草若葉

シニアの俳句日記
 ~日々の俳句あり俳句談義あり、そして
折々の句会も

今日の俳句:冬木立(葉有露)

2020-12-30 | Weblog
今年最後の出番となりました。
 80歳代になって、新しい事に手を出すとは全く思っていませんでしした。
ところが、俳句の世界がコロナ渦と同時のスタートとなり、隠遁生活に花を
添えてくれました。
 諸兄には、この1年のご指導、お付き合いに深く感謝申し上げます。

 今回の投句も、相変わらず少なくて恐縮です。

 「俳句教室にて」 兼題:冬木、マスク、師走
  
     ・山々も遠くに帰る冬木立
     ・冬木立箒仕立てで空見上げ
     ・一年の実り地に置く冬木立

     ・師走とて隠居の身にて腰重く
     ・日々多忙師走の時をつい忘れ

 「夙川近辺にて」

     ・冬日和墓参の後の静けさは
     ・冬日和日曜画家の背を照らし
     
 
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今日の俳句/冬あかね(龍峰)

2020-12-18 | Weblog
      
                        冬あかね

慌ただしく過ぎた今年も顔を上げれば、あと10日余、背筋に寒いものを感じるこのような年は、あまり記憶にない。
夢の中で、明日から試験だが、何も復習ができていない、サッと血の気が下がって目が覚める。以前よく見たこの夢以来の冷たいものである。
目の前のこと、記憶の中のこと等を思い浮かべ、とりとめもなく詠んでみた。

    今宵またG線上の木枯くん
    湯どうふや嵯峨野路いつか灯り点く
    白山の威厳ましをり鰤起こし
    冬山家あるじ山気にとけてをり

    残業の帰宅子まつおでん鍋
    古し脳検査師走の手術台
    昔より機嫌なほしは鯛焼きくん
    一杯の珈琲しぐれを楽しめり


    源氏物語読みつつ冬もみじ
    冬の夜ふと吾が歩あやなきすさびごと
    石蕗の花孤独あつまつても孤独
    八十路入り余喘(よぜん)の五臓冬あかね
    
    
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今日の俳句/『俳句もわが文学』(ゆらぎ)

2020-12-04 | Weblog
『俳句もわが文学』(ゆらぎ)

 俳句も、どうもねたぎれで佳句が出てきません。せめて、先人の句に学ぼうとしましたが、いわゆるプロの俳人の句はあまり面白くありません。そんな時、小説家や歌人、詩人などの句を集めた本を見つけました。作者は、「鶴」の同人だった村山古郷。なかなか、目のつけどころも面白いので、その本の中から印象に残った文人の句を、抜き出してみました。どんな文人の句を取り上げているかと言うと、文豪幸田露伴から始まって、石川啄木、坪内逍遥、中勘助、横光利一、徳川夢声などなど。この本は、続編なので古い人ばかりです。申し訳ありませんが。

その中から佐藤紅緑、泉鏡花、中勘助、横光利一、浅原六朗の五名を取り上げてみました。注)下記の文は、殆どが「俳句はわが故郷」(村古郷)からの引用です。その語るところには、ほぼゆらぎも共感を覚えています。

     ~~~~~~~~~~~~~~~

(佐藤紅緑)
 紅緑は、虚子・碧梧桐につぎ、露月と並んで子規門の最も古い作者である。正岡子規は「明治29年の俳句界」の中で、佐藤紅緑を評し、”紅緑の句には小景を詠じ些事を賦する(解説する)極めて多し。ふつうの人ならば、尋常のこととして見逃すべきもの紅緑は取って以て趣味ある詩料とせり”、と言っている。著者は、その紅緑の句について、明治34年あたりから句に洗練味が加わっているといって、いくつもの句を取り上げている。
     ゆらぎ注)紅緑は、旧制一高寮歌に題材をとった小説「ああ玉杯に花うけて」で知られている。その子サトウ・ハチローは作詞家。古関裕而が作曲した「長崎の鐘」の作詞をした。

