岩倉の狂女恋せよほとときす <芭蕉句集>
「五車反古」(天明三年、1783年)に同じ句があって、それには「数ならぬ身はきき侍らず」なる前書がある。即ちこの句は次の「徒然草」107段からきたものである。
「亀山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の参らるる毎に、時鳥や聞き給へると問ひて心見られけるに、某の大納言とかやは、数ならぬ身はえ聞き候はず、と答へられけり。堀川内大臣殿は、岩倉にて聞きて候ひしやらん、と仰せられたりけるを、これは難なし、数ならぬ身むつかし、など定め合はれけり。」
句集にはこの前書が省かれていて、狂女の恋という素材が純化されて趣向としてのあわれが増幅されている。尚、京都岩倉にある大雲寺境内にある滝が狂人の療養に向いていることで当時有名であった。(ゆらぎさんの調べによれば)平安の御三条天皇の皇女佳子が精神障害で苦しんでいたが、この滝にあたり、あかの水を飲んで平癒したことから、この岩倉の狂女伝説のはじまりがあるとの事である。
蕪村は、詩作と書、それに絵画を三者合体して、統合された俳画というジャンルを作り上げた業績がある。絵は形態によって表現される詩であり、詩は言語によって表現される絵であるが、両者が合体することによって、一方のみでは表現しえない深い世界を作り出していくこととなる。この横長の絵の画面右上に啼きながら飛ぶほととぎす、左下に藍の施された紫陽花が描かれ、その間に絶妙な空白が残されている。初夏を彩る紫陽花の静と時鳥の鋭い鳴き声の動とを対比させ、句の持つ情感を象徴的に表現している俳画である。
蕪村の句を調べていくと「狂女」なる語を使った句がこの他に二句ある。一つは
藪入りの宿は狂女の隣かな
この句の由来であるが、蕪村は「春風馬堤曲」の最後の句を、炭太祇の句で結んでいる。
君不見、古人太祇が句
藪入りの寝るやひとりの親の側
「春風馬堤曲」は藪入りの休暇をとって故郷に帰る娘に替って蕪村が詠ずるという代作形態で書かれているが、内容は逆に息子に代わって藪入り娘が故郷の毛馬村に帰るという詩情を奏で、そこには母親が一人で待っているという構図である。この「春風亭馬堤曲」発表の二年後の「不夜庵歳旦帖」に「藪入りの宿は狂女の隣かな」を納めている。明らかに蕪村は馬堤曲結びの「母親」を「狂女」のイメージに変奏しているのだ。つまりこの句の「狂女」は藪入り娘の母親であり、すなわち蕪村の母親にあたる。それは最後に見た母親の姿であったのかもしれない。もう一つの句は「新花摘」に収録されている、麦秋二句および続詠二句の最後の句である。幼き時の不幸な蕪村の想いに重なる句である。
麦秋や鼬啼くなる長がもと
麦秋や遊行の棺通りけり
麦秋や狐の退かぬ小百姓
麦の秋さびしき貌の狂女かな
蕪村は摂津国東成郡毛馬村の村長の息子として生まれたが、母親は丹後与謝郡出身の奉公人であった。蕪村は主人のお手つきで生まれた子であったらしく、幼い時から母親と丹後に帰り住み、母親は教育熱心な人であったようである。蕪村13歳の時母親が入水自殺をしたと推定されているが、これを機会に嗣子であった蕪村は毛馬村に帰ることになる。この毛馬村帰った後の数年間で生家は経済的な破綻をきたし没落する。蕪村は出家をして、その後江戸に出ることになる。
離縁された母親の面影を思わせる句として
離別(さら)れたる身を踏み込んで田植哉
とかくして一把に折りぬ女郎花
そして、母親の投身自殺を思わせる句として、
枕する春の流れやみだれ髪
この句は中国の「漱石枕流」の故事によったものであるが、春の流れに投身した女のイメージにほかならないものである。春水の流れを枕にして、寝ているかのように黒髪を玉藻のようになびかせて、安らかに流れていく美しい女の入水のイメージである。ここには明らかに狂女の面影がある。
以上
参考文献:蕪村伝記考説 高橋庄次 (春秋社)