとって、茫洋とした顔つきで立っておられる仏さまはありがたいものではないか。そうすると、仏さまを刻んだ人の心が、そっくりそのまま伝わってくる。・・・ごく自然に生きたいと念願している私は、百済観音のような、見当もつかないような仏さまにひどく心惹かれる”、と言っている。法隆寺を訪れた時、この百済観音が陳列されていた。お参りに来た人たちは、ほとんどが時間をかけることなく、足早に去っていく。もたいないことだと思った。
ちなみに1997年にはパリのルーヴル美術館で百済観音の特別展示が行われた。1997年から1999年にかけて「フランスにおける日本年」および「日本におけるフランス年」という趣旨で、両国において多くの記念行事が行われたが、その際、両国の国宝級美術品1点ずつを相手国で公開することとなり、日本からは百済観音が、フランスからはウジェーヌ・ドラクロワの代表作『民衆を導く自由の女神』が選ばれた。
春夕べ斑鳩の里シルエット
~法起寺辺りから西の方をみると夕方には法隆寺は西日を浴びて影絵のように浮き上がっている。なんとも心が和む風景である。
(夢殿の救世観音)
観音の微笑み見むと春の宵
~この仏さまは、年に数日しか開扉されない、それもお厨子の中に入っていて、長い間その前に立っていなければ定かには見えない。しかし、何も仏さまの姿を隅から隅まで光を宛てて眺めることはない、その仏がそばにいるという
気配だけでいいのではないか。と、いうことであったが今では、秋にお厨子が開扉され、拝観できるようになった。実は、この観音像は長いあいだ開扉されず。布でつつまれていて誰も観ることはできなかった。それが
明治17年(1884年)、アメリカ人の美術史家であるフェノロサによって開扉されたのである。この開扉には、寺僧たちは、そういう冒涜をすれば仏罰たちどころに至るとして頑強に抵抗した。しかし、フェノロサと
岡倉覚三(天心)の他に九鬼隆一という文部官僚派が同行していて、彼が「勅命』だと言って反対を押し切ったというのが真相である。それがいいか、悪いかはおくとして、そのお蔭で現代の私たちは救世観音をこの目でみること
ができるのだ。
注)秋の公開なので、上掲の句には秋の季語が望ましいのであるが、この詩文集の時期を初春としたので、春の季語を使わざるを得なかった。お許し頂きたい。
会津八一は、こ仏さまの前に立って、”あめつちにわれひとりいてたつごとき このさびしさをきみはほほえむ”、と詠んだ。その微笑は瞑想の奥で得られた自由な境地の純一の表現である。(和辻哲郎談)。
会津八一も親鸞も胸の深いところに、長く深い悲しみを抱いていた。そういう人がみな、この救世観音に心を惹かれる。世を救おうとする悲願が、人の心に長く深い悲しみを引き起こすのであろうか。
(薬師寺)
鐘霞む聖観音若々し
~薬師寺では西塔や東塔(再建された新しい党は、まだみていない)が人気を集めている。このエリアもいいが、私は少し東にある東院堂に足を運ぶ。場所が離れているせいか、あまり人はこない。そこには聖観音がある。
その前に座って、長い間あかず像を眺めている。白鳳時代に造立されたもので、口元にはアルカイック・スマイルを思わせるかすかな笑みを浮かべておられる。若々しい表情だ。
あまり、“好きだ”、と言ってきたので、句友の九分九厘さんがエッチングで像を描いてくれた。今では、わが家の宝物になっている。
(東大寺)
二月堂ゆくみち坂道春の風
~二月堂は修二会の行われるところ。また本尊として大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる二体の十一面観音像があるが、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。
三月堂の横を通っていく道は両側に石塀あって、絶好のスケッチポイント。時折、イーゼルを立ててスケッチしている人を見かける。
(聖林寺)
みほとけに出会いし後の初桜
~十一面観音を訪ねて最初に行ったのが、この聖林寺(しょうりんじ)であった。近鉄大阪線の桜井から南下する。ここは、奈良時代に談山神社の別院として藤原鎌足の長子・定慧が創建した。
白洲正子は、昭和7年頃に聖林寺を訪れている。『十一面観音巡礼』という本中での、彼女は次のように書いている。”当時は今と違って便利な参考書も案内書もなく、和辻哲郎氏の『古寺巡礼』が唯一の頼りであった。
とくに聖林寺の十一面観音は美しく、「流れるるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズム投げかけている」という和辻氏の描写を、そのまま絵にしたような作品であった。・・・お坊さまは雨戸を開けてくださった。
差し込んでくるほのかな光の中に、浮かび出たという感じに、ゆらめきながら現れたのであった。・・・世の中にこんな美しいいものがあるのかと、私はただ呆然とみとれていた”
先年、私が訪れたのは、ちょうど桜の頃、鶯まで鳴いていた。ここの十一面観音は、滋賀にある向源寺の十一面観音と並んで最高の作品だと思う。
(唐招提寺)
花を待つ和上の姿夢の中
~薬師寺の近く、北側に位置する唐招提寺は好きなお寺の一つ。広大な寺域なかには、円柱のエンターシスで知られる金堂、開山堂、講堂、御影堂、宝蔵などが点在し、また新緑の季節には伽藍の中の小径を歩めば若葉・青葉で埋め尽く
れ、萩の紅、泰山木の白などのいろどりもあって、新緑の美しさに全身が染まるようである。御影堂では、盲目の僧鑑真和上の像を見ることができる(年に一回、六月の3日間)
唐招提寺の月は、ことのほか美しい。月明の夜に唐招提寺に詣でることがあったら、ぜひご覧ください。秋艸道人會津八一は、”おほてらのまろきはしらのつきかげを つちにふみつつものをこそおもへ”と、詠んだ。月の詩人キーツ
に心引かれたんであろうか。さらに会津八一は鑑真和上のことに心を惹かれ、”とこしへにねむりておはせおほてらの いまのすがたにうちなむよは”、の一首を残した。
(法華寺)
お妃の赤き唇風光る
~法華寺は奈良の中心部から少し離れているが、近鉄奈良線新大宮駅から歩いて少し北の方に行ったところにある。本尊である十一面観音像は、光明皇后のすがたを写したものとされる。
光明子には、藤原一族の汚れた血が流れている。それを洗い流すためにから風呂をつくり、千人の垢を流すという願いをたてた。最後の千人目は、肉も腐り果てた癩病患者であった。その病人のたっての
頼みに応じ、光明子は朱唇でうみを吸い出した。そうしているうちに癩病患者は、みるみる阿しゅく仏になった。これは、もちろん伝説である。しかし、その伝説を作り出した、その構想は非凡である。
その重い絶世の美女に惹かれ、聖武天皇は妻とした。この像は、豊満な美しさであるが、仏性を認める。和辻哲郎も『古寺巡礼』の中で、多くの頁を割いている。
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今日ここに心待ちにし初桜
補注)ここまで書いてきて、ふと夏目漱石の句が浮かんできた。
”空に消ゆる鐸(たく)の響きや春の塔”
薬師寺の塔の上にある風鐸のなる音を聞きながら詠んだのであろうか。漱石自身のいうところによれば、「寂寞たる孤塔の高き上にて風鈴が独り鳴るに、その音は仰ぐまもなく空裏に消えて春淋しという意味と知人への手紙の
中で説明してる。友への鎮魂の思いのこもる一句。こんな句が詠めたらなあ、と反省しきりであった。