 野の末に小さき富士の小春かな
 寒食や寂寞として鍋の蓋
 雨戸締めて九月のなごり惜しむ夜ぞ

作者は、詩想豊かに表現は着実で闊達自在・・・と褒めている。紅緑は、小説や脚本を書くようになり、転身したが、そのためか俳句の方は下火となった。ところが、昭和時代になると著しく句が増え、明治時代を凌駕するくらいである。紅緑は、「俳句もまたわが文学」と思ったのであろうか。そして、昭和初期に詠んだ句には、古風ではあるが老練の味がある。句風がどこまでも正攻法で、姿は端正である、と言っている。

 近江路は女も越すや春の山
 更衣女の素性問ふなかれ
 身の冷えに驚き覚めぬ星月夜


(泉鏡花)
 泉鏡花は、特有のロマンティシズム小説を描いている。『婦系図』で、その代表的なものである、。尾崎紅葉門下の人たちはほとんど俳句をつくっている、泉鏡花はその門下の四天王の一人であった。俳句においても紅葉門下の一人であるが、しかし内藤吐天は、もともと紅葉のグループからは傑出した俳人は出していない”、と言っている。俳人としては、未だしの感もあった。しかし、その句を見ると鮮麗な色彩と濃艷な趣向の作意がいいちじるしく目につく。

 爪紅の雪を染めたる若菜かな

耽美主義の変調さえ感じられる。しかるに尾崎紅葉が没すると門下生たちは句作の情熱を失い。俳句活動は中絶に等しい状態になった。とはいえ、昭和5年から昭和11年にかけて句は、古い旧作を集めたものではなく、昔とった杵柄の塵を払い、十七文字の閑吟を楽しんでいる。

 打ちみだれ片乳白き砧かな
 ゆく蛍宿場のやみを恋塚へ

のように彩り美しい絵のような情景や匂わしい情感をうたった句が多い。

 日盛りに知らぬ小鳥の遠音かな

といった幽寂な佳吟もある。、この句について吐天は、”鏡花の句としては、最もうまいと思う。文豪鏡花の句として後世に伝わっても決して恥ずかしからぬものであろう”、と推奨している。典雅淡白に味の句である。この他にも、

 花柘榴雨は銀杏にあがりけり

など。これらの句に一貫しているものは、やはり変わることなき美の追求である。

 露草や赤のまんまもなつかしき

の句を残して長逝した。美しい絶句である。ちなみに鏡花は、俳人松本たかしとちんばいとこである。


(中勘助)
 中勘助は、小説『銀の匙』の作者として有名である。漱石門下の一人であり、かつ詩人として独自の清純な詩風を以て知られている。ジャーナリズムの世界には登場せず、またそうすることを好まない。そういう人柄は、この人の清純で閑静な文学の世界を物語っている。昭和18年心身の過労を回復するため、静岡に転地療養した。時に還暦、そこで俳句を詠み始めた。言い方を変えれば「作り始めた」のではなく、「できはじめた」のである。自然に作ってみようという環境と境涯になったのである。

初期の作に次の句がある。

 あさしずのどん栗おつる音すなり (朝静の)

中勘助の俳句には、自分の世界を守りつづけようとした閑静な詩境があり、それはこの人の文学の境涯とも共通する作者の持ち味である。彼の俳句は、自然の風景や身近な事象を風物詩的に静かに穏やかに詠んだ平明な句が好ましい。

 ひとつやのひとつ砧に月ひとつ

作者は秋の象徴としての砧の音を詠んでおり、ロマンチックな手法を匂わせる美しい風物詩として味わえばよい。勘助の自然風景を詠んだ句は静かで穏やかで、平明というべきであろう。
 
 ひとつ鳥のなきつづけたる日永かな
 初夏の厨涼しき蕗の風

いずれも平明で素直な句、真面目で穏やかで静かである。河盛好蔵は、”中さんの詩は静かで穏やかであり”、と言っているが、この特色は俳句の世界でも静かで、清らかでm穏やかな風韻を示している。そこに、この人の俳句の本領と面目があるといえよう。

 銀の匙に麦粉そなへん漱石忌

亡き師を偲んでの作である。明治38年に東京大学英文科へ入ったが、同級に鈴木三重吉がおり、共に漱石の講義を受け、漱石山房に出入りした。


(横光利一)
 横光利一は『旅愁』とう小説を書き、志賀直哉とともに「小説の神様」と称された。横光の俳句は、昭和10年、38歳の時に始まっている。昭和10年、横光利一門下の石塚友二らが語らって「十日会」と称する句会が発足した。永井龍男や中里恒子もその仲間であった。この頃から、俳句を始め、十日会において邁進した。その翌年の二月、箱根丸に乗って渡欧の途についた。そこでは、虚子を中心とする句会にも出席している。昭和16年太平洋戦争が勃発するに及んで句会は中止された。とはいえ、十日会時代には俳句にも精進した。彼の俳句は、どちらかと言うとうまい方ではなかったが、句が真面目で素朴なのである。小説の作風も「旅愁」になると重厚の風が目立つ。俳句でも、かなりそれに似た風格が感じられる。

 河の水青みどろ濃く雷来る
 子の学校枯野の中に旗を揚ぐ

秀吟ではあるが、洗練されたものとはいい難い。しかし、いささかのケレン味もなく、真正面から詠み上げた正攻法の句。不器用の感じはあるが、実に見事に端的に情景を描いている。アマチュアの味であるが、飾り気がなく、簡潔な句からは素朴さがにじみでる。

 春の水喪の家の横を曲がりゆく
 地下鉄に水流れ入る日蓮忌

 紅梅やカーテンの裾長うして
 ふるさとの菓子噛み割りし寒の明け
 寒椿しだいに雪の明るくて

稚拙ではあろうが、飾り気なく詠んだところがよい。

欧州紀行の句には新感覚な句が写生的に形が洗練されて、佳作が多い。

 カムランの島浅黄なる更衣
 シャンゼリゼ騾馬鈴沈む花曇

横光利一は、もう晩年近くなって。”これからの小説は歌や俳句などを本当にたった人でないと駄目だというとになりましょうか”。と言ったそうである。横光の俳句が、趣味に溺れたり、風流を楽しんだりする風がすこしもないのも、そういう句作態度を裏書きしているもののように思われる。句会で句を作るときにも、雑談放話しながらその間、一句二句とひねり出すようなことはなく、いかつい顔つきで苦吟したという。大真面目で真剣にこの小ささ詩と取り組む構えであったのであろう。

 汽車も見ゆ山懐の栗のいが
 霧の雨竹林しとど揺れはじむ


(浅原六朗)
 この本には、知らない作家や文学者の名前が出てくる。正木不如丘もそうだが、浅原六朗という名前は聞いたこともなかった。小説家にして作詞家。昭和の初め頃からか活躍した。大学教授でもある。横光利一のすすめで俳句を始めている。人間俳句を提唱したとか。昭和18年頃の句集に「紅鱒群」というのがある。著者も知らなかったとか。浅原六朗は昭和の初め頃に、「十三人集」などの同人として、また新興芸術派の先駆をなした作家として有名であった。

句集「紅鱒群」には二百六十余句が収まられており、これが浅原の句の全量である。昭和18年11月の末、太平洋戦争の最中に岡田三郎、横光利一、谷川徹三とともに北九州に旅行し、横光の提案で俳句を詠みはじめた。

 木枯らしやだんだんの田もかわきおり

これが初めての句のようだが、素朴な写実味がある。

 枯れ薄海しずかかなる雨となり
 冬雲のしたにあかるしいつつ島

前者は、横光が大変褒めた。色紙に書いて、自分にくれといったそうだ。
どちらも正しい句法である。

 ふまれてもふまれてもなおおおばこの
 雀二羽はがくれにいて紅椿

昭和22年の北九州の旅行を終えての句である。この年の3月最愛の妻を失った。亡くなった晩、ひとり妻に添い寝して最後の夜をすごしたとあるそのあとに「妻を焼く」と題する一連の句が並んでいる。

 手にぎれば手つめたし花あつめても
 子らまた枯れ枝あつめ母を焼く

まだ俳句に慣れていない時代だろうか、その素朴な叙述の中に、かえって惻々切ない感情が溢れている。感動的で感銘深い。

六郎は「紅鱒群」の中の「古希心境」と題する文章の中で、”私の俳句は、いわゆる「わび」「さび」などという風流句境ではない。人生の起伏、人間の陰影とその感情を、十七字句の詩情に託した。裸身哀楽ともいうべきものが、私の句境かも知れぬ”、といっている。理屈っぽいことは一切考えずに、その時その時の感情を思うままに自由に俳句の形で詠う、これが小説家の俳句のいち典型であろう。

また六朗は、”自分はエピキュリアンではあるが、修行者ではない”といっている。

 短夜を女はばからず誘いくる
 春の夜や愛撫の後のうらみ言

昭和46年6月、浅原六朗は第二句集「欣求抄」を上梓した。作家活動はやめ、もっぱら俳句に専念、毎月「俳句と人間の会」を開き句作精進を続けているとか。この「欣求抄」に示されている浅原の俳句の特色は、一言にしていえば自由放胆な諷詠である。浅原は「はじめに」の文の中で、”利口な句や、もったいぶった、しかつめらしい句などつくりたいとは思わない。人前で立派に感じさせる句もほしくない。私は技巧から抜け出て、生命的に、そして終局には、天衣無縫の句を自由自在につくりたい”、と言っている。

 病む妻のいいつけおでん買いに出て
 秋灯に対す生きるということば

表現の上に稚拙とも、素人臭さとも見られるところがあるのは、俳句的な手法や窮屈さを振り払った表現の自由さが、そういう感じを抱かせるので、むしろそこに清新の味わいがある。

 梅が香や次元の低きわれの貌

 もりもりと土もりあげてもぐらの馬鹿
 木の芽立ち欲情そろそろ解禁

 「欣求抄」の中に、こういう言葉がある。”俳句は創作なのだ。創作は常に独創であり、発見であって物真似ではない”物真似でなく、俳句的な型にはまった俳句ではなく、独創的で発見の俳句、浅原六朗の俳句はそういう方向を求めての俳句であり、そこに小説家から俳句作家へと変身しつつある人の特色を感じるのである。


<結びの言葉>

 つくづく俳句は、その人の人生だと思う。その人の人生観が好きならば、その俳句も好きになる。そんな意味で今回取り上げた五名の中では、中勘助と浅原六朗の句にはとくに興味を抱いた。
佐藤紅緑の句もいい。

 虚子はたしかにすごい。”天地の間(あわひ)にほろと時雨かな”という句を詠むと思えば、”暁烏文庫内灘秋の風”のような現代の世相をえぐる句も詠む。経営面では大手町丸ビルにホトトギスの拠点を作る。俳句界の巨人である。
しかし、人間性ということになるといかがなものであろう。ローマ帝国初代の皇帝アウグストゥスは後継者に息子を指名した。 虚子もまた自分の子を後継者とした。俳句界の大巨人ではあるが、好きかと問われれば、否と答える。

 それはさておき、この本を詠んで何かしら作句の参考になったのであろうか、と自問自答する。 今後、努力するのみである。 諸兄姉は、どのようにしてご自分の俳句を磨いておられるのであろうか。ご教示頂ければ幸いです。


 注)ここで取り上げられている句は、現代の感覚からすれば暗いものもあり、稚拙なようにも見えるものが少なからずある。それは明治・大正・昭和初期という戦争の影のようなものが覆っていたという時代の流れの影響でもある。また、
虚子・碧梧桐からはじまった俳句の勃興期にあたり、まだ俳句としての体をなしていないものがあるということであろう。しかし、そういうことがあったとしても、それぞれの俳句に、詠んだ人の人間性が投影されていることは間違いのないことであろう。




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